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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

❄19 龍と子ども 螺鈿の欠片 見返りの阿弥陀仏 

 手に入らないものに対して、どうという想いを持っても、仕方のないことだ。
 真は布団の中で冷たい石のように固まっていた。彼らが今抱きあっているのだと分かっていたが、それを考えないようにと思った。
 こんなことには、慣れている。
 今の自分の気持ちが、嫉妬だとかそういう種類のものかどうかも分からなかった。自分の複雑な感情をこれ以上突きつめたいとも思わなかった。これが倫理的におかしい感情だとしたら、ずっと抱えていくのは苦しい。それなら、ただそのまましまい込んでしまおうと思った。何より、彼を親や兄のように頼っていること自体、情けない気がしていた。大学を辞めてしまった今、この先のことを考えて心許ないゆえに、何かに縋ろうとしているだけなのだろう。
 真はようやく布団の上に身体を起こし、ぼんやりと障子の外の明るい気配を見つめた。そして立ち上がると、障子を開けて縁側に出た。
 明るい月だった。もうほとんど満月だったが、よく見ると、隅がほんの少し暗く翳って見える。
 真は狭くて短い濡縁に座り、それから長い間、小さな池の面で揺れている月を見つめていた。水面の揺れが収まると月は丸くなり、また風で揺れると輪郭が乱れた。祖父の長一郎が唄う江差追分に、そんな歌詞があった。喉の奥で祖父の声をまねて追いかけてみた。乱れながらも丸くなるその月は、水の表で、まるで慰めるように揺れ動いていた。
 俺はいつまでも子どもみたいで情けない、と思った。思ったが、それを認めたくないような気もした。
 不意に、水面の月に黒い影が重なったように思って、天空の月を見上げた。
 月は冷えた光を放って、真の頭上の清らかな藍の天空の中にあった。北海道で見ていた月や星ほどに美しいものはないと思っていたが、今日の月は格別に見えた。そう思いながら見つめていると、月の面に太陽の黒点のような小さな黒い点があるように思った。
 別に何とも考えずに、しばらくその点を見つめていた。
 そして、よく見てみたいと思ったことに応えるように、その点は大きくなってくるような気がした。よく見たいと願ったからだな、とぼんやり思った。
 思ってから、真が状況を判断するまでもなく、月の面の黒い点はみるみる大きくなっていった。そして、そのうちそれが点ではなく、棒のように長いものであることに気がついた。
 その時点で、真は初めて何だろうと思った。
 そう思った時には、黒い棒は直線でもなく、形を時々変化させる曲線に変わっていた。そして真が事態を飲み込む時には、月よりもはるかに巨大なものになって、いや、正確にはそれは距離の問題で、真の頭上すぐ近くまで迫ってきていた。
「うわっ」
 思わず叫んでいた。
 巨大な曲線は、今やはっきりと、うねった身体の鱗を月の光で反射させながら、あるところから一気に急降下し、目の前の池に飛び込んだのだ。その水しぶきに、真は叫びを上げて後ろに倒れそうになった。
 今真の目の前に現れたのは、立派な龍だった。
 真は一度池に飛び込んだ龍が、水面に身体の半分を持ち上げ、自分の方を見つめた鋭い目にしばらく言葉も出なかった。
 怖いのではなかった。忿怒の形相のはずだが、その二つの眼には悪意も善意もなく、ただ生物としての尊厳ある光を宿し、二本の真っ直ぐな角と風に揺らめくような髭は、生命そのものが持つべき誇り高い気配を宿していた。その鱗は、黒とも白とも七色ともつかず、ただ月の光を宿して輝いていた。
 美しい龍だった。
 そして真は、龍の頭のすぐ後ろにあの子どもを見つけた。
