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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

❄16 砕けた珠 錆びた劔 幸せな後日談 

 真は食事もとらずに布団に潜り込んだ。住職が睡眠薬代わりに少しの酒を持ってきてくれていたが、それを飲んでも、昂ぶった神経を鎮めることはできなかった。
 竹流が傍に座っている気配だけは背中に感じていたが、何も話したくなかった。
「眠られましたかの」
 住職の声が低く、穏やかに、背中から直接響いてきた。竹流が何かを答えたのかどうかはわからなかった。
 静かで何の音もなかった。この体の下に、あの恐ろしい場所があるなどとは考えたくもなかった。真はただ息を潜めていた。理解する脳の機能は停止していたのかもしれないが、昂ぶったままの神経は活発で、耳から入る僅かな音までもが増幅されて頭の中で唸っていた。
 気分が悪かった。
「随分と、お厳しいですの」
 住職の声は低いところから身体に直接響いてきていた。竹流は長い時間黙っていた。やがて微かに息をつき、低い声で答えた。
「優しくしたところで、それがまやかしなら、いつかは崩れてしまう、そうではありませんか。あなた方が信じる仏も、真実を覆うことはしない。悪人ならそのままを受け入れろという。人は、本当は自分の悪しきところなど見たくはないのに、仏の下に行くときは悪人のままだ」
「キリストは悔い改めろ、と言いますからの。悔い改めて罪をなかったことにすれば、確かに人は穏やかになるものかもしれません。だが、人も仏も神も、十割の善はございません。ならば善悪ある身を愛おしんで悪いことはございますまい。あなたは、ご自分にお厳しい。他人に対しても十割の善を、十割の感情を求めておられるのですかな」
 竹流の息遣いは静かで、沈黙は長かった。
 閉じたままの真の瞼の上で、闇と光が混じり合い、踊っていた。あのもののけたちの気配や子どもの幻の気配が懐かしく、消えてしまったことが痛ましかった。その場所へ、真自身も一緒に消えていってしまえたらと思った。
「十九の時に日本に来ました。何をしていても、自分がどこか欠けているような気持ちから逃れることができなかった。着の身着のままで、修復の仕事をしながら、というよりもほとんど押し売りでしたが、寺社に泊まり歩いて、この国が私を救ってくれることを願っていた」
 竹流は一度言葉を切った。そして不意に真の髪に触れた。真は深く身体を沈めた。
「雨の東寺の講堂でした。私の生まれ育った街にはない湿潤な空気、それを吸い込んだ重い木々が組み上げられた講堂の中に、どこからか僅かに光が漏れてきていた。湿りを含んだ細かな屑があたりに漂っていて、その中に穏やかで厳しい表情の仏が並んでいた。あなたの言うとおり、それは是でも非でもなかった。全てがそこに存在して当たり前であるという何か、古い木の微かな軋みと、時代の塵を吸い込んだ匂い、その中に私自身が取り込まれているという感覚は、物事の善悪を迫ってくる硬質な石の世界にはないものでした。大日如来の顔を見たとき、一瞬にしてわかったと思えた。今でも、何が解ったのかはわかりません。ただ、それでよい、と言われた気がした。だがそれでも、私の中の血が納得しない。確かに私ははっきりとした善悪の答えを求めているのかもしれません。神にとっての悪を犯すことを恐れている」
「あなたのその正しさを、フジムラの女将さんは心から心配されているようでしたな。正しくあるということは辛いことですからの」
「やはり、お母さんがあなたに私を紹介してくださったのですか」
「いやいや、あなたを推薦してくれたのはとある名のある古刹の御住職です。祇園甲武の芸妓さんか、あるいはフジムラの女将さんを通せば、あなたに連絡がつくと教えてくれましての」
 竹流が息をついたのがわかる。
「そうですか」
「妻帯しても悟りは得られると親鸞さんが証明したというのだから、もう少し、タエちゃんを大事にしてくらはったらええのに、何やら難しい生き方を目指したはるんか、見てるほうも落ち着きまへんと」
 真は微かに身動ぎした。
 竹流には、真の知らない過去や人との繋がりがある。それが真や妹のことよりも大切だという可能性については、いつでも考えなくはない。だからこそ、あの時彼は、これからは一人でやっていけるだろうと真の手を放したのだろう。
