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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

❄18 祇園 春の夕餉 空気のないカプセル 

 住職に礼を言って、真は竹流に連れられて寺を出た。
 竹流は何も言わなかったが、恐らく、真があの地下の洞窟を見たからには、この寺にいること自体よくないだろうと考えたに違いなかった。それに実際、住職の依頼は果たされたわけで、竹流自身が消える龍の謎にさえ拘らなければ、あの寺にも京都にもいる理由もなかったのだろう。
 タクシーは白川通を下がり、丸太町で西へ向かい、さらに東大路を南へ下がると、道がかなり混んできた。真はぼんやりと外の光景を見つめていた。やがて車は大きな神社の鳥居の前を右折し、しばらく行くと狭い路地に入った。
 車が止まったのは、一軒の家の玄関戸の前だった。
 通りには犬矢来や出格子を伴った同じような作りの建物が軒を並べていた。人通りも少なかったが、家々の軒先には都踊りの赤い提灯が提げられていて、暖かなムードが辺りを包んでいた。そこに立つだけで、今までいた寺とは包み込む空気が全く違うことがわかる。
 ふと竹流を見ると、ほっとしたように息をついたのがわかった。
 竹流は玄関の呼び鈴を押した。玄関は、この通りに並んでいなければ、まったく普通の家のもののようだった。よく磨かれた木の表札には、『藤むら』と出ている。人の家にしては何で平仮名なんだろうと漠然と思ったが、あまり深くも考えなかった。
「どちらんさんどすか」
 呼び鈴の小さなインターフォンから、女性の穏やかな声がした。
「大和です」
「へぇ、ただいま」
 落ち着いた女性の声のトーンがやや上がって途切れると、しばらくして玄関の戸が開いた。
「ようおこしやす」
 玄関から零れだす花のように出てきたのは若い娘で、細かな橘桜文の鮮やかなピンクの小紋を着て、髪を綺麗に結っていた。その張りのある声は、インターフォンの声とは別のものだった。竹流がちょっと驚いたように声をかけた。
「ミネちゃん」
「お兄いはん、お久しぶりどす」
「どうしたんだ」
「さっき電話くらはったとき、ここにおったんや。お母はんに聞いたら、今日はここに泊まらはるゆうから、待っとったんどす」
 その娘は勝ち気な美しい顔つきをしていた。真と目が合うと、彼女はほんの少し会釈をした。真も会釈を返した。小さな顔に大きな目、唇は少し厚めでたっぷりと水を含んでいる。まだ少女のような顔つきなのに、どこかに女性の色香をちゃんと持っている。
「ミネコ、あんた、まだ着替えもせんと何しとるん。お座敷に間に合わへんかったらどないするんや。はよ、仕度しよし」
「わかってるがな」
 唇が少しむくれたように尖るのを、真は不思議な気持ちで見つめていた。
 寺の中にあった世界とは違う、この華やかで暖かな、生き生きとした世界。女性という生き物は本当に不思議な力を持っている。この目の前の女性よりもずっと控えめで目立たない美沙子でさえも、男には持ちようのない命の弾力を底に持っていた。もしかして真が惹かれていた美沙子の中の何かは、そういう生命の弾み、女性の性としての華やぎだったのかもしれない。
 ふと竹流を見ると、彼もまた優しい穏やかな顔をしているように見えた。
 最初にインターフォンから聞いた声と一緒に出てきたのは、落ち着いた淡い黄緑地の紬の着物にさざ波文様の染め帯を締めた、幾分か年配の女性だった。紬とは思えないほどに深い色合いの染めの色は、薄暗い玄関口にも穏やかな春の光を灯したように見える。優しい、しかし意志のはっきりした表情を湛えた女性だった。
 彼女の言葉で、ミネコと呼ばれた若い娘は奥へ去っていった。
「ほんまに、いつまでも子どもみたいに」
 言いながら、その年配の女性は竹流に上がるように促した。
「タエちゃんとこ、泊まらんでええんどすか」
 竹流が、その女性の責めるような言葉を遮るように止めた。真は耳に入った女性の名前を頭の隅に畳み込んだ。昨日の話が夢の中ではなかったということを、確かめたくなどなかった。
