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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨81] 第16章 任侠の男(4) 

【海に落ちる雨】第16章・その4です。
前回その3と連続した場面・経緯なのですが、長いので2つに切ったところ、切り処を間違えて、前回は短め、今回は長めになっております。
でも、ここから先は一気に読んでいただいた方がよさそうなので、じっくりお楽しみください。

微妙に15禁くらい? 少しだけ色っぽいシーンが出てまいります。しかも登場人物は真と仁。
この系統が苦手な方は、素通りしてください。ただし、甘いシーンではありません。
忘れていなければ……柏木美和は北条仁の女です。真はその女と懇意にしてしまったわけですから。
本筋(澤田顕一郎と田安隆三)に関わる会話が一部含まれていますが、飛ばしたところで大筋に影響はないでしょう。





 北条の屋敷を出ると、わずかでも身体が緊張から解きほぐされたのを感じた。
 車は関越自動車道に入って、新潟へひた走った。カセットからはいい音で音楽が流れていた。ジョニー・ティロットソンの甘い声が聞こえていて、ほっとした。この名前も、仁が教えてくれたものだ。

 北条一家がヤクザではましなほうだと言われても、その屋敷が寛げる場所とは思えない。第一、今、真の身体がこの状態なのも、同じヤクザにやられたのだ。
 新宿で仕事をしていて、ヤクザに全く関わらないでいられるわけではない。知らないうちに慣れてしまっているのだが、怖くないといえば嘘になる。しかし、命にまで関わると思うことは滅多にない。それが、北条仁と大和竹流のお蔭であるということは、骨身に沁みて分かっている。

 だが、多少薬が抜けてくると、痛みが蘇ってくる。車の揺れで痛みが増幅した瞬間に、冷や汗が出ていた。思い出すと急に恐ろしくなってきた。
 奴らは殺す気だったのだ。万が一殺されなくても、奴らの言うとおり、薬漬けにされて下品な男たちの慰みものにされていただろう。本当に死ぬまで突っ込まれていたかもしれない。あるいは、耳か鼻でも削ぎ落とされていたか、あるいは睾丸を潰されていたか。

「どうしたんだ」
 真は首を横に振った。身体が震えているのを、隣の男に知られるのは拙いような気がした。
 だが、仁はあっさりと言った。
「怖かったんだろう」
 真は答えなかった。
「まあ、ヤクザとていつも殺す気があるわけじゃない。敵対する組のオヤジを殺るならともかく、特に素人を相手にすると、お勤めが長いだけじゃなく、素人に手を出す卑怯者というレッテルを貼られる。一生剥がすことのできないレッテルだ。二度とこの世界でやっていけなくなる。もちろん堅気にも戻れない。だがな、妙な嗜好を持っていると、そういう事情は吹っ飛ぶ。あるいは薬やなんかでラリっちまっている愚かな連中とかな。お前が気を付けなけりゃならないのは、まともな精神状態のヤクザじゃない。むしろ一般人だろうとヤクザだろうと、変態趣味を持った連中だ」
 仁の口から言われると、多少戸惑った。真は返事をせずに目を閉じた。

「車、停めようか」
「何故です?」
「暫く、抱いててやろうかって言ってるんだ」
 仁は運転したまま言った。どういう表情で言っているのかは分からなかった。
「遠慮します」
 仁は声に出して笑った。曲がプラターズの『ONLY YOU』に変わった。被った曲のムードにかき消されたが、どこかに冷めた湿度が残っていた。
「美和に告げ口するか」
 今、仁に美和の名前を口に出されるのは辛かった。仁が本気であの十六も年下の大学生に惚れているのは知っていた。仁が怖いというのもあるが、裏切るかと思うと恐ろしい気がした。

 サービスエリアに入ると、仁は車を停めたが、カセットの音楽はそのまま続いていた。
「田安さんのことだがな、バンコクで妙な噂を聞いたんだ。向こうのシンジケートのボスが、一流のプロを雇ったって、な」
「プロ?」
「そうだ。慌てて日本に電話をして、彼が死んだことを知った。タイのヤクザが日本のヤクザにお礼参りをしたという噂もある。お前が首を突っ込んでいることに関係があるのかどうかは知らんが、あっちの人間が日本で世話になったヤクザの代わりに、やりにくい仕事を片付けてくれるなんて話はよくある。そいつらが世話になったヤクザは、九州の小松って奴だ。小松は、澤田と関係がある」
「澤田顕一郎と?」

