[雨96] 第20章 ローマから来た男(3)
東京に戻った美和は仁と再会します。果たして仁は何を美和に告げるのか。
美和と仁の心は、真を挟んで少し複雑になっています。
そして、仁が美和に告げた真の現状。いったい真はどうなってしまったのでしょうか。



美和が東京に戻ったとき、マンションには既に仁が帰ってきた気配があった。
新潟から一度東京に帰ってきた時とは、仁の残していった服が違っていたし、タイに行くときに持って出た旅行鞄が玄関脇の小部屋に放り込まれていた。
美和はひとつ息をついた。
九州と山口という、ここから随分離れた場所であった色々なことが、突然遠くにすっ飛ばされた気がした。ここに美和にとっての確かな現実がある。
真が仁と決闘するとは思っていなかった。仁が怖いというよりも、仁への仁義があってできないということは、分かっていることだった。結局は美和自身がどう判断するかなのだろう。
美和は吊り下げられた仁の服を見つめた。
答えならもしかしたら出ているのかもしれないのに、声に出すことができない。
ダイニングに入り、テーブルの上を見ると、仁の癖のある字がメモに残っていた。
『ホテルニューオータニ 一一〇一号室』
それだけだったが、ここに来いというメモであることは直ぐに分かった。
仁に真との事が漏れていないなどという虫のいいことは思ってもいなかった。多少開け広げだったことは認めるし、北条の誰かに見咎められた可能性は十二分にあった。
開き直るしかない。それは始めから覚悟していたことだ、と思い、そのまま出掛けることにした。ここで座ったりすれば、二度と立ち上がる勇気が湧いてこないだろう。
帰りの電車の中で思い切り寝ようと思っていたのに、ほとんど起きていた。頭の中では、何度も仁と真の事が行ったり来たりしていた。
それは二人の男の間で揺れ動く女心というものとは少し違っている。愛している人は一人だと思うのに、飛び込めない何かがどこかで引っ掛かっているのだ。それに本当は自分の心だってよく分からない。仁とのこれまでのことを全てなかったことにして、真のところへ行くつもりはやはりないのだ。恋をしたという感覚はあるのに、簡単に崩れ落ちてしまった、その理由が納得できていないだけなのかもしれない。
マンションを出て、電車に乗る気にはなれなかったので、結局タクシーに乗った。久しぶりに見る東京の夜景は目に沁み入るようだった。
でも、言い訳はしない。
そう決めていた。
だが、ホテルに着いてフロントの側のソファに北条仁の姿を認めたとき、美和に襲い掛かってきた感情は、美和自身にも予測できなかった感情だった。
仁に会わなかったのはたったの一ヶ月足らずだ。その顔を見るまで予想もできなかった自分自身の感情に美和は少しだけ驚いた。
仁は珍しくスーツ姿だった。上背のある身体つきは、グレイのスーツの上からも威圧的で、確かに通りかかる人がちらりと仁を振り返るのも納得がいく。足を組みソファにもたれて、どこか少し先を睨みつけている目は、ヤクザとは思われないとしても、普通の職業の人間には見えないはずだ。
仁は煙草に火を点けかけて、ふと美和と目が合うとライターを閉じ、咥えていた煙草をケースに戻した。ライターが閉じた時の尾を引くような音は、美和の耳ではなく、どこか別のところに直接入り込んできた。
仁がゆっくりと立ち上がったときには、美和は音に惹かれるように、もうそのソファの向かいにまで来ていた。
暫くの間、言葉もなく見詰め合っていた。仁の目の中には、想像していたような怒りの感情は見えなかった。
ばれていないとは思っていない。強がりを言えば、半分はばれてもいいと思っていた。そして仁はそれを聞いていたとして、どう思っただろうか。怒っていたか、自分が言い出したことだから仕方ないと思っていたか。
だが、仁の目の中にあるのは、何かもっと別のもののようだ。怒りがあったのだとしてもそれを越えて静かになった男の目の中には、何かに対して強い決意が宿っているように見える。
仁に促されて、美和は向かいに座った。
「危ないことはなかったか?」
美和は頷いた。
「お前がマンションを出たと、お節介な野郎から連絡があってな、待ってたんだ」