「連れがいるんで」
 今度は予定外、とは言われなかった。
 女将らしい年配の女性は幾らか意味深な表情で真を見、それから竹流に言った。
「ほな、離れの一階でかましまへんな」
「雨風が凌げるならどこでも」
 真も促されるままに玄関に上がった。
「ミネちゃん、どうしたんです?」
「急にお座敷が入ったんどす。まあ、いずれにしても、よう来てくらはりましたな」
 女将は背を向けたままそう言ってから、不意に肩を落とした。そして開き直ったように振り返り、真にも優しく微笑みかけてくれた。
「お食事は? いつものようにワクさんとこどすか」
「ここしばらく精進料理で過ごしてきたんだ。本当は血の滴るような肉、といきたいところだけど胃がびっくりしそうだ」
「何を言わはるやら」
 彼らは玄関からの狭い廊下を通り、一旦中庭に降りると、下駄履きで奥に進み、そこからさらに奥の入口に入り、土間を通って一番奥の戸を開けた。入り口とは別の棟の建物があるようだった。そこからまだ廊下を行くと、小さな池のある中庭に面した部屋の濡縁から障子を開けた。入口からは考えられない奥行と広さだった。
 部屋は広くはないが、床の間と脇床までしつらえてあって、何よりも、小さいながら落ち着いた中庭の様子が楽しめた。丸く形を整えられた躑躅、まだ春の芳しい匂いを放つ梅の木、手水鉢の脇には石蕗と葉蘭が添えられている。
「お湯使わはってから、お食事にしはりますやろ」
「そうしよう」
 荷物を置かせてもらってから、お茶だけは一服頂いて、そんな話をしている濡縁の方から、さっきのミネコと呼ばれた娘が綺麗に着物を着替えて覗き込んでいた。
「お兄はん、後でな」
 その声を聞きつけて、女将が嗜めるように言った。
「ミネコ、何ゆうてるんや」
「ええやないの。お座敷終わったら、うちもここに泊まるわ」
「あほなこと言わんと、ちゃんとお座敷、勤めや」
「わかってるて」
 言いながら、彼女は華やかに紅を引いた唇で笑みを見せてから出かけていった。
 風呂を借りてこざっぱりすると、着物を借りて着替える。
 女将が準備してくれたのは鮫柄の小紋で、聞けばこの置屋は幾代か前には薩摩島津家の御贔屓に預かっていたという。女将は、瞳の色に合わせるように竹流には藍を基調に重ね染したものを、真には緑茶系の渋味のある色に染めたものを準備してくれた。真が当たり前に自分で着付けていくので、女将も竹流の手伝いをしながら、感心したようだった。
 女将が慣れた手つきで着付けていく。その手の艶やかさに、真は見とれていた。竹流は女将に任せて、静かに微笑んでいるように見える。この男はやはりこういう華やいだ世界が似合う。あの寺のように男ばかりで過ごしている世界は淡々としてストイックで、それはそれで悪くはないのだろうが、女という生き物の手にかかると、一気に世界は塗り替えられ色づく。その色を、この男は楽しんでいるのだろう。
 竹流があの寺を離れたがったのは無理もないことだと真は思った。少しばかり、あの単色の世界に飽きてきていたのかもしれない。女性の顔を見、その匂いを感じ、女たちが作る艶やかな空気に酔う。男には、生理的にそういう場所が必要なのだということは、真にも理解できる。
 着替えが済むと、並んでゆっくりと町を歩いた。静かな夕暮れで、下駄履きで歩いていても、なんの違和感もない佇まいだった。
「知り合いなのか?」
「いわゆる芸妓や舞妓の置屋だ。本当は男子禁制なんだがな、案内された棟は元々あの人の旦那さんが住んでいたところで、間の仕切りを取り払ったんだ。あの人は、まぁ、俺の京都の母親みたいなものかな」
 竹流はそれ以上あまり説明しなかった。女絡みなので言いたくないのだろうと真は思っていた。住職の言うように、人には色々な顔がある。真が知ることができるのは、そのほんの一面に過ぎない。
 料亭はどう考えても普通には入りづらいような佇まいだった。あっさりとした古い木の看板に『和久』と崩した文字が浮かんでいる。
「ようおこしやす」
 仲居がすぐに女将を呼びに行った。
「いや、まぁ、お久しぶりどすなぁ。お待ちしとりました」
