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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨126] 第25章 佐渡に横たふ(3)地方役人の事情~18禁~ 

 始め、真は自分が魘されているのだと思った。身体に何かが纏わりついていて、愛撫されているような不気味な感じがしていた。眠っているのではなく、ずっと地面を這い回っているような感覚だった。仰向けに寝転んだまま、真は首から胸を、自分の手で撫でるようにして汗を拭った。夢に魘されていたのか、魘されるにしても夢の内容がわからなかった。
 静かだった。だが、時折、頭の下の方から衣が擦れあうような音が響いてくる。
 真は固くなったままの身体を何とか起こした。ふわりと白檀の香りが漂っている。
 あぁ、と猫の唸るような声が、確かに聞こえた。
 真が眠っている部屋は、六畳ほどの間で、水屋棚と端に寄せられた机以外にはなにもない。豆電球が頼りない影を作りながら、宇宙線のような微かな波動でも感じているかのように揺れていた。
 あぁ、とくぐもった声が再び耳に木霊した。真は浴衣の袷から手を挿しいれた。胸はじっとりと冷たい汗を搾り出している。夢を見ていた記憶はないし、いつものように妙なものの気配を感じているわけでもない。
 本当に猫でも庭にいるのだろうと思った。
 布団をめくった時、もう一度溜息のような声が聴覚のどこかを刺激した。庭のほうからではない。
 真は一瞬また耳を澄まし、ゆっくりと身体を起こした。隣は座敷のはずで、仏壇があるだけだった。そっと襖に近付き、一度息をついて、音がたたないように襖を少しだけ開けた。
 座敷は真っ暗で、何も見えない。真が開けた襖の隙間から、豆電球の微かな灯りが畳の上に細い線を描く。細かい空気の粒子がちらちらと光を跳ね返しているだけだ。何の気配もないことを確かめると、真は襖を半間分ほど開けて立ち上がった。
 目が慣れてくると、真の右手に、扉が開けられたままの仏壇と床の間がぼんやりと浮かび上がる。奥は雪見障子のようだった。左の奥は襖になっている。真はもうひとつ息をつき、座敷に入り、まず一番手前の半間ばかりの襖を開けた。そこだけは開き戸のようだった。
 きぃ、と微かにきしんだ音が身体に響く。それほどの音でもなかったが、真は身体を縮めた。覗いてみるとその先は廊下になっているようだった。柱を隔てて、更に四枚の襖が並んでいる。もうひとつ広間があるのだろうと思った。
 手掌に汗をかいていた。頭のどこかが、ガンガンと痛みを訴え始めた。耳には音とも振動ともつかない気配が流れ込んでいる。荒い息遣いと衣が擦れる音が意味するところは明らかだった。それでも、もう逆らい切れないような何ものかに押されて、真は襖に手を掛けた。



『海に落ちる雨』124と125は現時点で限定公開になっています。
125の最後の一部は、切り処の都合でそちらに入ってしまったのですが、今回のシーンと繋がっているので、上記に再掲しました。主人公の後半の心情には大きく係っていますが、124と125は読まなくても話自体は繋がります。
もっとも……パスワードは比較的簡単で、主人公の誕生日です。
(→参考click:【第25章に向けて】
何はともあれ、続きをどうぞ。だんだん皆が正体を現してきます。

18禁にしていますが、実はそれほどのシーンではありません。ただし自己責任でお入りください。



 部屋の広さはよくわからなかった。
 枕元には行灯が弱々しい灯りを投げかけている。黒に橙を混ぜたような色合いの影が、幾つも重なるように四方の壁に大きく長く、天井にまで伸びて揺れている。
 部屋の中央に敷かれた布団の上で、より黒い影がふたつ、座った姿勢で睦みあっていた。

