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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨87] 第18章 その道の先に(2) 

【海に落ちる雨】第18章その2です。
しばらく本筋を離れるように見えるかもしれませんが、真の感情を支配している出来事のひとつをお伝えして、今後、真がどういう感情に陥っていくのか、その追いつめられる状況を説明できればと思います。

とは言え、ここから3回分、全く独立した話として読んでいただいても差し支えありません。
よろしければ、少し心に問題を抱えた高校生の複雑な恋(ということにしておこうっと)をお楽しみください。
尚、まともにシーンは描写しておりませんが、同性の恋愛(もどき)が書かれていますので、不快に思う方は避けてください。でも決して、ラブラブな恋愛ものを想定してはいけません。
と言っても、今更、この二人がただの愛だの恋だのという関係でないことは、ある程度分かっていただいていると信じて……






 大学受験を前に恐ろしく緊張していた。
 その理由が何だったのかは今一つ分からないが、今は妹の夫になっている友人に誘われて、模試会場に行ったその日がきっかけだった。

 もともと人混みが苦手だった。
 小学校の後半からほとんど学校に行けなくなっていたが、中学一年生の時に起きた暴行事件から完全に不登校になった後、伯父である功の留学のため、一年をカリフォルニアで過ごした。
 幸い、帰国して編入した中高一貫教育の私立校は、自由な校風で、特殊な外見を持っているというだけで苛められることはなかった。海外に姉妹校を持つ学校で、交換留学生がいたこともあり、多少髪や目の色が違うだけでは苛める理由にならなかったのだろう。
 勿論、その時までには立派に協調性という資質を失っていた真は、他の生徒と打ち解けることはなかったが、学校にはそれなりに通うことができるようになった。

 難関は電車通学だった。しばしば頭痛と吐き気、時には胸痛で電車に乗っていられなくなった。妹が同じ学校に通うようになって、多少はましになったが、何かの拍子に手足の先から痺れるほど冷たくなってくることがあった。
 精神科の医者に言わせると、田舎育ちで人混みに慣れていないだけだから、あまり深刻に考え過ぎると良くない、という程度の話なのだが、不本意な環境下になると精神のバランスが保てなくなるのは、社会生活上きわめて不自由だった。勿論、その根底に苛めを受け続けてきた過去があるわけで、人間に対して根本的に恐怖を持っているために、不特定多数の人間がいる場所でパニックになり、それが身体に表れる、というのが精神科医の説明だった。
 実際、酷いときには各駅停車の全ての駅でホームに降りなくてはならず、トイレで吐いたことも一度や二度ではなかった。弱い精神安定剤を勧められたこともあったが、受診を勧めた脳外科医の功も、まだ未成年の、しかも自分の息子にそういう薬を飲ませることには抵抗があったようだった。

 それでも、功が失踪してからも勉強や生活の面倒を見てくれていた竹流のお蔭で、少しずつパニックにならない方法が分かってきて、気持ちを切り替える状況を自分なりに作り出すことができるようになっていった。
 何より、ほとんどスパルタに近い竹流の教育を受けていたわけで、それを受けて立つには無茶苦茶な量の読書を必要とした。電車の中で本を読むことに集中していれば、何とかその時間をやり過ごせることが分かったのだ。

 それが模試会場で吹っ飛んだ、というのは言い過ぎかもしれないが、人が多く集まって広い同じ部屋でひたすら机に向かっている会場に入った瞬間に、ざっと血の気が引くのが分かった。何かにとり憑かれたような会場の空気、真に向けられた目が、転校した日の同級生たちの好奇の目と重なってしまった。

 分かっていたのか、分かっていなかったのかは知らないが、竹流は塾にも行かない真のために、あの頃無茶苦茶に忙しかったはずだろうに、真の受験する大学の過去問題を徹底的に研究していたらしい。元々どんなことでも中途半端が大嫌いな男で、やるとなれば全く手を抜かなかった。

 そういう実際の勉強の対策は良くても、試験会場という特異な空間の圧迫感に真が潰れるとは思ってもいなかっただろう。真のほうも、それを竹流に知られるのが怖くて、何も言わなかった。
 これまでもさんざん怒鳴られてきたので、今更怒られることが恐ろしいわけではなかったが、人混み恐怖症の再発は、竹流を呆れさせ、失望させるのではないかと思った。まるで彼の子どもであるかのように、真は竹流にがっかりされるのが辛かったのだ。

