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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

❄17 新しい水晶の珠 龍の宝 鏝絵 

 まだ陽は昇っていなかったが、あたりはうっすらと白み始めていた。
 真は何のせいでという訳でもなく目を覚ました。ずっと隣の広間で人の声がしていた気がした。住職と竹流が劔と龍について何かを確かめ合っていたのか、時々単語の切れ端が、夢になって真の頭の中に囁きかけていた。
 一瞬、ここがどこで自分がどうしてここにいるのか、思い出せなかった。もしかしたら、ただずっと夢を見ていたのかもしれない。
 確かなことなど何もないと思ったが、ふと哀しい気分だけが蘇った。
 それから身体を起こし、隣の布団に人が眠っていた気配がないのを確かめた。その布団の上で、隣の広間からの明かりが、薄く開けられた襖の隙間を通して美しい光の剣のように空間を仕切っていた。
 その明かりの中で、竹流が一心不乱に手元で小さな作業を続けていた。
 真は布団の上で起き上がった姿勢のまま、隙間から見える竹流の姿を見つめていた。
 竹流の手の中に何か光るものを認めたような気がして、何だろうと思った。それから、その光が竹流の頭の上の天井に投げ掛けた光の連鎖を見上げた。天井のすぐ下で何かが極彩色の光を返し、それがまた、神々しいまでの竹流の姿を包み込んでいた。
 彼の仕事を邪魔できないと思い、着物の襟元を合わせて起き上がると、縁側とは反対の襖を開けて薄暗く寒い廊下に出た。冷たい廊下に素足は堪えたが、そのまま洗面所の方へ歩いた。
 清らかに冷えた朝の水で顔を洗い、それから何かに惹き付けられるように本堂の方へ歩いた。
 本堂からは穏やかな灯りが漏れてきていた。人の声とも仏の声ともつかない、あるいは声でもない何かの祈りを、耳からとも足下からの響きともつかず、空間のゆったりとした振動として感じる。
 本堂に面した細い回廊を回ると、その正面の扉は開いていて、薄暗い本堂の中で穏やかな暖かい灯火が揺れていた。
 住職が、いつものような朗々とした読経の声ではなく、心の中に囁くような鎮かな声で祈りを詠えていた。住職が座っているのは脇廊の方で、その前には本尊の大日如来ではなく、何日か前に竹流が直していた弥勒菩薩が祀られていた。弥勒菩薩の前には、あの幽霊の掛軸と、巻物の裏から見つかった恐ろしくも哀しい呪いの言葉が記された紙が供えられていた。
 真は何かに惹かれるように本堂の中に入り、住職の後ろに座った。板敷の床からも冷やりと朝の温度が滲みて来た。
 住職の後ろ姿は、光の中の竹流の姿と同じように尊く暖かく見えた。
 住職の鎮かな祈りは、それから随分長く続いた。やがてそれが途切れると、しばらくの間を置いて住職は立ち上がり、弥勒菩薩の後ろから何かの匳を取り出し、それを持って無言のまま真の前に座った。
 真は黙ったまま住職の小さな目を見つめた。そして、半分は眉毛に隠された目に促されるように、漆塗りの美しい小匳を開け、中から蘇芳色の布に包まれたものを取り出した。蘇芳の色は愛情深く、穏やかに沈み、心の最も深いところまで届くような色だった。
 布を解くと水晶の美しい珠があった。
 真は驚いて住職を見た。
「それは私の母が残したものでしての。私の母は、昭和の始めに亡くなりましたが、京都のある神社の巫女をしておりましてな、占い師のようなもので、当時の事業家に多くの顧客をもっておりましたのじゃ。随分と金を稼いでおりましての、人に恨まれたり嫉まれたりして、結局は全ての財産を失い、私は母と離されてあるお寺に預けられましたのじゃ。何度も寺を逃げ出し、転々として、ここにたどり着いたのは二十頃でございましたかの、それから半世紀近くもここで過ごしております」
 真は住職の言葉を水晶を抱いたまま聞いていた。言葉が読経のように、しかし今は意味を帯びて真の脳に届いていた。
「いや、しかし、ここ来てからも、前の住職には何度も迷惑をかけましての、この身は収まるところがございませなんだ。ところが住職が病に倒れ、ここを継ぐようにと死の床で遺言されたのでございますよ。さて、面白いことでしての、まさにその瞬間からは私の人生は落ち着きどころを得ましてな、未だに悟り尽くしたとは申せませんし、道は曲がりっぱなしですがの、ただ足元が見えるようになっております。さて、母の事ですがの、亡くなったと風の便りに聞かされたのは、ここに来て間もないころでございました。私が母と最後に会うたのは十二の時でしてな、その時に母は、もう私に遺すものがないからと、この珠をくれましたのじゃ」
 真は黙って珠を見つめた。水晶自体は、購入しても決して高価なものではない。しかし、人々はこの石に大地の気が宿ると信じていた。
 その水晶の珠には、奥に何かが入っているようだった。
「水晶の中には、そのようによく不純物が混じっているようでしてな。他の鉱物や、時には石油や水が含まれることもあると聞いております。その水色のものも何か鉱物の一種なのでしょうがの。母はこの水晶で占っておりまして、よく当たると評判の占い師でした。吉と出る時には、その奥に宿る水色の鉱物に光が吸い込まれるのだとか、申していたことがございます。さて、まぁ、占いなど信じるに値するものかどうかはわかりませんがの、それも人の心が決めるものでございましょう」
 丸い水晶の奥に見えているのは、水色の美しい塊だった。
「それで、これを?」
 真はようやく口を開いた。
「あなたの手から、あの方に渡して頂けると有り難いと思いましてな」
 真はまたもう一度手の中の水晶の珠を見つめた。
「でも、これは大事なものでは?」
「さて、大事というのは、どういうものを言われましたかの」
「和尚さんのお母上の形見、ですよね」
 住職は穏やかに厳しく、しかしどこか優しくゆっくりと真に話しかけた。
「どのようなものであれ、ただそこにあるだけでは意味がございません。珠も剣も、人の心が、魂がそれを琢いてこそ、霊験あらたかな御神体というものになるのでございましょう。形が大切なわけではございません」
 真はしばらくその言葉の意味を考えていたが、やはり考えは上手くまとまらなかった。
「人には様々な顔がございます。今あなたが見ている顔が全てではない。良い顔もあれば、悪い顔もございましょう。あなたが望むような顔もあれば、見たくない顔もある。心もまた、同じでしょうの。しかし、それが人というものでございます。あなたが新しく知った顔が、あなたの望むものと違っていたとして、あなたは失望なさいますかの」
 真は焦点の定まらないままに、住職の顔のあたりに視線を彷徨わせていた。弥勒菩薩の前を線香の煙が漂い、ふわりと白檀が香った。
「しかし、たとえどのような顔を持っていようとも、たとえどのように流転したのだとしても、心の芯の所には本当に大事なものが残っておるものです。気が付かれないほどに小さなものであったとしても」
 住職の目は、やはり長く白い眉毛に隠れて見えないままだった。声は厳しく、深く、重く響いた。やがて真はどうとも答えないまま、水晶を持って立ち上がった。本来なら礼を言うべきなのかもしれなかったが、どう言っていいのかわからず、ただ住職の目を見つめ返した。
「あの方が劔を琢いているのは、ただあなたのためです。そのお気持ちを、決して疑ったり、履き違えたりしてはなりません」
 真はまだ住職を見つめていた。言葉は何も出てこなかった。続く住職の言葉は穏やかだった。
「御自分のお気持ちを大事になさいませ。そうして初めて、人の心も解るものでございましょう」
 真は手元の水晶を蘇芳の布で包み、黙ってそれを両手で抱くようにした。
 廊下に出ると、外はもう随分と明るくなっていた。
 手の中で蘇芳の布に包まれた水晶が暖かく感じられた。何か不思議な感じがして、その蘇芳の布を開いた。
 その時、水晶が辺りの光を吸い込んだように見え、吸い込まれた光は奥の水色の塊に引き込まれていったようだった。
 目の錯覚かと、もう一度水晶を見つめたが、光を屈折させた透明の奥、手の届かない所で、水色の美しい光が柔らかく揺れているだけだった。