 男は真のほうに半分背を向けていた。女は肩を越えるくらいの髪で、唇の紅は暗がりの中とは思えぬほどに紅く染まって見えている。
 女の着物も、男の着物も橙に染められていた。時々、女は声を上げたが、思い出したように息を殺した。男はゆっくりと動き、女は激しく求めるように動いていた。四方の壁で、複数の影が狂おしく求めあい、絡み合い、大きく伸び上がって揺れ続けている。女は目を閉じて、顎を突き上げるように喘ぎを零した。着物の袷が肌蹴て、女の乳房がやはり橙に染められて、艶めかしい踊りを踊っている。
 女は目を閉じたまま、顎を男の肩に預けて、不意に目を開けた。

 瞬間に、目が合った。
 真は驚いて一瞬硬直したが、それは女のほうも同じだったようだ。女の顔が一瞬恐怖にひきつったようになり、見開かれた。女が叫ぶのかと思ったとき、男が女を頭ごと抱き締めるようにして布団に押し倒し、腰を激しく打ちつけ始めた。女の顔は見えなくなったが、女の躊躇うような喘ぎ声が、途切れながらも徐々に激しくなっていった。

 真は震えながら襖を閉め、元の部屋に戻った。
 布団の上に立つと、足下から崩れるようにへたり込んだ。心臓は不規則にがんがんと打ちつけている。気持ち悪くなって吐きそうになったのを呑み込み、真は胸を押さえた。
 耳の中に女の喘ぎが木霊していた。現実の音なのか、既に視界から消えてしまっているものの残響なのか、わからなかった。

 次の瞬間、音もなく襖が開けられて、真はいきなり後ろから羽交い締めにされた。意外にも男の腕は太かった。
「静かに」
 真は声も上げることができずに震えていた。
 気分が悪かった。理解の行き届かない頭の中で、その男女の睦みあいが異様にけがわらしく感じられた。耳元に江田島の唇があった。

「誰ですか」
 声が震えているのは、自分でも分かっていた。
「彼女は下蓮生に嫁いで、まともな子どもを成せぬということで里に帰された、下蓮生の現当主の三番目の奥方です。下蓮生の家政婦として雇われていたときに、手をつけられたんですよ。蓮生には何故か男の子が生まれず、生まれても小さなうちに亡くなっていた。彼女は蓮生の当主の子どもを身籠ったが、生まれた子供は脳がほとんどなく、自分で呼吸もできず、三日で亡くなりました。男の子でした」
 江田島の手は真を締め付けるように強く、絡み付いていた。

「離してください」
 返事はなかったが、浴衣の袷のうちに滑り込んだ手は真の肌を撫でた。乾いた手だった。
「まだ正式には離婚はしていませんが、当主が新しい女に手をつけたら、裁判に訴えるつもりです」
 真は初めて江田島のほうを振り返ろうとした。瞬間、江田島に唇を吸われ、顎を摑まれた。食いつくように江田島の舌が真の唇を割ろうとしたとき、真は彼に噛み付いた。江田島は落ち着いた表情のままだった。

「私の姉です」
 真は震えたまま、江田島を睨みつけていた。
「もっとも、蓮生家はそのことを知りません。彼女は子どもの頃に、事情があって江田島家から養女に出されていましたから」
 頭ががんがんと唸っていた。何故姉と抱き合っていたのだ、とかいう馬鹿げた質問を投げ掛ける気にもならなかった。
「気味の悪い子どもを産んだと言われて、彼女は外出もさせてもらえず、まるで座敷牢に閉じ込められるようにして、蓮生のおぞましい当主の慰み物になっていたんですよ。彼女の身体には今でも幾つもの痣や火傷の瘢がある」

「あなたは、それで蓮生に恨みを抱いていると、そう言いたいわけですか。何より、彼女と蓮生家の馴れ初めが偶然とは思えない」
 江田島は実直な役人の顔ではなかった。だが、異常な精神を抱いた狂人の顔でもなかった。
「その通りですよ。蓮生の親戚、時政家の息子に会ったとき、彼が同性愛者だということは直ぐに分かりました。少し相手をしてやったら、すっかり私にのぼせ上がってくれた。美術という共通の趣味を持つセンスのいい恋人と思ってくれたようでした。下蓮生の蔵から見つかった絵のことで、私が蓮生家に入り込むことに随分役立ってくれました。しかし、それだけでは絵は偶然でも私のものにはならない。うまく話をもっていって、姉を蓮生家に入りこませたら、案の定、蓮生の当主は姉に手を出しました」