 澤田がヤクザを使って田安隆三を殺すわけはないので、それはどういう繋がりだろうと思った。
「正確には、あったというべきかな。だが、その辺の話は多少ガセが入っている。九州のヤクザと澤田の関係が表に出たとき、澤田は完全に否定しているし、ある方面からの情報では、澤田が嵌められたんだという話もあった。今回、タイ人は随分金をつぎ込んだと聞いている。雇われたのは『超一流』の男だともな。だが、商売勘定をしているタイ人が、いくら何でもお礼参りのためだけに大金をつぎ込むというのは不可解だ。裏で別の何かが動いているような気がする」

 真はぼんやりと聞いていた。頭の半分で、仁は何故タイから帰ってきたのだろうと考えていた。真にこの事を教えるために戻ってきたわけではないだろう。仁の出張は、数ヶ月はかかりそうだと、美和が言っていたことを思い出した。
 一旦緩やかになっていた雨は、また強くなりだした。

「コーヒーでも飲もうか?」
 この雨はいつまで続くのだろう。永遠に降り続いて、この身体も心も溶かしてしまうのではないかとさえ思えた。
 仁は動く気配はなかった。
 曲は、北条の屋敷で聞いた気がしたカスケーズの『悲しき雨音』になっていた。悲しさを、いくらかテンポのいいリズムで淡々と唄う曲は、どうすればいいのか分からない身体の苦痛を冗長させた。
 真は目を閉じた。何かをやり過ごさなくてはならないような気がしていた。

 不意に、この曲が合図だったとでもいうように、冷たい手に顎を捕まれた。目を開けたとき、予想していなかったわけではないが、強い意思を持った仁の鋭い目が真を捉えていた。
 唇が触れようとして、真は慌てて身体を引いた。仁の手が頬を撫でる。
 昨日のヤクザが首筋に当てていたナイフと同じ冷たさだった。

「誰かに操を立てないといけないのか」
 声は真剣だった。勿論、真を口説こうとして真剣なのではない。棘のある鋭い声だった。
 予想していなかったわけではない。地獄耳のこの男のことだ。この男がタイにいる間に美和と真がしていた事を、知っていながら知らせないような有難い人間は、宝田や賢二くらいだろう。開け広げと言っていいくらい、美和はあっさりと竹流のマンションに泊まりこんでいたし、夜行列車でも一緒に過ごしている。新潟でも、セックスをするかどうかはともかく、同じ部屋に泊まっている。美和を見張っている誰かにとっては、十分報告する価値のある出来事だっただろう。

 覚悟をしていたわけではないが、やむを得ないと思った。
 それでもやはり恐ろしかった。真が仁を見上げると、仁は表情のない鋭い目で真を見つめたまま、真が逃げないのを確認すると、強い力で顎を掴んだまま、上唇を音を立てて吸った。
 真の身体は感情の覚悟を超えて完全に固まっていた。逃げ所はなかったが、さすがに舌が差し込まれようとしたのは拒んだ。だが、その瞬間に、仁の手が首の後ろに回った。

「自由恋愛とやらを彼女に許したのはあなたでしょう」
「認めるのか」
「自分が嫌なら、彼女の気持ちも考えてやったらどうなんですか」
「あいつが何か言ったのか」
「あなたが他の誰かを抱きながら、自分の事を考えるかどうかって」
「いつも考えてるさ。あれは俺の女だ」
「じゃあ、他の男と寝てもいいなどと言わなければいい。彼女がそんなに好きなら、何故ちゃんと捕まえておいてやらないんですか」
「十六も年下の小娘に、北条仁が本気だなんて言えるか」
「言えば済むことです。あなたが恐れているのは、彼女が自分から離れていくことですか」

 仁は真の後ろに回した手の指にゆっくりと力を入れてきた。
 珍しく言葉は勝手に出てきたが、身体は震えていたのかもしれない。いや、美和に、決闘してでも責任を取れと言われてから、真は実際に仁と交わさなければならない会話を、少しばかりは準備していたのだ。でなければこんなにスムーズに言葉は出てこない。
「お前はあれを弄んだだけなのか」
「それは」
 だが結局、真は口をつぐんでしまった。

