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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(1) 

 遥か地平線まで深い緑がうねる。緑はずっしりと湿度を湛え、その足下に無数の命を孕んでいる。
 広げた羽根は吹き上がる風で膨らみ、身体は重力の支配から解き放たれた。
 宇宙(そら)から銀の雫が降る。金の雫が降る。光の雫はうねる緑の上で雨になる。地平線に連なる天の縁には、柔らかな藍が染み出している。太陽はまだあの地平線の下、地球の裏側なのだ。
 天をまたいで、砂浜の粒のような無数の星が煌めき、薄い絹を投げ上げたように川を描く。緑の畝の隙間を縫って、地にも川が映し取られる。
 銀の雫が降る。宇宙の微かな光は、雨になって地球の川に降りしきる。川はやがて大海に届く。その海にも銀の雫が降りしきる。
 シロカニペ ランラン ピシュカン コンカニペ ランラン ピシュカン
 雨は川に落ち、海に落ち、誰にも気が付かれることなく地球の一滴になる。大海原に呑み込まれながら、確かな生命の一滴となる。
 雨の気配に目を覚ました。


          * * *

 遥か遠い空に大鷲のカムイがゆったりと舞っている。真は珍しく高く澄み渡る東京の空を、寝転がったまま見つめていた。暫くの間意識を失っていたのかもしれず、今でもぼんやりと定まらない自分自身は、半分はあの高みに持ち去られたままになっていた。頭の上の方で背の高い草が、川を渡ってくる風にかき回されて、ざわめいている。背中に接した地面はじっとりと水を含んでいた。
 詰襟の制服のボタンは幾つか引きちぎられ、シャツは泥にまみれて胸の辺りまでたくし上げられている。ベルトは両手首に巻きつけられて、自由を奪っていた。ズボンと下着は膝辺りまで下げられ、むき出しになった下半身から徐々に身体の熱が奪われていく。真はもう何時間こうしていたのだろうと思い、身体の熱を取り返すように身震いし、それからようやく身体を起こした。手首のベルトは、何度か手を捻ると簡単に外れた。下着とズボンを腰に引き上げ、シャツを戻そうとして、シャツのボタンも幾つか飛んでいることに気が付いた。見回して鞄を見つけると、泥を掃い、歩こうとすると身体のあちこちが痛んだ。鞄の中の教科書は無茶苦茶に引っ掻き回されていて、財布は案の定見当たらなかった。大した額が入っていたわけではなかったが、バスにも乗れないなと思い、結局また座り込んだ。妹の葉子が最近マスコット作りに嵌っていて、仕上げてくれたばかりのフェルト製のサラブレッドは、引きちぎられて泥の中に落ちていた。拾い上げる力もなく、真はまた身震いした。
 辺りが暗くなってから漸く泥だらけの重い身体を立たせて、サラブレッドを拾い上げ、ズボンのポケットに仕舞うと、歩けば小一時間はかかる道を歩き始めた。家に帰っても、脳外科医の父はまだ帰っていないだろうし、妹の葉子はピアノのレッスンに行っている時間だった。真とて、今日は灯妙寺に剣道の稽古に行く予定だったのだ。無断で休んだことを和尚は怒るだろうかと考えたが、どうでもいいような気持ちだった。
 案の定、家は真っ暗で、真は門を開けて中に入り、玄関に上がる前に泥だらけの全ての服を脱いでから、鞄の奥から鍵を探し出して玄関の扉を開けた。
 始めのうちは惨めだと思っていたことも、ここまで慢性的になるとどうでもいいような気がしてきて、真はいつものように風呂場で制服の泥を落とすと洗濯機を回して、それから葉子の作ったサラブレッドと一緒にシャワーを被った。浴室の鏡で顔を確認して、一見ではそれほどひどい怪我をしていないことだけを確認した。茶色い髪は暗めの浴室の照明の下でも明るく、左右の色が違う目の色も隠し遂せるものでもなく、真は自分の顔から目を逸らした。ふと身体に目を向けると、蹴られたのか殴られたのか、腹のあたりに幾つも痣ができていた。痛いのかどうかさえもよくわからなくなっている。
 中学生になり、弄ぶように真を苛める上級生たちの体力は格段に上がっていて、まだ成長期を十分に迎えていない真とは、身体の大きさそのものからして差が開くばかりだった。同級生たちと比べても真は決して大柄なほうではなく、少しばかり日本人離れした目の色と髪の色、それに顔つきもどこか普通と違って見えるらしく、その上、北海道弁を隠すためにあまり口を開かないことも手伝って、全く打ち解けない性格のいけ好かない奴だと思われているらしかった。