 女将自ら奥に彼らを案内し、二人にしては広すぎる座敷に通されると、緩やかな灯りに包まれた部屋の真ん中に低い机があって、真ん中は囲炉裏にくり貫かれていた。囲炉裏には炭が盛られ、鉄瓶が掛けられて湯気を上げていた。
「旦那はんのお電話のすぐ後で、藤むらはんのお母はんから電話をもろうたんどす。多分、今日はそっちで食べはるえ、て。いや、さっきお電話がありましたわ、ゆうて話しとったんどすえ。ほんで、またさっき電話がありましたわ。今、歩いて出はったゆうて」
 女はどうしてどうでもいいことを長々と話すのだろう、と真は思っていた。だがこの他愛のない言葉が、世界を艶やかに染め、心を穏やかにする魔法の種かもしれない。
 席についたところへ、すぐに先付が運ばれてきた。
 女たちは、さりげなく竹流のしそうなことを予測して先回りし、彼が心地よく過ごせるように気を配っている。その包まれるような暖かさが十分に感じられる。
 先付と一緒に竹筒に入った酒も運ばれてきた。緑も鮮やかな竹の盃を渡されて、女将自ら酒を振る舞ってくれた。
 蕗、山菜、茗荷など、春の苦味を堪能した後で、大振りの蛤のしゃぶしゃぶが出てきた。それから、料理人が現れて、囲炉裏の炭を直して、網を変えると、蟹が並べられた。蟹の甲羅には新しい蟹味噌と、さらに一年も寝かせた蟹味噌が酒とともに盛られ、泡立つほどに何とも言えない匂いが漂った。
「ええ蟹があって、よろしおしたな」
 料理人は黙々と蟹を焼き、最後に蟹の脚から身を外したものを、酒に入れて、蟹酒として出してくれた。どうせ不器用だろうとでも思ったのか、竹流が箸で簡単に蟹の身を外して、皿に盛ってくれた。
「今年はまだ蟹を食べ損なってたからな。無理言って用意してもらったんだ。どうせ、お前も最近ろくなもの食ってなかったろ。しかも、ここ何日か精進料理だったし」
 竹流が調子のいい声で言ったが、その表情は一切の問い掛けを拒むようで、何となく色々な事を聞き損なった。それに、精進料理と言っても、真には十分ごちそうだった。
「蟹の旬は冬とは限りませんのや。ものを選んだら夏でもびっくりしはるくらいええ味を楽しめますさかい」
 女将は料理の介助をしながら優しい声で話した。
 竹流も、料理の説明をしてくれたり、時に女将や仲居と何やら会話を交わしていたが、今回は何の仕事かと女将に聞かれても、龍のこともあの寺のことも話さなかった。
 食事が終わりかけて、仲居が水菓に苺を運んできて、それからさらに竹酒も運んでくれた。女将が来て、あとは幾らでもゆっくりしていっておくれやす、と言って出ていってから、ようやく竹流は言った。
「ちょうど京都にご神体の劔に詳しい人がいる。明日、その人に会ってスケッチを見てもらいたいんだ。あの劔がいつの時代のものか分かるだろう。それから観光でもして、東京に戻ろう」
 真は竹流を見つめた。竹流は蟹に集中している。
「いいのか」
「何が?」
「龍は?」
「あんまりあそこにいると、また妙なものにつけ入られるかもしれないだろ?」
 半分冗談のように竹流は言った。
「別に、怖い訳じゃないけど」
 一応強がってみたが、声は少しばかり上ずっていた。それに気が付いたのかどうか、竹流は真剣な顔で真の顔を見つめて聞いた。
「お前はあの神像を見て、龍を見て、どう思うわけだ?」
「どうって?」
「怖いか? それとも、哀しいか?」
 真は黙って竹流を見ていた。
「哀しいと、お前はそう思っているだろう。だがこれ以上何かをしてやれるわけじゃない。子どもにも龍にも、その父親や母親の怨みや哀しみにも。和尚さんは全て呑み込んで、ちゃんと彼らを供養してくださるだろう。古い昔の悲しい話だ。もう誰にもどうすることもできない。あの洞窟だって同じだ」
 真は俯いて、その言葉をしばらく考えていた。
「大したことはできなかったが、珠だけは返してやれた。そう思って、多少寝覚めが悪くても忘れてしまうことだ」
 言いながら、竹流は竹筒から真の小さな竹の盃に酒を注いだ。
 それから、二人ともしばらく黙って飲んでいた。真も、いつもならまず飲めない、と思うほどの酒をいつの間にか口にしていた。
