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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

☂始章1 邂逅(アレルヤ‐予言)(3) 

 多分、その男は、名前を失った自分を分からないだろうとジョルジョは思っていた。だが、ぼろぼろの格好でやってきたジョルジョに、咎める秘書を押しのけるようにして近付き、頬を両の手で包むようにしてじっと目を見つめ、レオはジョルジョを思い切り抱き締めた。
「本当に君か、見違えたよ」
 レオは多分もう五十に手が届くという歳のはずだったが、あまり変わっていないように見えた。もともと背が高く、黒髪が艶やかで、精悍な顔つきの男だったが、今でも身体に張りがあり、黒髪には白いものが混じっていたが、以前のままの精悍な顔は若々しさを保っていた。気が良さそうな、それでいて、仕事から得たものであろう自信が漲っている顔だった。
 ニューヨークの街を見下ろすレオの部屋に連れて行かれ、ガラス張りの浴室で月の光を浴びながら、ジョルジョはゆっくりと大きなバスタブに身体を伸ばし、不思議な違和感を覚えながら目を閉じた。
 広々とした部屋、金に糸目もつけずに手に入れたお気に入りの絵画、そんなものがこの空間にあることに違和感を覚えることのない調度、宇宙さえ自分のものだと主張しているような高みに住み、地面を歩く人々を別の種類の生き物のように感じる。こんな生活を、何も疑うことなく、ジョルジョ自身も営んでいた。だがこの一年近く、アフリカや太平洋、南米、北極圏を旅する間に、ジョルジョ自身はそういった世界から遠くに離れてしまったのだろうか、あるいはどれほど流離っても結局は帰る世界はあの場所しかないのか、レオの献身とも言える暖かさに触れながら、ジョルジョはまだ熱病に魘されたままで目を閉じた。
「他人と一緒に住むことを考えていなかったんだ」
 レオはベッドがひとつしかないことについて言い訳をしたが、ジョルジョはレオと同じベッドに眠ることに全く抵抗はなかった。それどころか、無一文で何も持たない自分にはそういう選択肢しかないのだろうと思っていた。だが、レオは自分はソドミアンではないし、その必要はないのだと言った。
「君が僕を頼ってくれた、それがただ嬉しいんだよ」
 レオとはベッドの中で色々な話をした。レオはコンピューターの基礎を作っている大企業の社長で、たまに仕事の話もしたが、話の中心はやはりレオの収集している東洋の絵画についてだった。
「日本に行ったことがあるの?」
「あぁ、何度もね。そうだ、ジョルジョ、今度長い休みが取れたら、君を連れて行ってやろう。君はきっとあの国を気に入るよ」
 それから二人はあの修復師、エウジェニオの思い出を語り合った。レオは何か言いたそうにしながら、結局黙った。ジョルジョが気にすると、レオは顔を上げて決心したように言った。
「ジョルジョ、私と一緒にこの街で暮らさないか。私には妻も子供もいないし、いずれはこの会社を君に譲ってもいい」
 ジョルジョは何を言われているのかさっぱりわからないまま、考えておくよ、と言った。
 レオの帰りが遅い日、ジョルジョは一人ガラス張りの部屋から地上の星々を見下ろし、一年足らずの海の上の生活、中東や北欧、アフリカや南米を巡った船の旅を思い、魂の在り処を求めた。その何処にも居場所を見出せないままで、ジョルジョはまだ答えを受け取っていないのだと思った。
 ニューヨークの摩天楼、降り注ぐ星の光よりも遥かに数が多いとも思われる地上の星々、その高みから見下ろす世界。ガラス張りの窓から外を見つめていると、そのガラスの向こうにあのイコン画家が立っていた。