 子どもは今や輪郭もはっきりとして、その顔立ちもよく見えた。幼いがきりりとした目鼻立ちで、丸い可愛らしい表情だったが、生まれの良さを思わせる高貴な顔つきだった。
 子どもは白い着物を着ていたが、光をまとっているようにも見えた。
 それに何よりも、子どもは楽しそうだった。
 ここにお池があって良かったね
 鈴のように軽やかな声が頭のどこかに響いてきた。それは、子どもが龍に話し掛けた言葉のようだった。
 そうか、龍は水のあるところにはどこにでも行けるんだ、と奇妙に冷静なことを考えていた。
 あのね、明日、もう一度お寺に泊まりにおいでね
 真は子どもを見つめた。子どもの口は動いているようには見えなかったが、言葉ははっきりと真の頭の中に聞こえてきた。
 あの人も一緒にね
 そう言葉を残して、何かはずみをつけたと思ったら、龍は子どもを背に乗せたまま今度は一気に天空へ駆け上がった。真は呆然と龍を見送った。彼らが去ってから、水しぶきなど自分に掛かっていなかったことに気がついた。
 一瞬の出来事だった。あるいは夢か幻だったのかもしれない。真は頭を何度か振った。それから、ゆっくりと立ち上がりかけたところへ、廊下の奥から竹流が出てきた。
「どうした?」
 突然話し掛けられて、今度はそれに驚いた。
「あ、いや、何も」
 そう言ったとき、竹流の後ろにあの勝ち気な顔つきの娘を認め、彼女と目が合った。だが、ほんのりと頬を上気させたその娘の顔を、まともに見つめることはできなかった。
「ちょっと、足が滑って、転んだ」
 何を狼狽えたのか、思わず言い訳が口をついて出た。その娘の視線が何かを勘付くのではないか、と思って怯んでいた。竹流の、例のごとく情事の後の凄絶に色っぽい気配にも、まともに彼を見ていられない気がした。
 真は部屋の中に戻り、後ろ手で障子を閉めた。
 まだ心臓がどきどきしていた。龍にも子どもにも、それから竹流と彼女にもどきどきしていたのだ。ふと気がつくと、手が冷たくなって震えていた。
 俺、やっぱりどうかしている。
「変わったお人やなぁ」
 真に聞こえるように言っているのだろう。若い声は軽やかで自信に満ちていた。だが、その声は少し後では随分色合いを変えた。
「ねえさんに言いつけてやるわ」
 真はまだどきどきを鎮めることができなかった。竹流の低い声が耳のすぐ側のように感じた。
「何を言ってる?」
「嘘つき」
「言わないと約束したろう」
「そのことやあらへん。黙ってて欲しかったら、も一回抱いて」
 甘えるような声に、さすがに真は布団に潜り込んだ。
「だめだよ。これ以上一緒にいると、離したくなくなってしまうからな」
「嫌らしいの。やっぱり、絶対ねえさんに言ってやるわ」
「何を?」
「自分の胸に聞かはったらええわ」
 足音がひとつ遠ざかって行った。直ぐに潜戸を開け閉めする音が重なった。真は身体が震えるのを止められなかった。
 竹流の影は縁側に座ったまま、真の所には戻ってこなかった。影は何かを拾い上げるように揺らめき、光が射した。天空に月が浮かんでいるのだろう。
 そっと音を忍ばせるように障子が開く。真が眠っているのか確かめるようにしばらく動かなかった竹流は、やがてまた障子を閉めた。ぎしっと古い板の軋む音が真の身体に伝わった。
 真は自分が泣いていることに、今初めて気が付いた。


 朝、寝返りを打った拍子に目を覚ました。そのまま、隣の布団で眠っている竹流の顔を見つめると、またひどく落ち着かない気分になった。
 怒るようなことでもない、自分の勝手な思いだという気持ちはあったが、口を開くことができないまま、新しい一日が始まった。
 朝飯だぞと声を掛けられたのにも答えないでいると、竹流は仕方がないな、という顔のまま、彼のほうからも真に話しかけてこなくなった。
 女将に付き合って買い物に出かけていた竹流が戻ってきたとき、真は一人で縁側に座って、ぼんやりとしていた。母屋のほうから潜り戸を抜けてきた竹流が足を止め、真のほうを見つめている。真が目を合わせると、やっと竹流もほっとしたような顔をした。