 真の歯は噛み合っていなかった。
「子どもの時に彼女が養女に出された先は、弥彦の町の中だったので、彼女はよく私のうちに遊びに来ていた。まさか実の姉とも知らずに幼い私は恋をしていました。高校生の時、二つ年上の彼女に告白した。彼女は戸惑ったような顔をしていました。私が実の弟だと、彼女は何となく知っていたようです。私は両親にそのことを確かめ、狂いそうになった。高校を卒業すると同時に家を出てフランスに渡りました。父が亡くなって、弥彦に戻ってきたとき、姉は既に嫁いでいましたが、姑と折り合いが悪く、私が役所で働き始めて間もなく、養女になっていた里に戻ってきました。彼女は時々、実母を訪ねてくるようになったのですが、私は会っても話すこともできなかった。こんな田舎ですから、出戻りの女の評判はすぐに広まる。彼女には居場所がなかった。私が、蓮生家が手伝いを探していることを姉の義理の両親に人を介して伝わるようにしたら、直ぐに彼らは決心したようでした。蓮生家は人を買うような金を彼らに渡したと聞いています。だが、姉が蓮生のものになってから、彼女があんな汚らわしい男に慰み物にされているのだという現実に、自分が後悔し、興奮していることに気が付いて、私は改めて彼女への自分の気持ちを理解した。蓮生の当主は奇妙な趣味を持っていましてね、自分たちの情事をしばしば撮影していたんですよ。いつの間にか、姉のほうも、見られていないと興奮できないほどになっていたようです」

「でも、彼女は僕を恐れていた」
 訳の分からないことを言っていると思った。
「恐怖と快楽は紙一重です。あなたに見られていると知った瞬間の、彼女の身体の反応は怖いくらいでしたよ」
「あなたは狂ってる。フェルメールにしても」
「それは違います。フェルメールについてはただ人間の成しえた美の結果と考えているのです。それに、大和竹流が余計なことをしなければ私の姉のものになっていたかもしれない絵は、結局今、蓮生の手元にはない」
「あなたの思うとおりに事が運ばないとはいえ、それはあなた自身の業の結果だ」
「そうかもしれません」

「離してください。出て行きます」
 真はようやく止まった震えがぶり返さないうちにと、宣言した。
「佐渡に案内しなくてもいいのですか」
「あなたに案内などして欲しくもありません」
 江田島は穏やかな表情で笑ったようだった。
「手がかりが消えますよ」

 真は江田島を睨みつけた。
「あなたは竹流を誰かに売ったんだ。違いますか? 契約の手形は、あなたが世間に晒されては困る事実を伏せておくことだった」
 江田島は何度か小さく頷いたように見えた。
「では御自由に」
 真は江田島の視線を無視して、浴衣を脱ぎ捨て着替えた。
 もう手は震えていなかったが、腹の内がひっくり返ったようにきりきりと痛んだ。着替えると、真は一応頭だけは下げて、あとは振り返りもせずに江田島家を出て行った。

 震えながら回そうとした車のエンジンキィは、何度もかすった。まさに草木も眠るような時間、軋んだ音が果てのない闇の中を突き抜けた。
 漸くかかったエンジンにアクセルを踏もうとした途端、ヘッドライトの中に人影が浮かんだ。
 真は慌ててブレーキに足を戻し、思わずつんのめった。

 人影は車の方に歩いてきて、運転席の窓ガラスをノックするように叩いた。真は目を閉じ、息を吐き出してから窓を開けた。
「お返しするのを忘れていました」
 そう言って江田島が差し出したのは、琥珀の欠片が入っていた小箱だった。真が手を出さないままでいると、江田島はボードの上に小箱を載せ、そのまま家の中へ引き返していった。