 広間に戻ると、随分と明るくなった空間で竹流が親指で劔をこするようにしていた。竹流の手の中で、縁側の障子から差し込んだ柔らかな光を受けて劔が赤く光り、さらにその光が天井に淡い半透明の桃色の波をいくつも作っていた。
 竹流は真が入ってきたことに気がつくと、右の親指から何かの欠片を取って、机の上に広げた紙の上に置いた。小さな月の破片のようだった。
「何?」
「内曇砥という砥石を薄くして和紙で裏打ちしたもので、刀を研ぐ時、仕上げに使うものだ。随分と見られるようにはなっただろう? とは言っても、もとの美しい鉄の輝きを取り戻せるわけでもないけどな。基本的に全体が錆びついているし、地鉄もすっかり赤黒い色になっている。まぁ、腐食した錆を取っただけでもよしとしよう。鞘の長さからすると、もとの半分くらいの長さなんだろうな。古刀の時代のものだが、随分とよく鍛えられている。そうでなければ、錆の屑になってしまっていただろう。もっともこうした遺物をだめにしてしまうのは、湿気だけではない。古代の物が現代まで残るのは、偶然の条件が重なってのことだという」
 竹流の手はすっかり錆色に染まっていた。
 その手を見つめながら、真は言った。
「でも、明るいところで見ると、光を跳ね返して輝いているようだった」
 竹流はしばらく真の顔を黙って見つめていた。それから、ほっとしたように息をついて、広げた和紙の上に置かれた鞘を見た。
「だが、その鞘の方は随分と良さそうだろう。そいつは黒漆でできていて水にも強い。金具はだめになってしまっているが、螺鈿や石は琢けばその通りだ。漆も、塗られた色の深みまでは戻せないが、それを作った職人の手は本当に素晴らしいものだ。もう千年も前の仕事なのにな」
 机の上には、いつも竹流が修復の記録をとっている冊子が広げられていた。丁寧なスケッチには、鞘や劔の寸法や素材が細かに書き込まれ、開かれたページには隙間もないほどだった。そのインクの跡がひどく愛おしく感じられて、真は思わず目を逸らした。
 竹流は穏やかな声で語り始める。
「琢きながら考えていたんだけどな、もしかしたら、水にも熱にも強い漆は、直射日光を浴びていないあの洞窟の中では守られていたのかもしれない。何百年、いや千年に近い時間を経たにしては、よく保たれている。黒漆の深い色合いはさすがに失われているが、多少の歪みはともかく、色の深みも蘇るように思った。この劔は棟区や刃区から察するに鎬造りで、最低八世紀は下らない。はばきがついているからやはり八世紀以降のもので、ただ反りも少ないし、湾刀というより直刀に近い。そうすると、平安時代か鎌倉時代か、少なくとも室町時代よりはずっと古いものだ。それに、刀剣を長期に保存するためには、鞘は白鞘という木地のもので、抜くときに万が一にも中の刀剣を傷つけないように、ふたつに割れるように造ってあるものなんだ。錆びてでもいたら、これのようにとんでもないことになる。だから、『刀剣を抜く』のではなく『鞘を割る』んだが、こんなふうに上質の鞘は、そもそもが保存のためにあるわけではない。だからこの劔ももともとは、御神体などではなかったんだろう。平安時代か鎌倉時代に作られ室町時代にまで残されたこの劔が、その姿の美しさのゆえにたまたまご神体か神宝として捧げられたものかもしれない。いつから雨を降らすなどという伝承がひっついたのかは知れないが、いずれにしても何かの儀式に大切に使われてきたのか、恐らくはその時代の技術を惜しみなくつぎ込んだものだったからこそ、人々が願いを込めて霊験あらたかという神社に奉納したのに違いない」
 竹流が柔らかい笑みを見せた。
「美しい拵えだろう。つまりな、それをあの怒れる神に供えた人も、この美しさを称えたんじゃないかと思うんだ。金具の類はいずれも錆びて原形も留めていないし、柄の鮫皮も剥がれた部分がほとんどだが、鋲や目貫の周囲には多少残っている。鋲も目貫も金属の部分は崩れているが、宝玉は幾らか輝きを残していた。黒漆の鞘の本体にも、梨子地や螺鈿の飾りが残っている。もともと水晶や瑪瑙、琥珀、瑠璃といった宝玉、吹玉が、見事に面を飾っていたんだろう。残った石のひとつひとつを水で洗って、なめし皮で琢いていったら、小さな光を蘇らせてきた。汚れを拭って磨きながら、この仕事をした職人の手の気配までもが感じられるようだった」
 竹流はそっと鞘を持ち上げ、真の手に載せた。手に受け止めた途端、思ったより軽い気もしたし、想像をはるかに超えた重みを感じたような気もした。
「修復の仕事は、時に何百年、何千年の時間の流れさえも飛び越えさせることがある。今お前の手の中にあるのは、技術と誇りとを込めてこれを造りだした古の職人の手の温度だ。あの美しい龍を描いた絵師もこの美しい仕事を讚えたことだろう。彼に理解できなかったわけがない」
 それでも、この劔は保管にはもっとも不適な場所に置かれていたのではなかったか。
 雨を降らす霊力を持つと当時の人びとが信じた珠と劔を、珠はともかく、金属のものをあれだけ湿気のあるところに置いておけば、何でも錆びて朽ちることは、もちろんあれをあそこに置いた人間は知っていたはずだ。本来なら、珠も劔も錦の袋に入れて美しい箱にでも納めて、特に金属のものがもっとも嫌うという湿気は避けて、保管されるべきではなかったか。
 だが、敢えてそうはされなかったのだ。
 雨などもう降らなくても構わない、御神体などこの程度のものだという、誰かの深い哀しみと怒りが、その錆びついた劔と壊れた珠から立ち上っていたのだと思えた。