「昼飯を食いに行こう」
 狭い通りを複雑に歩きながら、竹流は時々真の方を振り返った。
 真は竹流と目が合うと、避けるように足元に視線を落とした。
 町屋の並びの中に小さな豆腐屋があって、竹流はその前で立ち止まり、真が追いついくのを待っている。真が追いつくと、竹流が豆腐屋の婦人に話しかけた。
「味見させてもらえますか?」
 婦人は中に入って、食べやすい大きさに切った豆腐を皿に入れて持ってきた。竹流は先にひとつ豆腐を口に入れて、真にも渡した。口に含むと、まるで大豆から作ったのもはっきりと分かるような、ほのかな豆の香りまでするような豆腐だった。
 空腹の胃に何かが入ってくると、とがっていた神経が窘められる。
「地下水の賜だ。水道の水では、こんな豆腐の味は出せない。醤油も何もいらないだろう?」
 竹流がそう言うのを聞いていた豆腐屋の婦人は、少し頷くようにして言った。
「ちょっと前までは、ここらの町屋の井戸からは、いくらでも地下水が汲み上げられておりましたけど、水量も随分少なくなりましてね」
 竹流は婦人に礼を言って、そのまま産寧坂の方へ歩き始める。真は一定の距離を保ったままついていく。竹流は立ち止まり、彼のほうから歩幅を合わせてきた。
「豆腐も、湯葉や生麩も、全て京都の地下水が育んだ食材だ。お茶の文化が花開いたのも、数多くの名水があったからだ。それから友禅や和紙もそうだ。全てが、美しい水があって始めて生まれ、ここまで受け継がれてきた」
 清水寺への道はさすがに観光地だけあって、人通りは多かった。冬が行き、もう間もなく桜の季節で、人々が外に出かけるようになっていたからだろう。
「だが、あの豆腐屋のおかみさんも言ってたように、高いビルが建てられ、地下鉄が掘られ、京都の地下水は年々減って、姿を変えていっている。あの志明院で出会った僧侶も、そう言ってたろう?」
 石畳の道に緩やかな風が吹き抜けて行った。
「その一方で、水は時には人間を、あるいは自然をも呑み込むような勢いで襲いかかってくることもある。あの龍の絵師が生きていた時代は日誌からは十四世紀の後半、足利家は義満から義持の時代のようだが、その後にくる十五世紀というのは、ものすごく洪水の多く冷涼な気候で、飢饉のために何万もの人が死んだという話だ」
 清水の舞台の上から、楓と桜が折り重なる木々の海を見つめた。右手の方を見ると、京都の町並みが霞んだ空気の中に浮かんで見えていた。
 真はやはり黙ったままだった。竹流の方もどうしようもなさそうに、しばしば黙り込んだが、真の関心を引くものを探すかのように言葉を繋いでいる。
「水は世界のあらゆる場所で命を育み、生活を支え、美しいものを生みだしてきた。しかし一方では、洪水となり、時には病気の温床ともなり、人間を脅かす。けれど、水そのものは悪いものでの善いものでもない。ただそこにある。それをどう捉え、どう使うのかは、全て我々の方にかかっている。龍も、同じだ」
 龍の話に、真は初めて竹流の顔をまともに見た。竹流は一瞬面食らったような顔をしたが、やがて納得したような表情になり、清水の舞台の端から街並みに目を上げた。
「広間の天井の龍も、洞窟の天井の龍も、どちらもただの龍だ。けれど、一方を見て、それが憎しみや怨みの象徴のように思えてしまう、それは、ただ板に描かれた絵に対する、あるいはただの岩に過ぎない自然の造形に対する、人間の心の反映だろう。お前は自分でそうだと分かってるんだろう?」
 真はまだ竹流を見つめていた。
 頭の中に昨夜の龍と子どもが残っていた。子どもの声が、耳の中にそのままで震えている。何か大事なことを言葉にしようとして、どう言えばいいのか分からず飲み込んだ。
「まぁ、人間の気持ちは複雑だ。自分の心でさえ、分からないしな」
 真が言葉を飲み込んだのと同じように、竹流も何かを飲み込んだように見えた。女といちゃついていたことで気まずいのかもしれないと、真は思っていた。