 竹流が今考えていることはよく分かっていた。妙なものに取り憑かれても困る、といったのは本気だろう。そういったものに真が感情を強く刺激されていると思い、例の如く異常な過保護を発揮し始めたに違いない。時々撫でるように可愛がるかと思えば、やたらと厳しく諭されることもあり、あるいは、存在を忘れてしまったのではないかと思うくらい近付いてこないこともあり、それに、今まではただ一度のことだったが、感情がエスカレートすると暴力という形で相手を押さえ込もうとすることもある。
 ただ、今となっては、真にとってはそのどれもが、了解できない感情ではなかった。
 この男も、何かと闘っている。
「ずっと聞こうと思ってたんだがな」
 随分してから、竹流が言った。真は蟹から顔を上げた。
「どうして、彼女と別れたんだ?」
 真はまたしばらく竹流を見つめていた。竹流は真の返事を待っているのか、手酌で酒を自分の杯に注いでゆっくりと飲んでいる。
 杯に添えられた左薬指の指輪が真の視界の真ん中にあった。
「別れたって、俺、振られたんだけど」
「振られた?」
「よく解らないけど、彼女には我慢できないところが俺にあったんだと思う。共有する未来がないって、そう言われた」
 竹流は何も答えなかった。真は小さく息をついて、それからもう一口酒を飲んだ。
「彼女は俺が何を考えてるのかわからないって、そう言った」
「頭も良くて感じのいい娘だったし、お前には勿体無いくらいだったけど、上手くやっているんじゃないかと思っていた」
「だから、俺なんかと付き合っててもどうしようもないって、気がついたのかもしれない」
 竹流はそれから、もう一杯、真に注いでくれた。
 あの日、部屋を出るときに、美沙子の啜り上げるような声を背中で聞いていた。別れることに泣いていたのか、それとも真がした暴力的な行為に泣いていたのか、よくわからなかった。だが、それを確かめることはもうできないような気がしていた。零れてしまった水はもう土にしみこんで、今更元に戻すことはかなわない。
 思えば、五年という歳月はそれなりに長い時間だった。美沙子と過ごした時間がその年月のどれだけの部分を占めていたかは別にしても、真にしてみれば、ようやく少しずつでも彼女と何かを積み上げていっているような気持ちになってきたところだった。第一、真には、目の前のこの男以外の誰かと長々と会話を交すことなど、ほとんどできなかった。そんな中でようやく積み上げてきたものの、崩れる時間の何と短いことか。
 だが、美沙子はまた別のことを言っていた。真と別れたい本当の理由は、別なことなのだとでも言うように。
 竹流はまた酒を杯に注いでいる。その目は真のほうに向けられず、ただ唇だけが無声映画のように静かに動いた。
「二月の始め」
 何を突然二ヶ月近く前のことを言い出したのかと思った。
「一体、何があった?」
「何って?」
「お前は二日ほど吐き続けていて、食事もしなかったそうだな。それから、いきなり大学を辞めて、女と別れてしまった」
 突然、側頭葉の一番端の引き出しが音を立てて開いた。旋光が迸り、頭の中で何かが炸裂したようだった。真は座敷机から浮き上がりかけていた杯を倒した。
 竹流は黙ったまま零れた酒を手拭で拭い、真を待っているようだった。この男には笑われるだろう、と真は思った。
「大学で何かあったのか? 女と何かがあったわけじゃないんだろう」
 真は顔を上げた。上手く説明する自信などなかった。
「以前、祖父さんが言ってたな。お前が子供の頃、アンデルセンの本を読んで、その後から数日吐き続けていたって。お前を慰めるのに、アイヌ人の友人が魔法の言葉を残していった、と。俺には魔法の言葉を掛けてやることはできないけどな、せめて訳を話せ」
 祖父は真が何の本を読んでいたのか、知っていたのだ。だが、祖父は強く逞しい男だ。真が何に怯えてしまったのかは理解しようもなく、ただその気持ちの脆さを情けなく思ったことだろう。竹流も、真などとは比べようもなく強くしなやかな思考と、誰にも負けはしないという手の技術を持っている。いつまでも、真には届かないものだった。
 ただ、恐ろしかったのだ。理解されずに一人で泡となって消えていく運命も、粉々に砕け散ってしまう夢も。