 夜中の真っ暗闇の道を、ただわけも分からず北東の方向へ走った。
 何も考えたくなかった。
 身体は全く自分のものではないようで、時々腹がきりりと痛んだ。
 耐え切れずに車を道の端に寄せて、車外に出ると、道路脇の溝に吐いた。甘い酒と胃液の混じった酸い臭いが、鼻の粘膜を刺激した。何度も何度もえづいて、胃と食道は狂ったようにきしみ始めた。涙が、箍が外れたように零れだし、真は幾度も唾を吐き出して嗚咽した。

 嘔気が収まってくると、すぐ近くで、身体を擦り付けるように淫靡に鳴く虫の声が聞こえ始めた。
 大きな漆黒の大宇宙は真の身体を呑み込んでいて、その巨大なドームの中に虫の声が跳ね返り跳ね返り木霊した。真は耳を塞ぎ、車に飛び乗った。ドアを閉めると、今度は突然に襲い掛かった無音に、呼吸まで奪われた。
 苦しくなってハンドルに凭れたとき、足が何かを蹴った。
 その途端、喘ぐようなぎりぎりという音が、足下で唸り始めた。

 江田島が置いていった小箱だった。真は憑かれたようにそれを取り上げ、ほとんど無意識に蓋を開けた。
 小箱の中は、小さいながらもかなり複雑な構造をしていた。江田島の前で開かれたときは、その上層だけが見えていたのだろう。昔、高貴な人々の間で楽しまれたと思われる絡繰りの箱は、底が深い二重底になっており、しかも下層はオルゴールになっているようだった。落ちた衝撃で、二重底の蓋が半分開きかけてしまったのだろう。

 下層ではギギギと唸りながら、真鍮の小鳥が回ろうとしたが、何かが挟まっているのかうまく歌えなかった。
 白い紙に包まれたような四、五センチほどの何か棒状のものが引っ掛かっている。真はそれを摘み出し、紙を開いた。
 その瞬間、叫びを上げることもできなかった真の代わりに、真鍮の鳥は、唄を失くしたカナリヤの音楽を奏でながら回り始めた。
 それほど古いものでなかったが、明らかに水分を失った人間の小指だった。
 胃の内容物は全て吐き出した後だったが、それでもまだ腹の奥に残っている不快な塊を吐こうとして、胃は奥のほうから絞り上げるように捻れた。強烈な痛みで気を失いそうになる。

 真は痛みを断ち切るようにエンジンを吹かし、そしてまた闇雲に走った。
 ようやく見えた明かりは、どこかの小さな駅だった。ひっそりと静まり返っているが、木の駅舎の表に、弱い光が灯っている。もうひとつの頼りない灯りは、電話ボックスのようだった。
 真はその二つの灯り以外に道しるべもない闇の中に車を止め、ポケットの小銭を探って電話ボックスに入った。
 きぃと、ボックスの扉は悲鳴のような軋みを上げた。

 わけも分からずに十円玉をあるだけ投入した。プーという音が耳の右から左に突き抜ける。頭には何の番号も浮かばなかった。急に足下から風が吹き込んできた。
 不意に、この電話線はどこにも繋がっていないのではないかと疑った。
 真が認識できる世界の中には、自分一人しか存在していない。電話線は暗い闇の中でぷっつりと途切れて、切れ端は湿った空気の中で時々じりじりと火花を散らすばかりに思えた。プーという不確実な機械音は甘い期待を抱かせるだけで、何も保証してはくれない。何より、他人と繋がる番号を仕舞った引き出しには、固く鍵が掛けられていた。

 急に恐怖を感じて、真は受話器を下ろし、がしゃがしゃと耳障りな音を立てて落ちてくる十円玉を待って、それからボックスの透明な壁に身体を預けた。
 美和の顔が浮かんだ。前に新潟に来たとき、彼女が一緒だった。彼女はどれほどに心強い連れ合いだったろう。
 だが、もうその場所へは戻れないような気がした。