 もうそのことはいいと思った。第一、自分が同性の相手に恋愛感情として興味を抱いているとしたら、それはいささか拙いことだと思える。時々、感情が昂ぶって吹き出しそうになるものの、冷静になってみれば、恋にしてもただの不安にしても、その相手の目の前に突き出すようなものではないのだろう。
 舞台から下に降りていくと、桜の花はまだようやく一分ほどの開きで、もちろん少し離れてみても木は茶色に見えるだけで、桜色の大きな玉のようになる日までには、まだ幾日かかかりそうだった。
 だが、花が開くずっと前、冬が終わるか終わらないかのうちから、桜の木は、木の全体でピンク色になろうとしているように見えた。その一見茶色の木肌から香り立つのは、その色の向こうにあるピンク色の沸き立つ命の力のようだった。
 この色を、桜の木はたったの数日のために一年をかけて準備している。咲いてしまえば、その木の幹からはピンクの色合いは消えていってしまう。表面からは、今を盛りと咲いている時がもっとも美しいようなのに、ひと花ひと花咲くたびに、その心は既に消え始めているように思えた。
 だから、桜の木がもっとも美しいのは、それがただの枯木にしか見えない、花が開く前の何週間かではないかと思える。人の心も同じだ。表に出てきたときは、それはもう既に己の身体のうちで本当の心が熟した後のことなのだろう。
 それからは暫く何も話さないまま、道を八坂神社の方に降りて、知恩院の前を通って、やがて琵琶湖疏水にぶつかった。
「現実に今、京都の人たちの生活を支えていている水は、地下水ではなく、この琵琶湖疏水の水だ。人間の信念と努力の賜のようなものだな」
 彼らは疏水にぶつかると、道を東へ辿った。
「それまでの京都の飲料水は全て地下水に頼っていた。琵琶湖から水を引くことは、渇水の怖れや病気との戦いから考えても、東京に首都を持っていかれて活気を失っていた明治の京都の人びとの悲願だった。どう考えても、鴨川や桂川の水だけでは、渇水期にはどうすることもできない。京都の山、地下にどれほどの水が眠っていようとも、人間が利用できる水とは限らないんだ。だから、色々な悲劇もあったろう」
 今ではどんな事情で子どもが命を落としたのか、もはや知ることはできない。けれども、それが水に、恐らくは渇水にまつわる悲劇であったことは間違いがないようだ。この町の水は静かに危機を迎え、人間にはもうなす術がないのだろうか。
 われわれはどこへ行くのでございましょう。
 若い僧侶がふと零した言葉が耳のすぐ傍で蘇った。
「二十キロはある長い疏水だ。人知の底知れぬ力を感じるな。この水は、飲料水だけではない、工業や発電、防火にも使われているし、京都のいくつもの庭園や寺院の景観を支える水にもなっている。平安神宮には、本家本元では外来種に駆逐されて姿を消しそうな琵琶湖本来の魚まで見られるそうだ」
 疎水の向こうを見た竹流は息をつき、真を東へ誘い、南禅寺の方へ足を向けた。
 湯豆腐を遅めの昼食にしてから、彼らは南禅寺の三門に上がった。上層の五鳳楼の中には、釈迦座像を中心に十六羅漢、低い天井には狩野探幽の描いた天人と鳳凰、そして須弥壇の極彩色の背景。ここに立つと、天空の極楽に上がったような心地がした。
 深い歴史と確かな信念に基づいて培われてきた町、そこには苦難もあったろうが、やはり半分以上は日本の中心としての輝かしい伝統と文化、歴史だった。居並ぶ有り難い仏像にも、その深い歴史は重々しく刻み込まれ、見るものを圧倒していた。
 その裏側で怨霊に怯え、祈りを捧げ続けた人びとの声は、地下に押し込められ、時々面に現れては来るものの、今の町の風景からは失われている。
 まるで栄華の日々の残像のように美しく、そして人知の計り知れない偉業により近代化を遂げてきた町。その中で、地下の水脈の道が断たれるような小さな異変が音も知れず起こっていても、誰も知ることはないのだろう。