「漆は水にも熱にも、酸やアルカリにさえ強い。むしろ乾燥に弱く、水分を抜くためにも湿気さえ必要なほどだ。残念ながらこの場合、中の劔を守るためには役立たなかったろうが、漆の下の木地にも十分油が沁ませてあった。あるいは、この劔をあそこに置いた人は、雨降劔の霊力を減じようとして湿気の中に置いたわけではないのかもしれない。それでも、この劔の霊力を信じていたのかもしれない。その人が、何百年という先の未来の、この劔の存在を想像したと思うか。彼にとっての遥かな未来に存在する俺たちでさえ、今から何百年先の事など想定の範囲外だ。彼の生きた時代よりは、遥かに未来を思い描くことは容易なはずの現代でさえ」
 真はしばらく竹流の顔を見つめていた。竹流は穏やかな表情をしていて、昨夜、真が頭の後ろの方で聞いていたような激しいものがこの男のどこに隠されているのかを探り当てることは、今はできなかった。
「いや、現代もやはり、何百年先の未来は思い描けるものでもないのかもしれないな。ただわずか数年先までを思い、今この時が幸福であるならば、それが永遠に続くことを祈るだけだ。今この時が苦しいのであれば、少し先の未来ではその苦しみを抜け出し、歩いている道の次の曲がり角に幸福が待っていることを願う。そうして、今という時をひたすらに積み重ねている。その人も、その時その時を祈って過ごしていたんだろう」
 それから、竹流は真の手の中にある蘇芳色の包みに気がついたようだった。
「それは?」
 真は包みに視線を戻し、ゆっくりとそれを開いた。現れた水晶の珠を見つめて、竹流はしばらくの間驚いたような顔をしていたが、やがて呟くように言った。
「パライバ・クォーツか」
「え?」
「水晶の中にジラライトという銅の珪酸塩化合物が含まれているものだ。水晶はしばしば中に不純物を持っていることがあるんだ。何たって大地から湧き出したものだ。虫が入っていることもあるし、自然のものを何だって取り込んでいる。この水色っぽい色合いからはそのように見えるんだが、普通もっと小さなジラライトが多数入っていることが多い。いや、あるいはフローライトかな。結構大きな塊だものな。いずれにしても日本で手に入るもののようには見えないが。これ、どうしたんだ?」
「和尚さんのお母さんの形見だそうだ。和尚さんがあんたに渡すようにって」
 竹流は、どうしたらいいのかという顔で、真を見つめていた。
「どういうことだろう?」
「好きに使っていいって、そういう感じだったけど」
 竹流は水晶を受け取ろうとして、自分の手が錆に染まっていることに気がついたようで、真に言った。
「手、洗ってくるよ」
 そう言って竹流は立ち上がった。真は彼に襖を開けてやった。すぐに竹流は戻って来て、もう一度机の前に座った。真は水晶を布ごと手渡した。
「珠も剣も、人の心が琢いてこそ御神体になるって、そうおっしゃってた」
 竹流はしばらく水晶を検分していたが、ゆっくりと顔を上げ真の顔を見て言った。
「その通りだ。壊れてしまったものを元に戻すことはできないが、壊れた部分を修理したり、新しく作り直すことはできる。真、昔から人々は、神様にはいつだって真新しいものを捧げてきた。新しく紡がれた着物、その年に採れた米、新鮮な魚、その時代の最高の匠が作った品物。御神体といっても、神様そのものではない。神様には姿がないから、あの遠くのどこかから来ていただいて、この世の依代としてそこに身を移していただく、そのためのただのよすがだ。劔も、珠もな」
 それから、竹流は水晶をもう一度手で包み込むようにした。
「ちょっとの間、このちんちくりんの劔で我慢していただこう。きちんと油をひいておけば、あと何年かは、あるいは十年か百年単位でも、錆びて屑になってしまうこともないだろう。鞘も、記録を取ったから、新しいものを作ることもできる。それから、和尚さんの御好意に甘えて、この水晶は頂いて使わせてもらおう。本当に綺麗な水晶だ。光を放っているというよりも、光を吸い込んでいくようだな。珠の奥に水を持っているようだ。それに、暖かい」
 竹流は水晶を真の手に戻した。確かに石とは思えないような温もりがあった。さっき廊下で感じたのは、気のせいではなかったのだ。
「寝て、ないんだろう?」
 竹流は真を見つめ返した。そしてしばらく黙って真の顔を見ていたが、何か言いたいことを飲み込んだようにも見えた。
「大丈夫だ。それよりも、これを早く神様にお返ししよう」
 若者がやってきて、朝食の準備をしてくれた。竹流は朝食を済ませると、丁子油を分けてもらいに、知り合いの一人である研師のところに若者の一人を使いにやった。自分が行きますと自ら名乗りをあげたのは、あの縁の下に隠しものをしていた若者だった。
 少しの間でもまだ敷かれたままの布団で眠ったほうがいいと、真は竹流に勧めたが、使いが思ったより早くに戻ってくると、竹流は直ぐに起き上がった。そしてさっそく、短くなった劔に丁子油をひく作業を始めた。
 太陽の暖かな光が東から入り、彼の手元の劔で光を跳ね返した。いや、錆びついた劔なのだから、幻だったのかもしれない。
 真はしばらくその光を見つめていた。
 あれから子どもを見かけていない。少しずつ顔も、表情がわからないほどに消えていきそうになっていたし、もしかして本当に消えてしまったのかもしれない。
 時すでに遅しで、彼を助けることはできなかったのだろう。哀しい気がしたが、もう哀しみを真正面から見つめることは辛かった。ただこの暖かい光の中で暫く浸っていたい気持ちがした。
 光が劔の鞘の上で新しい光に生まれ変わり、広間の壁や天井で乱反射した。鞘を飾っていた玉の、緑や桜色、青、そしてあらゆる光の色が、広間の至る所で跳ねていた。
 真はぼんやりと光の行く末を追っていたが、天井のところどころ星がきらめくような光を認めた。