 北海道弁といっても、札幌のような内陸部とは違って、真が育った浦河の沿岸部では男たちは皆、独特の北の国の言葉を話した。どれほど注意していても、話せばイントネーションも語尾も、時には単語でさえ、全く東京の言葉と違っている。小学生の終わりに東京に出てきてから、真は言葉が自分と周囲の人間の間の大きな障害になることを嫌と言うほどに思い知らされ、結局口を開かないことで自分を防御するしかなくなった。もともと人とコミュニケーションを取ることは苦手だった。苦手どころか、全くうまくいかなかった。それを敢えて頑張って乗り越えるほどには、真は強い性質を持っていなかったし、笑いで誤魔化すような明るい性格でもなかった。
 中学生になって少しずつ背は伸び始めたが、まだ大人の身体にはなりきっていなかった。今日は殴られながら、下半身を剥かれ、やっぱりまだ生えてないな、と言われて弄ばれた。勃たせたことあるか、と擦られたとき、狂ったように暴れたために、更に殴られたような気がする。上級生たちは、顔を殴らない、ということでは狡猾な面を見せていて、身体の見えないところばかりを狙って殴ってきた。
 真はシャワーを止め、身体を拭いて、まだ長袖を着るには暑い季節だったにも拘らず、長袖のシャツを着て、ジーンズを穿いた。それからフェルトのサラブレッドを絞って、リビングに戻った。低いテーブルにサラブレッドを置くと、急に惨めなように気がしてきたが、先のことや未来のことなど何も考えないようにと思った。
 誰も戻ってこない。今日、あの男は葉子をピアノの先生のところに迎えに行って、その後で灯妙寺に寄って真を拾うはずだったのだ。灯妙寺に真が来ていないことを知ったら、彼は父に電話をするだろうか。もしかして父の仕事が終わっていたら、父を病院に迎えに行くつもりだろうから、きっと電話を掛けるだろう。何て言い訳をしようかと考えて、熱が出たことにしようかと思い、せめて灯妙寺の和尚に電話をしておいたほうがいいのかもしれないと考えた。だが、言い訳するということ自体が面倒だった。
 真は暫くの間、電話の前に突っ立っていたが、本当に熱っぽい気がして身体を震わせ、もう眠ってしまおうと思ったところだった。
 突然鳴り始めた電話に真はびくっと震えた。父か、葉子か、それともあの男か、あるいは灯妙寺の和尚か。真は言い訳の言葉を用意していなかったことを少しだけ後悔しながら、受話器を取り上げた。
 真も、電話の相手も、暫くの間何も言わなかった。ただ、電話線から果てしなく遠い距離を感じた。じーと何かの機械音なのか、あるいは遥か深い海の底のケーブルを渡る時間の歪みなのか、沈黙する時間さえどこかずれているようにさえ思える。
 もしもし、と電話の向こうから声が聞こえる。果てしなく遠いのに、しっかりと胸に響くような重い声だった。
「真か」
 真は上ずった声で、はい、と答えた。少しの間の沈黙が、相手の逡巡なのか、あるいはただ電話線の距離なのか、真には摑みかねた。
「兄貴はまだ戻らないのか」
 病院に電話をしたら、今日は早めに出たと言われたから、と電話の向こうの男は言った。
「戻っていません」
「また、遅めの時間に電話する」
 伝言を聞いたが、電話があったことだけを伝えてくれたらいい、と言われ、あっさりと電話は切れた。そのひどく冷淡で抑揚が全くないような声に、真は受話器を置いた途端、足から力が抜けるような気がして、思わずへたり込んでいた。
 一瞬、息をするのを忘れていたのかもしれない。真は急に身体に溜まった二酸化炭素を吐き出そうと速まった呼吸のコントロールを失い、突然過換気の発作に見舞われた。その結果として今度は身体から失われてしまった二酸化炭素は呼吸を著しく混乱させ、唇が痺れ、目の前はちかちかし始めた。ひどく胸が痛み、筋肉が痙攣する。前兆なく襲い掛かってきたパニックは、突然鳴り出した電話の音でますます勢いを増し、目の前はぐらぐらし始めた。電話は随分と長い時間鳴っていたが、真には身体を動かすことはできなかった。