 聞きたくはないが、知りたい気もした。だが、竹流は住職の誘い水には乗らなかった。住職も何かを察したのか、それ以上その話題を続けなかった。
「明日、お暇します。もうこれ以上、あの壊れた珠や錆びた劔に何かができるとは思えない。こいつにも必要以上に期待させることはない」
 しばらく、いや、それは随分と長い沈黙だった。地下の空間に風が吹き抜けたような音が、身体に伝わってくる。
「しかし、私にはあなたのほうが納得しておられぬように見えますがの」
 住職の声に被せられた竹流の声は、震えているように聞こえた。それとも、ただ真の鼓膜がおかしくなっていただけなのかもしれない。
「せっかく伝説の『不動明王』を見つけだして、御神体に辿り着いても、実際には壊れた珠は元には戻らないし、子どもは龍とともに空に昇ることもできないのでしょう。錆びついた劔にはもう雨を降らす霊力もなく、川やこの町の地下に水を満たして欲しいという祈りを聞き遂げることもない。鈴の鳴るわけが解って、ここにいる若者たちも納得して、私自身の好奇心も幾らか満たされはしましたが、一体このことが何になったんでしょうか。子どもの父親が残した神像は怒りに満ち、今でもこの世を祟ってやるとでもいうようだった。珠が割れてしまって嘆く子どもの悲しみなど、もう構ってもいないように思えます。いや、始めから子どもを愛してなどいなかったのかもしれない」
 だが、その声の昂ぶりを鎮めるように、住職の声が柔らかく被せられた。
「そうですな、捨て置くのもまたよろしい」
 微かに、衣擦れの音がした。
「もう少し、酒でもお持ちしましょうかの」
「いえ」
 竹流は何を考えているのか、それから長い時間、何も言わなかった。やがて静かに、小さな身体が立ち上がる気配がした。
「和尚さん」竹流が呼び止める。「私が納得していないのは、こいつの感情ではなくて、自分自身の感情です」
 するりと、再び住職の小さな身体が、この空間の何処かに納まる気配を感じる。
 住職は何も言わなかった。竹流もずっと黙っていたが、やがて事実を違えないように、言葉を確認するように、ゆっくりと話し始めた。
「私がこの子の父親に初めて会った頃、彼はちょうどこの子を北海道の牧場から引き取ったところだった。初めて会ったとき、野生の生き物が目の前にいるのかと思ったんですよ。都会をも人間たちをも警戒し、常に自分自身を必死で守っているようで、大人たちはこの子を腫れ物を触るように扱い、可哀相な子どもだと言って慰め暖めていた。だから、かえってこの子は全く馴れずに、何もかもを拒否するように学校ではしばしば気を失い、それを迎えに行くのが私の仕事のようになっていました。勉強ができないという次元の問題ではなく、言葉さえまともに理解していないような様子だった。行動を見ていると、全く解っていないわけではなさそうだったけれど、時々、訳のわからない呪文のような言葉を呟いていた。後で知ったんですが、それは帯広辺りのアイヌの言葉だったんです。私には理解できない生き物だと思った。自分の世界に閉じこもり、辛いことには目を瞑り耳を塞いでうずくまっていれば通り過ぎるものだと考えている、その不甲斐なさに腹が立って何度も怒鳴りつけました。この子の父親に頼まれて勉強を教えていましたが、理解しているのかどうか確かめようともせずに、詰め込むだけ詰め込んでやろうと畳み掛けるように教えていた。だが、ある日天文学を教えていた時に、こいつが突然反論したんです」
 また、髪に手が触れた。しかしそれは幻の手だったのかもしれない。
「初めて、こいつは馬鹿じゃない、物事の理屈を教えられないまま、あるいは理解しているのかきちんと対話で確かめられないまま放置されていたのだと思った。何よりも、私の言葉を理解しようとして懸命に聞いていたのだろうと思ったら、自分でも意外なことに幾らか感動さえした。考えてみれば、あれほど嫌なものを見聞きするだけで気を失っていたのに、私が怒鳴りつけても一度もそのことで気を失ったことはなかったんです。それからは、私自身が教えることを楽しむようになっていました。この子の周りの大人たちは、精神科医も、私がこの子にとっての癒やし手であると言って、私の『治療』の腕を褒め称えてくれた。