10 «1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 12

コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨59] 第11章 再び、若葉のころ(1) 

【海に落ちる雨】第11章です。
第9章『若葉のころ』の続きになります。独立したエピソードですので、これまでの本編を読んでいなくても、読めてしまいます(^^)
よろしければ、本編を無視して読み進んでくださいませ。
でも、もしよろしければ、この章の前編になる第9章『若葉のころ』だけでも……
第9章 若葉のころ
真がまだ初々しい高校生の頃のお話です。多分、一生の中で真が一番可愛らしかった頃かもしれません。

さて、本編のほうは、こんなお話。
新宿の調査事務所所長・相川真の同居人・修復師の大和竹流は、大けがをして入院してた病院から失踪。
怪我の理由も、失踪の理由も分からないまま、真の手に残されたのはある新聞記事。
3年半前、雑誌記者の新津圭一は(ある雑誌記事によると)政財界の名の知られた人物を脅迫して、その後自殺してた。一方、竹流はそのころ、新潟の豪農・蓮上家から見つかったフェルメールやレンブラントの贋作に関係する仕事をしていたようだった。
一体、竹流の失踪にはどういう事情があるのか。
彼の足跡を探して、事務所の秘書・美和と新潟にやって来た真は、蓮上家を訪ねた。






 高校二年生の年の終わりに、長くサナトリウムに入院していた母親が亡くなった。

 母親、と言っても真自身には血の繋がりはない。
 相川の家に電話がかかってきたとき、それを受けたのは葉子だった。葉子は何かを問いただすような顔で真に受話器を渡したが、真は彼女の視線を避けて、無言のまま電話の相手の言葉を聞いた。

 ご危篤です、直ぐにいらしてください。

 短い言葉だった。直ぐに、と言われても、その時は手段が思いつかなかった。おそらく完全にとち狂っていたのだろう。電車で一番近い駅まで行って、さすがに駅からはタクシーに乗った。タクシーといっても、駅の案内所で呼びだしてもらわなければならなかった。

 本当は急ぎたくなかった。できれば死に目になど遭いたくもなかった。それでも、その女が最後の息を吐き出すのには間に合ってしまった。
 真が、看護師に勧められて女の手を握ると、女はゆっくりと目を開けて真っ白な天井を見た。死にゆく女の手よりも、真の手のほうが余程冷たく乾いていた。その女の目が、ゆっくりと真のほうを見て、そして恐ろしいほどに綺麗な微笑を浮かべた。その唇が何かを呟いている。思わず耳を近づけたが、実際に言葉を聞き取れたような気はしなかった。むしろ、真の目は、女の動く唇を記憶した。

 そして、目を閉じた女は、そのまま眠るように息を引き取った。

 混乱して、医師や看護師たちの言葉にも答えられなかった。どういう経緯があったのか全くわからないままに、気が付くと病室の外のベンチに座っていた。あとで考えると、功は、静江が亡くなった場合の連絡先は、幾つも残していたのだろう。
 遺体は明日引き取ります、という言葉に真が我に返った時、傍に竹流がいて、そのまま東京に連れて帰ってくれた。竹流はその日、相川の家に泊まり、ゆっくりと優しい声で葉子に事情を説明していた。葉子は唇を引き結び、じっと竹流の目を見つめながら話を聞いていた。葉子は、真よりもよほどしっかりと事態を受け止めているようにみえた。

 遺された子供たちの母親ということになっている静江の両親は既に亡くなっていたし、他の親戚は、確かに葉子のことはたまに気にしていたようだったが、現実に何らかの働きかけをしてきた気配もなく、精神を病んでいた静江のことをどう思っていたのか、事情を理解していたのか、真にはよくわからなかった。結局、密葬という形で葬儀が済まされ、その他のあらゆる手続きは、真の傍をすり抜けるように進んでいった。

 女を荼毘にふした日の記憶は、もっと混乱している。最後に花に囲まれた女の顔を見ると、まるで少女のように幼く可憐に思えたが、その唇だけは死化粧にもかかわらず、異様に紅く、まだ生きていて、最後の言葉を幾度も繰り返し囁いているような気がした。