美和の行動の全てではないだろうが、舎弟の誰かがこうして見張っているのだ。勿論、悪意ではないだろう。
「仁さん」
呼びかけた美和を、仁の大きな手が制した。
「美和」その声は、美和の想像を超えた何か特殊な響きを持っていた。「あいつは上の部屋にいる。暫く、あいつから目を離すな」
事態が飲み込めず、美和は仁の顔を見つめていた。仁はもう一度煙草を取り出して火をつけた。
「何かあったの?」
仁がひとつ吹かすのを待って、美和は尋ねた。
「化けやがった」
「え?」
何のことか分からず、美和は暫く煙草を吸っている仁の方から話し出すのを待った。
「ヤクザの俺がビビるような、おっかない目をしていやがる。あいつを人殺しにしたくなかったら、あいつを見張ってろ」
「どういう意味?」
仁の目の中に、複雑な色合いが見て取れた。
「大和竹流の足跡がほんの少しばかり見つかった。佐渡のあいつらの隠れ家だったところだ。御大層に地下の礼拝堂の祭壇の上で、生贄を捧げる儀式でもしたんだろう」
美和は自分の咽の奥で何かが鳴ったように思った。
「大家さん、どうしたの?」
「わからん。病院から失踪して、佐渡に行ったことは間違いがない。その先の事は分からないが、そこで更に痛めつけられたことだけは確かだ」
「まさか」
「生きている保証はないな。相当の出血の痕だった」
頭がぼーんと音を立てような気がした。耳に入ってこないままだった周囲の音が急に辺りに溢れ返り、まともな聴覚と平衡感覚を破壊して、息苦しくなった。
「先生は?」
「今、宝田と高遠に見張らせている。見たところ、至って平静だ。一言も口を利かない。眠りもせず、時々煙草を吸って、座っていやがる」
そう言うと、仁は立ち上がった。
「仁さん、どこ行くの?」
慌てて美和も立ち上がる。仁は低い声で言った。
「ちょっとばかり用事を片付けなきゃならない。あいつの事はお前らに任せたよ。とにかく、ここから出すな。一歩もだ」
歩き去っていく仁の後姿を見つめて、美和は暫く突っ立っていた。自分が留守の間に、何かとんでもない事態になっているのだ。それは、仁にとって、美和と真の間の事などどうでもよくなるくらいの出来事なのか。
それはそのまま、真にも言えることだろうと思った。
万が一、大和竹流が死んだら。
それは考えるも恐ろしい想像だった。
先生はきっと狂ってしまうだろう。いや、もう既にどこか常人ではない状況なのだ。それは、修羅場を潜ってきているはずの仁を怯えさせるほどなのか。
美和は、ひとつ息を急いでつくと、エレベーターまで走った。十一階のボタンを押し、扉が閉まる時間がもどかしくなった。
だが、扉が閉まって一人きりになると、突然涙が零れてきた。
さっき、仁の顔を見た瞬間、美和に襲い掛かってきた感情、それは本当に単純な思いだった。
アイタカッタ
本当は殴って、どういうつもりだと問い詰めて欲しかったのだ。
もう少し泣いてしまっておきたかったのに、そういうときに限ってエレベーターはいつもより早く目的階に着いてしまった。扉が開き、角をひとつ曲がると、直ぐに一一〇一号室だった。
もう一度息をひとつつき、ドアホンを押すと、思ったより早くにドアが開いた。立っていたのは宝田だった。
「美和さん」
宝田の情けなさそうな顔を見ていると、急にしょぼくれている場合じゃない、と思えた。
「先生は?」
「それが、さっき出てったんす」
「どうして? 見張ってたんじゃないの?」
「いや、っていうのか、大和さんのとこの執事って人が来て、連れてったというのか」
嫌な感じがした。美和は思わずエレベーターに走り戻り、フロントまで降りたが、真の姿はなかった。タクシー乗り場に走り、真らしい人を見かけなかったかと聞いたが、見かけていないという。次は駐車場に走ったが、広い駐車場で何を目標に探せばいいのか分からず、ただ闇雲に走った。駐車場の出口に行き、出ていく車を暫く見張っていたが、やはり真は見つからなかった。
事務所、マンションに電話を掛けてみたが、勿論誰も出るはずがなかった。大和邸の場所は知らなかったが、もしかして添島刑事が知っているのではないかと思い、警視庁まで連絡してみたが、出張でいないと言われた。
美和は覚悟を決めて高円寺に向かった。