 そう言えばここに来た日に、脚立に上って見た天井の龍の周りに、何かきらきらと宝石の破片のようなものがあったことを思い出した。
 それから、あ、と思って、次の間に戻り、衣桁に吊ってあった上着のポケットに手を入れた。始めに掴んだのは、美沙子に渡すはずだった指輪の入ったケースだった。真は思わず手を引っ込め、ひとつ息をついてから反対のポケットに手を入れた。
 そして、あの祠の中に見つけた小さな破片を取り出した。
「これでいいだろう」竹流は呟いて、次の間から広間に戻った真の方を見、話し掛けてきた。「お前はどうする? 下に行くのが怖ければ、俺が一人で行ってくるけど」
 そう言ってから、竹流は真の指が掴んでいる小さな光を認めたようだった。
「それは?」
 真は黙って竹流の傍まで行き、それを彼に手渡した。
「螺鈿だな」
「螺鈿? 貝?」
「あぁ。お前、誰かにもらったにしても、次から次へと手品師みたいにあれやこれや出してくるな。これは、どうしたんだ」
「拾ったんだ」
「どこで?」
「祠の中」
「祠? 庭の奥の?」
 真は頷いた。竹流はしばらくそれを見つめていたが、やがて天井を見上げた。
「天井に、これと同じようなものがいくつも貼り付けてある。どうして祠の中なんかに落ちているんだろう?」
 竹流は少し考えていたが、そこに住職と若者がやってきたので、とにかくもう一度下に降りて、あの神像にこの御神体をお返しすることについて話し合った。
 結局、住職が一緒に行くと言ったので、真も引っ込みがつかない気がして、一緒に行くと答えた。
 彼らはまた照明を引っ張ってきて、地下の洞窟の中に入った。
 洞窟の中はやはり別世界だった。外の明るさなど、一切届かない闇の中は、入り込んだ一瞬から、外界の全てをシャットアウトするようだった。
 彼らはまた膝近くまで水に浸かりながら池の中央まで歩いていって、神像の前まで来ると、その右の手に劔を戻した。それから、水晶を包んだ蘇芳の布ごと、神像の足下に置いた。神像はかなりの部分が崩れていたし、特に突き出した左の手は、上にものを載せられるような状態ではなかった。
「本当によろしいのですか?」
 竹流の声はもともとよく通るが、ここではそれが増幅されるように響いた。答えた住職の声は深く低く、ふらふらしている真の感情を、どこか底のほうで支えてくれているようにも思えた。
「はて、どういうことでしょうかな?」
「あなたのお母上の形見だと」
「確かにそうですが、これも私が小匳に仕舞って持っていても、役に立つことはございますまい。いや、あるいはこの水晶を持っていたからこそ、五十年前、私はここへ導かれたのかもしれませんの。それに、あるいは母はこの水晶の運命を知っていたのかもしれません。よく当たると評判の占い師でしたからの。それにもう、私がこれを持っている時間も短い」
 水晶は住職の母親から半世紀も前に手渡され、長い年月を飛び越えて、しかし、決して思いもよらぬ形で脈絡なく現れたのではなく、何かの必然に引かれるようにここに存在している。全ての出来事は点ではないと、住職の声がまた蘇るような気がする。
 それから彼らは黙って神像に手を合わせた。
 その時、外界と今彼らのいる異界とを繋いでいた糸が、急に見えない力に引っ張られた。
 一瞬にして光の向きが変わり、周辺は暗闇になった。
 龍穴の外で、若者たちの騒いでいる声が聞こえた。何かで照明のコードが引っ張られたのだろう。
 真は光を目で追い、窟の遥か天蓋を見上げ、息を飲んだ。
 意識なく竹流の腕を掴んでいた。竹流は足下さえ覚束ないような闇の中で、真の身体を抱き寄せてくれたが、その暖かな感触は一瞬の先には零れていきそうだった。
 照明は今、この洞穴の天井を照らしていた。とは言え、上の二十畳の広間の倍の広さ、そして人の身長の倍はありそうな高さの天井の全景を映し出すことは不可能だった。光は一部では吸収され、一部でははね返され、ごつごつした天井の岩の濃淡を浮かび上がらせていた。
 真が竹流の腕の中で見上げていたのは、洞窟の天井の暗がりに浮かびあがった龍の顔だった。
 天井の、黒々とした闇の龍。それは、まさに頭の真上でこちらを睨みつけ、その体は天井全体に大きくうねりながら横たわっている。
 自然の形の岩がたまたまあのような龍に見えているのか、とても人の手が加わったようなものには見えなかったが、あの黒い天から今にもここに降りて摑みかかるように見えた。
 鴨川の源流を祀るものとして、志明院とは別に貴船神社があるが、あの本殿の奥には龍穴があると言われている。洞窟や地面に開いた穴は、エネルギーの吹き出るところで、その奥には大地の気が溢れている。
 この洞窟には長い年月溜め込まれた人の怨みのエネルギーが充ちていて、今、自分たちがそこから地表に通じる穴を開けてしまったのだ。人の手に負えないものをこの世界に放つことは、罪悪以外の何物でもない。
 しばらく誰も声を出さなかった。やはりここには、自分たちがどうすることもできない人の心の闇、怨みや哀しみや、そういったものが、息苦しいほどのエネルギーになって圧縮されているのだ。もう既に、それはあの父親だけのものでもない。
 やがて住職の声が、あの読経のままの穏やかな調子で響いた。
「出ましょうかな。ここは、我々にどうすることもできない禁足地でございましょう。人には近づけない神の領域というものがございます。珠と劔はお返ししたのですから、よろしいでしょうとも」
 真の頭に大きな手の感触が伝わった。
「上に上がろう。歩けるか?」
 真は答えなかったが、摑んでいたままの竹流の腕を離した。