 三門を降りると、そのまま右手奥の水路閣に足を向けた。
「ローマと同じ水道橋だ。さっき歩いてきた疏水に繋がっている。今でも琵琶湖からの水を運んでいる」
 寺の境内に赤レンガで作られた西洋式の水道橋などとんでもないと、当時大反対を受けたこの水路が、今も京都の人びとに水を運び、観光名所ともなっていた。
「よくテレビドラマじゃ、夜中にここに呼び出されて、殺されたりしてるけど」
 真は何を言う気だ、と思いながら竹流を見た。
「そんな時間にこんなところに呼び出されたら、俺だったら絶対に来ないけどな。いかにも殺してくださいっていうようなものだ」
 笑うとこなんだろうかと思ったが、頭がまわらなかった。竹流は困ったな、という顔をしたままだった。
 南禅寺を出て少し上がると永観堂禅林寺だった。彼らは短い階段となだらかな坂を登って、寺の入口まで来た。
 靴を脱いで中に入り、暗い廊下を歩いて奥の阿弥陀堂に辿り着いた。阿弥陀堂の廻り廊下を表へ廻ると、手前の庭で紅葉が膨らみ始めた芽で光を跳ね返し、まるで光をそのまま身にまとっているように立ち並んでいた。
 阿弥陀堂の中には清浄な空気が充ちている。
 中に入り、厨子の中の小さすぎるほどの阿弥陀如来像の前に立ったとき、真は身体から力がすべて落ちていくような気がした。阿弥陀像は、御身体は真正面を向いているが、御顔は後ろを振り返っていて、後ろの者に何かを語りかけていた。
 遅れてきたものを振り返り待って下さっている、という説明が古びた紙の上に書かれている。文字は視界の中で曇り始めていた。
「ここは禅林寺というのが本当の名前だが、平安時代の住職、永観に因んで永観堂と呼ばれている。偉いお坊さんでな、寺の中には施療所を、つまり昔の病院みたいなものを建てて病人や貧しい人の救済に一生を捧げたそうだ。この阿弥陀像は、永観が東大寺から預かってきたものだと伝えられている。後から東大寺の僧たちが取り戻そうと追いかけてきたが、阿弥陀像は永観の背中に取りすがって離れなかったという。それから二月のある時、彼が堂内を念仏を称えながら廻るという厳しい行をしているとき、この像が須弥壇から降りてきて、彼の前を歩いて導いたそうだ。永観が驚いて立ち止まると、阿弥陀如来は振り返って、『永観、遅し』と言ったのだとか。その時の振り返った御姿らしい」
 ふと息が苦しくなった。まるで周囲に漂う気配に押されるように、その誰のものともつかない感情が真自身の感情を取り込んでしまったように思えた。
 人は誰も測り知れない深い思いをその心のうちに抱えている。そしてその感情は、他の誰かにとって耐え難いほどに愛おしく苦しいものなのだ。
 真が崖から落ちた時のことを、耐え難い苦しみがあるのだと知ったと、そう言ってくれた。
 それだけで十分だと思った。何も望まない。ただ想うだけでこれほどに苦しいのなら、願いが届かないことはもっと苦しいはずだと思った。ならば、ただ淡々と日々を重ねていくしかない。
「大丈夫か?」
 問い掛けられたとき、真は初めて自分が泣いていたことに気がついた。真は竹流の顔をしばらく見つめていたが、そのまま俯いた。
 竹流は真の腕を優しく摑み、須弥壇の脇に連れて行ってくれる。見返りの阿弥陀像を脇から見つめると、ふっくらとした優しいお顔がもっとよくわかった。僅か七十七センチの像は、柔らかで穏やかな慈愛に充ちた御顔で、遅れてきた人びとを振り返っている。
 お堂を裏に廻ると、印象的な木の階段が開山堂へ登っている。
 その曲線を描いて登っていく階段には、ふと足を止め息を飲むような美しさがある。『形』というものがただそこにあるだけで美しいと思える、そういう魔法がかかっているかのようだ。
「臥龍廊だ。龍が眠って臥している姿のようだという」
 真はその階段を、竹流の側でただ長い間見つめていた。階段の形は、龍が眠っているというよりも、美しい曲線を描いて天に昇る姿に見えた。
