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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

☂始章2 邂逅(銀の雫、降る)(2) 

 それから、少しの間は眠ったのかもしれない。真は遠くに電話の音を聞いたような気がして、ふと身体を起こした。誰の気配もなく、もう雨の気配も止んでいる。そっと襖を少しだけ開けると、薄暗い居間で伯父が受話器を取り上げていた。
「武史か」
 声は、しっかりと真の耳に届いていた。
「いや、まだ決まってはいないんだ。行くとしたらカリフォルニアだな」
 真は息を潜めて、襖の陰にそっと座り込んだ。細い微かな光が座敷を裂くように、真の視界の真ん中に伸びて、向かいの障子から天井へかすんでいっている。
「どうして会えない? 俺は、少しの間でもお前が真と暮らしてくれたら、と思ってるよ。何を言ってるんだ。俺の留学はお前とは関係がないだろう。来るなってのはどういうことだ。馬鹿を言うな、行くとしたら子どもたちを置いていくつもりはないよ。特に真は」伯父は少し間を置いて続けた。「このまま東京の学校でやって行けるとは思えないんだ。精神科医か心理の専門家の助けが必要な状態だよ。浦河? あそこにいたら、あの子はずっと自分に閉じ籠るばかりだ。武史、お前に親父を批判する権利はないよ。親父は一生懸命にあの子を育てたさ。あの子は、親父に褒められたくて仕方がないし、だから辛うじてここでも頑張ってるよ。だが、このままだと破綻するのは目に見えている。あの子に必要なのは父親だよ。本当の意味での父親だ。お前にも親の責任ってものがあるだろう」
 真は膝をたてたまま、頭を抱え込んだ。果てしなく遠い時と距離のこちら側で伯父が黙っている空白の時間、電話線の向こうで、あの父親の感情を伴わない冷めた声が何かを話しているのだ。真について、真にとっては何か重大なことを。そしてあの父親にとっては、どうでもいい我が子のことを。
「なぁ、武史、お前、なんか危ない仕事をしてるんじゃないだろうな。お前が下宿を出た後で一緒に住んでたアメリカ人、軍人だったよな。それも随分大層な身分の男だったと聞いている。真の母親だって、あの時、大学でも噂になっていた。東ドイツの政府高官の孫娘らしいってな。平たく言えばスパイだ。俺は脅してるんじゃないよ。ただ、真を心配している。どんな事情があるにしても、お前が真を見捨てていいという理由にはならない。親父とも和解する気もないのか」
 また少しの間、伯父は相手の言うことを聞いているようだった。真は頭を何度か膝に打ち付けた。
「真? 電話に出たのか? いや、俺が帰ってきたら倒れてたんだ。扁桃腺炎で三十九度五分もあったし。今も寝てるよ。なぁ、武史、あの子は必要以上に過敏な子だ。誰かが傍にいて守ってやらなければ、現実にこの世界で生きていけるような子じゃない。お前が父親としてしなければならないことは沢山あると思うんだ。俺では、どうしたってあの子の強い父親にはなれない。可哀相で仕方がないばかりだ。親父だってそうだ。弘志が、真を養子にしたいって言い出したんだ。結婚するんだよ、アイヌ人の娘だ。子どもができたら辛い思いをするのはその子だと言われて、弘志のやつ、それなら真を子どもにするって言うんだよ。あぁ、弘志は確かにいい親父になるだろうさ。馬鹿言うんじゃない、おまえ、これ以上弘志に何を押し付ける気だ。あいつは真が生まれたとき、まだ中学生だったんだぞ。武史、頼む、もう一度、真に会ってやってくれ」
 真は震えた。
 その時、襖が急に開いて、そっと閉じられた。入ってきた男は、真を促して立ち上がらせ、布団に戻らせた。真は男が示すままに布団に潜り、額にあてられた大きな手に思わず目を閉じた。男は何も言わなかった。真は息を潜め、唇を噛み締めて涙を流した。
 不意に、暖かい唇が目尻に触れて、真は思わず息を吐き出した。
「熱のせいで夢を見てるんだ。お休み。大丈夫、ここにいるから」
 静かな、暖かいハイバリトンの声は、その言葉を発した唇の形がわかるほどに近くにあって、ただ優しく真の額に触れ、軽く唇にも触れて、大きな確かな手は真の髪を撫でた。


 事件は冬の訪れと共に起こった。