 入試の一週間前、一体誰が何を言って、竹流がそういう行動に出たのかは分からない。
 竹流が灯妙寺の離れにやって来た日、煮詰まっていた真は朝からひたすら太棹三味線を叩いていた。
 あの頃、自分の存在が竹流にとって何だったのか、彼の仕事や、女たちの存在と比較しても、決して優位にあったとは思えない。あの頃の竹流は真を一個の人格として、彼自身と同等の存在として、認めていたようではなかった。

 太棹を叩き続けているうちに、既に無意識の世界に入り込んでいた。
 冷えた空気の中では、犬の皮も絹の糸も鋭く張り詰め、まるで生命の残響を叫び続けているように思える。一の糸に戻った左手の薬指は棹を高音の勘所までなめらかに滑り降り、叩き続ける右の手は、もう自分自身のものかどうかさえ分からなくなっていた。
 一瞬、真は撥の当たり具合を気にして、目を開けた。自分の手元を見てから、何気なく顔を上げたとき、離れたところで立ったままの竹流の姿を認めた。

 その瞬間、心臓が掴まれるような痛みに襲われた。
 これまで経験したことのない痛みは、一瞬、真の意識をふっ飛ばしそうになったが、それを留めたのは痛みの原因を持ってきたはずの男の、北の海と同じ色の瞳だった。
 真はゆっくりと撥を止めて、太棹を縁側に置いた。
 受験などというつまらないことで緊張しているのを知られたくなくて、竹流と目を合わせることはできなかった。

 竹流は祖父母に挨拶をしに行き、長一郎と座敷で話しこんでいた。
「いや、随分向こうからじょんからのいい節が聞こえていて、てっきりあなたが叩いているのかと思いましたよ」
 耳の良い竹流が長一郎に何気なく言った言葉が、長一郎をどれほど喜ばせたかは、真にも直ぐに分った。長一郎が昼間から酒を用意させて、どういう話の脈絡だったのかは知らないが、江差追分を唄い始めたからだ。

 祖母はもともと金沢の芸妓の家に生まれているため、唄も三味線も子どもの頃から親しんでいた。養女に出された先が民謡を生業とする家で、北海道に嫁いだ後も半ばプロのようにして活動もしている。長一郎は太棹三味線こそ玄人はだしだが、唄のほうは滅多に唄わない。その長一郎が唄うのは、かなり気分のいいときだけだった。
 長一郎の江差追分には胸を掴まれる何かがある。
 祖父と竹流の気配を隣の部屋から感じながら、真は何となく逃げ出したくなってきた。試験前なので病院行っとく、と祖母に断って灯妙寺を出る。
 もともと結構な不整脈で、薬を飲むほどではなかったが、三・四連発までの心室性期外収縮が一日の脈拍の十から十五パーセントほど出ている。主治医の斎藤は功の同級生で、ある企業が作った有名病院の循環器内科部長だった。

 驚いたことに、斎藤の部屋を尋ねると、竹流が来ていた。
「おばあちゃんが、お前が病院に行ったっていうから、慌てて追いかけたのに、何で俺の方が早く着くわけだ?」
 心配してくれていたのだとまでは、その時思い至らなかった。
 心電図をとって斎藤の部屋に戻ると、竹流と斎藤が久しぶりで嬉しかったのか、話し込んでいた。斎藤は真に、功と同じように医者にならないかと勧めたことがあったが、それを聞いて真だけでなく竹流までも、それは患者も災難だ、と言って一蹴した。

「それで、結局理工か。それもいい選択だな」
 竹流が笑って付け足した。
「いつか、宇宙に飛ぶそうで」
 真は思わず竹流を睨んだ。確かにそう言ったのは真自身だが、甘ったるい夢で斎藤に馬鹿にされると思ったのだ。だが、斎藤はむしろ嬉しそうに笑った。
「相川と同じことを言ったな。あいつが理学部からの転向だったのは知ってるだろ? 天文学をやるつもりだったらしいぞ。何処でどう間違って医学部に変わったのか知らないが、ロケットを飛ばすつもりだったと言ってたよ」

