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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(2) 

「坊主、お前、ヴォルテラの跡継ぎだったのか」
 ある日、修復師はルネサンス期の絵画のワニスを確認しながら呟くように言った。とっくにそんなことは知っているのだと思っていたジョルジョは少しだけ驚いた。この修復師は本当に修復と酒のことしか考えていないのだと思った。ジョルジョがうん、と答えると、修復師はいきなり顔を上げた。その修復師がジョルジョの顔を真っ直ぐに見て話をしたのは、それが初めてだった。
「お前は修復師になれ。お前は世界一の修復師になれる。今世界一の俺が保証してやる。ヴォルテラにはもう一人息子がいただろう。俺にはお前しかいない。俺の跡を継げるのはお前しかいないんだ、坊主」
 そう言うと修復師はジョルジョの右の手を握った。しわがれた節くれ立った指には、薬品と絵具のにおいが沁み込んでいる。指の先は、古い金属の毒気で黒く染まっていた。
「この右手は俺と同じだ。神の手だ。俺はこれまで俺以上の手に出会ったことはなかった。学校でも工房でも、同業者の誰を見てもだ。だが坊主、お前の手は特別だ。俺は生まれて初めて、俺以上になる手を見た」
 ジョルジョは暫く呆然と修復師を見つめていた。
「お前の目には神が見えている。俺の知ってる神はヴァチカンにいる神じゃないけどな、画家や職人の手に一瞬だけ降りてくる芸術の神だよ。修復師の仕事はその神が見えないとできないんだ。それが何百年前の一瞬に降りてきた神であっても、お前の目には見えている。お前はヴォルテラなんか継いでいる場合じゃない。それこそ神への冒瀆だ。坊主よ、そうでなきゃ、お前の孤独は癒されることはねぇよ」
 ジョルジョはこの修復師が、ずっと自分の心にあいた穴を知っていてくれたのだと思った。それはきっとこの男にも同じ空洞があるからに違いなかった。
「お前の叔父に言えるか」
 ジョルジョは頷いた。
 だが、そんなことは全く許されるはずなどなかった。これまで少々羽目を外しても黙認してきたチェザーレが、烈火のごとく怒った。その怒鳴り声に驚いたリオナルドが飛び込んできて、たまたま当主の健康を気遣って訪ねてきていたドットーレ・ビテルリも、玄関から主人の居室に駆け上がってきたほどだった。
「何を騒いどるんだ、チェザーレ」
 チェザーレとジョルジョは睨み合って立っていた。
「騒いでなどいないよ、ドットーレ。あり得ない、と言っているだけだ」
 チェザーレの声は、これまでジョルジョが聞いたことがないほど冷たく低く、そして重かった。ドットーレ・ビテルリがジョルジョに向かって聞いた。
「お前、何を言ったんだ、ジョルジョ」
「ヴォルテラの跡は継がない、修復師になる」
 ドットーレは心底驚いたような顔をしてジョルジョを見た。チェザーレは断ち切るような声で低く言った。
「聞く耳は持たない。お前が修復の趣味を持つのは大いに結構だ。だがお前にこの家を継がないという選択肢はない。リオナルド、こいつを暫く家から出すな。お前が見張っていろ」
「父さん、いくら何でも、少しは話を聞いてやったら。頭ごなしに言うのは良くないよ」
「リオナルド、お前にはジョルジョの代わりはできない。それはお前が一番よく知っているだろう。ジョルジョ、もう話すことはない」
 ジョルジョにできたことは、リオナルドに懇願して屋敷を抜け出すことくらいだった。それでも、ジョルジョはまだ、叔父と話し合わないまま全てを捨てて出て行くつもりはなかった。だが、その日、場末の売春婦たちのところにしけこんでいた修復師を探し出すことはできなかった。
「エウジェニオかい? 今日はえらくご機嫌でさ、俺にもついに跡継ぎができたって。どっかで女でも孕ませたのかねぇ」
 一晩探し続けたが修復師は見つからなかった。
朝方に屋敷に戻ったとき、リオナルドはいなかった。不安になって使用人に聞くと、今朝早くに自家用機でロンドンに発ったという。留学だと聞かされた。リオナルドと引き離されたことは、ジョルジョを不安の連鎖の中に突き落とした。ジョルジョは部屋に閉じ込められ、全く屋敷から出られなくなった。二十四時間の監視はジョルジョを参らせ、その年の教皇との謁見が近づいたある日、幼いジョルジョを膝に抱いて慈しんでくれた教皇の崩御が伝えられた。