 美和がもしも妊娠していたらどういうことになっていたのだろう。北条仁と決闘すると言ったが、女の前で格好をつけただけだったのかもしれない。その時は、彼女と身体を合わせることに夢中で、後先を考えなかった。そう思うと、自分が随分と情けない男だと感じる。
「あいつが可愛いと思ったか?」
「そう思います」
「俺から奪おうと思ったか?」
「いいえ、それは」
「最初は酔っ払ってたのか? 次は?」真は答えなかった。「寂しかったのか? あの男がいなくて」
 真は黙って仁を見上げた。

 そうかもしれない。自分は今、どんな情けない顔をしていることだろう。親に悪戯を見つかった子どものようだ。美和も、こんな男の顔を見れば、情けなくて愛想も尽かすだろう。
 仁のほうも、視線を逸らすことなく真を見つめている。
 そのうちに、この男を怖いというよりも、裏切ったことが哀しいと思えてきた。自分のした事がただ哀しいと思った。
「口を開けろ」
 唐突に何を言われたのか、真は理解できなかった。仁はもう一度同じ命令を繰り返した。真は何か言いかけたつもりだが、声になる前に仁に口を塞がれてしまった。

 仁の手は首の後ろに回されたままで、もう真には逃げるところがなかった。仁の舌が巧みに真の口の中に入ってきて、逆らうことなど許さないという強さで絡み付いてきた。真は何とか仁を引き離そうとして肩に手を掛けたが、力は入らなかった。そのまま、仁のもう一方の手が真のスラックスのフックを外して中を弄ってきた。
 完全に力が抜けていた。その半分で硬直したようにもなっていた。肌は張り詰めたように緊張して、冷たい汗が零れた。

 そうしているうちに仁が本気ではないかと思った。本気でどうこうしようとしている、ということではなく、本気で真を慰めようとしているのではないかと思った。仁の手は、小さく強張って固まっている真を慰めるように、ゆっくりと局所を弄る。舌は時に緩やかに、時に激しく求めるように絡んでいる。やがて仁は手を真の足の間から深く後ろに差し入れて、真の身体の器官の中で、誰かを受け入れることができる場所のひとつを弄り始めた。仁の指が襞を擦ったとき、思わず真は身体を浮かした。

 身体に起こっている出来事は、単純に身体の反応を引き出す。真は、どこかで自分の身体がこの男を受け入れようとしているのではないかと怯えた。だが、心の内は恐怖と後悔と哀しさで震えていた。仁の舌はそのものが意思を持っているように、真の口の中だけではなく、その心のうちまで吸おうとしているようだった。
「美和にとって、お前が俺の代わりができるとは思えない。だが、俺にもあの男の代わりができるわけじゃない。あの男が帰ってきたら、お前は美和に泣きつく理由がなくなる」

 真は答えなかった。仁はひとつ息をついた。そして真の目を真正面から見つめた。ヤクザとは思えない、真っ直ぐで曲がったところのない目だった。
「お前はどう転んでも堅気だ。だが、俺はいつでも銃器不法所持罪が適応されるヤクザだ。連れて行って損はないぞ」
 仁が漸く真を放し、真のスラックスの中から手を出して、フックを止めた。

「美和は俺の女だ。だが、お前は俺の義兄弟だ。今の事は忘れろ。俺も、お前と美和の事は忘れる」
 真は勢いに押されて頷いた。多分、まだ真は情けない顔をしていたのだろう。仁は厳つい顔のまま微笑んだ。
「ただし、慰めて欲しいならそう言え。身体だけなら慰めてやれる。すぐにいかせてやるぞ。まあ、さすがに相愛の相手ほどには良くないだろうけどな」
 いつもの仁の顔だった。

「俺とあいつは別にそういうのでは」
「嘘をつくな。あいつの態度は、お前が、身体も心も命さえも自分のものだという自信に満ちている」
「あいつは、女しか抱きませんよ。あなたと違って」
 開放されたと思って安心したのか、ここでまた沈黙になっては気まずいと感じていたからか、真の口からはいつになく言葉が勝手に出てきた。