 その話は、真も功から聞いた事があった。何故、その夢を捨てて医学部に移ったのかは知らないが、宇宙の話をするとき、功はいつも本当に楽しそうだった。真が登校拒否で苦しんでいたときも、功自作のプラネタリウムや、自慢の宇宙ものの映画やドラマのコレクションは、学校に行けなかった真の慰めだった。
「どうあっても、君にとって相川功は父親だったわけだ」
 真は、本当は調教師になるつもりだったけど、葉子を一人にできないから諦めた、と答えておいた。功を慕っているとか、父親に甘えたい気持ちがあるとか、そういう話はごめんだと思ったからだった。

「お前に人間の言うことをきく馬など育てられないだろう。好き勝手させるに決まってる」
 保護者二人はあっさりと真の反論を放置した。
 斎藤は笑いながら、真から心電図を受け取り、それをめくって、それから真の方を見た。
「意識がふっとんだり、手足が痺れるようなことはないか?」
「意識は飛ばない。何となく、たまに痺れる感じはあるけど、大丈夫、と思います」
 竹流の気配を横目で窺って、結局強がってしまった。
「痺れがあるのか?」
 真はどう答えるか考えた。軟弱者と言われそうだな、と思ったが、覚悟を決めて言った。
「分からない。ちょっと手足が冷たくなるような感じがするだけ」
 その真の言葉をどう解したのか、竹流はその日から入試までの一週間、真を大和邸で預かった。竹流の有無を言わせぬ気配に負けて、真には拒否する隙もなかった。

 その日からの出来事について、竹流は、後からほとんど言い訳をしなかったが、一度だけ酔っていたときにローマで言った。
『あの日、灯妙寺の縁側で、何かに憑かれたように三味線を叩いていたお前の、神懸かりのような表情と、腹の底に直接響いてくる三味の、あの一の糸の音が俺を狂わせたな』
『単に、気の迷いだったって意味か?』
 幾らか非難めいた声で言うと、竹流はいつものように、柔らかい想いのこもった瞳を真に向けて答えた。
『そうじゃない。今まで俺の感情が誰に対しても極めて淡白だったということを思い知らされたんだよ。初めておじいちゃんの江差追分を聞いた時も、背中から刺されたような気がしたけど、それにも増して、魂のどこかを抉られたような気分だった。それまで、俺は他人に自分の固有の時間を邪魔されるのなど、あり得ないと思っていた。けど、考えてみれば、滝沢基が撮ったお前の写真が街中に貼られていたときから、時々お前の顔が作業中の絵の上にも、報告書の数字の上にもちらついていた。これは恋かな、と真剣に思ってしまったよ』
 そう言った竹流は、そのまま飲み続けてすっかり陽気になり、バールの親父たちと歌ったり飲んだりで、結局どこまで本気の話だったのかつかめなかった。

 その日、一時間ほど車を走らせて着いたのは、立派な洋館だった。
「大和の家だ」
 事態の飲み込めない真に、竹流が自分の家だと言った。
 それまで、彼の氏名が何かの冗談でつけたニックネームのようなものだと思っていた真は、かなり驚いた。
 随分後になるまで真は、彼が形式上、大和顕彦という男の養子になっていることを知らなかった。いずれにしても、マンションに住むためにも複数の金持ちマダムと関係を持っている(と真が思い込んでいた)竹流が、銀座の一等地のビルを所有した上に、更にこんなところに立派な家屋敷を持っていることは、怪しい以外の何ものでもなかった。

 玄関は、主人の帰りを待っていたように開いた。現れたのは、初老、いやまだ中年の域の、落ち着いた厳しいムードの男だった。
 竹流はその男に、一週間ほど篭もる、と告げた。男は心得たようにただ頷いて、それから竹流がコートを脱ぐのを当たり前のような仕草で手伝って、さらに真のコートも脱がせてくれようとした。真は慌てて、自分でします、と言ったが、それを完全に無視された。男は、大和家に仕えている執事の高瀬と名乗った。

 大和邸は立派な屋敷だった。多分明治の頃に華族の住居、あるいは別荘として建てられた屋敷なのだろう。廊下も階段も広く、磨きぬかれた床は大理石のようで、高い天井にはレトロなシャンデリアが並んでいる。
 そのまま、二間続きの主人の居室に案内された。豪華な廊下に比べると、室内の調度はむしろシンプルだった。奥は寝室で、手前の部屋は主人のためのリビングなのだろう。居心地の良さそうな皮のソファと、大理石のテーブル、それに大きな窓の近くには木枠にビロードが張られたカウチと、小振りな木のテーブルがある。さらに寝室に近い壁には、ぎっしりと本の並んだ書棚と机があった。
 後に案内された図書室は、伯父の書斎も及ばないほどの規模で、試験勉強の息抜きに本を見ようと思っても、日本語の本はごく一部で、しかも大方は古文書のようだった。