「あんたにはわからない」
 真は乾いた喉からやっと声を絞り出した。
 人魚姫は、どれほど王子に語りかけたかっただろう。あなたを助けたのは私なのだ、と。その時喉の奥で形にならない声はどんな絶望を彼女に背負わせたのだろう。今、声を出すことのできる自分は、彼女よりはずっと良い運命の上を歩いているはずだった。なのに、それでも、説明する言葉に届かない。
 ただ漠然とした不安なのだ。形のはっきりしない不安なら、それを突き詰め、正体を確かめて、克服するための努力をしろと、この男は言うに違いない。もしもあの死者の顔が恐ろしいなら、その事故の本質を突き止め、二度と起こらないように解決策を講じればいいだけだ、それが科学者のあるべき姿である、と。その正しさに対して、闘う術を見つけられない。
 竹流は黙って真を見つめていた。やがて、静かに酒を飲み、机に戻した竹の杯を見つめたまま尋ねた。
「何故そう思う?」
「あんたは正しくて、力があって、何でも自分の手で克服してきた。闘って、望みを叶えてきた。だから、負けて逃げ出した人間の気持なんかわからない。求めて与えられなかった人間の気持もわからない」
 竹流は顔を上げた。その整った顔の上には、珍しく表情がなかった。いや、あったのかもしれないが、怒りや悲しみや呆れなどのはっきりした感情がなかった。あまりにも静かな気配に、かえって真は逆上し、溜め込んでいたものを吐き出さざるを得なかった。
「あの浦河の崖から落ちた事故から、ずっと体のどこかがおかしい感じがしていた。脾臓とか、肺の一部とか、失った部分があるからだと思っていた。頭も打ったし、記憶にもはっきりしないところがあって、いつも漠然と不安だった。あんたは、少しずつ元の生活に戻れば大丈夫だと言った。あんたの言うとおり、大学にも行って、研究も続けたし、美沙子とも元通り付き合った。時々、元の自分が思い出せない気がして、辻褄が合わないこともあったけど、仕事とか結婚とか、これからの生活のこととか、ちゃんと考えているうちに、いつかは抜け出せると思っていた。前の晩、指輪を買いに行って、その日はずっと美沙子のことを考えていた。どんなふうにこれを渡そうか、何を言おうか、そのことで頭はいっぱいだった。でも、頼まれて教授の部屋に文献を取りに行った。机の上に」
 真は一度言葉を切った。胃から何かが突き上げてきそうだった。
「手紙があった。俺の留学のためのものだった。教授は俺の将来に期待していると言っていた。もちろん、葉子のことを考えても留学なんて現実的じゃなかったけど、そう言われて気分がよくなかったわけじゃない。でも、そこにあったのは推薦状じゃなかった。始めから向こうは俺を指名してきていたんだ。理由なんて考えたくもなかった。一緒にNASAからの報告書が届いていた。二年前のソユーズ十一号の事故の写真だった。カプセルの中で窒息死していた三人のクルーの写真と、事故の原因になったバルブと、クルーが必死にバルブを閉めようとして椅子を外した形跡のある船内の写真だった。ソ連の事故で、正確な情報や、ましてや写真なんかが手に入ってくるなんて考えられなかった。でも、報告書によればそれは人為的な事故だった。バルブの欠陥と、異常が生じた際に対処する方法を講じていなかったことと、何よりソユーズ十号の失敗で、船外活動でシステムを点検するべきだということに気が付いていたのに、クルー候補たちが船外活動の訓練を受けていなかったというだけで却下されていたんだ。そのまま、何の対策も講じないまま、三人の人間の命を、何かあったら完全に手の届かない場所に送り出した。その時、宇宙船を飛ばした研究者たちは何をしていたんだと思う? クルーたちが窒息したわずか数十秒の間に。宇宙に行くために莫大な金をつぎ込んで、人類の未来のためだと大きなことを言って、でも実際にはこれは形を変えた戦争だ。事故が起こった時に、自分たちでは対処のできないことを知っていて、ただ紙の上に計算式を並べていた。科学は、もしも間違っていたら、人間の手ではどうすることもできないところまで行ってしまうのに。でも、俺も、頭の半分で女のことを考えながら、煙草を吸いながら次の日の実験の計算をしている。教授は、俺をダシにして特別な資料と何らかの便宜を受け取っている。百キロ以上の上空で、人が死んでいるのに」