 何があったのか、よく覚えていない。目を開けたとき、一人で大きなベッドの中にいた。
 女の唇が最後に動いた情景を、夢が何度も繰り返していた。苦しくて、腹の中のものを全て吐き出さなければならないと思った。
 真はベッドの中でうずくまり、耳を塞いだ。塞いでも、女の声はもう耳の中に入り込んでしまっていて、煩い羽虫のようにざわめいて鼓膜を刺激していた。

 たけしさん。

 女の唇は、最後に真の父親の名前を呼んだ。せめて、それが彼女の夫の名前だったら、いくらか真は救われたはずだった。功の言葉が耳の奥に蘇った。妻は弟を愛していた、多分今でも、と。
 たけしさん。
 耳の中から頭の全ての聴覚と視覚をつかさどる部分が、真の父親の名前を繰り返した。
 壊れる、と思った。

 どれほどの声を出したのか、わからない。まるで、赤ん坊が初めて泣いた瞬間のように、真は、記憶にある限りでは、生まれて初めて泣き叫んだ。
 長い間、赤ん坊の首を絞める細く美しい手の夢を見続けてきた。苦しくて目を覚ました時、いつも考えた。もしもあの時泣き声さえ上げなければ、あの女は赤ん坊の首に手をかけようとは思わなかったはずだ。真は声を押し殺して生きていかなければならないのだと思い続けてきた。

 そしてその時、身体という限られた器の中に無理矢理押し込めてきた全てを、真は苦しさのあまりに吐き出した。頭を何度もベッドに打ち付けて、髪を引き毟るほどにつかんだ手を、誰かの暖かく大きな手が包み取り、そして真を、赤児を取り上げるような手つきで抱きとめた。その手は一晩中真を抱いてくれていた。

 北海道の祖父母は、長男の功が結婚式も挙げずに一緒になっていたその女性とは離婚したと聞いていたので、彼女が亡くなったら届けられるようになっていた長男の手紙から事情を知って、大層驚いたようだった。それどころか、この時点で初めて長男が失踪していることを知って、しかもそれが二年以上も前のことだと聞いて、祖父母を始め親戚はみな半分パニックになっていた。しかし、真が状況を説明もできずに唇を噛んで俯いたままなのを、珍しく祖父は叱らなかった。

 自分の父親が本当は誰だか知っている。その事が功の失踪と関係があるかもしれないとも思っている。父を恋しいなどとは思わない。けれども、祖父母があからさまに実父の非を責めるのも聞きたくはなかった。ただ、自分の中の悪い血が、彼らの手元に残された自慢の息子をもう一人までもこの世から消し去ってしまったのだ、という気持ちが湧き上がってくるのを止められなかった。

 それを、祖父は恐らく言葉にしなくても察してくれたのだろうと思っている。それどころか、あまりにも心配した祖母の頼みで、祖父も住み慣れた北海道をしばらく離れることを決めたようだった。もちろん、夏には牧場の仕事が多いのでほとんど北海道に戻っていたが、葉子が大学に入るまで彼らが北海道との二重生活をしてくれたことは、その時期の真の心には大きな支えになった。

 そういった家族の存在もあって、その時期、真は東京に来てから初めて、比較的まともな生活をしていた。部活もしていたし、勉強もしていたし、つきあっている女の子もいた。
 皮肉なことに、真がこの世で最も恐れていたはずの女が、死という形で真に平穏な時間を与えてくれたのだ。もちろん、その恐怖は、女が死んでしまったからといって消えてしまうほど生易しいものではなかったが、それを庇って余りあるほどに、周囲の人間たちが、まるで真がまだ赤ん坊であることに始めて気が付いたとでもいうように、それほど露骨ではなかったが、いつも近くにいて支えてくれるようになった。

 誰よりも大きく存在の意味を変えたのは竹流だった。妙に優しく気遣ってくれるようになったが、その一番大きな変化は、スキンシップの度合いだった。
 もっとも、それは恋人同士のものではなく、どう考えても親が子どもに対するような類のもので、育児の本に、こうしてやれば赤ん坊は泣き止むと書いてあったのではないかと思うくらいだった。
 勿論、彼の他の仕事が許す範囲のことだったが、これまで以上に相川の家にも泊まりに来るようになり、食事に連れ出した日は葉子と真をマンションに連れ帰ることも多くなった。竹流は、時には全く遠慮もなしに誘われるままに、祖父母が借りていた灯妙寺の離れに泊まりに来たりもした。