 一旦途切れた呼び出し音は、一分も経たないうちに再び鳴り始め、真は痺れた手を電話に伸ばし、何とか摑みかけたが、受話器を取り損なってしまった。電話台から滑り落ちぶら下がった受話器から、遠くにもしもし、という声が聞こえている。
 真、いるのか、どうしたんだ。
 父の、正確には伯父の声だった。切羽詰ったような、心配して荒げられた、感情のある声に真は身体から力が抜けてしまい、返事ができずにそのまま意識を失った。


「私が泊まりましょうか」
「うん、いや、とりあえず病院に電話して、問題がなければ当直に任せるよ」
 真は頭の上で交わされている会話を、意識の深い霧の中でぼんやりと聞いていた。眠ったふりをしていたわけではないが、ただ身体が全く動かなかった。痺れはもう消えていたが、頭はまだぼんやりとしている。
 伯父は今日、早めに手術が終わったのだろう、時々そういうことがあって、その時は病院から直接灯妙寺に行って、真と一緒に稽古をする。大概は一緒に灯妙寺で夕食を頂いた後、病院に患者の容態を見に帰る。そういう伯父のいつもの忙しいながらも平穏な行動パターンを、真はいつも壊してしまうのだ。そう考えると、自分が腑甲斐無く情けなく感じてしまう。この家族の中の生活の決まりごとを、真だけが上手く繋いでいくことができない。
 葉子は戻っているのだろうか。今日は彼女が月に一度、『大先生』のところにピアノのレッスンに行く日だった。大先生は都心を少し離れたところに住んでいるので、その送り迎えは、伯父の個人的な『秘書』の仕事だった。
 秘書、というわけではないのかもしれない。週に二、三度、その男は伯父の研究の手伝いをしに大学病院に行っているらしいが、半分は真と葉子の家庭教師のようなものだった。仕事が忙しく、家にいる時間の少ない脳外科医の相川功が、母親のいない家で二人の子どもの面倒をみるのは実質不可能だった。週のうち半分は伯父が雇ったお手伝いのおばさんが子どもたちの食事の面倒をみてくれる。おばさんは朝に一度やって来て洗濯と掃除をし、夕方に買物に行って夕食を用意していってくれるが、週の残り半分はその秘書の男が料理をして、ついでに子どもたちの勉強の面倒をみてくれるようになっていた。恐ろしく仕事の手が早く、物覚えがよく、料理も、申し訳ないが、おばさんが作るものよりずっと美味しかった。葉子はまだ小学五年生だが、その男に料理を教えてもらうのが楽しみで、彼がやってくる日には遊びにも行かずに待っている。外国人とは思えない流暢な日本語を話し、長身で、くすんだ金の髪と青く暗い海の色のような瞳を持ったこの男は、事情は知らないが『大和』という日本の苗字を名乗っていた。伯父の功も、この男の出自をよく知らないらしく、かろうじて出身地がイタリアのローマだということを知っているだけのようだった。あるいは知っていも、真に話すようなことでもなかったのかもしれない。
「扁桃腺をよく腫らすんだ。北海道にいた頃も、しょっちゅう高熱を出していたらしい。切ったほうがいいのかもしれないな」
 伯父の声が心配そうに優しく聞こえていた。
「そんなことよりも、この身体の痣のほうが問題なのでは」
 伯父の『秘書』は、あの身体の底から響くような綺麗なハイバリトンの声で伯父に話しかけている。
「こんなことは一度や二度ではないのでしょう。苛めにしても度が過ぎている」
「本人は転んだ、としか言わないからな。苛めているやつらの事は何も言わない」
「この子は性質が弱すぎます。剣道をしている姿を見る限り、決して弱いわけでもないのに、自分の身体に加えられる理不尽に対してあまりにも無抵抗すぎる。ろくに口もきかないし、このままだと社会でちゃんと生きていけませんよ。両親に捨てられた甥が可哀相なのは分からないでもありませんが、いつまでもあなたや、あるいは北海道の親戚が、守ってくれるわけではないでしょう」
 真は息を潜めたまま、その会話を聞いていた。この男は本当に辛辣だと思っていた。
「苛めの事だけじゃない。未だに時々わけの分からない言葉を呟いたり、学校でもパニックになってしばしば気を失ったり、吐いたりしている。一年のうちまともに学校に行った日が何日あるんです? 他人に打ち解けることを全くしない、理解も求めない、放っておいたらずっと一人でいて、自分の世界に閉じ籠りすぎる、それにいつまでも幻の友人と離れようとしない。北海道に帰れば、馬の神様や、梟や大鷲の神様がいて、いるはずもない背の低い民話の生き物がいて、自分を守ってくれると思っている。それをいつまでも過保護に優しくしてやっても、いずれ困るのはこの子自身ですよ」