確かに、このわけの判らない子どもを目の前にしたとき、修復作業前に情報を集めるように、数え切れないほどの精神・心理学の本を読みあさりました。だが、結果としてはそれが参考になったとは思わない。こいつは今でもしばしばパニックになるし、いつだって何かを怖がっている。思い通りにならないんですよ。人と人との間は、親子であろうが、男女であろうが、友人であろうが、思い通りにはならないのは分かっています。相手が真実考えていること、願っていることなど、永遠に分かろうはずがない。ただ歯がゆい。私は子育てをしていたわけでも、精神疾患の治療をしていたわけでもない」
 かたかたと窓枠が震えていた。
「こいつは二度も父親に捨てられているんです。生まれて間もなく実の父親に捨てられ、十四の時に頼りにしていた伯父が失踪した。だから、古い文書に残された室町時代の親子の悲劇に、自分自身の感情の脆いところを刺激されたのかもしれません。もちろん、それをただ哀れだとか可哀相だとか思っているわけではありません。そんな子どもはこいつひとりではない。もっと強くなれと、まだ足りない、もっと闘えと、そう言ってやればよかったんでしょうか」
 これは夢の中なのかもしれない。真は息をずっと止めているのだから。竹流の感情を、真自身に向けられた感情を、聞くことは恐ろしかった。この先は一人で歩きなさいと、手を離されるのが怖かった。だから夢であってほしいと願っていた。真は拳を握りしめた。
 その気配を察したかのように、住職の声が、まるで真に話しかけるように耳元で鼓膜を震わせる。
「もう十分に、あなたもこの方も闘っておられる。この先を行くために必要なものは、ただ目を開けることだけでございましょう」
 いや、あの春の日、確かに彼は一度真の手を離し、これから先はお前ひとりの道だと告げたのだ。いつまでも子どものように甘えていてはいけない、俺はお前の父親ではないし、人は一人で道を歩いていくものだと、そう告げられた。目の前には真っ直ぐな道が、はるか未来に向けて伸びていたのだろうか。真にはただ、自分の目の高さよりもずっと高い草が果てなく茂っている光景が見えていただけだ。どこに向かっているのか分からないまま、ただ闇雲に歩いた。気が付いたとき、あの崖の前に立っていたのだ。
 そして、あの時、真は確かにあの崖から飛んだ。
 不意に、窓枠の軋みが止まった。
「あなたは、この方の三人目の父親になろうとされていたのですかな」
 竹流はまた長い時間沈黙していた。窓枠の震えが再び始まった。
「わかりません。ただ、確かにわかっていることは」
 わずかな沈黙の間、真は息を止めたまま身体が闇に沈んでいくような心地でいた。竹流は重い声で先を続けた。
「失いたくないということだけだ」
 そしてまた、何の音も聞こえなくなった。その無の空間に竹流の声だけが、沈みながらも激しく響く。
「ずっと傍にいて抱き締め、励ましてやることなどできません。家族であればそうしてやれるかもしれないが、それでもすべての時間を共に過ごすことはできない。いざという時に守ってやれるのは、わずかに自分の手が届く半径三メートルほどの傍にいる時だけです。兄弟でも恋人でも親子でも同じことだ。私がこいつにしてやれることは、一人で闘い、生きていく術を教えてやることだけでした。だが結局そんなものは何の役にも立たなかった。僅かに手や目を離したときに、失ってしまったら何にもならない。命を失ってしまったら、その先には何もなくなってしまう」
 竹流の声は悲痛ともいえる響きを伴っていた。そして真は、自分が今生きてこの世に残されている理由を理解した。あの浦河の町のはずれ、迷い歩いた道の終着点の崖から落ちた身体が、今もこの世に生きながらえているのは、この男の悲痛な声を聞きたくなかったからなのだ。
「人の世も命も儚い。それ故に心は重く、祈りは深くあるのでございましょうな。あなたはまだ何一つ、捨てるわけにはいきますまい」
「この、指輪のことを仰っているのですか」
 住職はほっほっと優しく笑った。
「茶室では外しておられましたの。結婚指輪というわけではなさそうですな」
 住職は何かを確かめるように、あるいは真に真実を聞かせるためとでも言うように、はっきりとした声で尋ねた。竹流は随分と長い時間、答えなかったが、やがて意外にはっきりとした声で答えた。