 教皇の死は、ジョルジョを完全に追い込んだ。チェザーレは、お前が仕えるべき新しい教皇の時代になった、と言ったが、ジョルジョには考えられないことだった。新しい教皇は前教皇の死の十七日後に即位し、チェザーレたちが慌しくなったある日の夜、ジョルジョはやっとのことで屋敷を抜け出した。
 居場所の定まらない修復師を探し出すのはいつもなら大概困難だった。だが、その日、ジョルジョが見知っているバールは、騒然とした雰囲気に包まれていた。もうもうと辺りを黒く包み込む煙と、吹き飛んだ窓ガラスと、行き交う人々の叫び。消防とレスキューがジョルジョの脇を通り抜け、ジョルジョはその後を追うように人だかりをかき分けながらバールに駆け込もうとして、女に止められた。
「あんた、危ないよ!」
「エウジェニオは」
 ジョルジョが叫んだと同時に、黒煙の中から浮かび上がるように担架で運び出された男の薄汚い衣服には、見覚えがあった。
「エウジェニオ!」
 修復師には意識がなかった。それは酒のせいだったかもしれないし、他の理由かもしれなかった。お前、身内か、と言われてがむしゃらに首を縦に振り、救急車に一緒に乗り込んだ。その瞬間、修復師の身体を見て、ジョルジョは狂ったように叫び、彼に摑みかかろうとした。救急隊員が、けが人に危害がないようにと、ジョルジョの身体を縛るように拘束した。ジョルジョは救急隊員の胸に身体をぶつけて、ただ泣き叫んだ。
 神の手は、肩から落ちかけていた。血が止め処なく流れ出て、もう一人の救急隊員が必死に止血を施していた。
「坊主」
 突然にはっきりとした声がジョルジョの耳に届いた。
「狼狽えるんじゃない。俺にはまだもう一本、お前の手があるんだ」
 修復師はその一週間後に病院で亡くなった。同じ名前の教皇が亡くなってから、丁度一ヶ月目だった。酒と自堕落な生活も災いして、敗血症と肝機能障害に打ち勝つことができなかったのだ。腕を無くしても、せめて生きていてくれたら、まだジョルジョの力になってくれたかもしれなかった。
 修復師には、刑務所に入って以来会わないでいたという娘が一人いた。娘は、今ではほとんど手に入らないような修復の材料を預かっていた。遺言状には『私と同じ神の手を持つ息子、ジョルジョに』と書かれていた。ジョルジョ・ヴォルテラに修復師が遺していた貴重な修復の材料は、それから何年も経ってからジョルジョの手元にやってくることになった。
 修復師が亡くなった夜、ジョルジョは屋敷に戻り、自室で仕事をしていたチェザーレにつかみかかった。
「あんたがやったのか」
「何のことだ」
「ふざけるな。あんたがエウジェニオを殺したんだ」
 その時、ジョルジョを見つめたチェザーレの、ジョルジョと全く同じ青灰色の瞳には、全ての答えが映し出されていた。
「そんなことをしてどうする。お前の怒りを煽っても、私には得になどならない。ジョルジョ、頭を冷やしなさい。ここのところ、お前は感情に走りすぎている。ヴォルテラの次代当主ともあろう者が、自分の感情をコントロールできないでどうするという」
 それがヴォルテラの当主になるということなのだ、というチェザーレの苦悩と逡巡、高貴さと誇り、そして何よりもジョルジョを慈しむ深い情愛、どこかグロテスクとも言える激しいほどの肉親への妄執を認めると、ジョルジョはもう何も、何ひとつ言うことができなかった。ジョルジョは自分が、ヴァチカンの聖なる楼閣の礎である深い泥沼のような地面を、自らを人柱として差し出すことで支えているヴォルテラの次代当主であり、そこから逃れることはできない、もし逃れたとしてもこの当代当主の深い情愛、幼い日に膝に抱いてくれた教皇の暖かな手からは逃れられないのだと知った。
 チェザーレのボディガードと秘書に連れられて、ジョルジョは自室に戻された。だが、その日は部屋に鍵がかけられることはなく、見張りもいなかった。逃げ出そうと思えば逃げ出せたのに、ジョルジョはもう動くこともできず、真っ暗な部屋のベッドに長い時間座っていて、それから何か空で音がしたような気がしてベランダに出た。
 あたりはただ静かで、見慣れた大きな庭園の景色は完全に闇に沈んでいた。ふと見上げると、天には星々が瞬き、天幕ごと降り落ちるように見えた。ジョルジョは最後に教皇に謁見したときの事を思い出していた。