 ガラスの向こうの暗闇から、画家の空洞のような目がジョルジョを見つめている。地獄の悪魔に食い千切られたのか、その節くれ立った指には肉の一片もなく、骨ばかりになりながら、ジョルジョのほうへ手を差し伸べる。お前はこの地獄へ共に落ちなければならないと言われているような気がした。地獄の苦しみから救ってくれたはずの、同じ名を持った教皇も修復師も、もうジョルジョの傍にはいない。
 元気のなくなったジョルジョを心配したのか、レオは様々なところへジョルジョを連れ廻してくれるようになった。オフ・ブロードウェーの女優はアンジェリーナという名前のレオの二回りも年下の従妹で、生命力に輝いた女性だった。
「レオはつまりインポなのよ。あなたはゲイってわけじゃないんでしょ」
 あまりにもあっけらかんと扱われる性は、ジョルジョを幾らか戸惑わせながらも、別の世界があることを教えてくれた。アンジェリーナとのセックスは単純に楽しかった。彼女と寝ながら、ジョルジョは日本の春画の開け広げな逞しい性の表現を思い出していた。いつかはブロードウェーに上り詰めるのが彼女の夢だった。そしてジョルジョはこの女性がきっとそうなるだろうと思っていた。アンジェリーナとセックスをしながら、ジョルジョは少しずつ、快楽を追い求める性の営みが、人間として正しい行為のひとつなのだと思えるようになった。
 レオがコンサートやオペラに連れて行ってくれると、ジョルジョは婦人たちの熱い視線を自然に受け入れるようになった。彼女たちは駆け引きを楽しむことを教えてくれ、ジョルジョは女性との会話や視線のやり取り、疑似恋愛のルールを身につけていった。その先には明らかにベッドの上での睦みごとがあったが、ジョルジョは特別な事情がない限り、彼女たちの誘いを断らなかった。セックスが神への背徳ではないということを確かめる作業のような気がしていた。
 だが、戻ってくると、レオのベッドの上でジョルジョはよく魘された。苦痛に塗れた快楽に弄られて身体の芯が疼き、真夜中に目を開けると、あのイコン画家が身体に乗ってジョルジョの肌を愛撫していた。ジョルジョの性器は勃ち上がり、先から背徳の雫を零し、張り詰めた肌には鳥肌が立ち、女性との幸福なセックスでは味わえない禁断の悦びに身体の芯が震えた。ジョルジョは冷や汗をかきながら、恐ろしい快楽をやり過ごさなければならなかった。
「ジョルジョ」
 レオは忙しいときには仕事場のソファで眠っていることがよくあったが、時々寝室にやってきては、ジョルジョを悪夢から救ってくれた。ジョルジョは目を閉じてレオの手を感じながら、それでも自分はこの手がチェザーレの手だったら、と思っていることに気が付いて、不意に身体を震わせた。
 今もまだ、ジョルジョは、ヴォルテラの名前がなくても生きていける確かな力を持った一人の正しい人間となり、その上でチェザーレと向かい合いたいと願っていた。
 そしてその日、待ち合わせた女性とホテルで抱き合った後、少し涼みたいからとタクシーを断り、真夜中のニューヨークの街を歩いていたとき、ある浮浪者の視線をまともに感じて振り返り、ジョルジョは震えた。
 そこに立っていたのは、確かにあのイコン画家だった。
 黒い影は狭い路地の間でふわりと浮き上がっていた。影は動かなかったはずなのに、ジョルジョを手招きしているように見えた。ジョルジョは足が全く動かないことに気が付いた。影は悪魔の弟子を従えていた。路地に引きずり込まれ、白いシャツをたくし上げられ、スラックスの上から性器を弄られたとき、ジョルジョは無様なほど必死に暴れて、這うようにその場から逃げ出した。
 その場所が、ゲイの溜まり場であることを知ったのはずっと後のことだったが、ジョルジョはレオの部屋に逃げ帰り、風呂場に行って身体を狂ったように擦って洗い、たまたま戻ってきたレオに何事かと聞かれても答えられなかった。