 孤独感は強烈だったが、逆に少しだけ落ち着いてきた。頭の温度が下がると、側頭葉の記憶の引き出しは少し軽くなったようだった。指が覚えている番号は幾つかあったが、真はもう一度受話器を取り上げて、最近回したことのある番号のひとつをなぞった。
 呼び出し音は大きなドームに木霊し、誰も答えるとは思えなかった。真はコールの数を数え、十三回目を聞いた後で受話器を戻しかけた、その時だった。

「もしもし」
 いつものように不機嫌な声が向こうで小さく響いた。真は慌てて受話器を耳に戻した。
「あの」
 何も言葉を考えていなかったので、名乗ることすら忘れていた。
「おい」
 向こうで相手はいきなり声のトーンを上げた。
「お前、大丈夫か?」

 予想外に心配そうな声が耳に飛び込んできた。それだけだったのに、また身体が震えだした。
「今どこだ? 一人か?」
「新潟にいる。多分、いえ……、どこか分からない」
 後半は声までも震えてしまった。その気配を葛城昇は感じたようだった。
「大丈夫か。そこの電話番号、言え」
 十円玉はばたばたと落ちていた。真がボックスに張られた番号を読み上げると、すとん、と音声は途切れて、またプーという間の抜けた高音が耳に張り付き、頭蓋骨を拡声機のようにして膨れ上がった。
 真は耳から受話器を引きちぎるようにして元に戻し、しばらく電話にもたれていた。

 僅かな時間だったのかも知れないが、永遠に全てのものから切り離されたようにな気がした。
 真の世界のどこにも、もう梟のカムイも、狐のカムイもいなくなってしまった。巨大な宇宙のドームからは、夜も明けぬまま星々は空の闇に消えていき、その闇に、音という音は全て吸い込まれた。
 世界に幕が下ろされた。
 自分の息は止まっている、と真は思った。

 だが、闇の彼方から膜に包まれたような音が、螺旋を描きながら近付いてきて、真の耳に突き刺さった。真は一瞬、音と目の前の電話との関係が理解できなかった。だが、手は震えたまま、条件反射のように受話器を取り上げた。
「おい、正気か?」
 真の耳に飛び込んできた声は、昇のものではなかった。
「仁さん」
 真は思わずその名を呼んでいた。声はそのまま震えに変わり、真は呼吸の仕方を忘れたように嗚咽した。
 何が起こっているのか理解できなかった。

 だが、電話の向こうの仁の声は、冷たく落ち着き払っていた。
「真、話は会ってから聞く。今からこっちを出るから、新潟駅のロータリーで待ってろ」
 どうして葛城昇と一緒にいるのか、と聞きかけた電話はぷつりと切れた。ますます混乱してきた真の頭は、新しい事実など受け入れる余地はなかった。

 それからどうやって新潟駅まで辿り着いたのか、よく分からない。
 人工の灯りが増え始める頃には、空もおぼろげに白みかけていた。
 駅前に着くと、地球は新しい時間を刻み始めていた。人類といわれる種が活動を始めている。
 駅前の駐車場に車を止めて、辺りを見回したが、仁の姿はまだなかった。電車の警笛の音が、少し距離のある向こうから響いてくる。途端に、きつい腹痛で下半身が痺れたようになり、真は取り敢えず駅前の便所に入った。
 まだ吐き気は止まっていなかった。

 ポケットを探ったが、煙草は切れていた。考えてみれば、気持ちが悪くて煙草を吸えるような状態ではなかった。
 ロータリーが見えるベンチに腰を下ろし、真は膝についた両手を組んで頭を支えた。重くて痺れた脳は、まだ混乱を受け入れていない。狂ってしまいそうな事情が幾つもあるはずなのに、腹が立つほどに頭は正常に働いていて、外界からの刺激を当たり前のように受け入れていた。側頭葉の引き出しは泥棒に荒らされたようにこじ開けられて、正しい判断の役にたっていなかった。