 小学校五年生の真が北海道を離れる時に頑強に反対した祖父は、真が東京に馴染めずに苛めにあったり登校拒否になって、時々ヒステリー発作のように倒れていたのを知って、真を北海道に連れ戻す気で、何度か東京まで出てきたこともあった。
 だが、ある時功から、実は最近真が気を失わなくなった、この私の秘書のお蔭だ、と竹流を紹介されて以来、決して人当たりがいいとは言い難い祖父にしては珍しく、赤の他人の竹流に好意を示した。

 人懐こいようでいて、その実は相手を冷静に判断している竹流の方も、何故か長一郎にはあっさりと屈服したとでもいうように好意を示し、全ての事柄をゲームのように軽快にこなしてしまうこの男にしては珍しく本気で囲碁の相手を喜んでしていたし、しばしば長一郎の昔語りの相手にもなった。
 民俗学的視野を持ち歴史好きの祖父が、同じく歴史を学ぶことをほとんど趣味のようにしている竹流と話が合うのも道理で、彼らは真の知らないところでもしばしば二人で飲んでは語り合っていたようだった。

 竹流の興味を引いたのは、長一郎が、北海道という中央からずっと離れた場所から、日本古代からの歴史をひとつの流れとして見ていて、学校で教えている歴史は大和朝廷中心の西の歴史に過ぎないと、様々な証拠を挙げて語るところだったのだろう。
 竹流が長一郎のどういった部分を気に入ったのか、言葉で表すことは難しいが、まるで前世から親友であったとでもいうようで、酒の相手としてだけでなく、人生の師の一人として大事に思っていたようだ。

 長一郎の方も、年の離れたこの異国人を大層気に入って信頼していたようで、それについては、長一郎の三男の弘志がことって話していたことがある。
 親父はあんたのことを、もう一人の息子か孫のように思っとる。
 竹流はそう言われたことを、後で本当に嬉しそうに真に語った。

 そう考えれば、竹流と相川の家の間には、真に限ったことではなく、そもそも深いつながりがあったのかもしれない。随分後になって、真は、弘志とアイヌ人の女性の間に生まれた従妹から、あの人とこの家には何か切ることのできない深い因縁があるような気がすると言われて、不思議に有難い気持ちになった。

 あの頃は葉子と真も、週に何日かは灯妙寺に泊りにいっていて、週末は部活の時間を除いてほとんど欠かさずそこで過ごした。その頃には葉子は真の親友と自称する富山享志と付き合っていたが、まだ高校生の恋人同士にとっては、二人きりで週末に時間を作って出かけることなどはたまの事だった。むしろ彼女はお兄ちゃんと一緒にいたがったし、真の方も、つきあっている女の子と週末にデートをすることなど、せいぜい月に一度くらいだったので、部活に行っていなければ、灯妙寺の道場で、剣道に勤しんでいた。

 祖父は相も変わらず真が可愛くて仕方がない分だけ厳しく、真が来れば直ぐに道場に連れて行っていたし、それが終われば次は三味線の稽古をつけてくれた。真自身の希望など確認もせずに、傍で見ていれば剣道や三味線を飯の種にするわけでもないのに厳しすぎるのでないか、と思われるほどだったが、孫と離れる時間を惜しんでいるように見えていた。
 不器用な祖父が、孫を側に置いてただ語り合ったり励ましたりしてくれるはずはなく、彼はただ武道や音楽といった行為でのみ、孫との時間を共有する方法を見出していたのだろう。

 ただ学校での勉強については、祖父母には面倒を見てくれる方法はなく、そもそも塾に通うような発想もなかったし、結局は功がいたころと同じように竹流がみてくれた。
 と言っても、授業のようで授業でない彼の講義は常に中学生や高校生の枠を越えていたので、勉強といっても学校で教えられるものとは全く異なっていた。第一、竹流は恐ろしくスパルタだった。世界史などはどこまで広がる話なのか、尽きるところがなかった。いきなり教科書の初っぱなから、彼はあり得ない、と言った。