 全て罰だということがわかっていた。ジョルジョは素っ裸のままレオのところに行き、レオをベッドに誘い、跪いてレオの性器を口に銜えた。始めこそ辞めなさいと言っていたレオが、性器を硬くして息を荒げ、震える手でジョルジョの頭を押さえてその咽喉の奥に精液を送り込んだとき、ジョルジョは躊躇いもなくそれを飲み、唾液と精液で濡れたままの唇でレオの性器を舐め続けた。そしてもっと早くにこうするべきだったのだと思った。
 だが、レオは崩れるように床に座り、ジョルジョを抱き締めた。
「そんなことをしないでくれ、ジョルジョ。そんなことをしなくても、私は君に全て捧げるつもりなんだ」
「僕はもうヴォルテラの名前も何もかも全て捨ててきた。何も持たない。こんなことくらいでは、あなたが僕を助けてくれたお返しにもならない」
「君にヴォルテラの名前がなくても構わない。いや、そうじゃない。私は君に謝らなければならない。チェザーレ・ヴォルテラに言われて、ずっと君を探していたんだ。君がローマを出奔した後、チェザーレが狂ったように君を探していたのを、君は知らないだろう。あの屈することのない王のような男が、まさに恥も外聞もないほどに苦しんでいるのを見て、誰だって彼のために何かがしたいと思った。君が僕のところに来たことも、チェザーレはみんな知っている。アリと君が出会ったのが唯一の偶然だ。アリは君が最初の船を降りた後で、君がジョルジョ・ヴォルテラであることを知って、君を探し続けていたんだ。アリは君を騙したんじゃない。あいつもしょっちゅう親父に逆らって家出ばかりしているから、君に同情もしたんだろう。アリの親父とチェザーレは盟友だ。南米で熱を出した君を、アリが僕のところまで送ってきたのも偶然じゃない。許してくれ」
 ああ、そうなのか、とジョルジョは納得した。不思議と、怒りも絶望も感じなかった。それどころか、チェザーレがずっと自分を見守っていてくれたことを知って、喜びと安堵すら感じる自分が情けなかった。
 それから数日、ジョルジョはレオの収集した絵画や版画に埋もれて時を過ごした。レオは少し離れたところからジョルジョを見守ってくれていたようだが、ある日、付き合わないか、と言って真夜中のニューヨークの町にジョルジョを連れ出した。飲みにでも行くのかと思っていると、着いた先は美の殿堂、メトロポリタン美術館だった。ジョルジョが何事かとレオを見ると、レオはまるで何か決心をした後であるかのような強い意思を持った顔でジョルジョを見つめ、優しく微笑み、それから警備員に親しげに話しかけた。
 夜中の美術館はまるきり別世界だった。闇の中で蠕く絵画の中の人物、静物でさえ、命の微かな迸りをジョルジョに投げ掛けた。彫刻はもうそこに立っていることさえ苦痛であるかのように静かに鼓動し、ヴィーナスは髪を洗い、天使は美術館の高い天井の宇宙に舞い上がった。
 ジョルジョはそこに確かに神を見た。修復師のエウジェニオが語っていた『神』が確かにそこにいた。神は静かに銀色の雫を天から零していた。ジョルジョは目を閉じ、この世界にこれらの数多の芸術品が遺されていることに、心から感謝し、悦びに震えた。幾百年も前の芸術家たちが遺した作品には、彼らの手にその瞬間に宿った神の足跡が確かに標されていた。ジョルジョは歯が噛み合わなくなっていることに気が付いて、思わず自分の腕を抱き締めていた。
 レオは夜通し仕事をしている友人を呼び出し、ジョルジョを紹介した。
 その日からジョルジョはメトロポリタンに通い詰めた。数週間が経った頃、メトロポリタンの修復責任者がレオのオフィスに駆け込んできた。
「レオ、あの子は何なんだ」
 興奮のままに叫んでから、責任者はレオの傍にいるジョルジョに驚いた顔をしたが、直ぐに気を取り直したようだった。
「何って、エウジェニオ・ブランコを知ってるだろう」
「伝説の修復師だ」
「そのエウジェニオの最初で最後の弟子、唯一の弟子だよ。エウジェニオは息子だと言った。神の手を持っていた男が認めた、自分以上になる手だと」
「いや、もうそんなことはどうでもいい。とにかく、メットで雇わせてくれ」