「だが、君が勉強を教えてくれるのは、楽しいと思っているようだ」
「だからこそです。この子はそれほど馬鹿じゃない。むしろある分野に関してはとび抜けた才能を持っている。だけど、この子自身がちゃんと前を向いて生きていこうとしない限り、どうすることもできないでしょう」
 そんなに簡単じゃない、と真は思った。自分は少しおかしいのだ。
 小さい頃、どうして髪の色も目の色も他の子どもたちと違うのか、全く理解できなかった。祖父母はその点では徹底的に孫を守る姿勢を貫いたし、親戚たちも真を大事にしてくれていた。真が苛められると、祖父は相手の子どもの家に何度も怒鳴り込みに行った。そのことがかえって子どもを孤立させるとは考えていなかったようだった。真は自分の力で闘って勝ち取ることを覚える、という人生の手続きを、幼小時に学ぶことができなかったのかもしれない。
 長い間、真には友達がおらず、馬と犬と、近くの森の奥に一人で住んでいたアイヌ人の老人、そして幻の友人たちだけが友達だった。真は全く他の世界を知らずに、浦河の牧場で、高い空と果てなく広がる牧草地の風に守られて育ってきた。
 一度だけ、叔父の弘志に連れられて札幌に行ったことがある。小学校二年生の時だったと記憶している。
 弘志は真にとって、アイヌ人の老人を除けば、唯一の人間の友人であり兄のようなものだった。まさに田舎の悪ガキで、無免許の車でかろうじて都会といえる町に悪い友達と出掛けては補導されて戻ってくるような叔父だったが、真には優しかった。特別に遊んでもらった記憶があったわけでもないし、弘志自身、自分の周囲のことで忙しく、真に構ってくれる時間はなかったのだろうが、いつも少し離れたところで真を見守ってくれていたような気がする。その弘志が北海道大学に入り、札幌で一人暮らしを始めたとき、真は北海道弁とはいえ日本語で会話する相手を失ったようなものだった。
 無口で頑固な祖父は、真を可愛がってくれたが、言葉で真とコミュニケーションを取るようなタイプではなった。孫との会話は、剣道であり、太棹三味線であり、馬たちの世話だった。真は就学してほとんどすぐに、小学校で教えられる多くのことについていけなくなっていた。そもそもが、ほんの一ヶ月だけ行った幼稚園で、桃太郎の話を聞かされて以来、国語が理解できない。何故、桃太郎が鬼退治に行ったのかが理解できなかったために、ついでに言うと、その物語自体が福沢諭吉の言うとおり理不尽であると嫌っていた祖父が幼稚園に怒鳴り込みに行ったために、世間一般の常識という範疇から零れてしまった。真は桃太郎が鬼ガ島に鬼を退治しに行った理由が全くわからないまま、そしてそれを「説明不要な前提」として納得することができなかったために、学校教育というものを受け入れる素地が失われてしまったのかもしれない。唯一、算数と理科だけは、説明不要な前提がなかったために、自然に身体に入ってきた。
 それでも全く物語を受け付けなかったわけではなかった。クリスチャンであった相川の曽祖父は、屋根裏に異国で書かれた物語の翻訳本を多く遺していた。真は時々そこに忍び込み、幻の友人たちと一緒に本の世界に入り込んだ。もっとも字をちゃんと読めていたはずもないので、多くの挿絵が理解を、あるいは誤解だったのかもしれないが、助けてくれたのかもしれない。
 だが、アンデルセンの『人魚姫』の物語は真を怖がらせた。真実の愛と信じたもののために穏やかな海の底での暮らしを捨てて人間の世界に飛び込み、痛む足に耐え、愛の成就を望みながら叶えられず、やがては海の泡となって消えてしまう人魚姫の運命に、自分の運命を重ねてしまったのかもしれない。その残酷な結末を、なす術もなく見守る海の世界の住人たちの挿絵に怯えて、真はその日から何日も吐き続け、夜も眠れずに震えていた。何を察したのか、祖父がアイヌ人の老人を呼んでくれ、真はその友人の言葉にようやく慰められて目を閉じた。
 カント オロワ ヤクサクノ アランケプ シネプ カ イサム