「この指輪は契約の印です。いつか神の家の鎖に繋がれる印です。キリストが十字架の運命を定められていたのと同じように、避けられない運命です」
 もう、声以外の何の音もしなくなっていた。
 竹流が修復作業の時以外には外すことのないその指輪は、彼の左の薬指に絡みつくような茨の紋様だった。キリストに仕えよという運命を示す指輪の冷たい感触を、真は自分の身体に刻まれた痛みのように覚えていた。竹流はその指輪を外すとき、身を切るような仕草で抜く。真はいつも、何ひとつ問いただすことができなかった。知れば、彼を何処かへ返さなくてはならないような気がしていたからかもしれない。
「あなたがタエさんに結婚はできないと仰ったのは、その指輪のためですかの。フジムラの女将さんはあなたとタエさんのお気持ちを聞かれて、もうお二人に何を言うても無駄やろうと思いきられたそうですがの、それでも後から随分と迷われたそうで」
 竹流が小さく息をついた。真は握りしめたままの手にまた力を込めた。
 例えば、大事な家族を他の誰かが連れ去っていく時、きっとこんな気持ちなのだろうと考えていた。北海道を出てきてからずっとこの男の手しか頼るものがなかったのだから、その手が他の誰かを気遣い、他の誰かを大事にするために真の手を離したことを、ただ心細く感じていただけなのだ。
 何を聞いても何が起こっても、自分は大丈夫だと証明したい。そう強く願うのに、現実には声を出すことも、彼の目を見て話を聞くこともできない。消え行ってしまいそうなこの身が情けなかった。
「タエは私の恩人です。若くて無茶ばかりしていたころ、彼女には幾度も助けられました。彼女には恩義があるし、愛おしいと思っている。だが、結婚はできない。彼女はそれを知っています。彼女に他に見合う男性が現れた時、身を引くつもりでした」
「あの方には、幾度もそのような話があったようですがの」
「彼女はそれでいい、と。結婚は望んでいないので、私とずっと一緒でありたいと、そう言ってくれました。私は卑怯な人間です。彼女に自由を認めると言いながら、彼女の気持ちを知っていた。そして結局、彼女を手離すつもりもない。それが愛情かどうか自分では解りません。私には人を愛するということと、思い通りに支配するということの区別がつかない」
 竹流が言葉を区切る。住職は、まるでそこに存在しないかのように、静かに気配を殺している。真も緊張したまま、竹流の言葉が続くのを待っていた。あるいは、永遠に話を区切ったままでいて欲しいとも思っていた。
「幼いころから、叔父からそういう教育を受けてきたからかもしれません。帝王学と言えば格好はいいですが、つまり他人を支配するための教育だった。この世に思い通りにならないことなどない、あるのならば克服するためにあらゆる努力を惜しむな、と。私の家の先代の当主はファシズムに抵抗して、雇っていたユダヤ人たちを匿っていて謀殺されました。愛を示すのは人心を支配するためで、そのためには命さえも惜しむなという教えを体現するためです。今こうして国を離れていても、時々わからなくなる。私はあの場所から逃れたのか、それとも、放蕩息子のようにただ長い家出をしているだけで、いつかは帰ることが定められているのか、そして私自身、あの場所に帰ることを願っているのか。だからタエを愛しても、それが確かな自分の願いなのか、あるいは何かから逃れたくてただ欲望のままに求めただけなのか、分からなかった。タエが私を拒否すれば、それはそれで仕方のないことだと思っている。誰かの感情を変えたいと願うほどに深く求めることもない。私にとっては愛も友情もそういうもので、嫉妬することも知らなかったし、そういう状況になることもなかった。全ては、私の本当の居場所から離れた、夢の中の出来事に過ぎないと知っているからかもしれません」
 やはりこれは夢なのだと真は思っていた。竹流に複数の女性がいることは知っていたし、竹流の実家のこともいくらかは分かっていた。それでも、これほどに明瞭に竹流の言葉を、直接に彼の事情を聞くことなどなかった。聞いてしまえば、真には処理のできない感情と恐怖が押し寄せてくる。
 今はその明瞭さのゆえに、真はこれが夢だと思った。