 地上に戻ると、暖かい光が真を包み込んだ。言葉の悪い若者が心配そうに真を見ている視線にぶつかった。真は、何かにやっと支えられたような状態で縁側に座った。
 竹流が真の顔を覗き込むようにして、大きな手を真の手に添えた。竹流の手の暖かさに、真は始めて自分の手が異常に冷たくなっていることに気が付いた。
「大丈夫か?」
 真は少し間を置いて頷いた。
 それから、午前中ずっと真は縁側に座っていた。
 水盤の下の通路は、改めて石の水盤を嵌め戻し、完全に封がされた。もしかして封印のためには何かまじないの言葉が必要だったのかもしれないが、とにかく今はまた、この地面の下は封じられた闇の異界に戻っていた。人間の手が触れるべきではないものがあると言った住職の言葉通り、己の英知や勇敢を頼りすぎて、神の領域に土足で踏み入ることは許されないのかもしれない。
 水盤には、いつの間にか新しい湧き水が底から溜ってきて、光をきらきらとはね返した。それは、この下にあのような道があることも忘れさせるほどに、暖かい光だった。
 若者たちが入れ替わり立ち代わりやってきては、お茶や砂糖菓子、干し柿を置いていった。酒と煙草を隠していた若者、乱暴な言葉を話す若者、自信なく不安そうに視線を泳がせる若者、ここにいることを納得していない乱暴者、まだ幼い顔の若者。そのどの表情にも、鏡の中で出会ったことがある。
 幼い頃は鏡に映る自分が怖かった。明らかに髪の色は周囲の子どもたちよりも薄く、夏の朝は洗面所に光が差し込むと、光って輪郭がぼやけてしまった。目の色も、よく見ると真っ黒ではなく、特に右の目は暗い碧に近かった。その顔はいつも怯えていて頼りなげだった。それなのに、時々押さえつけていたものが噴き出すように、残酷な塊が迸り出てしまうような気がする。
「干し柿、食えよ」
 いきなり話しかけられて、真はびくっとした。言葉が乱暴なその若者は、もう社会で立派にやっていっているはずの年齢に見えた。
「うちのばあさんが作ったんだ。先月死んだ。死ぬまで、干し柿、馬鹿みたいに作ってたんだ。美味くもないのによ」
 真は言葉の勢いに押されるように、大きな干し柿をひとつ手にとった。かじると、ほんのりと甘い。干し柿の中は、意外にも水分が多く、乾燥させた外側とのギャップが旨みを引き出す。干してこの大きさなのだとしたら、もともとはかなり大きな柿だったのだろう。凍らせて保存されていたためか、甘さが内側により凝縮されているように思える。
 真が柿を食べたのを見届けて、やっと納得したのか、若者は去っていった。その後姿を見届けてから、真はほっと息をついた。彼はきっとお祖母さんを好きだったのだろう。柿の味がそう思わせているだけかもしれないが、食べた後から口に広がる甘さのように、その人は彼を大事にしていたのだろう。
 誰も一人で生きているわけではないし、一人ではいられない。たとえ今は一人でも、どこかで何かに支えられているから、こうして存在している。
 真の祖母の奏重が茶を点てながら言っていた。和菓子というのは、干し柿の甘さを目指しているのだと。目指している、ということは、到達しがたい目標なのだろう。
 真はポケットから螺鈿の破片を取り出した。
 そこにも暖かい光がいくつも宿っていた。
 不意に洞窟の天井に浮かび上がった龍を思い、視界が曇った。
 あの子どもの父親の、あるいは母親の怒りと哀しみが、自分の喉元を締め上げているような気がする一方で、その怒りを哀れだと思った。怖いという気持ちの双極で、哀れに思えてならなかった。今は地下になっているあの洞穴も、本当は自然が造りだしたただの窪地で、あの窟の天井の龍もただ自然が作り出した岩の形に過ぎないのだろう。
 けれども、そこに人が念を込め祈った時点で、それはもうただの洞穴でも岩でもなくなってしまっていた。
 そこには、哀しい想いだけが充ちているように思えた。
 子どもはもう気配も感じなかった。恐ろしい洞穴の中でさえ、哀しみの渦のような気配を感じただけで、それは既に何かを為し得る力強いエネルギーではなかった。入口を塞いでいた石を取り除き異界の封印を解いた時点で、そのエネルギーはあの場所から飛びだして、もはや散逸して何を為す力もなくなってしまっているのだろうか。
 自分たちは遅かったのかもしれない。
 子どもを助けてあげられなかった。
 竹流は住職と何かを話していたが、昼時が近くなっても真が座り込んだままだったからか、やがて側にやって来て横に座り、暫くは黙っていた。それから、真の指先が摘んだままの螺鈿に手をのばしてきた。
「これ、祠の中で見つけたって言ってたな」
 真は竹流を見つめ、頷いた。
 竹流はふと広間の方を振り返った。真が目で追うと、竹流はしばらく広間の天井を見ていたが、急に何かに思い当たったような顔になって、もう一度真の方を見た。そして、ずっと封印されていたものが開放されたように、笑みを見せ、弾んだ声で言った。
「お前の言う通り、珠は龍の宝だ。きっと、本当は持っていたんだろう」
 何の話かと思って、真は彼を見つめた。
「この天井の龍さ。彼にも珠を探しだしてやらんと、な」
「探しだすって?」
「天井の話さ。行こう」
「どこへ?」
 竹流はそれには返事をしなかった。一旦広間の床の間横の違い棚に行って、棚から懐中電灯を取って戻ってくると、縁側から庭に降りていく。真はわけもわからず、とにかくついていった。
 竹流は庭を奥の方に進み、例の祠の前で立ち止まり、しばらく祠を周囲から観察していた。それから徐に祠の扉を開け、手に持っていた懐中電灯で中を照らした。
 真は黙って竹流を見ていたが、彼が自分の方を振り返り促すようにしたので、自分も中を覗き込んだ。
「これは」それ以上言葉にならずに呑み込んだ。
「こういうところに置いてあるにしては、保存状態は悪くはないな。この祠がいつの時代のものかはよくわからないが、室町時代からあるようには思えない。後世の誰かがこうしたのかもしれないが、この内張の板だけは間違いなく古そうだ。あるいは、この祠はこの板を祀っていたのかもしれない」