 真は、その日からこの屋敷で、入試の最後の追い込みに入ることになった。竹流は、自分もここで仕事があって、奥の部屋に篭っているから邪魔するな、と真に告げた。
 緊張して参っている気配を察知されていたんだと思った。
 竹流が仕事をセーブして自分のためにこうしてくれたのかと思うと、有難いと思うべきだったのかもしれないが、素直に感謝はできなかった。弱みを見せていることについてはもう今更どうしようもなかったが、子どもを宥め賺すように扱われていると思うと複雑だったのだ。

 それでも、竹流は日に何時間かは真の勉強の相手をしてくれた。竹流の手からは、油か化学薬品のような複雑なにおいがした。疲れると真は大概ソファで眠ったが、目が覚めるとベッドの中だったりした。そして、いつも定期的にきっちりと食事に呼ばれた。竹流の方は、朝以外はほとんど一緒に食事をしなかった。

 さすがに試験まであと二日となると、眠れそうになくなってきた。その日はソファではなく寝室のベッドに潜り込んでみたが、何度も寝返りをうって、結局諦めた。
 ベッドから出て素足のままスリッパを履くと、思った以上に冷たくて、思わず身を縮めた。
 広い廊下に出て、一度も足を踏み入れなかった奥の方へ廊下を歩く。
 奥の部屋からは一筋灯りが漏れていた。

 多少は躊躇ってからドアを開けた。
 部屋はかなり広かったが、中は雑然としていた。もともとは接客のためのホールだったのではないかと思われるが、そこに所狭しとイーゼルや大小の机や椅子が置かれて、部屋中にあの不思議な油や薬品のにおいが充ちていた。竹流はその真ん中で、目の前のイーゼルに置かれた板に顔を近づけるようにして、ルーペで何かを確認したり、時に傍に置かれた板のパレットの上で絵具の色を確かめたりしていた。

 あの日、真は生まれて初めてイコンというものを見た。真が問いかけたわけではなかったが、黙って後ろに立っていると、竹流は、ギリシャ正教やロシア正教の聖堂にある宗教画だ、と淡々とした声で説明した。

 竹流の手元に置かれていたイコンには、イエス・キリストの正面を向いた顔が描かれていた。
 だが、真はそのキリストの目を見て、背筋が冷たいもので撫でられたような、恐怖とも感動ともつかないものに襲われた。
 それは信仰の対象として描かれた神の子の絵姿ではなかった。

 その内に秘められているのは、何とも言えない不安で猛々しいものだ。こちらを向いた目だけは、異常なほどはっきりと、見るものの胸に食い込んできて、宗教画にあるまじき不調和の迫力だった。
 本来なら神の威光を表すはずの絵が、事もあろうに神の子自身の、不安と強烈な失望と恐怖により捻じ曲げられている。これを描いた人間の底知れぬ恐怖は抑えようもなく、そしてその恐怖を越えて悟りに達するための、根源的かつ盲目的な信仰心は完全に抜け落ちていた。

 だが、あくまでも聖画の形態は崩していなかった。それだけ強烈な印象を残すのは、その目のゆえなのだろう。それとも、また例の如く真の異常な感性が、得体の知れない何かを読み取ってしまったのだろうか。あるいは、今このイコンに向かい合っている修復師の感情が、真に何かを見せてしまっただけなのか。
 目以外の部分は随分と煤けて霞んでいるように見えた。
 随分と後になって他のイコンを見たとき、真は、あの日竹流の前に置かれていたイコンがやはり特異なものであったことを知った。あれはイコンであってイコンではないもの、画家が自分の思いを吐き出した底のない沼のような絵だった。それが誰の絵で、何故竹流がそれを直しているのか、真はそれ以降も聞いたことがなかった。