「でも、ある時はっきりと、こいつを全て自分の思うとおりにしたいと思っている事に気がついた。他の誰に対しても、タエに対してさえ、そんなことは考えたこともなかったのに。そしてそう気がついた瞬間に、この子が生きて何かを考え、私に語りかけている、自分と対等の存在であることを了解した。親が自分の所有物、付属物だと思っていた子どもに、まったく別の人格があることに気が付くようなものです。だが、了解したからといって対処できるわけではない。もしも、いつかこの子が自分の思い通りにならないことを知ったら、自分がどうするかと思うと恐ろしいのかもしれません」
「そもそも人は、愛すると言いながら相手の心を支配したいと思っておりましょう。愛とはグロテスクな側面を持っているものですからの」
 竹流がふと溜息をついたのが分かる。
「それに本当のところは、どんなに逆らおうとしても、私の身体にも心にもキリスト教の善悪に対する価値観が染み込んでいるんでしょう。どこかで、最後に下される審判を畏れている。それに、相手を叩きのめして支配しようという遺伝子が白人にはあるそうです」
「しかし、この方はあなたを、誰よりも信頼していらっしゃるように見えますがの」
「私を絶対に信用しろと言い続けてきましたから、素直にそう思っているんでしょう。アヒルが最初に見た動くものを親と思うのと変わらない」
 住職のほっほっと穏やかに笑う声が聞こえた。
「いくらそのような言葉だけを投げ掛けられても、そこに実が無ければ、人は他人を信じたりはしないものです。タエさんにしても、他の男性を断り、結婚もできないと断言したあなたについていこうとされたのは、たとえそうであっても、あなたを信じるに値すると認めたからですの。花街の女性は人間の真実を見抜く力を持っておりますからな」
 竹流の感情が、空気の震えとして伝わってきそうになる。真は身体を固くしてそれを避けた。とても自分には抱えきれないものだと思った。
 しかし、その先に聞こえてきた住職の声は、穏やかにすべてを丸め込むようだった。
「ところで、歌舞伎の鳴神には後日談があるのを御存知ですかな?」
「後日談?」
 どうして住職は鳴神の話など言い出したのだろう。真はぼんやりと志明院の長い石段を吹き抜ける風を思い出していた。もしかして、あの場所に住職も一緒に出掛けたのだったろうかと錯覚さえした。
「雲の絶間姫には、そもそも恋慕う男がいて、上人を騙して龍神を解放できたなら褒美にその男と結婚させてやろうと、帝から言われていたわけですな。帝の命令通り、上人を騙し雨を降らせた後、雲の絶間姫は都に戻りましたがの、彼女が褒美に得られるはずだった男は、他の女性と結婚してしまっていた。姫は、帝に騙され、いいように利用されたと知ったのですな。彼女は悲しみにくれるうちに、ふと上人の純情や愛情を思い出し、山に戻って上人と結ばれた、という話があるのですじゃ。後からの作り話でしょうがの、あり得そうな話じゃありませんかの」
 竹流の声が和む。
「確かに、そういうどんでん返しは悪くないし、男の純情だと上人に同情している私としては、そうであって欲しいようなハッピーエンドに思えます。そういう後日談を作った人も、上人の純情に心をうたれていたのでしょう。でも、少なくとも能や歌舞伎のラストシーンでは、上人はもう悪鬼の姿に変わってしまっています」
「では、今度こそ真実の愛で、雲の絶間姫が上人の心を溶かすのでしょうな」
 わずかな間の後で答えた竹流の声は厳しい響きを持っていた。
「私はいやらしい人間です。タエにも、こいつにも、いい顔をしていたいだけだ」
 語尾は聞き取れないほどに沈んでいった。感情の起伏の少ない男だと思っていたが、それは真の思い違いだったのかもしれないし、大きな年の差がそのように見せていただけなのかもしれない。だが、答えた住職の声は、朗々と華やかだった。
「ほう、それは奇遇。私と同じですな。私も、仏にも神にもいい顔をしていたいんでございますよ」
 それからしばらく静かだった。竹流は住職の言葉を、その奥深い意味を考えていたのだろうか。あるいはただ、自分の心を鎮めていたのかもしれない。
 竹流が次に何を言おうとするのか、もしかして真が眠ってなどいないことを知っているのか、真は緊張したまま固く目を閉じた。
 だが、やがて真の耳に届いた竹流の声は、低く、自ら何かを確かめるように強く深く、どこか弾んでいるようにも聞こえた。
「修復はできなくても、修理はできるかもしれない」