「その頃の世界に四大文明しかなかったわけがないだろう。インダス、メソポタミア、エジプト、黄河、揚子江、イラク、イスラエル、マリ、メコン……世界の至るところで、文明の萌芽があった。知られているだけでも二十は下らない。いや、萌芽などという表現は適切ではないのかもしれない。我々が追いかけることのできない遥か古い過去から、文明は自然発生的に世界中のあらゆる土地で湧き起こって、しかも我々が思っている以上に豊かで交易範囲も広かった。ある意味では、その頃の文明は今よりもはるかに高い次元にあったかもしれないんだ。因みに、文明とは何だと、お前は思う?」
 そういう具合で先史時代の話だけでも延々と続いた。

 時々何を思ったのか、講義は日本語ではなく英語のこともあって、真も、時々一緒につきあっている葉子も、彼の歴史の講義と一緒に英語の授業も受けているようなものだった。葉子も真も、父の留学の際にカリフォルニアで住んでいたこともあって基本的な理解はできていたはずだが、言語は話さなければ記憶から消えていくものなので、竹流は敢えてそうしたのかもしれなかった。
 彼は、物語のような歴史は、つまり絵本を読み解くようなものは英語で話したし、多少複雑な歴史は日本語で語り聞かせていた。アレキサンダー大王の遠征の物語も、チンギス・ハーンやナポレオンの物語も、フランスやロシアの革命も、彼の言葉で語られると、まるで映画のスクリーンに広がるように面白かった。

 あるとき真は広間の座敷机で一生懸命数学の問題を解いていて、三十分で考えられるところまで考えてみろと言った竹流は、その傍の畳の上で横になって眠っていた。
 ノートの数式の上に、ふわふわと漂う影が通り過ぎていく。庭先から迷い込んだ白い蝶は、光に吸い寄せられるように竹流の金の髪の上でしばらく漂っていたが、そのうち何かに気が付いたように縁側へ戻って行った。
 真は蝶を追うのを辞めて、ふと竹流に視線を戻し、そのまま彼を長い間見つめていた。縁側に蝶ではなく、確かに祖母の奏重の気配を感じたが、それはそれで構わないと思った。

 それ以来、他人に自分の感情を説明しない真が、どこかでこの男のことを好きなのではないかと祖母は思っていたようだった。常識を逸しているはずの感情に対して、祖母がどういう感想を抱いているのか、真は結局確かめたことはなかったが、気風のよさで知られる芸妓の家の出身である女の腹のくくり方は、真にマイナスの感情を植え付けることはなかった。

 お寺では盆踊り、隣同士になった神社では桜祭りや秋祭りがあって、奏重がいつも浴衣や着物を縫ってくれた。彼女は竹流にも必ず着物を用意して、彼がいつ来てもいいように準備をしてくれていた。
 高校二年生のときだったか、隣の神社の春の祭りの日、葉子に誘われてやってきた富山享志が、まるで相川家に許されたとでもいうように嬉しそうな顔をしているのを見て、真は正直気分がよくなかった。

 三人で一緒に行こうよ、という葉子の誘いは断り、真は離れの縁側にひとり残って、隣から聞こえるお囃子の音を聞いていた。恋人同士のデートにのこのことついていくのも間抜けだし、仲良くしている葉子と享志を見るのもあまり楽しそうではない気がした。

 色々な感情が処理できないことが分かるのか、ここのところ和尚にも祖父にも、剣道ではこてんぱんにやられている。中学生の時のほうが余程勝てる気がしていたのに、明らかに技術が伸びているはずの今のほうが、分が悪くなっている。攻撃のタイミングが甘いのかもしれないと思うが、質問しても和尚は面白そうに笑うだけで、勝てる算段がついたらいつでもかかって来い、奇襲でもいいぞ、と言った。

 遅い時間になってから、もう今年は来ないと思っていた竹流が訪ねて来て、しばらく奏重と何か話していたが、縁側で三味線の糸を張り替えていた真のところにやって来た。竹流は奏重に浴衣を着付けてもらっていて、すっかり祭りに行くつもりだったようで、真に着替えて来い、と言った。真は糸巻きを合わせながら返事をしなかった。