「一緒に住んでて何を言う。あいつのような男が、女と過ごす時間を潰してまでお前と一緒にいる。どうやって性
欲を処理するわけだ?」
「仁さんの計算はそういうのですか」
「お前だって香野深雪に会わない日の方が多いはずだ。自分で処理してるわけじゃないだろう。しかも、憎からず思う相手が同じベッドで眠っている。我慢はできんな」
「だから誤解です。あいつは俺を子どもだと思っている」
 もしくは、言うことをきかない飼い猫レベルだ。

 仁はようやく、いつものようにニヤニヤと笑った。
「あててみせようか。お前らは、お前がまだ小学生の時からの知り合いだ。いくら何でも小学生や中学生には手を出さない。だが、どこかで箍が外れる。ところがあいつはもともとノン気だからな、いざそうなってみると、どう落とし処を作ればいいのかわからないのさ。しかも、あいつは意外に素直な男だ。考えても見ろ、十代の半ばまでをカソリックの教えに縛られて過ごしている。自然、神様の罰は恐ろしいわけだ。だが、お前を心から大事に思う気持ちは止められない。何故なら、お前と一緒に」
 仁は少し言葉を止めた。カセットの曲が『Rock Around the Clock』になって、いきなり勢いづいたからかもしれない。
「真実の瞬間を見たからだ」

 真は何のことだろうと思って仁を見た。
「あいつが、何か言ったんですか」
「いや、飲んで口を割らそうと思っても、あの男、半端じゃないくらい酒に強いからな。なあ、真、人間は一生の間にそう何度も、ここぞという場面に出会わない。自分の生涯を決めるかもしれない瞬間だ。だが、何度かある。キャンディーズの歌にあるだろう。人は誰でも一度だけ全てを燃やす夜がくる、ってな。多分、お前とそういう夜を、夜とは限らんけど、過ごしている。もしかすると、瞬間かもしれないけどな」
「キャンディーズ?」
 さすがの真とてその有名な歌手のグループ名は知っていたが、どんな歌を歌っているのかまではよく知らなかった。
「お前が知るわけないか」

 仁は完全にエンジンを切った。
「だがな、男は一度突っ込むと、その相手を自分の所有物だと思ってしまう。お前も誰かに対してはそう思うだろう?」だが、美和はもう無しだぞ、という視線を仁は送ってくる。「でも、あいつはお前をそういう相手にはしたくない。お前を育てたという自負もあるからだ。あいつはかなりややこしい男だぞ。奔放で自分の欲望に敏感なくせに、ある部分では修行僧並みに禁欲的だ」
 真はほっと息をついた。
「仁さんはよく分かるんですね」
 言ってから、いつの間にか仁のことを、名字でなくファーストネームで呼んでいることに気が付いた。

 ヤクザと親しい付き合いというのも拙いだろうと思うので、他人前で不用意に下の名前で呼ばないように、普段から名字で呼ぶように気を付けていた。それにそもそも、仁とは親しい、というわけではない。事務所のオーナーと雇われ所長という間柄で、たまに飲みに誘われることはあっても、あるいは父親の北条東吾の呼び出しで碁や将棋の相手をすることはあっても、親しいという間柄とは少し違っている。
 飲みに行くと、仁はそろそろ名前で呼び合う仲になりたいねぇ、などと言うので、その時間だけ、相手の機嫌を損なわないように下の名前で呼ぶようにしていただけだ。それでも、仁の方はすっかり真をファーストネームで呼ぶようになっている。そして、いつの間にか真の方も、頭の中では下の名前に慣れてしまっていたのかもしれない。いや、美和が仁と呼ぶので、耳に馴染みが深くなっているだけなのだろう。
 この際だから、もういいかと思った。

 仁はそれに気が付いているのかどうか、呼び方については何も突っ込んでこなかった。
「まぁな。俺はああいう無理をしている男が好きなんだ」
 真は思わず仁を見た。
「聞き捨てならないだろ? もっとも守備範囲は外れてるけどな」
 そう言って、仁は何を思ったのか、真の頭を撫でるようにした。
「気分はどうだ? あちこち痛むだろう」
 真は、一度息をついてから、頷いた。
「頭ははっきりしてきましたけど」
 仁の迫力で、脳が目を覚ましてしまった、というのが本当のところだった。
「コーヒーはどうだ? 飲めそうか?」
 真は一応頷いた。ヤクザに脅されるというのは、相手がどうあれ、内容がどうであれ、おっかないということに、後になって気が付く。ほっとしたら、どっと身体が重くなった気がした。