 息をまともにできないほどの勢いで、真は一気にまくしたてた。竹流は相変わらず一言も発することなく、ただ深い青灰色の瞳を真に向けたままだった。
 未来に続く道の半ばで命が失われ、衝撃的な情報はうまく隠蔽され、ましてや真自身の行く先さえ、手の届かない力によって操作されている。
 自分が関わろうとしていることで、誰かの命が簡単に捻り潰されてしまう。そしてそれが決して人々の幸福につながらないことを、あの死者たちの写真から貫かれるようにして感じたのだ。そして、アメリカもソ連も日本も、それでもこの事業を推し進めるであろうことを、この道が人類に等しく分配される幸福な未来になど続いていないことを知ったのだ。
 あの死者たちを思うたびに身体が震えて、吐き戻しそうになった。
 ただ、もう逃げ出したかった。
「怖かったんだ。誰かが計算し設計して、誰かが組み立てて、もしかして笑いながら楽しみながら、時には煙草を吸ったり酒を飲みながら談笑しながら夢を語って、そして誰か他人の命を宇宙船に詰め込んで、それが一瞬で砕ける。他人の命を握りつぶしてしまうなんて。自分がこの世に生み出したものが、誰かの運命を、命を左右するなんて事は耐えられない。その中に誰かの重い命と運命を放り込んで、目をそむけるなんてことは」
 呼吸が倍の速さになった気がした。
「なのに、俺を捨てていった人たちは、捨てるくらいならどうして子どもをこの世に生み出したりしたんだ。捨てるつもりなら、どうあっても傍にいて愛していく気がないんなら、子どもをこの世に送り出さなければよかった。それどころか、どうして今頃になって、あの男は俺を呼び寄せようとするんだろう。どうして父さんは、宇宙への夢を捨てて医者になって、どうして他に好きな人がいたのに頭のいかれた女と結婚して、頭のいかれた子どもを引き取ったんだ。どうせいつかは捨ててしまうなら、始めから引き取ったりしなければよかった。頭のいかれた女は、俺の首を絞めたけど、それでもまだましだった。俺はあの女が早く死んでしまえばいいって思ってたけど、でも俺を騙さなかったのはあの女だけだった。あんただって」
 一瞬、竹流が手を伸ばして真の頬に触れた。真は驚いて息を呑み込んだ。混乱して、意味不明のことを言っていることは分かっていた。歯車がかみ合わなくなると、すべてが自分に悪意のあることに思えてしまう。ただそれだけのことだとは、わかっている。
 だが、竹流はゆっくりと噛み砕くように真に話しかけた。
「お前の実の両親の事は知らん。だが、功さんは、頭のいかれた子どもをいやいや引き取ったわけじゃない。その子どもと運命を共にしようと、そう願っていた。ただ、その方法が途中からわからなくなっただけだ」
 真は少しの間、言葉を理解するのに手間取った。
「その子どもが、思った以上に頭がいかれてたから?」
「馬鹿を言うな。功さん自身、色々なものを抱えてたんだよ。お前の言うとおり、人の感情も命も重い。それをこの地球上の全ての生き物が抱えている。多分、お前の両親も、功さんも、それにあの龍を描いた絵師も、子どもに理解を求めることができない重い荷物を背負っていたんだ。だがな、確かに命も心も重いが、決して重すぎることはない。お前が誰かの運命や命の責任を全て負う必要はない」
 真は視線を避けて俯いた。どう返事をしたらいいのか、わからなかった。
「真、俺はな、お前が生きていてくれて良かったと思っている。お前があの事故の時、何か一部を無くしたんだとしても、こうしてここにいてくれているだけでいい。お前が崖から落ちて、命も意識も戻らないかもしれないと聞いたとき、初めて人間には絶対に耐えられない苦しみがあるということを知った。功さんにとっても、あの絵師にとっても、そしてお前の親にとっても、子どもの命も運命も重くて苦しかっただろう」
 あの人があなたを抱き締めていた。親鳥が雛を庇うみたいに。
 突然に湧き上がったような美沙子の言葉が、今真の中で意味を帯び始めた。