 答える住職の声までも、どこか清々しくさえ聞こえる。住職は始めから、この答えを待っていたかのようだった。
「修理、と言われますと?」
「修復はパーツを新しくすることを嫌いますが、修理なら壊れたところを新しくすればいい。昔の人たちは、そうやって古い道具を何年も、何十年も使ってきた。神宝も神社社殿の造替では新調され社殿に納められたし、神様をこちらにお迎えする際には、常に新しいものを準備して、大切な客人として遇してきた。そもそも御神体というのは、畏くも有り難いものならば何でもありうるわけです。ものではなく、三輪山や白山、岩木山といった山のこともあれば、草薙剣、八咫鏡といった物のこともある。神とは、そもそも森羅万象全てに宿るもので、具体的な形を持つものではない。だが、それでは何処に向かって祈ればいいのかわからない。だから、神籬としての榊や磐座としての石や木の柱といった依代を設けて、祈るようになった。そして、神という目に見えない何かの仮の姿として、この劔や珠といった御神体に観念して、それを祀る社を作った。あくまでも依代であって、実際の神ではない。だから、御神宝は、それが依代としての御神体であっても、新しくされることがあった」
「おっしゃる通りですの。いつの時代も、常に当代随一と言われる名工が、技と意を尽くして神宝を新たに作り、祈りを捧げてきました。それはあくまでも形代、依代であって、神のそのものではございません」
「あの錆びた劔にも、それが通用すればいいですが」竹流は少し考える間を置いたようだった。「あまり太刀には詳しくはないのですが、しかも、古いものであればあるほど、あるいは御神体や御神宝というものであれば尚更、人目に触れることを嫌いますから、よほどの専門家でもない限り、例え刀袋の上からでも触れることは叶わない。だが、聞くところによると、御神体の剣は、時には竹であったり、薄い鋼であったりしたといいます。別に用途を足すためのものではないわけですから、刀剣として役立たなくてもよかった」
「雨を降らしてくれたらいいわけですからな」
「おっしゃる通りです。切れなくてもいいわけだ」
「どうなさるおつもりですかな?」
「復元はできます。全く新しいものに。造りだすにはかなり時間がいるでしょうし、私ひとりの手にはおえません。ただあの劔と同じように上質の玉鋼を使えば、どれほど腐食止めをしても、あそこに置いて錆びつかないようにするのは難しいでしょうけど。どうせなら、切れなくてもいいわけだし、現代には錆びない金属もある。あの錆びた劔は、多少は形が変わるかもしれませんが、何とか錆を落として腐食止めをして、またあそこに戻してもいい。もしも、このまま多少は保存環境の良いところに置いておけば、博物資料としては役に立つかもしれませんけれど」
「そういうものを研究しておられる方には意味のあるものでしょうが、私にはこれを遺すことの価値が解りかねますな。それよりも、今、この方にいいようにして差し上げて欲しいと思いますがの」住職は声を落として続けた。「それに、あなたはそうしたいと思っておられる」
 住職は一旦、言葉を切った。そして、まったく別の人物のような声音で続ける。
「さて、何か必要なものがございますかの」
 竹流が考えていた時間は僅かだった。話しながら答えは出ていたのかもしれない。真は今度こそ、意識を鎮めた。
「もしも梅酢があれば、少し頂けますか。他の酢でも構いません。あと、スポンジか晒、下が汚れると困るので、新聞紙か何か。それと水の入ったボウルを」
「お持ちしましょう」
 住職が立ち上がる気配がした。するすると滑るように開く襖の音と同時に、住職の謡うような声が、頭の中に直接響いてくる。
 それ仏法遥かに非ず、心中にしてすなわち近し。
 その響きは頭の中で、古の尊い僧の後姿から放たれるように感じた。
 それ仏法遥かに非ず、心中にしてすなわち近し。
 竹流が住職の呟きを繰り返した。そして、その先を噛みしめるように続ける。
 真如、外に非ず、身を棄てて何くんか求めん。迷悟、我に在れば、すなわち発心すれば、すなわち到る。明暗、他に非ざれば、すなわち信修すれば、忽ちに証す。
「迷悟」
 竹流が思わず繰り返した言葉が、真の身体に響いた。
 住職が自ら削ったという茶杓の銘の印象的な響きは、耳の奥底にずっと残っていた。