 仁は運転席のドアを開けかけて、ふと止まる。それから半分背を真に向けたままで言った。
「ところで、美和には何も言うなよ。俺がお前を責めたとなると、美和に何を言われるか分かったものじゃない」
「言いませんよ」
「だが、お前が次に彼女に誘われて断ったら、あいつは理由を聞くぞ」
「あなたが帰ってきたんだから、誘いませんよ」
 一瞬、沈黙があった。
「そうだといいけどな」
 そう言い捨てて、今度こそ仁は雨の中に出て行った。
 真はふと、北条仁も意外に自信がないところもあるんだな、と思って感心した。そう考えて、思わず仁に触れられた唇に薬指を当てた。

 真実の瞬間。
 闘牛士が最後に牛に止めを刺す瞬間をそう呼ぶ。牛と闘牛士の、生きるか死ぬかの瞬間だ。それと比べるのはどうかと思うが、仁の言うことは何となく分かる気がした。
 アッシジの夜。
 もうその先はなくてもいい、と思った。

 だが、思い返してみれば、大和竹流が自分にしてくれたことについては、ほとんど全ての『瞬間』を覚えていた。驚異的なスパルタで勉強を教えてくれていた時も、怒られて怒鳴られた時も、水が苦手な真に無理矢理泳ぎを教えてくれた時も、秩父の山奥の旅館で慰めるように抱き締めて眠ってくれた夜も、大和邸で過ごしたあの夜も、何もかも。
 そして何よりも、あの崖から落ちた日、その後の意識のなかった一週間、ずっと彼が側にいたのを感じていた。眼を覚ましたとき、最初に見たのは、あの青灰色の瞳だった。記憶の失われいる時間の中で、彼の存在だけは、はっきりと感じていたのだ。

 基本的にアヒルだな、と思った。生まれて初めて目にしたものを親と思っている。
 真も、生き返って初めに目にしたものを、やはり親と思っている。
 りぃさが亡くなった後、強い風の吹く大間の海岸で、一緒に住もうと言われた。覚悟をしたが、竹流は何もしようとしなかった。それから二年半、仁の言うような性欲を処理する気配など、真に向けられたことはない。昇にもいつも欲情していると言っていたらしいが、そういう対象にされた覚えは一度もない。今、仁に舌を差し込まれるようなキスをされて、不意に考えた。あんなふうにキスをしてくることもない。

 どう考えても、飯を作ってくれることと真の健康管理に使命を燃やしているとしか思えない節もある。
 あのアッシジの夜以来。
 そして、アッシジを離れローマに戻った後で泊まった修道院の、祭壇脇の礼拝堂に掛けられた絵を思い出した。

 竹流はあの時、神父に絵の洗浄を頼まれていた。十字架から降ろされる主イエスの傍らに、祈りを捧げるマリアが描かれていたようだが、何故か晩年になって画家自身により塗りつぶされ、代わりに、岩の傍らにひっそりと野の花が描かれた。修道院とその援助者たちの話し合いの結果、是非ともマリアを光の下に蘇らせたいということになったようだった。
 竹流は何日も、礼拝堂の床に降ろされた絵の前に座り込んでいた。気分転換と称しては、真を外に連れ出して、彼の愛するローマの街、路地、噴水、教会、森や丘を見せてくれたが、真が覚えている彼の姿は、ずっとあの絵の前に座り込んでいる。

 夜中にふと、隣に彼が眠っていないことに気が付く。礼拝堂からは小さな明かりが漏れている。振り返って真の姿を認めると、竹流は少し手を差し伸ばすように真を誘う。側に行くと、抱き寄せるようにして真を座らせた。
『洗浄?』
『絵を洗うんだ。年数で降り積もった塵だけではなく、上に置かれた不要な絵具も取り除くことができる』
『何が出てくるんだ?』
『マグダラのマリアだよ。昔の記録でも赤外線でも確認されている。マリアは宗教的にはイエスの弟子だが、歴史的には妻であったとも言われている。ここにマリアが描かれているのは、信仰と愛と悲しみの表現として、極めて当然のことだ』
『でも、迷ってるのか?』
 真が聞くと、竹流は少し微笑んだようだった。
『お前はどう思う?』