 真はどうしようもない時には、いつもその呪文のような言葉を呟き、眠るようになった。
 そのアイヌの老人が亡くなってから、真はほとんど喋らない子どもになった。弘志がいなくなってからは、一人で本を読み、一人で遊んだ。馬と犬たちはいつでも真の友人だったが、彼らとのコミュニケーションに会話は不要だった。
 札幌に出て行って初めの夏は牧場に戻ってこなかった弘志が、二年目の夏に浦河に帰ってきたとき、真は弘志に近付くことができずに、遠くからその姿を見ているばかりだった。一年見ない間に、弘志は随分と垢抜けして、格好良く逞しい男になっていた。弘志は久しぶりの帰郷で友人たちと遊び歩くのに忙しく、それでも父親の長一郎から、真がずっとお前を待っていた、と聞かされては急に真がかわいそうに思ったようだった。一緒に札幌に行こうか、と言われて、真はただ弘志と一緒にいられることだけを喜んで、初めての大都会に足を踏み入れた。
 そこは全く想像を絶する世界だった。何より、人の数、そして車、バイク、立ち並ぶ家やビル、全てが完全に真の想像の蚊帳の外にあったものが動いていて、目の前に洪水のように押し寄せたのだ。
 そこには真を守ってくれていた馬たちも犬たちも、そしてカムイたちもいなかった。人々は言葉を話し、それによって社会を営んでいた。社会は大きな歯車を回していて、それを回すために人々は働き、語り合い、忙しく動き回っていた。
 初めて札幌で過ごした夜、真はかろうじて胃に納めてあった夕食を吐き出してしまい、不安がる真を抱いて眠ってくれた弘志の布団でおねしょをしてしまった。弘志は怒ることはなかったが、真は叔父が呆れているのだろうと思い、弘志の顔をまともに見られなくなっていた。連れて行ってもらった大学でも、ラグビー部の花形選手になっていた弘志が仲間たちと逞しく走り廻り、真が見た事も無い天女のような女性に騒がれている姿を見て、自分の居場所が見つからなくなった。そのときの良い思い出といえば、真が馬のにおいに誘われて迷い込んだ厩舎で、後に弘志の妻になった女性と会ったことくらいだ。
 浦河に帰ってから、真は夜な夜なおねしょをするようになり、布団に潜って震えるようになった。祖父は弘志を責めたが、真は弘志に申し訳ないやら、説明できない自分が情けないやらでどうすることもできないまま、森の中に逃げ込んでは、高い草の中に埋もれて泣いていた。そこに行けば、幻の小さな友人たちがこっそり現れて、真に、人間には通れないはずの道を開けてくれた。
 子どもの頃、身体はどちらかといえば小さかったし、やせっぽっちで、他人と闘う力などなかった真のあまりの情けなさを辛うじて救ってくれたのは、無口な祖父が授けてくれた剣道と太棹三味線、他人が見れば驚くらしい、裸馬にも乗れる乗馬の才能だった。それらと対峙している時だけは、真は情けない子どもではなかったし、むしろ自分もいっぱしの男のような気持ちになれた。特に剣道は、面をつけることで真の大きな欠点を覆い隠してくれた。それは髪の色と目の色だったし、面をつけるということが全くの別人に変われるような気分にさせてくれたからかもしれない。
 東京に来てから、それらの武器が役に立ったことはない。馬はもちろんいなかったし、太棹三味線を叩く子どもが才能を発揮する機会など盆踊りでもない限りあり得なかったし、剣道については別の意味で武器にはできなかった。これを使えば真は苛める上級生たちに簡単に勝てるはずだった。だが、もしこれを喧嘩に使えば、祖父がどれほど怒るかということは簡単に想像ができた。祖父を失望させることは、真には考えられないことだった。それに大体、苛めの現場に都合よく竹刀かその類のものが落ちているわけではなかった。
 全ての武器を使えない環境の中で、真は何も闘うすべがなく戦場に放り込まれたようなものだった。実際に必要な武器は、逆境であろうとも闘い生き抜こうとする強い精神力だけだったに違いないが、それが真には全く備わっていなかった。少なくとも、真はそう思い込んでいた。祖父以外の親戚たちは、真が小学生の高学年になって背が伸び、半分ドイツ人である母親の血のために外見の整った子どもに育つにつれて、他人の誰にも打ち解けず、馬や犬たちとしかまともに会話もしない、未だに人間でないものが見えるようなことを言っているままではいけないと思ったのだろう。