 どれほどそうしていたのか、遥か彼方から近付いてきた靴音が真の前で止まった。俯いたままの視界の中の靴から顔を上げると、仁が立っていた。
 怒りと安堵が混じり合った複雑な表情のまま、仁は顎だけで来い、と言い、真は立ち上がって彼に従った。
 ロータリーに一時駐車していた仁のボルボは、直ぐに発車した。
 周囲もの全てを突き刺すような気配を纏ったまま、仁は何も言わなかった。通勤で混み始める前なのか、道はスムーズに流れていた。真は反応の回路が壊れたまま、シートに身体を預けていた。

 いくらか走って、新潟港の手前で車が止められた。
 真も、仁も、しばらく黙っていた。真は目を閉じた。
 途端に、仁の手が真の頭を抱き寄せ、生きていることを確かめるような切羽詰まった勢いで唇を押し付けられた。真は抵抗のひとつもせずに、自ら唇を開き、仁を受け入れた。仁の舌が咽喉の奥深くに、のたうつ蛇のように絡みつく。
 真は自分から、もっと奥までと仁を誘い込んだ。
 煙草の香りがした。

「昇さんに何をしたんです?」
 仁は怖い顔のまま、真正面から真を見つめていた。
「身体を慰めることは俺にもできるって言ったろう。それだけのことだ」
「どうして」
 仁は真の顎を摑んだ。指が頬に食い込むほどの力だった。
「お前は残酷な野郎だ。葛城昇だって、随分耐えてきてるんだよ。お前は自分自身の感情に振り回されて何も見えちゃいない。フェラーリが吹っ飛んだのを見て、ぶっ飛んだのはお前だけじゃないってことだ。俺の身体の下であいつはずっと泣いてたよ」
 真は目を閉じたが、耳を塞ぐことはできなかった。

「寝物語に昔話でもしろと言ったら、初めて大和竹流に会ったときの話をしやがった。自暴自棄になってたところをあいつに救われたんだと。あんたのためなら何でもすると誓ったら、あの馬鹿男は真面目な顔で、そういう台詞は相愛の相手が現れるまで取っておけと抜かしやがったらしい。大和竹流が本人の言うとおり女しか相手にしないなら、葛城昇にも抑えようもあったろうさ。なのに、あの馬鹿野郎はお前と同居を始めた後で、どうに苦しくなって昇に助けを求めやがった」
 真は思わず仁を見た。仁は意地の悪い顔で真を見つめていた。

「お前を抱きたくても抱けない、大和竹流にとっては毎日地獄のような夜だったろうな。お前はどうせ無邪気にあいつに擦り寄ったりしてたんだろう」
「俺は、あいつに我慢を強いたことなんかない」
「あぁそうだな。お前はそういう野郎だ。だがな、あいつにだって自尊心もある。お前を思い通りにしたら、そのまま地獄に落ちることが分かっていて、自分の欲望を認めるわけにはいかんだろうが」
 真は仁を睨みつけていたが、やがて視線を落とした。視界が覚束なくなっているわけを認めたくなかった。
「地獄にならとっくに落ちている。ずっと針の道を歩いてる。昇さんを抱くくらいなら、俺の首を絞めたらよかったんだ」
「あいつに直接言え。死ぬまで突っ込んでくれ、ってな」

 きつい声でそう言ってから、仁の手が真を抱き寄せ、そのまま長い時間、仁は真の身体を抱き締めていた。
 魂は抜け出しそうになっていた。今ここで命が尽きたら、想う相手のところへ魂が駆けていくという故事が本当なら、誰にこの命を捧げてもいいとさえ感じた。
 昇の気持ちがどうあれ、認めたくなかった。
「フェリーに乗るぞ。話はまだあるんだ」

([雨127]に続く。次回、第25章最終です)