 ジョルジョはしばらくレオの顔を見つめていたが、結局、返事は保留した。
「即答するべき申し出じゃないかな」
 レオは決心したような強く優しい声で諭すように言ったが、ジョルジョは首を横に振った。
「知ってるかもしれないけど、叔父は僕が修復師になりたいと言った時、初めて無茶苦茶に怒ったんだ。レオがそれを僕に薦めたんだと知れたら、レオはきっと殺されちゃうよ」
「それでもいいさ、ジョルジョ。でも、多分それは君の誤解だよ。チェザーレは、君が修復師になることに怒ったわけじゃない。君がヴォルテラを継がないと言ったことに怒ったんだと聞いている」
「同じことだよ」
 レオはジョルジョをソファに座らせて、自分も座った。
「ジョルジョ、もう一人のエウジェニオの話をしないといけないようだね。チェザーレは前教皇が亡くなる前、言われたそうだよ。ジョルジョを少し自由にさせてやらないか、と。教皇はね、エウジェニオという名前の一人の人間として、君の幸福を願う一人の人間として、チェザーレに話をしてくれたんだと思うよ。このままではあの子の心にある空洞は埋められない、修復師になることでそれが癒されるなら、それもあの子と神の対話のひとつなのだろう、と。君と離れて辛いのはむしろチェザーレの方だと、教皇はよく知っていたんだよ。教皇はチェザーレを慰めて、こうも言ったそうだ。ジョルジョが仕える教皇は私より三代先の北の異国の教皇だ、と」
 ジョルジョはその予言に、身体の芯が震えるような気がした。
「そんな予言はさすがに信じられないけどね、でもジョルジョ、二人のエウジェニオがどれほど君を愛したか、そしてチェザーレがどれほど君を愛しているのか、それだけは確かだと思うんだよ」
 それから一年ばかり、ジョルジョは返事を保留したままメトロポリタンに通い詰めた。アリだけでなく、トレジャーハンターという種類のとてつもなく怪しい職業の男たちとも知り合いになり、しばしば『お宝探し』に同行するようになった。メトロポリタンとは雇用契約書を交わさなかったので、給料はなけなしのバイト料だけだった。修復責任者は申し訳ないから契約させてくれと何度も言ったが、ジョルジョはむしろ縛られることを恐れた。ジョルジョは相変わらずほとんど無一文に近かったが、不自由のない暮らしはレオのお蔭で保たれていた。
 心の片隅に、ずっと密かな音楽を奏でている東洋の神が描いた世界は、何故か大事に仕舞われたまま、ジョルジョはその場所だけを避けていたのかもしれない。誰もいなくなった真夜中のメトロポリタンで、ジョルジョは何時間も日本の画家たちが描いたものと向かい合っていた。この絵画の中にある不思議な質感、それは密やかに天から落ちる湿度、肌に纏わりつくような空気、ジョルジョがこれまでに見た世界にはない、何か別の神の恩寵のようだった。
 ジョルジョはその思いをジュリオ・カヴァリエーリに何度か手紙で書いた。ジュリオはいつも優しい手紙をくれた。
『君がそこを避けるのは何故だろう。そこに君が本当に求めるものがあるということを、君は本能的に察しているからかもしれないね。それなら、君は是非ともそこに行くべきだ。いずれ必然に引かれて君はその場所に辿り着くのだろうけれど。もしも日本に行くことがあれば、僕の姉を訪ねてくれないか。姉は東京の大学で脳神経科学の勉強をしているはずだが、家を飛び出してしまったので、今は連絡がなく、心配しているんだ』
 何かがあって決心したわけではない。ただ静かに降り積もっていた想いが、もうこれ以上は受け止められなくなっただけかもしれない。
 十八の誕生日に、ジョルジョは、有名ホテルのフロアを貸し切ってパーティをしてくれるというレオの申し出を断った。アンジェリーナに怒られるよ、と言って不思議そうにするレオに、ジョルジョは二人だけで過ごしたいのだと言った。