 まず、父親と母親がいないことが悪いのだろうと誰もが考えた。母親を作り出すのは難しかったが、父親なら東京にいる伯父にあたる功のところにやるのがいいだろうと、特に強く心配した弘志が功に掛け合った。功は功で、自分が脳外科医として忙しく、一人娘に寂しい思いをさせていることについて不憫に思っているところだった。何より、弟、武史が見捨てていき、一度は自分が育てようと考えたこともある子どもを、弟への複雑な感情を飲み込んで引き取ることについて、功なりに義務を感じたようだった。
 真は、功に連れられた従妹の葉子が浦河に初めてやって来たとき、祖父に隠れてこっそり読んでいた曽祖父の蔵書にある外国の童話に出てくるお姫様が、天から降ってきたのだと思った。姫君を守る使命が自分に与えられたと思い、子どもなりに、このままではいけない、男としては強い人間にならなければならないという、生物的な雄の本能を刺激もされて、先を考えずに東京にやって来てしまった。
 東京は、真にとってまさに地獄だった。アスファルトの地面は靴がなければ歩くこともできず、真は人にも車にも、あらゆる動いているものに過剰に反応し、少し高いビルが並ぶ街を歩くと、大概家に帰って吐き戻していた。こんなものが地面の上に建っているということに、それは地球の地面に、カムイたちの土地に深い傷を負わせているように感じて、真は震えて眠れない夜を幾つも数えた。勉強など手に付くはずもなかった。早口でまくし立てられる東京の言葉は全く理解できなかった。
 多分、少し落ち着いてみれば、何とかなることばかりだったのだろう。だが、嵌まり込んだ蟻地獄はどんどん深くなり、そこから抜け出せない自分に真は失望し、諦め、心配した功が精神科医に相談するにあたって、自分はおかしいと思い始めていた。
「浦河に帰したほうがいいのだろうか」
「あり得ませんよ。そんなことをしたら、こいつは一生逃げ続けるだけです。世の中が辛いんだったら辛いなりに、睨み付けてでも生きて行けるように鍛えなおしてやったほうがいい」
「君は強いな。国を出てきて、一人で生きて行こうとしている。この子にはそういうことを教えてくれる大人が必要なんだろう」
「あなただって、浦河から出てきて一人で生きてきたんじゃありませんか。何だってそんなに臆病になるんです。あなたたちはこの子が傷つくことを恐れて、過保護にしすぎて、余計にこの世の中に居場所を見つけられないようにしてしまっている」
「怖いんだよ」
 功が搾り出すように言った言葉が、真を震えさせた。
「怖い?」
「弟が姿を消したときの事を思い出す。この子の父親だ。強くて逞しく、自分で道を切り開くというなら、あいつのような人間を言うのだろう。弟は親父によく似ていた。親父もクリスチャンだった祖父に馴染めず、家を出て、アイヌやマタギと暮らしたり、一人で三味線片手に旅に出て、随分破天荒な生き方をしてきた。祖父が死んで、浦河に戻って俺のお袋と結婚したが、お袋が亡くなって直ぐに、恋仲だったのに諦めていた金沢の芸妓の家に女を掻っ攫いに行った。弟二人の母親だ。あの人たちの強い血を引いているのに、真はどうしてこんなに脆いのか、もしかしてこの子は、始めからこの世に生まれ出るはずではなかった、別の世界の住人なんじゃないかと思ってしまう時がある」
「冗談でしょう」
 溜め息をつくようにして、伯父の秘書である大和竹流が吐き出すように呟いた。真は、そうなのだ、だから俺はおかしいのかもしれない、と思った。
「弟は、下宿屋の娘と恋仲になっていたのに、異国から来た女性に一目惚れしてしまった。大学では、弟は本当に優秀な研究者になるだろうと言われていたんだよ。私が捨ててしまった宇宙ロケットを作るという夢を、まさに現実のものにすると思っていた。それなのに、大学も恋人も捨てて、異国の女性と駆け落ちした。その女性と生きていくためにがむしゃらに働いているらしいと風の便りには聞いたきりで、いつでも私の後ろばかり追いかけていたのに、あの時、あいつは一度も私を頼ってこなかった。私は今でも忘れられないんだ。その女性が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、私を頼ってきたときの事を。雪の降る年末だった。この子を預かって欲しい、と言われた。武史はどうしたんだ、と聞いたが、その女性は首を横に振るばかりだった。それから長い間、弟からは何の音沙汰もなかった」