宝田から聞いたことからも、確かに真を連れて行ったのは大和竹流の関係者だろう。真は相手を知っているようだったと、宝田も賢二も言っている。真の身に危険が及ぶことはないかもしれないが、大和竹流の周りにいるのは、彼のためなら命など平気で投げ出すような人間ばかりだ。真に人殺しの片棒を担がせないとは限らない。
高円寺の北条家に顔を出すのは初めてだった。
仁と同棲していることは、北条の舎弟も親分も知っているはずだが、仁がここに美和を連れてこないのには、仁なりの思いがあるからだろうと思っている。美和に覚悟がないことなど、仁には十分分かっているはずだった。いや、もしかして、覚悟をする必要などないと、そういう意味なのかもしれない。
門の隅に、これでもかというくらい高く三角錐に盛り上げられた塩を見つめながら、美和は息を大きく吸いこんで、声を上げた。
「ごめんください」
声が終わるか終わらないうちに、門が開いた。出迎えたのは、大きな身体の男だった。その背中の向こう、玄関までは随分な距離がある。美和は思わず胸を張っていた。
大男は恐ろしいというよりも、無表情だった。
「ええ度胸ですな。ついにここまで来なすった。お入りになりやすか?」
美和は男の顔を見据えて、頷いた。
広い玄関には、真夜中にも関わらず若い者たちが並んで出迎えた。
「姐さん、お待ちしとりました」
美和はとにかくまた頷いておいた。こんなことでびくついている場合ではないと思った。
「若はまだお帰りじゃありませんがね、どうぞ奥で」
美和が通された部屋は、開け放てば六十畳くらいはあるのではいかという和室の並びのひとつだった。
部屋の床の間には、金がふんだんに使われた狩野派の絵と思われる掛け軸が下がり、立派な刀が二振飾られ、壷やら香炉やらが並んでいた。もっとけばけばしているのかと思っていたが、噂に聞くほどには成金ムードではない。恐らく、北条東吾自身が多少は華族の自尊心を失っていなかったのだろう。
五メートル以上はある黒檀の座敷机の一方に、分厚い座布団を外して座り、美和は背筋を伸ばして目を閉じた。
暫くすると襖がさっと開いて、閉じる音がした。目を開けると、恰幅のよい大柄な、和服姿の紳士が立っていた。美和は暫く相手を見据えていたが、一歩下がり、頭を下げた。
「柏木美和と申します。仁さんには大変お世話になっています」
紳士は返事なく美和の前に座った。
ここまで来てうじうじ思っていても仕方がない。
美和が意を決して顔を上げると、紳士は恐ろしげな顔を急に崩して笑った。
そのギャップに美和のほうが面食らう。
「さすがに仁が惚れただけのことはある。だが無理をすることはない。その気なら、仁と一緒に堅気になってくれてもいいんだ」
美和がきょとんとしているうちに、失礼します、という声で障子が開き、行儀の良さそうな若者がお茶を運んできた。
「仁は戻ってきたか?」
「はい。先ほど」
北条東吾はそれを聞くと、野暮をしていると仁に嫌われるな、と言い残して部屋を出て行った。拍子抜けした顔で美和が座っていると、直ぐに仁が入ってきた。
スーツ姿の仁は、黙って美和の前に座った。怒っているようではなく、幾分か驚いたような表情だった。
美和はホテルのロビーで仁を見たときの自分の感情を確かめていた。
今でも、真に対して恋という感情を持っていることは確かだと思えた。しかし、仁の顔を見たときに湧き上がってきた感情は、決して真との間には持ち得ないものだ。それは何と表現すればいいものだろう。
大体、相手はヤクザだ。家族を思うような感情を持てるとも思えないのに。
「ごめんなさい。あの後、部屋に上がったときには、先生はもういなかったの。探したけど、わからない。先生を連れ出したのは、大家さんとこの人だったみたい」
それには答えず、仁は黙って美和を見つめていた。
美和も仁を見つめ返していた。やがて仁はほっと息をついた。
「マンションに送ろう」
美和はやはり答えることができなかった。仁は立ち上がり、障子の外で待つ舎弟に車を回すように伝えた。
「美和」背中を向けたまま、仁が呼びかけた。「お前が本気なら、今なら目を瞑る」
美和は仁の背中を見つめていた。この言葉が仁の口から出ることを、美和は知っていたような気がした。
大きく逞しい背中は、遠く見えた。
「今だけだ」