 眠れないのかと聞かれて、仕事の邪魔なら部屋に戻る、と答えた時、何の気なしに竹流が絵具を調合している机の上を見た。
 その瞬間、体がカッと燃えたように思った。
 真の注意を引いたもの、それは、いつもは竹流の左薬指に嵌められている指輪だった。
 竹流はその指輪のことを契約だと言った。契約というのは人間同士の間にあることなのか、神と人の間に交されたものなのか。冷たい渇いた響きだった。

 もしあの時、あのイコンの内にあった激しい熱情のようなものを見なければ、そして竹流が指輪を外しているのを見なければ、真はあんなふうに彼を挑発しなかったかもしれない。
 怒られると思いつつも、思わず竹流の昔を掘り返すような質問をした。竹流は冷めた声で、自分がまともに習ったのは絵画の修復作業だけだった、と言った。学校で習ったのかと聞くと、学校にはほとんど行っていない、と答えた。

「まともに行ったのはいわゆる小学校の半分くらいと、あとは十四の時に放り込まれた神学校だけだ。もっとも、立派な聖職者に許された仕事だったんで、そこでも修復技術を教わってたが、すぐに逃げ出した」
 真は意外に思った。環境も国も違うので同列には言えないことだが、彼が自分と同じようにまともに学校に行っていなかったというのは驚きだった。何しろ登校拒否の真を散々怒鳴りつけていたのだ。

 どうして神学校に行ってたのかと聞くと、竹流は微かに笑ったように見えた。
「悪さをして叔父に放り込まれたんだ」
「悪さって?」
「男に身を売ったんだ。もちろん、取引としてだが」
 竹流が真に示したのは、真には『身を売る』ほどのものには見えなかったが、天使の絵だった。
 田園と東屋と天使。金の巻き毛がくるくると踊るように頭を輝かせ、碧い瞳でこちらを見つめる天使は、無垢で優しく心に触れるような気配だった。しかし、神聖というよりは、人間的で温かい肉感的な表現は、ある部分官能的にすら思える。
 竹流の前にあるイコンのイエス・キリストとは全く異なる、神の存在も溢れる加護に対しても疑いのかけらもない、子どもの姿をした穏やかで無垢な天使。同時にその内側に人間としてのしなやかで強い生命力を輝かせている。背景には静かな田園風景が描かれていた。遠くに愛を語り合う男女の小さな姿がある。

「ジョルジョーネだ。そうだと思っているだけかもしれないが。その絵の持ち主は有名なソドミストでな、半年付き合ったらその絵をくれると言われた。始めは多少興味もあって付き合っていたけど、金は持っているものの、あっちのほうではとんでもなく下品な男だった。半年どころか、二ヶ月の内にこんな男がこの絵を所有していることが許せなくなった。それで盗ってきたんだ。もっとも、向こうも俺が盗ったのは知っているんだがな。屋敷の庭に十頭ばかりもドーベルマンを放ってあって、ものすごいセキュリティの中だった。奴は逆に俺をつり上げていたぶって遊ぶつもりだったんだろう。随分後になって請求書が送られてきたよ。二か月分は値切って払ったけどな」

 竹流が自分の過去について真に話すことは、これまで全くといっていいほどないことだった。あの大和邸で過ごした一週間は、そういう意味でもかなり特別な時間だった。
 あるいは竹流のほうでは、誰かに昔話をしていることが本意ではなかったのかもしれない。竹流の態度や言葉には怒っているような気配がないわけではなかったし、恐らく入試のせいで真が馬鹿みたいに緊張して、彼の気に障るような質問を繰り返していると思っていただろう。

 本当はどうだったのか、自分でもよくわからない。だが、誤解はそのままにしようと思った。
 実際に、何がきっかけでそういうことになったのか、思い出そうとしても記憶が混乱している。竹流に聞くのも妙な話なので、そのままになっている。
 ただ、大和邸の主人の寝室のベッドの上に広げられたサテンのシーツの手触りと、あの一瞬、鼻の中で広がった油絵具の匂いと、そして微かに竹流のキスから匂った強い葉巻の香りで、一瞬にして頭の中は真っ白になった。





恥ずかしくなると、字が詰まってくる……^^;
読み返したら、表現があちこち上手くないなぁ、と思ってがっかりしますが、もうそのままアップしています。
この先何が? いえ、大丈夫です。18禁に相当するような色っぽい表現は……あるような、ないような。シーンはあるのですけれど。
真の記憶ですから、極めていい加減なのです。
また明日