『命の終わりが近付くと、色々なものがはっきりと見えてくるものだよ。ジョルジョ、私は君がこの世に生れ落ちたその時から君を見ていた。君は実に素晴らしい若者に育っている。チェザーレの教育がいいのだろうね。多くを悩み、苦しんでいるのがよく分かる。チェザーレが君に求めているものが分かるかい、ジョルジョ。それは答えではないのだよ、問い続けるということだ。それが君を特別な為政者に仕立て上げるだろう』
『答えは永遠に与えられないまま、僕はどこにも辿り着かないような気がします』
 教皇は震えながら苦しみを吐き出したジョルジョの右の手を取り、その手掌に口づけを分け与えた。
『この地球という星のどこかに、誰かが、あるいは何かが君のこの手を待っている。私に見えているのはそれだよ。もしかするとそれが答えなのかもしれないね。君がヴォルテラという器を離れるとチェザーレは苦しむだろうけれど、君はもっと広い世界を見る必要があるようだ。いつかここに戻りなさい。神の懐に。そのための長い道を、必然に導かれて君は歩き続けるのだろう。ジョルジョ、私は君に幸せでいてもらいたいのだ。そしてそれはチェザーレも同じなのだよ』
 その年、ジョルジョは十五で、教皇からヴォルテラの次代当主の証である指輪を与えられていた。
 ジョルジョはベランダに崩れ落ちるように座り込み、一人、自分の身体を抱き締めた。
 この地球のどこかに。
 それは幻想かもしれない。どこか欠けていると思い続けた何かが、この空洞を埋めてくれる何かが、この地球の上のどこかにあるというなら、今直ぐにその欠片でも見せて欲しいと願った。だが、神はいつものように沈黙したままで、ジョルジョは冷たいベランダの床に崩れたまま、このまま自分も冷たくなっていくのだと思っていた。
 意識は半分起きたままだった。大きな手がジョルジョの肩に触れた。ベッドに戻りなさいと言われて、ジョルジョはゆっくりと立ち上がり、もう何も考えずにベッドに潜り込んだ。一晩中、チェザーレはジョルジョの眠るベッドの傍に座り、時々髪を撫で、涙を指で拭ってくれていた。
 幼い頃、熱を出せば、チェザーレは全ての仕事を誰かに上手く任せてしまって、ずっとジョルジョの傍に座ってくれていた。ジョルジョは母も父もないことで苦しんだことも、辛いと思ったこともなかった。それが実は欠けているものの本質だとしても、思い起こせばいつも誰かがいて、例えばリオナルドであったり、料理番のマリアであったり、ジョルジョの世話をしてくれる使用人の誰かであったり、ドットーレ・ビテルリであったり、そしてヴォルテラの当主その人であったり、誰かがいつもジョルジョの傍にいた。子供の頃、勉強を済ませると、チェザーレはジョルジョを主人のベッドに一緒に入れてくれて、わくわくするような冒険の物語を聞かせてくれた。世界中の神話も、お伽噺も、聖書の物語も、全てチェザーレの声で覚えていた。アンデルセンの人魚姫の物語を聞いたとき、多分まだ学校に通う年でもなかったはずだが、ジョルジョはチェザーレに言った。
『僕が王子なら、人魚姫を泡になんかしない。ちゃんと選び間違えないようにするよ』
『だが、人間のお姫様の方も、王子を心から愛している優しい女性なんだよ。選べなかったら、どうする』
 わからない、とジョルジョは答えて急に不安になった。チェザーレはジョルジョの髪を撫で、落ち着いた柔らかい声で言った。
『それでも選ばなければならない時が来たら、選ばなくてはならないんだよ』
『人魚姫を泡にしないほうが、大事な仕事に思えるよ』
『それなら、それがお前の仕事だ。ジョルジョ、我々はずっと、何世紀にも渡って間違い続けてきた。お前が何を選んでいくのか、私は少し怖いんだよ』
 ジョルジョはあの日、そう呟きながら抱き締めてくれたチェザーレの温もりを今でもはっきりと思い出すことができた。母親の顔は知らず、一年のうち父親の家で過ごすのは僅かに数日に過ぎなかったジョルジョの幼い日々を支えたのは、明らかにチェザーレの手だった。ジョルジョは涙を流し、縋るような声で呟いた。
「父さん」
 チェザーレは黙ってジョルジョの髪を撫でていた。
「僕は人を殺してしまった。身体に刃を突き立てたのではなく、もっと残酷な方法で、本当の意味で、殺してしまった」
「ジョルジョ、お前が罪を犯したというなら、それは全て私が引き受けよう。だから、私の傍を離れるな」
 ジョルジョは目を閉じ、漸く眠りに落ちた。


 それから半年の後、十六になった誕生日に、ジョルジョ・ヴォルテラはローマを出奔した。その日は天から銀の雫が降り注ぎ、すっかり短くなったジョルジョのくすんだ金の髪を濡らし続けていた。