 そう言いながら、竹流は懐中電灯を真に手渡し、自分は祠の屋根に手を掛け、しばらく力加減を確認していた。
「どうするんだ?」
 真が話し掛けたとたん、屋根は軋みとともに外れた。真は竹流の顔を見つめた。
「昨夜、劔の錆と汚れを落として研ぎながら、時々天井の龍とにらめっこをしていた。ずっと、どうしてこんなに中途半端に描いたんだろうと思っていたんだ。相国寺の龍も高台寺の龍も見事に全身が描かれている。横山大観の龍は雲間から現れたように描かれていて、確かに全身ではないが、雲間から顔と手を突き出して、その向こうに全体の気配を感じさせる。大体この絵の下書きは明らかに全身だったのに、完成品のはずの天井の龍のほうが随分と部分的だ。天井はあんなにも広いんだから、もっと堂々と真ん中に描けば良かったのに。そう考えたら、この龍は、もともともっと大きかったのではないかと思えてきたんだ。確かに迫力があるが、構図としても中途半端だ。せめて手くらい描いておいたほうが、いかにもそれらしい。俺が絵師だったら、こんな半端な仕事は納得がいかない。で、和尚さんに聞いたら、以前の神社の建物は応仁の乱よりも遥か以前に焼け落ちたらしいし、寺がその上に建立されたのも戦の前らしいという。もっとも、当時は京都の町の中心は現在よりも随分西の方にあったとういうから、こんな東山の端の方は、魑魅魍魎の棲む深い山の中だったに違いない。しかも、四神相の端っこは東の青龍、すなわち鴨川なのだから、ここは怨霊退散の札が貼られた区域よりも外だ。こんなところにひっそりと建てられた寺が、いったいどういう変遷で現代に至ったのかもわからないが、長い歴史の中では何度も手が入れられたことだろう。いつの時代にどのようにしたのかまでは、全て記録に残っているわけではないそうだが、和尚さんが屋根を修理した時に、以前には、畳一畳分は建物が大きかったようではないかと、出入りの大工に言われたとおっしゃってた。なぜ削ったのかはわからないが、つまり、あの天井の龍には『続き』があったんだ。今、中を見るまでは半信半疑だったが、お前がその螺鈿の欠片を祠の中で見つけたと言うから」
 そう言って、竹流は屋根を足下に置いた。屋根は小さいながらも綺麗な流れ造りの形を模して、桧皮葺にしてあった。それも、屋根の大きさにしては随分厚いものだった。
 祠の外壁の板は厚みがあり、さらにその板の内には中を保護するように厚い板壁の囲いがあり、祠の内側に面した一番内側に嵌め込むように三面、その板があった。その時点では、屋根を外された祠の内側は、長い年月から解き放たれて、外の光に照らされていた。
 光は、真の位置から見ると乱反射して、内側に描かれたその姿をよく確認することはできなかった。ただ、祠のうちに光が充たされて、きらきらと跳ね返っているように見えた。
 その情景を黙って見ていると、竹流が真を促すようにしたので、もう一歩祠の側に寄った。
 そうして初めて、その内に描かれた龍の体の一部がよく確認できた。
 ここに、龍が居たのだ。だから螺鈿が落ちていたのか。これは龍の鱗だったのだ。
 何だか、当たり前のことのを当たり前のように思い、真はもう一度、手の内の螺鈿を見つめた。
 板に描かれた龍の体の一部には手も含まれていて、その手にはしっかりと珠が掴まれていた。
 小さな祠ではあったが、全体の造りはかなりしっかりしていて、まるで内側の内壁を守るかのように見えていた。その中で、龍は解き放たれる時を待っていたのかもしれない。
「これ、貼り付けられるのか?」
「それは簡単だ。だがいずれにしても、この内板を取り外してもいいものかどうか、和尚さんに聞いてみないとな」
「取り外す?」
「これはあの天井の龍のものだ。返してやりたいとは思わないか?」
 真は黙って彼を見つめた。
「それで、お前が願っていたことが充たされるのかどうかはわからないけど」
「願っていたこと?」
「子どもが珠を失くしてしまって、龍が飛べなくなったんだろう?」
 真はまだ竹流を見つめていた。
「じゃあ、あんたの願っていたことは?」
「俺が願っていたこと? 不動明王ならもう見つかったぞ。実際は神像だったけど」
「龍が消える訳を知りたいって、それでここに来たんだろう?」
 今度は竹流の方が、真を見つめ返した。
「和尚さんの依頼は無事に果たせたわけだ。もちろん、まだ、あの神像のために新しい劔を造りたいとは思っているがな。いずれにしても仕事は終えたよ。あとは龍に珠を返してやることだけだ」
 そこへ砂利を踏む音が近づいた。二人がその方を見ると、住職が彼らの側にまで来ていた。
「よくそこに龍がいることに気がつかれましたな」
 竹流は少し頷いた。
「こいつがこの中で螺鈿を拾ったと言ったので。しかも、あなたが仏にも神にもいい顔をしたいとおっしゃった。この祠はよく手入れされている」
 住職は頷き、静かに語り始めた。
「私が前の住職からここを任された時に、この祠を大切にするようにと言われましたのじゃ。もう何百年も、この祠は代々の住職に大事にされてきた。私も、理由など考えもせずに護ってまいりましての、とは言え、その龍をどうしてやればいいものか、考えあぐねておりましたのじゃ」
「この下の洞窟の龍には、あなたのおかげで珠を返すことができた。もう遅いのかもしれませんが、あの広間の天井の龍にも珠を返しましょう。子どもの魂は救われるかもしれない。もしも、この寺が五百年も前に、子どもの魂を慰めるためだけに作られたのだとしたら、それがきっと必要なことなのでしょう」
「広間の天井と屋根をどうにかするのですかな」
「そんな必要はありません。この板を脇の壁の方へ嵌め込んでみれば、おそらく上手くいくでしょう」
 彼らは祠の内から、龍の天井画の板を外し、祠を元どおりにした。そして、もう一度祠に手を合わせてから、広間の方に戻った。真は龍の体の一部が描かれた板を運びながら、その一番上になっている珠を持った龍の手を見つめていた。