 その日、ジョルジョがローマを出奔した日と同じように、静かに雨が降っていた。ジョルジョはゆっくりと風呂に浸かり、浴槽からガラスに降りしきる雨を、雨にけぶる街の明りを見つめていた。レオが、彼自身は着衣のまま、ジョルジョの髪を洗ってくれた。そう言えばローマを出るときは、ジュリオが髪を切ってくれたっけ、とジョルジョは考えていた。身体に染み渡るようなジュリオのバリトンの声を思うと、何故かやはり神は信じるに値するものだと思えてくる。
「誰か、他の人のことを考えているね」
 レオの指が髪の間で地肌に触れていると、自然に興奮してくるような気がした。
「神学校の上級生のことだよ。優しい人だった。ローマを出るとき、髪を切ってもらった」
「好きだったのか」
「どうして? 彼は神に仕える人だよ。僕がキスをねだったら応えてくれたけど、それは神の仕事としてだ」
 レオは答えなかった。髪を洗い終わると、シャンパンを飲もうか、と言って浴室から出て行った。
 ジョルジョは浴槽から出て、ガラスの前に素っ裸のまま立ち、やはりここは決して自分の居場所ではないと思った。ガラスの向こうに映るジョルジョ自身の立ち姿は街の天空に浮かび、その顔はあのイコン画家の顔のままだった。背徳の悲しみで、画家の顔には雨が涙のように降りしきっていた。
 レオはバスタオルを持ってきて、ジョルジョの身体を抱き締めるようにして拭いてくれた。その手を止めて、ジョルジョは振り返り、摩天楼の街を見下ろす場所でレオの唇を求めた。ジョルジョはまだ着衣のままだったレオを浴槽に引きずり込み、それから漸く服を脱がせて、レオの身体を隅々まで洗い、素っ裸のまま一緒にシャンパンを飲んだ。そして、自然にベッドに行き、自然に求め合った。アンジェリーナがレオは不能だと言っていたのは、あながち嘘でもなかったのだろうが、その日レオは自然に興奮して、ジョルジョの身体を慈しんでくれた。
「君の身体からは不思議な匂いがするね」レオは軽く喘ぎながらジョルジョの耳元に囁いた。「君が興奮している時なんだろうか。そうなら嬉しいけどね。何というのか、とてもオリエンタルな香りだ。白檀かな」
「レオ」
 ジョルジョは身体が興奮するに任せて、その名前を敬意と愛情と感謝を籠めて呼んだ。そして、その名を呼ぶ自分の感情にはやはり欠けているところがあるのだと、大切な、まだ呼んでいない名前があるのだと思った。
 そうなのだ。人には名前がなくてはならない。こうやって心を籠めてその名を呼び、呼ばれ、そうして死のときには誰かが悲しみと愛情を籠めてその名前を呼ばなくてはならない。ただ員数としてしか数えられなかった、墓碑銘に名前もなく数のうちに押し込められた過去の戦争や病気や虜囚の犠牲者たちが受けた苦しみや悲しみを、人は決してもう誰に対しても与えてはいけないのだ。
 レオを受け入れながら、ジョルジョは、本当に愛する人と肌を合わせるということはどういうことなのかと考えていた。レオを尊敬し、ある意味では愛していると思ったが、それが心の空洞から突き上げるように求めるものとは思えなかった。
「生涯」レオはジョルジョの身体の内に彼自身を埋めて、ジョルジョの耳元で囁いた。「君に仕えるよ。私の生涯は君のためにある。君がエウジェニオに連れられてローマの私の家に来たときから、私はずっと君の僕だった」
 レオの心はありがたかった。だが、やはりそれはジョルジョの空洞を埋めるものにはならなかった。
「レオ」何だ、とレオは優しくキスをくれる。「お金を貸してくれないか」
「私のものは全て君のものだ。貸すなんて言うんじゃないよ。何か特別な事業でも始める気になったのかい」
「貸して欲しいんだ。日本までの片道の飛行機代だけでいい。ちゃんと返すよ」
「冗談だろう。私が連れて行くよ」
「一人で行きたいんだ。お願いだから」
 レオが持たせてくれようとした大金のほとんどをジョルジョは残し、本当に飛行機代だけを手に、マルコ・ポーロが黄金の国と言った東洋の果ての国に辿り着いたのは、やはり雨の日だった。