「お前、何を拗ねてるんだ」
 拗ねてなんかいるものか、と真は思った。だが奏重に呼ばれると拒否することもできず、素直に浴衣に着替えると、結局一緒に出かけることになった。

 竹流は自分が目立つということを全く意識に入れていない。一緒に歩くと時々平気で腰を抱いてくる。肩ならまだいいが、腰となると、いかにも親密であるということを示すようで、真は最初の頃随分と戸惑ったものだった。
 何より他人に触れられるということ自体が苦手な真にとって、それはあり得ない形のスキンシップだったのだが、慣れというのはある意味恐ろしいものだ。いつの間にか警戒するとか嫌だとかいう意識は消えてしまっていた。

 祭りの人混みで身体を引っ付け合っていてもそれほど目立つわけでもないはずだが、一緒にいるのが長身で、やはりどう見ても男前の外国人となると、目立たずにはおれない。しかもすっかり日本の風俗・習慣に慣れた竹流は、神社でのお祈りの作法まで日本人以上にさりげない仕草で、かえって目を引いている。

 竹流が挨拶に行くと、神主が微笑ましい恵比寿のような顔で出てくる。
 この神社の由縁は鎌倉時代に遡るため、それなりの由緒正しい宝物も持っているようで、その管理や修復を竹流は請け負っているようだった。
 真を放ってしばらく神主と話をしてから、竹流は実に楽しそうに真を人混みの中に連れて行く。真には狐の面をつけさせ、自分はひょっとこの面をつける。どうやら、祭りの時に面をつけるというのが必須であると勘違いしているように思える。

 金魚すくいでその器用さを見せ付けると、ギャラリーの喝采を浴びるのも楽しいようで、結局十匹ばかりの金魚をもらって、綿菓子を買い、例の如く当たり前のように真の身体を抱いてきた。真は周囲を幾らか気にしながらも、もうどうでもいいか、と思い始める。葉子が、真と竹流を見つけて嬉しそうに手を振ってくる。

 葉子は屈託のない笑顔で享志を竹流に紹介し、享志もお噂はかねがね、とまるで大人のような挨拶をしている。不機嫌にしているつもりはなかったが、ぼんやりと視線を逸らしていると、何を察したのか、わざとのように竹流が真を抱き寄せた。
「あんまりひっつくなって」
 神社の本殿から奥の院へ階段を上りながら真が言うと、竹流はその訴えを完全に無視して言った。
「やっぱり拗ねてるんだろう」

 拗ねてなんかいない、と言って真は彼の手を振り払い、階段を上った。
 奥の院にも疎らながら人影がある。賽銭をあげてお参りを済ませると、さらに点々と散らばるお稲荷、山の神にもお参りをして、何故か神社に同居している薬師堂に辿り着く。
 ここまで来るとさすがにほとんど人影はなかった。大きな楠が薬師堂の裏手に覆いかぶさるように繁っていて、夕方ともなると薄暗く、お堂の中の明かりだけがふわりと浮き上がって見えている。

 竹流はお参りを済ませて、楠を見上げながら裏手にまわっていく。真がいくらか後れてついてくと、竹流は薬師堂の裏の縁に腰掛けて楠を見上げていた。
「まさに神の宿る木だな」

 そう言って天を覆うような楠に向かって手を合わす。真は傍に腰掛け、手を合わせて目を閉じている男の横顔を見た。ひょっとこの面を頭につけて祈っていてもおかしな風情にはみえない。そう思った途端、竹流の手が真の肩を抱き寄せ、髪に触れ、目尻に口づけ、それから唇に触れてきた。

 咄嗟のことで驚いたのは一瞬だった。目を閉じると、楠から風が吹き下りてきて狐の面を被った髪に触れ、頬に接する。真の冷えた唇に触れる唇は温かく柔らかで、抱かれている身体はふわりと浮き上がるような心地がした。
 性的な興奮を覚えたような記憶はない。竹流がその頃何を考えていたのかも知らない。だが、キスそのものは決して触れるだけのキスではなかった。唇を随分と長い時間確かめるように吸い、啄ばみ、やがて静かに唇を割って、更に求めてくる。真がまだ歯を合わせたままでぼんやりと竹流の顔を確かめると、竹流が少しだけ唇を離し、薄闇の中でも柔らかく光を残したままの青灰色の瞳で真を見つめている。