 真はその日、柔道部の部室に連れ込まれ、何人もの上級生に押さえつけられて、いきなり真っ裸にされた。日本人じゃないようだからよく調べてやらないとな、と言われ、口の中に布切れを押し込まれた。思春期の真っ只中にいる彼らが思いついた新しい苛めは、性的な興味を満たすことに繋がったようだった。真は腹ばいにさせられて、いきなり尻を突き出すような格好を強いられ、マジックで身体に落書きをされた。女のものと一緒だ、と言う声が耳に突き刺さった。ゴムとゼリー、つけたほうがいいよな、という上ずった声が彼らの興奮を伝えている。何が起こっているのか全くわからないまま、いきなり肛門に硬いものを突っ込まれた。突然のことで反応もできず、ただ痛みが身体の中心を突きあがり、あまりの圧迫感に腹が苦しくなって、呻いた。
 髪をつかまれて顔を上げさせられると、目の前に卑猥な写真が突き出される。
「これ、ホモのセックスの写真なんだよ。お前、絶対にこういうの似合うよ。ほら、男と男ってどうやってやるのか知ってるか。ケツの穴だよ。使ってるうちに直ぐ慣れるんだってよ。しかも女のあそこより締まりがいいし、やられる方もやる方も辞められなくなるんだってさ。突っ込まれてるとこ、写真撮ってやるからな。ばら撒いてやるよ」
 後ろに突っ込まれたものが何であるのか、そのときの真には分からなかったが、やがてそれは低い音をたてて振動し始めた。真は腹が抉られたように歪むのを感じて、暴れようとしたが、全く動くこともできなかった。
 彼らが真を弄んでいる間に、性的な興味を更に膨れ上がらせたことは間違いがなかった。
「あぁ、俺、たまんなくなってきた」
 低い声が興奮した響きを伴い、誰かの突っ込んでやれよという言葉と共に、真の頭は床に押し付けられて、両手と両足は更に強く拘束された。後ろに突っ込まれていた大人の玩具が抜き取られたとき、その異様な感触に真は頭が真っ白になった。ゴム、つけろよ、という声、そして間もなく、何かの先端が真の肛門を突き、侵入しようとした。
 その時、手を押さえていた誰かが、興味のあまり後ろを覗き込み、多少手の力を緩めたようだった。
 その瞬間、真は狂ったように暴れた。一体、何を摑んだのかは覚えていない。長さのあるパイプのようなものだった。真はただ己の身を守るために、手当たりしだいに上級生たちを打ちのめした。始めこそ暴れる獲物と闘おうとしていた上級生たちも、真が一人の肩を思い切り打ち、反動で後ろの一人を突き倒したとき、怯えたような表情を浮かべた。
 真は摑んでいる棒を振るった。重く空気を叩く音に、誰かが悲鳴を上げた。
 その悲鳴を聞いた時、真はこいつらを殺してやろうと思った。このままではいつか殺される。殴られたり蹴られたりし続けた腹の奥が痛み、突っ込まれた玩具の感触がまだ足の間で唸っているような気がした。
 多分、真は恐ろしい顔をしていたのだろう。慌てた上級生たちの顔が可笑しくて、真は残忍な血に目覚めたような気がした。彼らは自分たちが真を脅すために掛けた鍵のために直ぐに逃げ出すことができず、真が狂ったように暴れて、いや、正確には真の頭の中は随分と冷静だったのだが、握りしめた棒で彼らの身体を血に染める間、逃げ惑って大声で喚き散らしていた。
 ようやく開いた扉から誰かが駆け出し、表に停まる給食の車が見えたとき、真は突然我に返った。
 それから何がどうなったのか、全く覚えていない。いつものように気を失ったのかもしれないし、ただ起こったことを思い出したくなくて記憶から消してしまったのかもしれない。我に返ったのは、怒りに震える功の声のためだった。
「冗談じゃない、俺の息子が加害者だと言うのか。この子はいつも身体に痣をつけて帰ってきた。明らかにこの子が被害者だ。息子には自分の身を守る権利がある、これは正当防衛だ」
 複数の声が畳み掛けている。功は、いつもの彼にはあり得ないような大きな声で怒鳴った。
「黙れ! これでようやく息子を苛めていた奴の正体が分かった。言っとくが俺は容赦する気はない。徹底的に加害者であるてめぇらの息子どもと、学校の責任を追求する。俺には優秀な弁護士の友人もいる、覚悟しろよ」
 功の声とは思えなかった。考えてみれば、伯父は一見物静かだが、灯妙寺の和尚や祖父が、本気の功には簡単には勝てないと言うほどに剣道も強かった。