 藤むらに帰ると、彼らが案内された部屋にはすでに布団が敷かれていた。十センチほどの高さのマットレスは、柔らかすぎもせず堅すぎもせず、横になった時はようやくほっとした。狭い部屋では布団を離して置くスペースもなかったのか、二組の布団はしっかりくっついて敷かれていたが、竹流は何も言わなかった。
 着替えの浴衣が置かれていて、彼らはそれに着替えると、取り敢えず布団に潜り込んだ。竹流が一本だけは許そうと言ってくれたので、真も一緒に煙草を吸って、ちょっとの間黙りあっていた。随分経ってから竹流は、寝煙草は良くないな、と言っただけだった。
 彼自身は、仕事のためなのか、ほとんど煙草を吸わなかった。けれども、こうして吸っているのを見ると、その姿も気配も、何をしていても自然で絵になる男だった。
 煙草を消して目を閉じると、本当に疲れていることに気がついた。酒のせいもあってか、随分どんよりとした眠気が襲ってきた。少し酔っていたのだろう。一時爆発したような感情は再びどこかに畳み込まれて、今は何かを考えなければならないような気もしていたが、それが何なのかも分からなくなった。いつもなら、真が物事を整理できるように突きつめてくるはずの竹流が、今日はあれ以上、何も言わなかった。酒のせいにしてくれているのなら、それはそれでいいと思った。
 龍のことも子どものことも、あの地下の洞窟の神像のことも、そのものたちが抱えていた哀しい思いも、遠いことのように思えた。過去に自分自身に起こった出来事さえも、また引き出しに仕舞い込まれた。頭の中の引き出しを間違えると、いつか混乱する気がしたが、もう仕舞った場所はわからなくなった。多分、一つ二つ、引き出しを間違えたかも知れないが、確認するほど意識は明瞭ではなかった。両親のことも、育ての親たちのことも、自分と切り離して遠くにやってしまいたかった。
 どこかで、あの場所を離れたことにほっとしていたのも事実だった。
 あれらの感情は、自分には消化しきれないものだ。竹流があそこを離れたのは正解なのだろう。そう思って感情を今再び畳み込んだ。
 畳み込んだのは、別の感情も一緒だった。俺はいつまでたっても赤子のようだと気が付いた。この男の手がなければ、どうして呼吸をして、どうして言葉を繋ぎ、どうして道を探せばいいのかもわからない。その竹流の口から、美沙子のことを尋ねられた時に、胸の奥を捻られたような痛みが走った。だから、あれやこれやと理屈を探した。大学を辞めたことなど、本当は大したことではなかったのかもしれない。
 言いたかったことは、ただ一つだけだったはずなのに、言葉にもならなかった。
 だが本当に、俺はお前の三人目の父親だが、他の二人の親とは違って、お前を捨てる気はない、とでも言ってもらえたら、安心できたのだろうか。竹流は、真がすっかり大人になって、自分の力で乗り越えることができるようになっていると考えているのだろうか。
 それでも途切れ途切れには眠っていたのだろう。ふと目を開けた時、隣の布団に竹流の姿はなかった。
 障子の向こうに人の影が揺れていた。月明りで揺らめく影はぼんやりと優しく、震えて見えた。
 その影がたまらなく恋しく、もういっそ全部吐き出してしまおうかと思った。本当は、昔のようにただ抱きしめて欲しかった。お前の不安は全部幻だと言って欲しかった。この心も身体もすべて彼に帰属しているのだと言って欲しかった。そうすればどれほど安心できるだろう。答えのないままに何かを待ち続けるのは、ただ苦しかった。
 だが、真が思いきれないうちに、板の軋みが、横たわっている畳の床から直接、伝わってきた。
「忍んで行こうかと思てたとこやった」
 突然の声に真は緊張した。
「何したはんの?」
 影は緩やかに優しく揺れている。その影にもう一つの影が寄り添う。
「月を見てた」
「タエねえさんのこと、考えてはったんやろ」
 不安は静かに澱のように、身体の底に積もっていった。
 女の声は明るく弾むようで、この世界に色を添える。寺にいる時は世界はモノトーンに思えていたが、祇園に来てみると、世界にはこんなに色があったのかと改めて気が付いた。女性のいる世界は色が溢れている。華やかで、柔らかく、優しく、男を包み込もうとする。女たちがいなければ男の世界は続いていくことはできない。未来に命を伸ばそうとする強い欲望が、女性の遺伝子の中にだけ刻まれているかのようだった。だが、それは子孫の問題だけではない。女たちの存在が、男の心を包み込まなければ、男は旅を続けていくことができないのだろう。
「なんでねえさんのところに泊まらはれへんの?」
「たまにはお母さんの顔も見ないとな」
「嘘ばっかり」
「ミネちゃん、少しの間に随分綺麗になったな」
「いや、口説いてくれたはんの」
「そうじゃない。ただ本当の事を言ってる」
 この男は、女にはこんなに優しい声で話すのかと気が付いた。真に向ける言葉の調子とは、まったく違った声だった。
「うちも、もう大人やもん。ねえさんよりずーっと若いし、ええ女やと思わん?」
「若いだけじゃ、ええ女とは思わないけどな」
「そりゃあ、ねえさんは優しいし、綺麗やし、落ち着いてて大人やし、芸事も一流やし、うちが知ってるどの女よりええ女やわ。うちがねえさんに勝てるのは、若いことくらいや」
「そんなことはない。ミネちゃんは素直で、ちょっと強がりだけどそういうところも可愛いし、それによく頑張っているのも知ってるよ」
 影が大きく揺れた。
「なあ、お兄いはん、ちょっとだけキスしてみてくれへん?」
 竹流の声が密やかに揺れている。
「それは、ちょっと難しい相談だな」
「何でやの。タエねえさんにばれると困るから?」
「そうだ」
「いややわ。ねえさんのこと、怖いのん?」
「そうじゃない。彼女を傷つけたくないんだ」
 竹流が痛っ、と声を上げたのに、真のほうが布団の中で引きつっていた。
「いやな男はんやわ」
「どうして」
「女が誘ってるのに、他の女のことをそんな愛おしげに言うもんやないわ」
 少しの間、まるで真が起きていないか確かめるように、あたりが静まり返った。やがて、低い声が、まるで真の耳元に囁かれたように、震えて響いてきた。それが正確にどういう言葉だったのか、あるいは真の想像だったのかははっきりしない。
「タエに黙っててくれるんなら」
「言うわけないわ。うちかて、ねえさんに嫌われたくないもの」
 見ようと思ったわけでもなかった。だが、真は思わず布団の中で寝返りを打つように向きを変えた。もしも気づいてくれたら、と思っていた。だが、二人の影は抱きあうように絡みあったままだった。
「妹にするみたいなのは嫌」
 竹流の返事はなかった。
「絶対、ねえさんには言わへん」
 微かに水の跳ねるような音がした。
「奥の部屋、行こうなぁ」