 ヴァチカンの小さな教会にジュリオ・カヴァリエーリが見習い神父として着任していることは、受け取った手紙に記されていたのだが、一度も会いに行ったことがなかった。ローマを発つ数日前に、ジョルジョはあのソドミアンの収集家から奪ったジョルジョーネの天使の小さな絵だけを持って、ジュリオの教会を訪ねていた。ジュリオは驚き、そして再会を喜び、小さな教会の中庭で何時間も座って、これまでのことを尋ねた。だが、ジョルジョは多くを語ることはできなかった。
「ジュリオ、お願いがあるんだ」
 ジョルジョが髪を短くして欲しいと言ったとき、ジュリオは理由を尋ねなかった。真夜中、月の照る中庭に椅子を持ち出して、ジュリオはジョルジョの髪を短く刈ってくれた。軽くウェーヴして耳を覆い肩にも届きかけていたジョルジョのくすんだ金の髪は、月の雫を照り返しながら地面に落ちていった。
 ジュリオはもう何も聞かなかった。ただ、時々手紙をくれないか、と言った。ジョルジョはそうする、とだけ答えた。ジョルジョーネの天使はジュリオに預けた。
 その雨の日、ジョルジョは遠い港町の人足寄席場に行き、遠洋に出る漁船に乗り込んだ。これまで鍛えていた身体は決してみすぼらしいはずもなかったのに、屈強な船乗りたちに囲まれると貧弱で惨めだった。神の使いとしての美しい身体を他人に示すためには役には立ったとしても、一人で現実の荒波を越えていくためには何の助けにもならなかったのだ。だが潮と太陽の熱に焼かれ、嵐を乗り越え、海の上の仕事を一人前にこなせるようになると、始めは甘っちょろい小僧とさげすんでいた船乗りたちも、ジョルジョを一人前に扱ってくれるようになり、喧嘩、酒、賭け事の真剣勝負の相手になってくれた。
 時折、海には雨が降った。真夜中、星の下で、あるいは月だけの明りに浮かび上がる海面に落ちる雨は、静かに海に溶け入った。ジョルジョは一人甲板に立ち、月の明りを映した小さな雫が海に音もなく消えゆく様子を見つめながら、人間の運命とはこういうものだと、こういうものであるべきなのだと思った。ヴォルテラの次代当主という重い名前を捨てた今、ジョルジョもまた誰にも知られず海の上を彷徨う、名もないひとりの員数に過ぎなかった。果てなく孤独で、救われることもなかったが、一人静かに海に浮かび、いつかは泡として消え行く運命にあることを、是として受け取るべきなのだと考えていた。
 むしろ、名前を失うことは今、ジョルジョにとって心地よいことだった。
 船にはジョルジョとあまり年の変わらないアラブ人のアリという若者が乗っていて、事ある毎に喧嘩しているうちに一緒に悪さをするようにもなった。カソリックの教えと共にありながらも、ジョルジョはアラブの国々に親近感があった。チェザーレはカソリックの総本山に属しながら、ユダヤやイスラムの本山とは深い繋がりを持っていた。その理由まではジョルジョはまだ教えられなかったが、アラブ圏にはチェザーレの親しい友人が多くいて、ジョルジョは幼い頃から彼らを訪ねる旅に同行させられていたからだった。
 港ごとに船乗りたちは女を買いに出た。アリは誘われて出かけて行ったが、ジョルジョは一度も女を買いに行くことはなかった。
 港に船が着くと、ジョルジョは出航までの数日あるいは一週間を、その土地を歩き回ることに費やし、本で見た景色を確かめ、美術館や博物館があると一日そこに入り浸り、特に遺跡のある町に行くと、夜も古代からの息吹を残す場所で眠るようになった。遺跡の中で、ジョルジョは時には何千年という時間を遡り、古代の石工が築いた礎、今では欠片となった器や杯と語り、その場所で命を終えた幾万、幾十万もの魂を想った。
「あり得ねぇよ。お前は修行僧か。女を知らねぇんじゃないだろうな」
 アリには何度も馬鹿にされたが、女を抱くよりも、遺跡で夜を過ごすことのほうに興奮した。そのうちに港から遥かに離れた場所へも出かけたくなり、船の出航に間に合わないことに気が付くと、やっと慣れ始めた漁船を降り、次の船を紹介してもらいながら、旅を続けた。
 ある時、アルゼンチンの港でもう何隻目かになる次の船を待っていると、アリがそこに立っていて、言い訳がましく呟いた。
「どうもお前がいないと調子が狂うんだよな」