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Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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コメント


NoTitle

前話から、この16話にかけて、ぐっと、胸が苦しくなりました。
竹流の仕事に付き合い、過去の話、伝承などを見聞きし、幻を見てきた真の、心の底が見えてしまったような感覚。
真は、やはりあの子供と自分を重ね合わせ、あの子供と一緒に、竹流に救って(という直接的なことではないかもしれないけれど)欲しい願望があったのでしょうね。
そう考えると、すこし難解に思えた真の感情の、とても純粋な儚さが見えてしまって、嬉しくもあり、不憫でもあり。

和尚との会話で、今まで見えてこなかった竹流の想い、そして、真の事故の真相もわかってきて、「ああ、そうか、そういうことか」と、前のめりになってきました。
このあたりの、真相の解明の仕方が、うまいなあと、感動><
緻密に、緻密に重ねてきた真の過去の回想が、改めてじわ~っと効いてきて、同時に竹流の苦悩が鮮明に感じられてきました。

竹流さんって、なかなか感情を外に出さない、強くてストイックな人に思えてたんですが、もしかしたら真に負けず劣らず繊細で、弱い部分もあるんじゃないかな・・・と。興味深くなってきました。
弱い部分を隠し持つ男って、好き。
勝手に、盛り上がっております^^。
相変わらずの遅読ですが、後半、またお邪魔させてもらいますね^^

lime #GCA3nAmE | URL | 2013/04/20 15:06 [edit]


limeさん、ありがとうございます!!!

色々迷いながら書いていたシーンにたどり着いてくださったんですね…ありがとうございますm(__)m
そうなんです、結構迷ったシーンなんです。
始め、竹流/真の視点を交えて書いていたものを、後でばっさり竹流視点を切ったので、この会話のシーンは本当に迷いました。
真が聞いているべきかどうか、つまりここで書く/読んでいただくかどうか。

ただこの内容を【海に落ちる雨】まで持ち越すのは、物事をややこしくするなぁ、と思いまして…つまり竹流の感情を小出しにしておきたかったのです。
まぁ、真はよく盗み聞きをしているので、いいか、とか思ってこんなシーンにしてしまいました^^;

私の中では、中学生の真も、高校生の真も、この清明の雪のころの真も、そして同棲している時期の真も、結婚している時期の真も、ほとんど同時進行で存在しているので、混乱しないように書くのが大変で、独りよがりになっていないかどうか、それだけが本当に心配です。
崖から落ちた事件は、実はまだちゃんと書けていないシーンのひとつです。(もうひとつは亡くなるシーン)
そこに至るまでの彼の感情が、あまりにも辛くて…
この事故の謎解きは、ディナーの後で…じゃなくて、【海に落ちる雨】のさらに次の【雪原の月星夜】に持ち越しています。

そして、うぅ(;_:)、やっぱりlimeさんには見抜かれてしまいましたね。
竹流は実はあかんたれなのです。甘えん坊だし、一人ではいられない人。
女にも甘えてますしね。また、女が甘やかすんですよね。特に、このタエ(珠恵)という芸妓さん、年上女房(結婚はしてませんが)なんですが、もうべた甘やかしなんですね。
【海に落ちる雨】では珠恵VS真のシーンもありまして…^^;(いえ、始めから闘いにはなってないんですが)
同じく、【雨】に出てくるヤクザが竹流を称して『無理をしている男』って言っていますが、本当に無理をしています……だから、ついつい、いじめちゃいまして、友人に痛すぎる、と言われまして……
もうほとんど、何年か前のグランプリシリーズのロシア大会?のお腹壊して悲惨な顔で滑っていた高橋くんみたいな色気で(って、意味わからん^^;)迫っています。
ちょっと作者に愛され過ぎて、いじめられちゃった可哀そうな人…みたいで^^;

取りあえず、本当に長くて読みにくい話、お付き合いいただいて感謝に耐えません。
もう少しでラストのキラキラシーンです…
某小説の、ラストシーンの女の子のスカートに蛍が~というシーンを狙って書きました??
お楽しみいただけると幸いです。

私は次は【雨猫】にしようかな、と思っています(^^)
【ラビット…】も気になるんですけれど。

大海彩洋 #XbDIe7/I | URL | 2013/04/20 18:51 [edit]


NoTitle

何の予備知識もなく「鳴神」を見て(TV中継)、
思いもかけず色っぽい展開になり、
ええーっ、「鳴神」ってこんな話だったのーっ。
驚いたことを思い出しました、
題名から、なんとなく硬派な話だと勝手に思い込んでいたのでした。

そうか、タヌキ寝入りという手がありましたね。

しのぶもじずり #em2m5CsA | URL | 2013/04/21 18:28 [edit]


しのぶさん、ありがとうございます

そうなんですよね。歌舞伎って、結構、流れ的には俗っぽい話が多いんですよね。
お能も崇高そうですが、よく考えたら結構エロティックな話があったり。
『鳴神』見てると、ちょっと上人が可哀そうなんですよね…純情で、姫にたらし込まれて、「味なものが触った…」なんて、本当にうぶ。
と思っていたら、世の中には同じように思っている人がいて(ずいぶん昔の人みたいですが)、後日談を作っていたらしく。
究極の二次小説だなぁ。昔からみんな、納得いかないラストには、自分で手を加えるということをやっていたんですね^^;