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Category: ❄清明の雪(京都ミステリー)

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コメント


NoTitle

ぅぅ・・ 今回はちょっと読んでて切なかった・・デス。
「黙っててくれるんなら」
きっと現実的な言葉ですよね。
けど、やっぱり私は
「彼女を傷つけたくないんだ」
という竹流の想いを信じたかったなぁ(´;ω;`)
もちろん嘘ではないのだろうけど。

真のように
もやもやと胸におさまりきれない想いが~ぁぁ。(笑)
駄々っ子のようなコメントですいません(>_<)

続きを楽しみに帰ります^^

ako #G5P3Ad7M | URL | 2013/04/25 19:10 [edit]


akoさん、ありがとうございます

はい…本当に、ごめんなさい^^;
そうなんです、かっこよくてずるさのない人間を書くには私が歳を取りすぎたのかもしれません。多分、中学生~大学のころ書いていた竹流なら、こんなシーンはなかったと思うのですが、今はもう、男ってずるいものだ(とくに女に対しては)という汚れた私が…^^;
実はこの、峰ちゃんという芸妓さん、かなり辛い幼少期を持っていて、そういうのを竹流はみんな知っているんですね。もともとこの話、竹流視点と真視点が交互に入り混じっていたので、その時はそれも書いてあったのですが、竹流視点をバッサリ切ったので、省かれてしまったもので…でも、おかげで真のもやもやがより際立ったかも!?
ただ、そんな狡さもある中でこそ、真実の想いがあるということが伝わったらいいなぁ、と……
人間って弱いですものね。でも、真立場でもやもやしていただいて、ちょっと嬉しいです(#^.^#)
真はもう、無茶苦茶、悶えていたでしょうね。というのか、見捨てられた子猫状態で……めそめそと…(あぁ、いつまでもこのくらい可愛い真でいて欲しかった…)
ちなみに、実は翌日、竹流は女将さんにこってり怒られているのです^^;(ばっさり切ったシーンの一部です)

ちなみに、このタエ(珠恵)さん、【海に落ちる雨】に出てきますが、本当に本当に竹流はこの人を大事にしているのです。だから、『彼女を傷つけたくないんだ』は心からの声でもあります。
だからこそ、ちょっと真を想う気持ちとの間で、揺れ揺れでして…
本当なら、京都の岡崎には珠恵さんがいる家があるんですが、わざわざこっちに泊まったのは、真と珠恵を鉢合わせさせたくなかったから、なんですね。一方では、ちょっと小出しにしておきたかった部分もある。
って、竹流の浮気の後押ししてる場合じゃありませんでした^^;

ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きもぜひ、お楽しみください(^^)

大海彩洋 #XbDIe7/I | URL | 2013/04/25 22:27 [edit]

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