返事のできないまま、美和は俯いた。
やがて促されて北条の家を出た後も、その玄関口を振り返ることはできなかった。
こうして仁は北条の家に残り、美和は一人でマンションに戻った。
美和は暗い部屋の中で長い時間、つりさげられた仁の背広を見ていた。窓から漏れてくる微かな光で波打つような濃淡が浮かび上がっていた。
傍に行って抱きしめたい気がしたのに、足は一歩も動かなかった。



美和と仁、これからも二人の恋の行く末を見守ってやってください。
さて、次回からは第20章後半です。真はついにチェザーレ・ヴォルテラと対峙します。
一体、ローマから来た男は真に何を求めるでしょうか。
そして、真の知りたくなかった真実がひとつ、零れ落ちます。
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Category: ☂海に落ちる雨 第3節
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コメント
じわじわと
臨場感というか、なんか核心に迫っていくような興奮が高まってきましたね。
仁と美和の会話もシンプルだからこその良さがあります。
美和はやっぱり仁さんに惚れてるんだなあ。仁さんも。
真への想いとは違った想い。(なんて贅沢な人だ)
じゃあ、真ってどういう存在なんだろう。
あの危険なオーラが、人を惑わしてひきつけるのか。(麻薬?)
真は今、どんな心境なのでしょうね。
きっとヤバい目つきをしていそう。でもそれもきっと魅力的な顔つきなんだろうと、想像・・・。
ヴォルテラとの対面が、彼をどんなふうに動かすのか、楽しみにしています。
lime #GCA3nAmE | URL | 2013/12/14 13:34 [edit]
limeさん、ありがとうございます(^^)
あぁ、何だか、ここまで本当にだらだらでしたものね。
しかもlimeさんのお話みたいなまとまりもなく、大変読みにくくて済みません。
やっと、ここまで来ましたね。
いえ、これって本当は紙ベースでめくりながら読むことを想定して書いているので、無駄に情報と中身が多いんですよね。めくり返すことができる、というイメージで書いている……^^;
つくづく、ブログ小説ではありませんね。
読みにくいということは自覚しているのですが……それをここまで読んでくださって、本当に感謝です(^^)
仁と美和のシーンは、頭の中ではもっと長かったのですが、いざ書いてみたら、妙に短くなってしまって、推敲してもなぜか長くなりませんでした。珍しい(推敲すると長くなるのですけれど)。
美和と仁の恋物語はまた出てきますので、しばらくお預けですが、また楽しみにしておいてくださいね。
美和にとっての真は……なんだろうなぁ。永遠にくっつかないけれど、恋人なのかも。
真にとっても美和は、同じように恋人なのかも。兄妹というよりは中学生や高校生の時の恋人同士みたいな感じでしょうか。で、一生忘れないという。。
> あの危険なオーラが、人を惑わしてひきつけるのか。(麻薬?)
う……^^; これは、確かにあるかもしれません。悪い子ですね。
でも、27歳の彼は、ちょっとオッチャンが入っていますけれど。
あ、でも最後の方、親友がまた惑わされています。これもお楽しみに(*^_^*)
美和の話を進めているうちに、真の方ではちょっと大変な感じになっています。
ちょっと危ない感じになっているようですね。
でも、まだしばらくはまともです。どんな状態であろうとも、彼が見つかるまでは何とか冷静になろうとしていますから。問題は、実は見つかってからなんです…・・この話の怖いところ……
でもまずはヴォルテラのおじちゃんとの会話、タヌキと狐の両方を被ったみたいな男ですから、よく話を聞かないと、どこまで本気で話しているか、分かったものではありません。
次回からもまたよろしくお願いいたします。
いつもありがとうございます(*^_^*)
彩洋→limeさん #nLQskDKw | URL | 2013/12/14 20:05 [edit]
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