<次回予告>
ついに敵の正体がはっきりしたけれど……運送屋だけに簡単にはつかまらない……
「しっかりしろよ。大和竹流は、いや、ジョルジョ・ヴォルテラは彼らにとってまたとない獲物だ。あの雑誌の写真を見れば、綺麗な有名人好きの連中は、身代を持ち崩すくらいの金を積んででも、嬉々としてあいつを嬲るだろうよ。考えてみろ、あの高貴で綺麗な顔が苦痛で歪むのを見ながら、身体にありとあらゆる痛みを刻んで、許してくれと泣き叫ぶ姿を見ては、もっともっと痛めつけてやるんだ。お前にはあいつが切り刻まれて犯されてる姿なんぞ想像もできないだろうがな、本物のサディストにとっちゃ、たまらんだろうよ」
仁は、言いたいことを言いたいように言います。
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Category: ☂海に落ちる雨 第4節

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コメント


仁さんだ

この回はものすごく濃厚でスピーディで、ぐいぐい引き込まれました。
そうか、江田島にはそんな過去と、しがらみがあったんですね。
姉とのシーンや真に無理やり話を聞かせるシーン。
日本の古い映画のようにじっとり重く艶めかしくて、いいですね。
江田島が最後によこしたオルゴールの中身。あれは?・・・とすごくぞわぞわしたんですが。
公衆電話と、襲い掛かられるような孤独の絵も、すごく気持ちに訴えてきました。こんな時の真は本当に子猫よりも弱い。公衆電話というのがまた、なぜか孤独を誘うんですよね。
でも……10円があって良かった。(100円が使えないやつだったか!)いや、そこはおいといて。
なんとか昇につながった!昇って、ずっと真のことを案じてたんですね。そして仁に・・・・・仁に慰められていたとは。
電話が折り返してきた仕組みは、逆探知の様なものでしょうか。
仁なら、そんな仕組みも使えそうですね。

仁、こんどは真の孤独も少しだけでも癒してくれるでしょうか。
でも傍に仁が居てくれたらすごく心強いです。
このあと、ずっとフォローしてよね、仁。
(余計な事はしなくていいから><)

lime #GCA3nAmE | URL | 2015/01/11 10:21 [edit]


ちょっと安心

こんばんは。

本職の探偵に失礼だとは思うんだけれど、真一人ってどうも心臓に悪いから。仁がいればまだ安心していられそう。いざとなったらそっちの筋の方々の援軍もありそうだし。っていうか、真一人でいられるより美和と二人の方がまだ安心と思ってしまう私って!

昇さんに悪いとか、竹流の氣持ちとか、言っている側からもう仁におまかせ状態で誘っちゃっている……。真って、そういう意味ではあまり学ばない? 仁だから、究極の(心の)四角関係に突入はしないだろう思っていますが。

それと、ちょっと誤解していましたね。前々回で真がやられちゃったのは回想なんですね。そして、竹流がやられちゃっているのだけが現在なんだ。

ところで、どうでもいい細かい所ですが、十円を入れる電話、私は読んでいるだけで即わかって、電話番号が書いてあるからそれを教えると折り返しかける事が出来る、なんてことも自明の理なんだけれど、もしかして、今の若い人たちにはモールス信号並に謎で昭和なのかしらと感動してしまいました。緑の電話が出てくるずっと前ですよね。テレカなんてなくて。個人が携帯電話を持っていなかっただけでなく、貧乏人は自宅に電話もなくて、こうやって公衆電話にかけ直してもらったりとか、ありましたよね? 

って、何で細かい事にこんな長い感想書いているんだか!