 病院から家に帰り、玄関を入ると、功が、震えて呆然と涙を流している真を抱き締め、一緒になって泣き、何度も真に謝った。真は功が何故自分に謝るのだろうと思っていた。帰ってきた妹の葉子が驚いて、何があったのかも聞かず、ただ機転を利かせて秘書の男を呼び、抱き合って泣き続けている二人を見守っていた。
 功は闘うつもりだったようだが、功が名前を挙げた弁護士の権威は相当なものだったからか、急に学校が手のひらを返したように謝罪し、事件を隠そうとし始めた。真を苛めていた連中の親も同様だった。功は、念のためにこれまでの様々の出来事を綿密に文書にしてその弁護士に預け、それから留学の話を、ものすごい勢いで進めた。これ以上真を日本に居させることはできないと思ったようだった。
 そのために真は中学一年生の一月に、功と葉子と一緒にカリフォルニアに渡り、ようやく学校に通うことができるようになった。英語のほうが、東京の言葉よりもずっと理解しやすく、問題のある子どもを学ばせるシステムの出来上がっているアメリカの学校教育が、真の助けになった。何もかもがうまくいったというわけではない。真は誰かと打ち解けることはできなかったし、必要最低限のことしか話さなかったが、その国では必要最低限の言葉が、日本で暮らしていたときよりも遥かに多かった。真についてくれた教師は、登校拒否児の教育に長けた年かさの女性で、真を追い込むこともなく、言葉を丁寧に扱った。
「コウ、あなたの息子は素晴らしいわ。特に科学と数学は、トップレベルの研究者にだってなれると思うわ。言葉は、つまり文学的な意味でだけど、いささか理解に苦しんでいるけど、発音も綺麗だし、文字を覚えるのは少し苦手みたいだけど、形態認識能力は低くないし、多少混乱しやすいけど記憶力がいいから、必ず克服するわよ。誰かが英語を教えたの? 発音がブリティッシュだけどね。どうかしら、科学は大学の授業を受けさせてみたら? かなり高い素地があるみたいだし」
 たまに、功の秘書をしていた大和竹流がカリフォルニアの家にも訪ねてきた。功が興奮したように、君のお蔭だ、教師が真を褒めていた、こんなことは日本にいたら考えられないことだったよ、と竹流に感謝の言葉を伝えていた。
 真は、確かに自分が大和竹流のよい生徒であったろうと思った。竹流はいつも、どう考えても小学生や中学生に教えるレベルではなさそうなことを教えてくれたが、そこにはちゃんと理屈があり、因果関係があり、決して理解不可能な前提を押し付けてこなかった。竹流が口癖のように言っていることがある。
 アイヌには文字がないんだな、ケルトと同じだ、と竹流は呟き、文字を覚えることに幾らか困難があった真の前に、すらすらと見たこともない国の文字を幾つも、古代の文字も含めて、魔法の呪文のように書き並べて言った。
「文字だと思うと苦しければ、模様か記号だと思えばいい。お前はものを覚えるときに写真を撮るように景色を頭に入れるという才能がある。だから文字を景色にしていまえばいい。意味など後から湧き出してくる。そう、全ての文字、全ての言葉に意味があるんだ。書き言葉と話し言葉の違いはあるが、お前が幼い頃聞いていたアイヌの言葉と同じだよ。言葉を学ぶことは思考を学ぶことだ。そして思考を学ぶことで人は形が作られていく。良い言葉を学ぶことは、いつかきっとお前を助けてくれる」
 言われたその時には意味が分からなくても、あとで必ずそれは真に良い形で跳ね返ってきた。真が学校で倒れたり、逃げ出してさぼっていると、しばしば怒鳴りつけるような男だったが、勉強を教えるときは実に辛抱強く、真が理解する時間と考える時間を十分に与えてくれた。勉強が面白いと思わせてくれたのは、まさにこの家庭教師だった。
 カリフォルニアに住んで三ヶ月が過ぎると、功の研究生活も軌道に乗り始め、実際に日本にいるときよりも遥かに子どもたちと過ごしてくれる時間が多く取れるようになっていた。ある時、功が数日どこかへ出かけると言うので、竹流を呼び寄せ、子どもたちのことを頼んでいった。
 竹流は功のいない間に、グランドキャニオンに連れて行ってくれて、はしゃぐ葉子にせがまれて、自分でセスナを操縦して、空からのグランドキャニオンの雄大な景色を見せてくれた。その時、プライベートエアポートの支配人がまるで傅くような態度で竹流を迎えたことに真は緊張し、初めてこの男は何者だろうと思ったが、追求する気持ちになったわけではなかった。