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Category: ☂海に落ちる雨 第3節

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コメント


びりびりと・・・

受験というのは、繊細な真の神経には、かなりのダメージだったんでしょうね。この、大和亭での竹流が饒舌に自分のことを語ったのは、真の気持ちを楽にさせようと思ったのか、あるいはイコンがそばにあったからか。

指輪を外した手が、真のたがを外してしまう瞬間って、なんとなくわかります。イコンの記憶も、それに融合しちゃったんですね。
ちょっとそのイコンを、見てみたい・・・。
竹流が昔、心酔したジョルジョーネの絵は、実在するのでしょうか。
全く関係ない話なのかもしれないですが、昔読んだ「エロイカより愛をこめて」という漫画の一節が、すごく蘇ります。
主役の美術品泥棒のエロイカが、まだ少年の頃、ジョルジョーネの絵の少年(あれは単に、絵の少年の名前で、レンブラントの作品だったのかも)に恋焦がれて、盗んでしまうという。結局、大人に贋作を掴まされてしまうわけですが。「序章」を読んでいた時に、あのシーンがすごく思い出されました。(脱線してごめんなさい)

それにしても、やはり真と竹流のシーンは、緊張感があっていいですね。
たとえ穏やかな美術品の話をしていても、常に何かピリピリと電気が走っている。
一触即発のような(笑)
きっとこのあと、一触・・・してしまうのでしょうね。
戦いの前のような、緊張感があるのは、何故?

lime #GCA3nAmE | URL | 2013/11/04 20:58 [edit]


limeさん、ありがとうございます(^^)

はい。受験で参っちゃうなんてのは、真にも自分で自分が情けないという感じなのでしょうが、大勢の人が集まっているのと緊張感が怖いのだと思うのですね。
ここは真視点なので、竹流が何を考えていたかは出てこないのですけれど、別に隠しているわけではないので、ちょっとご説明すると……竹流はこの頃、珠恵さんとの恋が成就して色んなことがうまく軌道に乗ってきて、結構満たされている時期だったのです。真のことは恩人の息子としては大事にしていたけれど、ずっと自分が優位にいて、気が向いた時には大事にして、それ以上の何かを求めていたわけではなかったのですが……気が付いたら不意に心配で仕方がない自分がいて、そんな自分にイラついていたようでして……
そこへきて、試験で緊張している真が、いつになく多弁で、それもイラつく原因で。竹流が饒舌になっていたのはまさに「一触」を避けるためだったのかも……
そう、箍が外れちゃったみたいですね。
イコンが、かつての罪の意識を蘇らせる鍵だったかもしれません。だから余計にイラついていたようです。
また竹流視点であれこれ出てきますので、それをお楽しみに!
ずいぶん先ですけれど。

ジョルジョーネの絵と確認されているものは本当に数が少ないそうですね。
同時代の同じような系統の絵を描く別の画家と混同されているものもあるようで、あるいは本当はジョルジョーネだけれど、分からないことになっている、もしくは別の画家のものと思われているものもあるらしいと。
というわけで、竹流が持っているジョルジョーネの絵はそういう1枚だろうと思います。
えぇ、きっと実在すると思います(^^) フィクションではありますが。

「エロイカより愛をこめて」!!!
なんと! その名前を聞くとは……伯爵と少佐。懐かしいです。
細かいエピソードは覚えていませんが、NATOの名前を知ったのもこの漫画でしたね。
そうか、そんなエピソード、あったかもしれません。
竹流が自分の仕事(トレジャーハンター的)を揶揄して「泥棒稼業」と呼んでいますが、頭の片隅に美術品泥棒の伯爵のことがあったかもなぁ。結構好きな漫画だったし……(^^)
う~ん、ちょっと懐かしくて嬉しいです。

> それにしても、やはり真と竹流のシーンは、緊張感があっていいですね。
> たとえ穏やかな美術品の話をしていても、常に何かピリピリと電気が走っている。
> 一触即発のような(笑)
> きっとこのあと、一触・・・してしまうのでしょうね。
> 戦いの前のような、緊張感があるのは、何故?
いやいやいや……本当にねぇ……(なんで照れてるのかしら、今更)
一触の次話をお楽しみに^^;!!(戦いの前……まさに正しい表現かも^^;)
コメントありがとうございました(*^_^*)

彩洋→limeさん #nLQskDKw | URL | 2013/11/04 23:11 [edit]

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