 ローマを離れても、ニューヨークを離れても、あのイコン画家の魂が追いかけてきているような気がしていた。悪夢を振り切るように着の身着のままで旅を続け、神社や寺に泊まり、頼み込むようにして仏具や寺宝を修復し、辛うじて糊口を凌いでいるうちに、静かに彼の存在は知れるようになっていた。その彼には名前がなかった。
 元華族の大和高顕に拾われたのは、ある寺からの紹介で大和家のコレクションを整理しに行った時だった。大和高顕は狡猾な男だったが、人間を見る目だけはあったのかもしれない。その男と決別するまでの約一年の間は、ジョルジョにとって地獄のような時間と果てなく昂ぶる心を慰め天にも昇るような時間を与えてくれた。ジョルジョは『大和竹流』という名前を与えられ、そしてその名前は表に出せない宝を隠し持つ収集家、高貴な血を受け継ぐ名家の間に知れるようになり、高顕に利用されていることを知りながらも、ジョルジョは目の前に現れる、焦がれ続けた神の宿る作品を前に、ただ休むことなく興奮し続けていた。
 激しい熱情を秘めた大和家の娘、青花はまだ十六と聞いていたが、ジョルジョは、絵画や版画、日本が生み出したあらゆる職人の技に触れる時に感じる興奮との区別がつかないまま、その熱情にほだされて、恋に落ちた。少なくとも恋だと思い込んでいた。
 大和高顕と決別した後、ジョルジョは満たされない身体の空洞が、いつも内側から自分を苦しめているのだと改めて思った。ジョルジョは魘される原因を身体の外に放り出すために、身体を提供する相手となっていた宝石商の女主人に金を借りて、フィレンツェからあのイコン画家の残したものを全て買い取り、取り寄せた。特に画家が残した最後の彫刻は、ジョルジョがその画家を殺したという罪を告発するものであり、どうしても隠し通さなければならなかった。そして、それを鬼の棲む島に閉じ込めようと思った。時々、その場所を訪れ、その礼拝堂に閉じ籠るときだけ、ジョルジョはまさしく自分自身である悪魔と対峙し、吐くほどに苦しみ、そしてそこから出れば全てを忘れるようにした。
 ある夜、佐渡から戻るフェリーの甲板から、ジョルジョは、いやその時は既に大和竹流という名前を自らの手で選び取っていたのだが、古い時代の俳人が残した句のままに、天の川が佐渡に横たわる宇宙を見上げ、ふと、ジュリオの手紙を思い出した。そして、まるで救いを求めるように、敬愛する上級生の姉を捜し求めた。
 その女性を訪ねて辿り着いた先は、脳外科医の相川功の家だった。
 ジュリオの姉は自殺していて、身元引受人のいない外国人のまま処理されていたが、その人を丁寧に葬ってくれたという男がいることを知った。相川功という男とジュリオの姉の間に何があったのか、それは恐らく女性のほうの満たされぬ恋情だったのだと思われたが、ジョルジョは相川功自身の口から事実を聞きださねばならないような気がしていた。だが、後から考えてみれば、それはただの糸口だったのだろう。ジュリオが、かねてからずっと日本に行くことを勧めてくれていたのは、神の宣託だったのかもしれない。
 相川功の家を訪ねたとき、その家の扉は、まるでジョルジョを待っていたように開いた。玄関から飛び出してきたものは、まるで獣のように俊敏な動作で脇をすり抜けかけたが、後ろから追いかけてきた声に驚いて、つんのめるようにジョルジョの腕の中に崩れ落ちた。
 冗談ではなく、南米の森の中の光景を思い出した。
 それはまさに、突然に襲い来る野生動物の気配だった。だが、その野生の生き物はむしろジョルジョを恐れ怯むように、彼の腕の中で意識を失った。その一瞬、ジョルジョを見上げた目、その右目は深い森の碧を写し取り、左の目は暗い夜の闇を写し取っていた。髪は黒くも見えたが、光に透けるとほとんど金に近い照り返しで、身体は痩せて儚くも思えたのに、その筋肉や肌の内に生命の迸るような躍動を感じた。
 運命を感じたといえば嘘になる。しかしジョルジョは、その一瞬、明らかに光を見た。暗い聖堂の扉を開けたとき、突然開かれた世界に満ち溢れた、日の光だった。
「まこと」
 追いかけてきた声の主は、ジョルジョの顔を見て足を止めた。その相川功の顔を見、声を聞いた瞬間に、ジョルジョは既にこの男には何の咎もないと気が付いていた。だが何故か、今この手の中に抱いている不思議な、そして不安な生き物を離したくない、もう一度この目と手で確かめたいという思いが、幼い頃からずっと身体の外に追い出すこともできなかった空洞の内側から湧き上がってきた。ジョルジョ・ヴォルテラの心の内に巣くっていた空洞が内側から音をたてたのは、恐らく初めてのことだった。
「行くところがないんです。私を雇っていただけませんか」
 一体、何を相川功は思っただろう。そのときには、相川功もこの異国人があの女性の関係者であることを悟っていたはずだった。功は一度、ジョルジョの腕の中に抱かれたままの子どもを見つめて、それから静かに顔を上げた。
「入りなさい」
 教皇が予言したとおり、必然に導かれてジョルジョ・ヴォルテラはこの場所へやって来た。その時、彼は二十歳で、腕の中に飛び込んできた子どもは十一だった。