 どうしてこんな中途半端に龍はばらばらにされたのだろう。さっき竹流は、もともと広間の天井がもう少し大きかったのじゃないかと大工が言っていた、という話をしていた。あの天井に龍が描かれているのは、床の間の前、縁側の側だけだ。始めからもっと部屋の真ん中の方に描いたら、龍もばらばらにされることもなかっただろうに。
 真は、竹流と住職が話しながら天井の龍とその下のわずかな壁の状態を確認している姿を、縁側に座ってぼんやりと見つめていた。
 それから改めて、縁側の向こうの枯山水の庭、そして、さっきまで地下への通路になっていた水盤を見つめた。水盤だけがこの庭の中で鏡のようにきらきらと輝いて見えた。それから、何となくここに来たときから感じていた違和感を、今また感じた。
 それが何なのか、実はここで過ごすうちに気にならなくなっていた。
 真は立ち上がり、縁側を東側へ歩いた。自分たちが初めてこの寺にやって来た時に、この庭を初めて見た瞬間の記憶を辿るように、真は縁側を玄関へと続く方向へ回り、もう一度そこから広間の前の縁側に向かって戻ってきた。
 そして庭を見た瞬間、あぁ、そうか、と思った。
 それはある意味どうでもいいことのようだったが、この庭、というよりも敷地の塀は東側が低く、西側が高く作られていた。庭の北側は傾斜になって高くなっているのに、東の方は塀も低いが、その向こうは東山と空が見えていて、近くに景観を遮る高い木も何もなかった。
 あの時、それが本で読んだどこかの寺の庭の塀と同じだと思って、一瞬で納得し、その後忘れてしまっていた。造園の時に用いられる手法としての遠近法だと思って、そのまま納得したのだろう。
 そして、もう一つの違和感の理由も解った。それはこの縁側だった。天井を短くし、それだけではなく、本来もう少し深くてもいいはずの縁側は、建物や広間の大きさから考えると、バランスが悪いくらいの幅しかなかった。つまり、広間は、建物を造った後でわざと外の庭に近くになるように直されたように見えた。
 それから、住職と竹流の方を見つめた。彼らが三枚の板をどのように戻せば立体的に龍が違和感なく見えるのかを確認している姿を見ながら、その龍の板をもう一度見つめた。
 その時、真の位置からはその板の龍が見えなかった。
 あ、と思った。
 さっき祠の屋根が外されたとき、真の目には一瞬、龍は見えなかった。それは、外界から差し込んだ光のために龍が光って見えなかったのだ。
 いや、龍が光ったのはこの螺鈿のせいだ。
 竹流は、何故かこの季節の朝にしか龍は消えないと言った。
 塀は東側が低い。そこには遮ることがなく空がある。そして、外の光を上手く取り込むためにわざと短くなった天井と縁側。東山のせいで、太陽があの空に現れる時間はかなり遅いだろうとは思ったが、何かマジックの種があれば、それは十分あり得ると思った。
 真は振り返り、広間の中を見つめた。そして、竹流と視線が合った。
「真、その螺鈿を板に戻そう」
 真は竹流の所まで行って、螺鈿を手渡した。竹流は祠から取りだした三枚の板を随分検討したようで、真から螺鈿を受け取ると、恐らく元の位置だと思われるところに螺鈿を置いてみて、納得すると、自分のアタッシュケースから何やらチューブを取り出して、透明の液体をほんの少したらして螺鈿につけると、それを板に貼り付けた。
 それから、住職は寺に出入りの左官屋を呼んで、午後の時間をいっぱいに使って龍の板を壁に上手く嵌め込んでもらった。
 でき上がると、その龍は床の間の脇から天井に向かって昇るような姿になり、ますますの迫力で迫ってくるように見えた。
 真は左官屋の鮮やかな手付きを黙って見つめていた。それから、改めて広間の畳の縁と四隅の柱と襖を見回した。
 畳の縁には、こういう寺の畳とは思えぬくらい、モダンで明るい銀糸が折り込んであった。明りをつけると広間が何となく全体に明るく思えるのは、この鏡のような役割をしている銀糸のためだった。襖にも、墨で描かれた生々流転の上に、銀の色を使った模様が施されている。簡素を求める禅寺にはあるまじき光の贅沢だ。
 真は、自分の横で左官屋の仕事を見ている竹流を見つめ、自分の推理があっているかどうか確かめようと思ったが、何となく何も言えなかった。
 実際には、そんなに簡単に光の魔法が天井の龍を消してしまうとは思えなかった。この広間が光で充たされでもしない限り、あの龍を消してしまうのは無理そうだった。
 竹流がいつも自分のためにしてくれている事のお返しに、彼が望んでいた龍の消えるわけを、いや、何よりも龍の消えるところを見せてやりたいと思った。けれども、ここに長く住んでいる住職でさえ、何度か見たことがある、と言っただけだ。きっと、かなり特殊な状況がない限り、龍は消えてくれないのだろう。
 左官屋の仕事は見事で、壁の塗りまでも、龍の体がその壁の雲から湧き出したように変えてくれた。
「見事ですね」
「知ってはるかどうか知らんけど、鏝絵というのがあって、昔の職人は漆喰の中から、風景や人や動物の姿を浮かび上がらせたんですわ。今では、そんな技術を持っている職人はめったにおりまへんし、持っていても使う場所もないですけどなぁ」
「こてえ?」
 真は不思議な響きのその言葉を繰り返した。
「鏝で漆喰に絵を描くようなものだ。漆喰の濃淡、厚みだけで絵が浮かび上がる。兵庫県のどこかに、そんな町か美術館か何かがあったな」
「私の親父も結構な名人でしてね。飲んだくれて死にましたが」
 左官屋は後片づけをして、住職が代金を支払おうとしたのを断った。
「こんなのは仕事のうちには入りませんわな。趣味で絵を描かせてもろうたようなもんで」
 そう言って左官屋は帰っていった。
 彼らはしばらく、見事な龍の姿を見つめていたが、やがて竹流が荷物をまとめるように、真に言った。
「東京に戻るのか?」
「いや、今日は他に泊まろう。いつまでもここでタダ飯を食わしてもらっているわけにもいかないし、それに精進料理にも飽きたろう? 美味い京料理でも食べよう」