「目を閉じて、口を開けろ」
 言葉は優しく、真は逆らうこともせず、言われるままに目を閉じる。もう一度触れた唇は真の唇を割り、舌が絡み付いてくる。さっき食べた綿菓子の味がそのまま甘く舌に残っていた。竹流の手は更に求めるように真の身体を強く抱き、首筋を撫でながら肩や背中にまで触れている。真は自分のほうからも竹流の舌を吸い、絡めて、時々息を継ぐようにする瞬間にも身体が離れないようにしがみついていた。

 それでも、それはまだ性的な興奮には繋がらなかった。竹流の方は、むしろ身体を抱き締めたり、頭を撫でたりすることが大事で、そのついでにキスをしている、という感じで、単に親が子どもの面倒をみる一つの方法論としてのスキンシップを、ちょっと間違えて実行してしまった、というふうに見えていた。
 真のほうも、滝沢基に男同士のセックスを教えられたことがあるにも拘らず、竹流に対しての感情はひどく透明で、まるきりセックスというものに繋がっていなかった。

 時々、この男とこんなふうにキスをした。けれども更にその先をと考えたことはなかった。
 竹流がキスをしてくるときは、何かしら真の方に感情の僅かな波がある時が多かったように思うが、あまり関係なく、ただ竹流のほうが気分が乗っている時だったのかもしれない。いつも一度触れると、何時間でもキスをしていたような気がする。それでも切羽詰った感情にならなかったのは、それ以上を望むべくもないと、その先はないものだと思い込んでいたからかもしれない。

「で、何を拗ねてる?」
「しつこいな。拗ねてないよ」
「でも、気にしていることがあるだろう」
 真は息をついた。
「どうしても、ここんとこ一本も取れない」
「和尚さんにか」
「おじいちゃんも。攻撃に移る一瞬、全部の手の内を読まれているような感じがする。おじいちゃんは特に、『気』を完全に殺しちゃえる人だから、隙が全く見つからない」
 竹流は突然、真を抱き締めた。

「何するんだ」
「お前も、人並みになったってことだな」
「どういう意味だよ」
「感情があるから乱れる。そういうことだろう。恋をしたり、腹を立てたり、色んな嫉妬心で苦しんだり、だからそれが竹刀の先に出て、相手に読まれる。お前はずっと悔しいとか、勝ちたいとかいう強い気持ちとは無縁だっただろうから、無邪気に強かったんだよ。それが欲が出てきたってことだ。悪くない」
「よくないよ」
 竹流は真を少し離して、暗がりの中で真の頬を両の手で包んだ。

「キスしているとき、何を考えている?」
「何って、別に何も」
「ちゃんと言葉で言ってみな」
 真はぼんやりと浮かぶ竹流の髪の光を見ていた。
「細胞に戻る感じがする。深い、宇宙みたいなところで」
「こんど和尚さんと立ち会った時に、俺とキスしている時のことを思い出してみろ」
「そんなの、絶対負けるよ」
「そりゃあわからんぞ。ものは試しだ」もう一度竹流は真を抱き寄せた。「守るものがない捨て身の人間が強いというのは嘘だ。何かを守りたいと思ったとき、本当に人間は強くなる。負けられないからこそ、最後の最後まで喰らいつく」
「俺が何であんたを守らないといけないんだ」
「そういうこともあるかもしれないだろう」

 この男と話していると、時々問題の次元が急に高みに引き上げられ、あるいは逆に低いところに引き降ろされて、少しの間意味が分からなくなる。そしてずっと後になって、得心することがいくつもあった。
 
 灯妙寺の離れに帰ると、どこ行ってたの、探したのに、という葉子の声に迎えられた。多分一時間はあの薬師堂の裏で二人きりでいたのだ。神社にも姿がなく、家にも帰っていないというので葉子は心配していたようだが、奏重は全く意に介していないように見えた。
 享志は既に長一郎と夕食の席についていて、真を見てほっとしたようだった。さすがに人当たりのいい享志でも、この年齢で長一郎の相手は難しいのだろうと思える。竹流は長一郎に挨拶をすると、もう既に飲む気満々で、その一瞬に真とのキスを忘れてしまったように見えた。
 