 真は、ひっそりと岩の陰に咲く小さな野の花を見つめた。本当に小さな花だった。そこには風さえも吹いているのが感じられ、花弁の内側から微かに立ち昇る温度までもが伝わってくる。温かい涙のような湿度は、土や岩さえも濡らしていた。
『マリアは、ここにちゃんと見えるけど』
 真が答えると、竹流は暫く真の顔を見つめ、それから真の頭を抱き寄せるようにして、額に口づけた。

 結局、竹流は表面の埃や塵を洗浄しただけで、マリアを絵具の下から掘り出してこなかった。神父は穏やかで賢明な人物で、竹流は真の言葉をそのまま神父に伝えたようだった。神父は真を祝福し、あなたには本当に神が見えている、と言った。
 だが、真の言った本当の意味を、神父は知っていただろうか。
 本当に見えていたのだ。見えるような気がしたわけではない。竹流の目が見ていた、画家の真実の思いが、ただ真に伝わっただけだった。

 あの男は神かもしれない。あるいは激しい暴君かもしれない。
 そういう思いが、真のどこかにある。どこまでも清く気高い精神と、故郷へ帰ることもなく東へと遠征を続けた大王の荒々しい神性の、どちらも彼の内を駆け巡っている。それが直接的に真に伝わってくる。
 ヴァチカンの礼拝堂で、真は過去のローマ教皇に出会った。もうこの世の人ではない教皇は、真の傍らに立ち、教皇だけに許された礼拝室に誘った。彼は真に告げた。何を迷っているのか、と。

 おのれの信じた道を往きなさい。答えはあなた自身なのだから。
 そう言って教皇が指した先で、あの男が座って祈りを続けていた。教皇の目は、穏やかに慈しむように竹流の姿を見つめていた。彼をローマに戻すようにと言われているように思ったが、それ以上の言葉はなかった。
 ローマの街が、彼を包み込む光の全てが、彼をあの場所へ戻したがっているように思えた。
 混乱していた。彼に対する感情が、あるいは彼の感情が、あれほどに聖なるものに包まれているのに、どこかで不可解な欲望が渦巻いている。自分にも彼の中にも。

 仁にコーヒーを手渡されるまで、真はぼんやりとしていた。
「休んでいくか?」
「行きましょう。仁さんが大丈夫なら」
 仁はしばらくの間、真の顔を見ていた。真が何だろうと思って仁を見ると、にやっと笑う。そのまま、空いた手で真の頭を撫でて引き寄せ、耳元に囁いた。
「いいねぇ。飲み屋以外でそんなふうにさりげなくファーストネームで呼ばれるのは」
 真は慌てて身体を引いた。気が付いていたのかと思って狼狽えたが、過剰に反応して相手の関心を引きたくなかったので、後はただフロントガラスの向こうのサービスエリアの店の明かりを睨み付けて、コーヒーを口につけた。
 その後はお互い黙ったまま、ゆっくりとコーヒーを飲み終えてから、仁が車をスタートさせた。




昔、オールディーズに凝っていたころがあります。
と言っても、私の場合、音楽を聴く時は、民謡と三味線以外は基本「ながら族」なので、知識として詳しいわけではありません。
でも、あの時代の雰囲気、映画で言うと、ハリソン・フォードも出演していた「アメリカン・グラフティ」の時代のイメージ、好きなんですよね。

北条仁と真のデート(語弊がありますね。単に待ち合わせをして会う、という意味のデート)は、基本このオールディーズを聴かせる店だったようです。
え? 結構、竹流とよりもいい雰囲気に見える? いいのか、竹流?って気がします?
いえいえ、竹流はこれっぽっちも慌てていません。
真は自分の所有物(飼い猫?)だと思っていますから。