 伯父の優しい手が真の布団を掛けなおしてくれる。真は、ようやく自分が寝かされているのが客間になっている座敷だと認識できた。小さな濡れ縁に密やかに雨が落ちる気配が、床を伝って真の身体に響いている。
 都会に降る雨は寂しいと思った。浦河なら、天から落ちた雨は緑の木々を潤し、大地に沁み入り、深い土の中で次の春のための命を育む金や銀の雫になった。東京に降る雨は一体どこに行くのだろう。
「赤ん坊を育てることなど、考えられなかった。直ぐに祖父に預けようと思ったが、この子を見ていると、何だか私が守らなければならないように気がして、一度は真剣に育てることを考えたよ。当時付き合っていた女性に、赤ん坊の母親になってくれないか、って言ったんだけどね、返事をもらう前にのっぴきならないことになって、結局、弟が捨てた下宿屋の娘と結婚した。もともと彼女に恋をしていた私が、血迷ってしまったのかもしれない。妻は一生懸命赤ん坊を育てようとしてくれたよ。だが、この子は両親に捨てられたことが分かっていたのかもしれないな。やたらとかんの強い子どもで、本当によく泣いた。赤ん坊の髪の色など大して問題にはならなかっただろうが、目の色は明らかに左右が違っていて、半分は異国の色に染められていた。その目で不安そうに私と妻を見た。妻は、自分を捨てた男の子どもであることを知っていたんだろう、徐々におかしくなって、オシメを換えることもミルクを与えることもできなくなって、ついには赤ん坊の首を絞めた。あの日、もしも私が予定通り当直をしていたら、もうこの子はこの世にいない。妻を責めることはできない。元はといえば、弟が彼女を捨てた。そして私が、身勝手な仏心で、精神が不安定になっていた彼女を救うつもりで結婚した。いや、私はやはりどこかで彼女を諦めていなかったんだ。私や弟と永遠に関わりのないところで生きていけば、彼女の傷もやがて癒えたのかもしれないのに、彼女は、弟と弟を奪った女の面影を宿した子どもを育てる破目になって、さらに病んでいった。結局、赤ん坊は浦河に預けるしか、私にはどうしようもなかった」
 真は半分朦朧とした意識の中で、蘇ってくる悪夢のわけを理解した。
 小さい頃から、幾度となく恐ろしい夢を見た。いつも決まって西日の射し込む古いアパートの部屋で、美しい女性が赤ん坊を抱いてあやしていた。女性は赤ん坊を抱き締めて慈しんでいるが、突然赤ん坊が泣き始める。女性の顔が一瞬にして変わり、それは仮面を付け替えた能の鬼のようで、西日に赤く血のように染められた顔を歪めて、か細い赤ん坊の首を絞め始めるのだ。
 あまりの恐ろしさに何度も夜中に目を覚まし、真は眠れない夜を幾つも過ごしてきた。今、その理由を知って、それが現実だったのだと知っても、逆に今さらこれ以上恐ろしいと思う理由にはならなかった。
「過去のことはともかく、今は先のことを考えるべきです。たとえ死に掛かった事があるのだとしても、この子は今、現実にちゃんと生きていて、これからだって生きていかなくてはならない。それなら生きる術を教えてやるのがあなたの仕事でしょう。それに、もしもその時この子が運命によって生き延びたのだとしたら、それは悲運どころか幸運と言うべきです」
 真は電話を思い出していた。今日、意識をなくす前、父親と会話をした。その冷たく乾いた声を思い出した。本当なら、伯父ではなくあの父親が真を育ててくれるべきではなかったか。なぜ捨てられたのか、真には全く分からなかった。
「この子が可愛いと思うのに、時々混乱する。弟を愛しいと思っていたのに、やはり許せないと思っているからかもしれない。妻は、ずっと弟を愛していた。多分、今もだ」
 真は思わずびくりと身体を震わせた。それに気が付いたのか、会話が途切れる。どちらかが促したのか、暫くすると真が眠っているのを確かめるように髪を撫でて、伯父と大和竹流は出て行った。

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Category: ☂海に落ちる雨 始章

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