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Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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コメント


作品良かったです

こんにちは。
作品を拝見させて頂きました。
とても良かったです。
これからも素敵な作品楽しみにしています。
頑張って下さい。

お友達がたくさん出来て、投稿に参加する度ごとに直筆のカード式のファンレターが3~30枚以上届く文芸サークル(投稿雑誌)をやっています。
ネットでのやりとりも楽しいですが、ぬくもりが伝わるアナログでの活動は温かい気持ちになり、楽しさや幸せをより感じられます。
イラスト・詩・漫画・小説・エッセイなどジャンルを問わず何でも掲載しています。
月刊で180ページくらい。全国に約200人の会員さんがいます。
投稿される作品は新作でなくても構いません。あなたがホームページで発表している作品を雑誌に掲載してみませんか?
東京都内で集会も行っています。お友達や創作仲間作りにご活用下さい。

興味を持たれた方には現在、雑誌代と送料とも無料で最新号をプレゼントしています。
よろしかったらホームページだけでもご覧になって下さい。
ホームページにある申込フォームから簡単に最新号をご請求出来ます。
http://www2.tbb.t-com.ne.jp/hapine/

つねさん #- | URL | 2013/01/24 17:50 [edit]


つねさん、ありがとうございます

はじめまして、つねさん。コメントをありがとうございます。
拙い作品を読んでいただいて、感謝申し上げます。
自分が好きなものを詰め込めるだけ詰め込んだ、わがままで自己満足な作品で、見返すとずいぶん独りよがりだなぁ、と気付くことが多くて、後から恥ずかしくなっておりました。そんな拙いお話を良かったと言っていただいて、本当にうれしいです。
次作はハードボイルド(東直己さん風に言うとハーフボイルドですが)風ミステリーもどきになってしまっていて、『清明の雪』のようにほのぼの系ではないのですが、せっかくブログを始めたので、また大好きなハートフル・人情ものも書いていきたいと思っています。物の怪やらあやかしやらはあくまでも一つの表現型ですが、目に見えない大切なものの気配を感じられる世界、人と人との魂のふれあいを大事にしたお話を書いていきたいと思っています。
仕事の片手間なので、なかなか余裕がなくて今は目いっぱいですが、一度雑誌も拝見させていただきたいと思います。

これからもよろしくお願いいたします。

大海彩洋 #- | URL | 2013/01/25 03:30 [edit]


住職殿のお話を堪能させていただきました。LOVE.
すべては自分の心が見て感じて決めるのですかね。

大事な人のことを素晴らしい人から語られると、よりいっそう大事にしなくてはと思いますね。
金色のオーラが神々しいです。

返し物ができて、収めることができて、良かったです。
なんだろう、自分のところから手放すことによって、自分のところにやってくるものがある、みたいな感じがします。

竹流の仕事がプロフェッショナルですばらしい。さすがです。
おいしい京料理にねぎらってもらえますように^^

けい #- | URL | 2013/09/06 17:38 [edit]


けいさん、ありがとうございます(^^)

和尚さんLOVE、ありがとうございます!
下手に宗教家っぽくなく、説教ぽくなく、でも人生を説いてくれる先輩、しかも世俗を越えたところに漂っている仙人じみたところもある、一方で結構俗っぽい、そしてもしかしてあやかしを操る術を持っているのではないかと思わせる、そういう人をイメージして書いておりました。
きっとこんな住職さん、昔はいたんだろうな、と思ったりしながら(今も、どこかにおられると思いますが(^^))。
そう、「あるがまま」なのですよね。答えはすでに自分の中にある。それをどうやって引き出すか、だと思うのです。
もちろん、あるがままなら何をやってもいい、というのではありませんよね。
昨日、『紅の豚』やってましたね~。決闘前の空賊の親分の台詞、「ルールは特にねぇ。しかし、卑劣な真似をしたら永久に軽蔑されるであろう」……自分に恥じない心。これを失っちゃいけませんけれど!

でも、マコト、じゃない、真はまだ何を言われたのかよく分かっていないと思うのです。
(猫のマコトの話を書くと、しばらくは「まこと」→「マコト」と変換される^^;)
真の中で竹流への想いが、ただ恋愛感情ではないという域へ昇華されるのはずいぶん先になりそうです。

> 返し物ができて、収めることができて、良かったです。
> なんだろう、自分のところから手放すことによって、自分のところにやってくるものがある、みたいな感じがします。
あぁ、なるほど。そうですね!(って、読んでくださる人任せ^^;)
書いている時はあまり深く考えていませんでした。
いわゆる、神のものは神へ返す、人のものは人に、というキリスト教の教えにも沿っているという感じ…でしょうか。この話、実は、東洋的なものと西洋的なものの、どこまでも相容れない対立みたいなものがテーマ(なんて格好いいものじゃないけど)のひとつ(でも答えは出ない)…と思いながら書いているのですが、実は接点がいっぱいあって。
これって、『もののけ姫』で、シシ神に首を返す、みたいなのにも通じるのかも。
あ、つい、宮崎駿監督引退ニュースにのせられたみたいになってしまった^^;
けいさんの、深い洞察に感謝いたします(*^_^*)

> 竹流の仕事がプロフェッショナルですばらしい。さすがです。
はい。たまにはちゃんと、修復師だってことを覚えといてもらわなくちゃ!
マコトをおちょくって遊んでいるだけではないのです(って、それは違う話だった^^;)。
いつか彼がカラヴァッジョの絵を修復する話を書きたいのです。
自分を教えてくれた修復師が遺した仕事、なんですけれど。
いつかお目にかけたいです(*^_^*)

> おいしい京料理にねぎらってもらえますように^^
美味しい料理、でてきますよ(*^_^*)
でも、もう一悶着、あります^^;
ココからは一気に物語の終焉に向かいます。
一番かったるいのが?この第17章だったと思うのです。18章はがらりと雰囲気が変わるのと(女が出てくる!)、真の怒涛の告白があって、そして。
19-20はそれぞれ短めで、繋がっているので、お時間がございましたら続けて読んでやってください。
私の中のクライマックスは19章最後の哲学の道の「同行二人」シーンだったのですが……
もちろん、最後にキラキラしたシーンを、残しております(*^_^*)
ここまで読んでくださってありがとうございます。あと少し……も、よろしくお願いいたします(*^_^*)

私も、『夢叶』また続きを拝読しに伺いますね(*^_^*)

彩洋→けいさん #nLQskDKw | URL | 2013/09/07 08:53 [edit]

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