 ほんの少し、切ない、という感情を覚えたが、それは幼い子どもが欲しいものが手に入らないと駄々をこねるのと何ら変らないものだと思える。それに真は小さい頃から、欲しいものをねだる、ということ自体が得意ではなかったし、ほとんど自分の主張を押し通したことさえなかった。
 だから、欲しいものが手に入らない切なさは、十分に考えてみたことがない。欲しいと思う前に考えないようにするというのが、真の対処の方法だった。

 竹流の生活について真が知っていることはわずかだった。勉強をみてくれたり、様子を気に掛けてくれて、大概は一週間に一度くらいは真と葉子のところに来てくれたが、時には月単位で姿を見せないこともあった。
 彼の仕事については、本当のところはよく分からないままだったが、祖父母は竹流の言った通り、叔父の貿易関係の仕事を手伝っているという言葉を鵜呑みにした。多分、まったくの嘘でもないのだろうし、竹流が持ってくる世界各国の土産物は祖父母をかなり喜ばせた。
 それ以上のことを、真も聞かなかったし、竹流も自分から話すことはなかった。






さて、青春時代の真です。
それにしても、多分、竹流はかなり勘違いしていますよね……
この人は、真はスキンシップの欠落によって難しい性格になっていると思っているんですね。
で、この難しい子どもを何とか育てようとして、あれこれ育児書を読んでいる。
心理の本も読んだと思うけれど、多分、育児書が一番役に立ったはず。
でも、スキンシップの方法がなんか間違っているような???

大体、この男にはちゃんと「妻とも呼ぶべき女」がいるんですよ。
これって、真はもてあそばれているだけ……?
いや、そんな彼の本音は、ずいぶん先ですが、第4節で。

受け所は、「祭りにお面は必須」^^;
カーニバルじゃないんだから、ね。

次回は、真のクラブ活動(#^.^#)

関連記事
スポンサーサイト

Category: ☂海に落ちる雨 第2節

tb 0 : cm 2   

コメント


スキンシップって……

竹流はどんな読解力をしているんだか……
そういうスキンシップじゃないかと。育児の場合……。

「俺が何であんたを守らないといけないんだ」
「そういうこともあるかもしれないだろう」
このセリフが、本当になるとはってところでしょうか。


八少女 夕 #9yMhI49k | URL | 2013/06/29 03:56 [edit]


夕さん、ありがとうございます(^^)

> 竹流はどんな読解力をしているんだか……
> そういうスキンシップじゃないかと。育児の場合……。
あはは。ですよね~
でも、竹流は、真が『精神疾患』(変なものが見えるとか、意識を失うとか)だと言われていたので、心理学とか精神医学の本を読みまくって、なんか違うと思い、育児書を読んで得た結論が…
『幼少時にスキンシップが足りなかった』と。
だから、彼なりに、一生懸命可愛がってやったと思います。
でも、この頃、彼はものすごく真を大事に思っていたかというと……いささか頭でっかちだったかもしれません。
行動が先で、心はまだ別のことのほうに重さがあって…珠恵さんも、仕事も(レストラン、ギャラリー、修復師としての仕事、…)、他のことで結構充実していましたので。
で、いつその重さが変わったのかというと、多分、【幻の猫】の時(イタリア旅行)とその後の真の事故(崖から落ちた。でも実は事故ではなかったんですが)だったのかなぁ。
いやもう、このずれ感覚は、この人ならではですね^^;

> 「俺が何であんたを守らないといけないんだ」
> 「そういうこともあるかもしれないだろう」
> このセリフが、本当になるとはってところでしょうか。
夕さん、鋭すぎて、コメントできません……^_^;
今後をご期待ください!!(と言って、ごまかす……(V)o¥o(V)

彩洋→夕さん #nLQskDKw | URL | 2013/06/29 10:12 [edit]

コメントの投稿

Secret

トラックバック

トラックバックURL
→http://oomisayo.blog.fc2.com/tb.php/245-71bc53b6
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)