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Category: ☂海に落ちる雨 始章

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コメント


ジョルジョが竹流となるストーリー。圧巻でした。
清明の雪で真の過去を少し知ってしまったことに、良いのかと感じたのですが、ここでも。ジョルジョ時代(?)のことをこんなにも知ってしまって良いのか、です。でもまだまだわけありのわの途中かな。

偶然と必然の絡み合う中、神が神を見出す場面、世代交代とは違う、渡され、身を置き、選んでいく場面、それからそれから、出会いの場面。流れ流れていきます。

まだ二十歳と十一歳なのですね。いろいろありそ。
また参ります^^

けい #- | URL | 2013/10/07 18:22 [edit]


けいさん、ありがとうございます(^^)

なんと、もうこんなところに来てくださったのですね。
いやもう、これは長いので、なかなか手を出してくださる人はおらぬだろうと思ったりもしているのですが、嬉しいです。でも、実は、この話、あちこち独立して読める章が入り込んでいるので、つまみ食いでもしていただけたらと思っておりました。
ありがとうございます(^^)
この始章は、実はこの先のストーリーが完成してから、後で書き加えたものなのです。
読んでくれた友人が、やっぱり生い立ちというのか、それぞれの親子関係の物語が必要よ、と言ってくれまして。それまで、自分の中では決まっていたものの、文字に起こすことのなかった物語を書き表してみるのは、結構楽しい作業になりました。
時代も、ちょっと不思議なレトロ感が出せたらと思っていたのですが……
そうですね(*^_^*) ちょっとイケナイ過去をのぞき見してしまった感じがありましたでしょうか?
ジョルジョの物語の要は、『人魚姫』の下りなのです。
泡になるのを怖がっている人魚姫と、今度は人魚姫を泡になんかしないと誓った王子が出会って、さて、どうなるのでしょうか……(*^_^*) 
なかなか幸せには届かないし、引かれ合った魂が最後まで離れないでいられるのかどうかも分からない、この先行きですが、行けるところまでお付き合いいただけたら嬉しいです。

この先は、真の物語です。
ちょっと毛色の違う世界をお楽しみいただけたら幸いです。時間軸は、この出会いから先の話になっていますので、するりとお話に入って頂けたら、と思うのですが、なにしろ字が詰まっていて、読みにくくてごめんなさい。
そうそう、インディアンの村のシーン、ちょっと田島くんのウルルシーンに通じるものがあるなぁと思ったりしていたのですが(全然違う?)、いかがでしょうか。