狸寝入り……お恥ずかしい。
物語を書くのに、こんな手を使っちゃいけませんね。
ただ、神様視点が苦手なんです。
しかも、竹流視点を出すと、あっち行ったりこっち行ったりで落ち着かなくて、結局切ったのでした。
それで困ったのがこの部分だったのです。
竹流の心内の言葉を台詞に置き換え、動作を台詞に押し込め、いやはや、後からこういう作業をせざるを得なくなるのは、ちゃんとプロットを書きだして立てていないから、ですね^^;
で、タヌキ寝入り、と^^;^^;

そこで問題になるのは、竹流は真が起きていると思っていたかどうか、なんですが。
和尚は明らかに真が起きていると思ってしゃべってますけれど。
ま、どうせ真は半分も理解していないようですので(頭が壊れてる?)……笑って流してやってくださいませ(^^)

大海彩洋 #XbDIe7/I | URL | 2013/04/21 21:40 [edit]


不思議な出会いと不思議な体験。
和尚さんに助けられたときに真が見ていた夢がこれかあ。
で、戻ってからの和尚さんと竹流の会話に釘付けですよ。

二話ぐらいの中に、何年分の深さが込められているのでしょう。
大事に大事に手の触れる近さに寄り添っているのですね。
そこにはわけあり?

和尚さんの引き出し方が上手い。LOVEです。
いや、引き出されているわけではないですね。
二人して真に向かって語っているような。
語られている方としては、どうなんですかね。

けい #- | URL | 2013/08/27 18:17 [edit]


けいさん、ありがとうございます(^^)

ここまで読んでくださったのですね。ありがとうございます(^^)
……昔のことは全部すっきり分かるって話でもないのです。真と竹流の想像が少し入っての物語になっていて、真実は永遠にわからないままなのですが、その古い物語に触れたことが、今の自分に反映して彼ら自身の中の何かを動かしていく感じ、そういう風な物語になっております。
実はもともと、真視点と竹流視点が入り混じった話だったので、この会話のシーンは竹流視点で書かれていたのです。それを書き換えたので、かなり不自然な部分もあるのですが、いわゆる「タヌキ寝入り法」で書いてあります^^;
会話もかなり端折ったし、竹流の心の声も消えたので、伝わりにくい部分も多いと思うのですが、その会話に釘付けになっていただいて、ありがとうございます。

> 二話ぐらいの中に、何年分の深さが込められているのでしょう。
> 大事に大事に手の触れる近さに寄り添っているのですね。
> そこにはわけあり?
この話は、実は真シリーズ(?)の入門編みたいになっているので、エピソードはまた繰り返し次作にも出てきます。結局真の中では色んなことがぐるぐる回っているのですね……
そのいろいろな過去のあちこちに、2人の感情が近づいたり離れたりしています。
決して蜜月ばっかりでもなかったし、感情の深さも色々で、ものすごく近い時もあれば、あえて背を向けた時もあったりで。そこは人と人との関係ですし、なんといっても、西洋的な理性・叡智と東洋の野生(あるいは「あるがまま」)の永遠に相容れない闘い?ですので^^;
訳あり……ではありますが、もしかして本当にLOVEであっても、それが全てでもないのですよね……
難しい……

> 和尚さんの引き出し方が上手い。LOVEです。
> いや、引き出されているわけではないですね。
> 二人して真に向かって語っているような。
> 語られている方としては、どうなんですかね。
和尚さん。こんな人がいたらいいなぁ、と思いながら書いていたのですが、なかなかの存在感で、私の枠をはみ出してしまい、今やあの世とこの世を行き来している??いやいや……
和尚さんは、明らかに真に語りかけていますね。それはまた真と和尚さんの会話で確認できます。
竹流は……自分に確認しているのかなぁ。
真の色んな気持ちは、祇園(第18話~。がらりとイメージが変わります)で語られますので、またお楽しみに。
あと4話ですね。ここまで読んでくださってありがとうございます。
最後には全て、かなり丸く収めてあるはずですので、ラストのキラキラシーンをお楽しみに。
これを読んでくださって、京都に行きたいと思っていただけたら何よりです。

彩洋→けいさん #nLQskDKw | URL | 2013/08/28 03:58 [edit]

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