 南米大陸でインカ、マヤ、アステカを始めとするインディオの遺跡を案内してくれたのはアリだった。アリは奇妙な知識を随分持っていて、世界中の埋もれたお宝のことを異常なほどよく知っていた。アリの父親はトレジャーハンターで、アリは子どもの頃からその父親に連れられてあちこち出掛けていたからだった。
 南米の夜はジョルジョを苦しめた。いつものように遺跡に潜り込んで夜を過ごしていたジョルジョは、己のうちにある血と闘い続けなければならなかったのだ。それはまだ十歳にもならないうちにチェザーレに与えられた、スペイン人の宣教師が書いた、南米での白人によるインディオの虐殺の報告書を読んで以来、ジョルジョの身体の芯に燻っていた原罪のようなものだった。
『白人の遺伝子には支配したい、という塩基配列が組み込まれている。アメリカ大陸やアフリカ、アジアで白人がしてきたことを思い出しなさい。今もやはり、中東で同じ事が起こっている。相手が有色人種だと、それが遺伝的に劣っている別の生き物のように感じてしまうのだ。だから首に縄をかけて奴隷にし、逆らえば紙くずのように殺してきた。アフリカから黒人を連れて行く時も、あり得ない環境の船に押し込め、そのうちの何パーセントかが生き残ればいいと考えた。もしも相手に人格を認めれば、そんなことはできない。よく覚えておきなさい、有色人種には白人に対する降り積もった憎しみがある。お前がそれをどう自分のうちで処理をするか、それはおまえ自身が決めなさい』
 この土地に恨まれている、とジョルジョは思った。あるいはアリも、アラブの血の中にジョルジョとは相容れないものを抱いているのかもしれない。いや、人種の問題ではないのだろう。あのフィレンツェのイコン画家もまた、彼を誘惑し地獄へ誘おうとしたジョルジョを憎み、咽喉を締める機会を地獄から窺っているに違いない。
 そうだ、俺はあの画家を地獄の扉の前に連れて行き、扉を開けてやり、背中を押してしまったのだ。
 そしてあの男は、今地獄の底から立ち現れ、ジョルジョの足を摑み、果ての無い闇の中へ引きずり込もうとしている。
 メキシコの村で高熱を出したジョルジョを救ってくれたのは、インディオのシャーマンだった。シャーマンは古の憎しみなど今は何の関係もないというように、白人であるジョルジョの手を握り、薬草と祈りによってジョルジョを癒そうとしてくれた。
 ジョルジョはいつまでも下がらない熱に、自分は遠からず死んでしまうのかもしれないと思った。何故この苦しみの傍らにチェザーレが居てくれないのかと思い、ただチェザーレの手を求めて涙を流した。そして、生まれた国や愛しい家族からも引き離され、暗い船底に押し込められて見知らぬ国へ連れて行かれる途上、足元のない海の上で腐るように命を落とし、海へ投げ捨てられたであろう幾万もの命を思った。
 死において、名前を記されることも呼ばれることもなく、ただの員数であるということは、どれほどの絶望であったろうか。
 それをインディオたちに、あるいはアフリカの黒人たちに強いた白人の罪とはいかなるものであったのか。あるいはジョルジョの誕生の頃に終わったあの戦争の中で、大量の虐殺が行われ、あるいは捕虜となり、記録に残される時にはただ数となり、個人の名前を呼ばれることもなく死んでいった人々がいることを思った。そのことを考えた時、海に落ちる雨を見ながら、名前のないことを心地よいとまで思った自分が許せないような気持ちになった。人種の問題ではなく、人はみないつでも罪人になれる。無名となることは存在の否定だと、そのことを誰も他人に科してはいけないのだと、熱病に蝕まれながら、ジョルジョはからからになった咽喉の奥で、声にならない声を上げ続けていた。
 ジョルジョは苦しみのわけを消化できないまま、インディオの村を離れ、アリに負われるようにして、熱のこもる身体でニューヨークに辿り着いた。
 まだ熱が下がりきらないジョルジョに、アリはあてがあるのかと尋ねた。ジョルジョは大丈夫だと答え、心配するアリに摩天楼の一角に大きなオフィスを構える実業家のところまで送ってもらった。それはあの、幼いとも言える少年の日、東洋の芸術を目の前に広げてくれた、そして初めて性的な欲望を満たしあったレオという名前の収集家だった。

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Category: ☂海に落ちる雨 始章

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