彩洋→けいさん #nLQskDKw | URL | 2013/10/07 22:37 [edit]


こんにちは。
ゆっくりですが、少しずつ読ませていただいております。

なるほど、真の異国風の容姿の秘密がわかりましたよ!
つまりえーと、元々ジョルジョが慕っていた先輩のお姉さんの……
ということでしょうか?
なんだか運命を感じました。

ジョルジョこと竹流ですが、彼は「空洞」を絶えず抱えていたのですね。
「敬意と愛情と感謝を籠めて」レオの名を呼ぶことがあっても、
そのなかには激情とか突き上げるものは一切ないのですね。
人との関わりもどこか俯瞰的に捉えていて、
それもまさに西洋的叡智というか、自分の範疇にあるものというか。
こんな彼だったのですから、自分のこうした「枠」に収まらなかった(のちに収まらなくなるであろう(^^;))真との出逢いは本当に脅威だったんだなと思いました。
やはり幼年期を追っていると、真と竹流の出逢いがいかに
異質で衝撃的なものだったか、より明確に浮かび上がってきますね!

お忙しそうなご様子、ご無理はなさらないでくださいねヽ(;´Д`)ノ
引き続きこっそり読ませていただきます〜^^

canaria #- | URL | 2016/07/09 20:47 [edit]


canariaさん、ありがとうございます(^^)

あぁ、canariaさん、こちらこそ、コメを残せないままになっていてすみません! 毎回きっちり拝読させていただいております。また必ずコメに参りますね。『浸蝕恋愛II』のコメにも行かなくちゃ!
さて、こちら、読んでいただいてありがとうございます。本当に拙い文章で内容ながら、canariaさんに読んでいただいて本当にありがたく思います。
あ! ジョルジョが慕っていた先輩のお姉さんの話……そうか! 誤解されてしまいましたね! 実はこれは単にジョルジョが相川功のところにやってきた理由と言うだけであって、真がクォーターであることとは無関係だったのです。そうか、確かに紛らわしい……^^;
真の事情は始章2で語られますので、そちらもお楽しみになさってください。あ、でも、出生のことは何も書いていないかもしれません。
でも、運命が引きつけたというのはその通りですね。うん、本当に何もなくていきなり謎の外国人が現れて雇ってくれと言われても、まぁ雇いませんしね^^; 

そして、ジョルジョの空洞。その部分には「相容れないもの」がぴったりはまるんですけれど、それを受け入れちゃったら、自分のアイデンティティも崩壊しそうになっちゃう。でも、彼はそれを求めていて、しかもそれが直感的に分かっちゃっているという、ジレンマに苦しんでいます。
きっとその部分に嵌まるもの以外は、彼にとって心を揺り動かすものではないんでしょうけれど、決して大事ではないというのでもなくて、それはそれで大事。レオのことも。あ、でもこのレオって人もその他の人も、以後出てくる予定はありません^^;
エウジェニオ(教皇と師匠)は死んじゃってるけど、名前だけはその後もしっかり登場しますが……特に教皇のエウジェニオは彼に「魂」を植え付けた人ですから、それに逆らうことはどうしてもできないし、人生の後半は自分の運命の教皇(名前は出てきませんがヨハネ・パウロII世が彼の仕えた教皇です。お話だからパラレルワールド?ですけれど……)に仕えることになります。結局はキリスト教から離れられないままの生涯でしたが、真ははじめからそんなこと分かっていて受け入れていたんだと思います。
うん、どこか俯瞰的、まさにそんな感じですよね。この頃のジョルジョの乾き、どこか『浸蝕恋愛』の彼に似ていませんか?
しかも、真ったら、いきなり腕に飛び込んじゃった……^^; いや、これはもう、偶発的で象徴的な出来事でしたね。恋に落ちた……?(違うか)

というわけで、じっくり読んでいただいてありがとうございます!!
また真の方の話はすっかり異質ですけれど、楽しんでやってくださいませ。
コメントありがとうございました!!

彩洋→canariaさん #nLQskDKw | URL | 2016/07/10 13:39 [edit]

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