飼い猫と言えば、limeさんが描かれた漫画(『凍える星』パロディ漫画:NAGI)の中に、タケルとマコトがお邪魔させていただいておりますが、2人、いや1人と1匹の間の微妙な距離が可笑しい……
マコトは腰が引けていたり、ちょっとタケルにビビっている??
それに比べて、ワトスンくんを取り囲む猫たちの近いこと!
この対比、limeさんは意識されたんでしょうか??
自然にこうなっちゃった??
多分、マコトはタケルからちょっと距離を置いて待ってたり、影ふみ遊びしたり、しっぽ鬼ごっこしたり、でもいざという時にはタケルの傍に逃げ込めるようにあまり離れすぎず、魚を待っていたはず(^^)

ちなみに、キャンディーズの『アン・ドゥ・トロワ』、実はものすごく好きなんです。

次回は第16章の最終回。短いです。
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Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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コメント


わかりやすいかも

身構えて、仁という人に挑みましたが、この方、けっこう可愛い人ですね。
もっと重々しい、面倒な仁義を持っているのかと思ったけれど、すごくピュアなのかも、と。でもいざとなったら大切のもののために鬼にもなれる気迫があって、好きです。
武流も鬼になれるけど、その時は台風になって手がつけられなくなりそうな危険を感じるので、仁さんのほうが、安心して真を預けられます。
でも仁さんは、美和のことが本当にすきなんですねえ。そんなところも可愛い。
「もう、これっきりにしてね」って感じに真に念を押す感じが、とってもラブリー。(すごく間違った印象をもってしまったかも)
仁さんに、ストレートに説明してもらうと、複雑な武流と真の関係も、シンプルに整理出来るかもしれない・・・なんて思ってしまいました。

>「真実の瞬間を見たからだ」
この言葉、妙に納得でした。

真、この男のそばにいたら、すごくリラックスできるようですね。
つまみ食いしてしまった女の男であり、刃向かえない状況なのに、なんだこの安心感は(笑)
ちょっと浮気性なんだけど、好きなものはちゃんとキープしている仁さん。好感もてます。

真の武流への気持ちも、毎回モノローグとして語られますが、今回もまとめのような感じで書かれていますね。
やはり、微妙な距離感。

あ、マコトのあの位置ですよね。
あれ、どうしてもあの距離になるんですよね。不思議です。
画角から外れないように、めいっぱい近づけて、あれでした(笑)無意識なんだけど、・・・不思議です。

ふたりの間に、なにか答えのようなものが見つかっても、あの距離は縮まらないんだろうなあ、という気がします。
その距離を、読者が興味深く見ていく物語なのかもしれませんね。

lime #GCA3nAmE | URL | 2013/10/05 10:10 [edit]


limeさん、ありがとうございます(^^)

ちょっと前ふりし過ぎましたね^^;
蓋開けてみたら、大した人じゃなかった感が……いや~、実はただのいいあんちゃんかも?
いえいえ、面倒な仁義はあるのですけれど、この【海に落ちる雨】では真の兄貴分の役割を果たしているだけでした。次作の【雪原の星月夜】では上部組織の組を継ぐ継がない問題が浮上して、ものすごく厳しいことになっていますし、美和ちゃんも大変なことになっていますが、このお話では、少なくとも仁が出ている間は、確かに安心して読んでいただいていいかも……
あ、女には手を出しますけれど^^;
ついでに真にも? それは置いといて……^^;(5年後に落とすつもりらしい)
でも、ピュアなのは事実かもしれません。この人、大変ながらも結構人から愛された幼少期を過ごしているんですよね(満州生まれですけれど、中国人養母にもよくしてもらった)。3つ子の魂百までもってやつですね。
そう、そして、本当に美和ラブなんですよ。ま、美和ちゃんはあんな性格なので、開け広げで、怖いもの知らずで、仁にはもう可愛くて仕方がないようで。でも少しだけ、2人のこころも揺れ動いたりします。
実はこの話、バックに美和と仁の恋物語も並行しているのですね。そして最後は……ちょっとお伽噺風に二人のラブラブが?? どうかな??