 あのね、明日もう一度お寺に泊まりにおいでね
 階段の龍の背に小さな子どもの影が見えるような気がする。楽しそうな声が耳の奥で鈴のように鳴っていた。龍の目を思い出した。善も悪もない、澄んだその目は鏡だった。神の姿を決めていたのは、真自身の心だったのかもしれない。
「どうした?」
 真はまだ階段を見ていたが、やがて喉の奥で一度確かめてから、聞きなおした竹流の顔を見つめて言った。
「もう一度、あの龍の寺に戻りたい」
 竹流のほうも真を見つめたまま、何も言わなかった。
 その一言を、どうして言えなかったのか、自分でもわからない。感情が絡まりすぎて、今前に一歩踏み出すために何からすればいいのか、混乱して見えなくなっていただけかもしれない。考えてみれば、簡単な望みだったのに。
 だが、見返りの阿弥陀仏を見て、今ここで木の美しいカーブを見たとき、身体の内から零れ出るように言葉が出た。いや、本当は昨夜、あの龍に見つめられた時から、ずっと心は決まっていたのだろう。
 だが、竹流の答えは、真が想像していたどんな言葉とも異なっていた。
「龍が、来たのか?」
 今度は真の方が理解できずに竹流を見つめた。竹流は一歩、真の方に近づき、ポケットから何かを取り出した。
 そしてその瞬間、竹流の指の先で、小さな欠片が周囲の光を一瞬に吸い込んだように見えた。
 螺鈿の欠片は、解決できないもろもろの感情を包み込み、たった今海から様々な想いと一緒に現れたように、極彩色の光をはじき返した。真は竹流の目を見つめ返した。
「俺たちが寝ていた部屋の前に落ちていた」
 真はその欠片を渡されて、しばらくどうとも言えずに手のひらに載せていた。
「お前がそうしたいと言うのなら、寺に戻ろう。けど、怖くないのか?」
 それはよく解らなかった。怖いような気もしたが、それでも帰らなければならないように思った。自分のためかもしれなかったが、本当はこの男のためにそうしたいと、今、身体の奥から湧き出すような想いが上ってきた。
 真がその小さな螺鈿を返そうとすると、竹流が言った。
「お前が持っていたらいい」
 真は首を横に振って、それを竹流の手に返した。
「彼らはあんたに持っていて欲しいんだ」
「彼ら?」
 真は返事をしなかった。竹流は螺鈿を見つめて言った。
「でも俺には、龍も子どもも、見えないけどな」
 そう言って竹流はしばらく考えていたようだが、言われるままに螺鈿をポケットに戻した。
 そして、彼らはそのまま永観堂を出ると、哲学の道を上がっていった。あの寺まで歩くには結構な距離でもあったが、気にもならなかった。
 疏水脇の狭い道には、想いを内に湛えたまま、温度や光を計りつつ、今はまだ花開くことを躊躇っているような桜の木々が並んでいた。木々の隙間からちららちと足下に落ちる小さな光の輪は、どこにも行き着くことのない心の重さを吸い込んで、現れては消えていく。時々、どこか路地の向こうから子どもたちの声が聞こえていた。
 この狭い道を、恋人同士であれば身体を寄せ合って歩けたのだろうが、そうするわけにもいかなかった。
 真は歩道の下の琵琶湖疏水の水を覗き込みながら、あるいは、歩道の桜の木に触れながら、時々歩を緩めた。先に立って歩いていた竹流は、その気配を察するのかどうか、時々後ろを振り返って真を待ち、また歩き出す。竹流が歩きだすと、真は少しの間その後ろ姿を見つめ、それから自分もゆっくりと後を追う。
 弘法大師が常に前を歩いて下さっている、と竹流が言っていた。
 もしかすると、気が付かなかったかも知れないけど、お前、そこでその人に会っていたかもしれないぞ。
 耳元で感じる声は、水音に重なり、京の町を潤し、やがては川となり海に下っていく。

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