 それよりも葉子が楽しそうなのが嬉しかった。葉子は、真が東京にいる間に少しずつ参ってしまっていた姿を見て、多分、随分と心配していたのだろう。よく笑っていた姫君は、少しずつ不安そうな顔になっていたが、この国に来て、やっとほっとしたように見えた。その葉子を見つめている真の頭を、竹流が撫でて、お姫様のご機嫌も直ったようだしお前もちょっとは笑うってことを覚えたほうがいいぞ、と言った。お姫様のナイトはもっと微笑ましい顔をしているものだ、と言い、葉子に笑いかけ、葉子も竹流に楽しそうに話しかけている。振り返って真に手を振った葉子は、耳元に竹流が何かを囁いた後で、弾けるような笑顔になった。
 三日後の夜遅くに戻ってきた功は、一人ではなかった。
 アパートにその男が入ってきたとき、葉子は真の後ろに隠れるようにし、真は思わず竹流の後ろに半身を隠した。目を合わせることはできなかった。背は功よりも低いが、がっしりとした身体つきは、一見で普通の職業ではないことが窺えるものだった。身体に染み付いた煙草の臭いと何かすえたにおいが混じりあい、所々に銀の入った黒い髪と輪郭のはっきりした意志の強そうな、屈強な兵士を思わせる顔の造りは、真に似ているようには見えなかった。
 その男、つまり真の実の父親である相川武史に初めて会ったのは、真が東京に来て間もなくのことだった。あの時、武史は真を見て、功に何のつもりだと低い声で聞いた。親父のところから引き取ったんだ、と功は答え、この子はここにいるから、せめて一年に一度くらいは会いに帰ってきてやってくれ、と言った。武史は何の感情も感じ取ることのできない冷めた表情で真を見ていた。
 あれから、武史が東京の相川家を訪ねて来たことは一度もなかった。
 武史は竹流の顔を見て、それから確かめるように竹流の左の薬指の指輪を見、一瞬不可解な顔をした。功はその武史の表情に気が付いたのかどうか、自然な態度で竹流を紹介した。
「日本で俺の研究を手伝ってくれてたんだ。実際は子どもたちの家庭教師のほうが大事な仕事だったんだけどな」
 功が借りていたアパートには、リビングダイニングと三つのベッドルームがあって、普段は功と真、葉子が別々に使っていたが、竹流が泊まりに来ると、真と葉子は同じ部屋で眠った。多少幼い感情を持ったままの兄妹はまだ男女を意識する年齢でもなかったし、何より葉子は真と話しながら眠ることを好んでいた。
 だが、その日、兄妹と竹流は同じ部屋に閉じこもって、暫くの間無言で過ごしていたが、葉子が眠ってしまうと、竹流は真を促して普段真が使っているもうひとつの部屋に移った。ベッドに真を座らせると、竹流はいきなり真を引き寄せた。真は突然のことに驚いて竹流を見上げた。
「お前の親父か」
 真は暫く、竹流を見つめていたが、返事をせずに俯いた。
「どういう事情でこっちに住んでるんだ」
「知らない。会うのも二度目だし」
 真は緊張した。武史が普通ではない仕事をしているのではないかということは、功の電話で何となく感じてはいた。だが、真には想像すらできないことだった。
 結局竹流はそれ以上は何も聞かなかった。
 真はその日、初めてこの男の傍らで眠った。いや、実際には眠れたわけではない。遅くまで、リビングからは功と武史の途切れ途切れの話し声が聞こえてきていた。声は荒げられることもなく、淡々と続いているような気がした。
 朝方だったのか、まだ辺りは完全に真っ暗だったが、一度だけ誰かが部屋に入ってきた。
 その気配は明らかに殺気だった。真はぞくりと身体が凍りついたような気がして、目を醒ましたが、動くことはできなかった。
 その時、傍らに横になっていた竹流が身体を起こした。
「チェザーレ・ヴォルテラの息子だな」武史の自然な調子の英語が、低く重く響く。「こんなところで何をしている」
「息子じゃない、甥だ。初対面のはずのあんたが俺をその名前で知っているなんてのは、あんたもまともな人間じゃないってことだな」
 竹流は一瞬、はっとしたように言葉を止め、何かを躊躇ったような気配を示したが、すぐに真の頭を撫でて、眠ってろと言った。武史がこの部屋を出るように促したが、竹流は意地の悪そうな声で答える。
「息子に聞かれたくない話でもあるのか」
 武史は日本語で答えた。
「そうではない。お前のほうこそ、困るんじゃないのか」