> 「もう、これっきりにしてね」って感じに真に念を押す感じが、とってもラブリー。(すごく間違った印象をもってしまったかも)
う…ラブリーときましたか……
仁さん、舐められキャラになっている? 確かに一部そんな部分もあったりして……
でも、この男、ものすごく浮気性ですからね!^^;
全く、って感じです。竹流以上かもしれません。
そう、でも確かに、人間好きで、観察しているかもしれませんね。竹流のこともあれこれ見抜いていて、心配もしているし。ちなみに、仁と竹流、コブラとマングースならぬ、ヘビとカエルならぬ、トラと豹、ゴジラとキングギドラみたいに、時々睨み合っていますが、たまに真のいないことろで飲んでいるのではないかという疑いあり。どんな会話しているんでしょうね……
仁は基本的には親分肌なんですね。だから、自分の組(!)の連中のことは何があっても面倒をみてやりたい人。だから真のことも、実は真の妹夫婦ともこの話で絡むんだけど、気になるし面倒見たいんですよ。
あらら、……いい人ですね^^;

> >「真実の瞬間を見たからだ」
> この言葉、妙に納得でした。
うん。誰かと間違って真実の瞬間を見てしまって、で、離れられなくなるってこともあるので、この関係の良し悪しは分かりませんけれど、こんな因果な相手と見てしまった真は、もうどうすることもできませんね。
だからこそ、物語は進むのですけれど。

> 真、この男のそばにいたら、すごくリラックスできるようですね。
> つまみ食いしてしまった女の男であり、刃向かえない状況なのに、なんだこの安心感は(笑)
いやいや、それはまさに書いている最中の私の気持ちです。
道連れとして、こんなに心強い相手はいないなぁと。

> 真の武流への気持ちも、毎回モノローグとして語られますが、今回もまとめのような感じで書かれていますね。
> やはり、微妙な距離感。
真は今はいつも竹流のことを考えていますから……いつでもほろりと思い出すのですね。
でも、この思い出の中の二人を書くのって、結構好きなのです。
少しレトロな雰囲気の中で、少しファンタジックで、そして例えばすることをしていても(!)お伽噺みたいな世界観で、それを楽しんでいただけたらと思います。
そうそう、竹流は確かに台風ですね。で、皆がビビるという。
だって、基本的にはイタリアマフィアで、パパはゴッドファーザーですものね。

> あ、マコトのあの位置ですよね。
> あれ、どうしてもあの距離になるんですよね。不思議です。
> 画角から外れないように、めいっぱい近づけて、あれでした(笑)無意識なんだけど、・・・不思議です。
やっぱり……何だかちょっとビビっているんだ!(笑)
いえ、実際にちょっとビビっているんですよ。だって、基本は雲の上の人、ですし、一度ローマに行ったときに、おじちゃんやら教皇の幽霊にさんざんビビらされていますから。
真もマコトも頑張っているんですねぇ。それがlimeさんが描いてくださった絵からもひしひしと伝わってきて……^^;
> ふたりの間に、なにか答えのようなものが見つかっても、あの距離は縮まらないんだろうなあ、という気がします。
> その距離を、読者が興味深く見ていく物語なのかもしれませんね。
ほんと、その通りです。深く感じて表現していただいて、感謝にたえません。
ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします(*^_^*)

彩洋→limeさん #nLQskDKw | URL | 2013/10/05 12:06 [edit]


limeさん、近いです

というのか近すぎます。
わ~いい、limeさんからのリクエスト、受け付けます!
楽しみ~、初めてですね。
どんなSネタか(いやいやいや)楽しみにお待ちしております!

彩洋→limeさん #nLQskDKw | URL | 2013/10/05 12:57 [edit]


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# |  | 2013/10/05 14:28 [edit]


鍵コメL様、ありがとうございます(^^)

鍵コメ……でもLさん。何だかすぐ分かっちゃうって感じでした^^;
なるほど逆パターン。了解いたしました。
でも実はそのパターンは結構あったかも??
いや、真はいつもビビっていますから……一生懸命、時間通りに行動しているつもりなんですけれどね。
マコトは……確かに一人(一匹)でうろうろできない子のはずだから、それはかなり焦るに違いありません。
ちょっとコメディタッチのほうがいいかな?
リクエスト、ありがとうございます(*^_^*)
しばし練らせていただきます(*^_^*)

彩洋→鍵コメL様 #nLQskDKw | URL | 2013/10/06 08:13 [edit]

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