「俺は別に困ることなんかない。何故ここにいるのかという質問への答えは簡単だ。あんたの兄貴に頼まれて、この子どもたちの家庭教師をしている」
「では、何故兄貴に近付いた」
「他意はない。もっとも、誤解はしていたが、今はただあんたの兄貴を頼り、敬愛している。ぼろぼろだった俺を救ってくれた。どちらにしてもヴォルテラの家に関係のあることではない。何より、俺はあの家を出てきた」
「指輪をしたままだな。ローマ教皇から授けられるというヴォルテラの紋章だ」
「捨てたのは家だ。血縁を切ったつもりはない。あんたと同じで、義理とはいえ、特に兄貴とはな」
 竹流は少しの間、躊躇っていたような気配を示したが、結局その先をあえてはっきりとした言葉で続けた。
「硝煙の臭いは、煙草の臭いごときでは消せないな。それも半端じゃない。あんた、一体」
「その子に手出しをするな」
「手出し? どういう意味だ」
「それ以上近付くな、と言っている」
「悪いが、俺の勝手だ。あんたが何者か興味はないが、あんたに命令される筋合いはない」
 武史は暫く何も言わずにそこに立っていたようだが、そのまま部屋を出て行った。真はドアの閉まる気配に身体を震わせた。竹流が真の頭を撫で、それから耳元に口づけるようにして言った。
「お前の親父は間違いなく功さんだよ。それだけは俺が断言してやる」
 何も知る必要はない、という意味だと思った。あるいは知ってはならない、という意味かもしれなかった。そのとき既に真の頭の中には、いつの間にか、この男の言葉を一切そのまま信じるという回路が出来上がっていたのかもしれない。
 だが、硝煙の臭い、という言葉が何を意味するのか、真にも全く理解できないというわけでもなかった。自分の父親はまともな仕事をしている人間ではない、だからその男は日本に帰ってくることもできず、真を引き取ることもできず、父親であるということさえ、否定するわけではないが認めようともしていない、そのように感じた。
 どういったわけか、その時、真はとてつもなく苦しい夢を見た。夢なのか現実なのかも分からなかった。
 あの日、上級生たちを叩きのめした手の感触がまざまざと思い出され、真は手のひらにひどく汗をかいた。真を蹴ったり殴ったりしていた上級生たちが血に染まっている姿が網膜に蘇り、真は改めて彼らを殺した、と思った。殺したかったのではない、明らかに殺したのだ。何故かそう確信して、震えるのでもなく、ただそれを冷めた頭で受け止めた。
 身体の芯のどこかに、誰かを、許せない誰かをずっと殺したかったという思いが湧き上がってきて、真は冷静に、自分はどこかおかしいのだと思った。それは恐らく赤ん坊の真の首を絞めた女であり、その女を追い込んだ自分の父親であり、その女を狂わせるために父親の前に現れ、赤ん坊を捨てて遠い国に戻ってしまい一度も会いに来ない母親でもあった。その感情は真の身体の奥にずっと燻っていて、あの日あの上級生たちに対してたまたま爆発してしまっただけなのだろう。
 そう、あの男だったのだ。あの男が、真の体の中に残した遺伝子が、内側で既に軋んだ音を立て始めている。それはとんでもない闇だと真は思った。それをこれからずっと押し込めて隠し遂せなくてはならない。隠せなくなったとき、自分は恐ろしい人間になって地獄に堕ち、果てなく続く罰を受けるのだ。
 朝になってリビングに行くと、功がソファに座って、珍しく煙草を吸っていた。武史の姿はなかった。功は疲れたような顔で真を見つめ、それから僅かに微笑んで、真を傍に座らせた。
「武史を許してやってくれ。お前が憎いわけじゃない。何かやむを得ない事情があるんだ。いつか時間が経てば、あいつにも少し余裕ができるんだろう。それまで、私では足りないかもしれないが、お前の父親のつもりでいる」
 功は真の頭を抱き寄せ、それからずっと長い時間黙っていた。真にはそれが功の優しさでもあり、同時に苦悩でもあるように思われた。
 その日、真は明らかに父親に捨てられたと思った。震えながら、捨てられて良かったのだとも思った。

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Category: ☂海に落ちる雨 始章

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