八少女 夕 #9yMhI49k | URL | 2015/01/12 03:04 [edit]


limeさん、ありがとうございます(^^)

そう、このお話、一応展開はしているのですけれど、解説が多いし、隠し事が多いし、複雑であれこれ多重に事件が絡み付いているので、単純な勢いあるシーンって少ないんですよね。……いや、結構あるんですけれど、長いので埋もれてしまう……更新もゆっくりなので、余計ですね。
ほんと、読んでくださる方にはご迷惑をおかけしております。
「濃厚でスピーディ」なシーン、もっと出したいけれど、耐えてくださってありがとうございます。そして、引き込まれるとと言っていただいて嬉しいです。

そうそう、小役人の事情ですね。卑屈な男なんです。一方で妙に大胆なんです。
江田島を始めとして、全ての人間がかかわっているのですけれど、その関わり方は大小さまざま。江田島の関与は竹流とっては大きいけれど、犯人からは遠い。すべてを繋いでるのはビデオ、なんですね、実は。
さて、竹流をさらった犯人の正体は次回で判明しますが(って、もう分かってますよね^^;)、その裏事情はまだ続きます。
オルゴールの中のものは、真には恐怖を引き起こしますが、実際にはこれは竹流にとって大変な引き金だったんですよ。竹流って……(以下略)
本当にゆっくりですが、また引き続きお付き合いください。

日本の古い映画……もしかして昭和っぽかったですか? わぁ、嬉しいです。
そうそう、少し古い時代、でもそんなに古くない時代。
1970~1980年前後の感じって、地方に行けばまだまだ残っているんですよね。
その感じが出たらいいなぁと。
公衆電話も時代でずいぶん違いますよね。そうそう100円が使えるやつが出たのは後の方で、10円しか使えない公衆電話の時って、公衆電話にも電話番号がちゃんと書いてあったんですよね。多分、かける方はお金がかかるので、10円電話だと長く話せないし、かけ直してもらえるようにってことだと思うのですけれど。

電話を切ったあとって孤独な感じなんですよね。今みたいに携帯のない時代、ただ電話を切った寂しさってのはあるかもしれないけれど、もっと孤独な感じが強かったんですよね。しかも電話をかけるのも、携帯みたいに電話帳も入っていないから、手帳をめくったりして、めくっているうちに何だか掛け損なったり。通じないこともよくあるし。
孤独な真は、確かにマコトよりダメダメかも……そして、自分では結構強がるので、周りが放っておけなくなる感じで。
昇は……真に対してはライバル心がある一方で、自分の方が年上だという、妙に体育会系の先輩意識もあって、意外に面倒見のいいところがあるんです。健気な奴なんですよね。その反面、時々破滅嗜好になって誰かを巻き込んだり。彼は今後もかなり関わってきますし、次作ではちょっと中心的役割を……こちらもまたお楽しみに。
仁は……好みの相手ならすぐに……じゃなくて、健気な人は男でも女でも「好みのタイプ」ですからね。昇に初めて会った時から、お互い気配(好意)を感じていたみたいですし。
今回の物語、大筋としては「仁に惚れてくださいね!」って話かも。次作ではだめな仁なので、今回はね(^^)
『清明の雪』は竹流に惚れて欲しいと思いながら書いていましたが、今回の竹流はだめだめ。
そう、仁と美和でもっているこの話。彼らの恋も、見守ってあげてくださいね。
仁が浮気性なのはちょっと置いといて……
コメントありがとうございました!!

彩洋→limeさん #nLQskDKw | URL | 2015/01/12 08:22 [edit]


夕さん、ありがとうございます(^^)

ほんとに、真って何だかいつも密かに助っ人がいますね。自分で書いているのに、ふと気が付いたら、何だか「お供」とくっつけていました。作者にもあてにならないと思われている真……^^;
いや、彼の場合、才能は「写真を撮るように覚えてしまう記憶力」ではありますが、そんなにすごく特別、ってわけでもないし。頭の中は数式とか星図で満たされているタイプでもあるし。失踪人調査にもその星図を当てはめてるんじゃないかという気がする……(*^_^*)
人の世のドロドロ系に付き合うためには、唐沢とか仁とか、本人も胡散臭い誰かが一緒にいたほうがいいみたいですね。「そっちの筋の方々の援軍」はちょっと怖そうだけれど……^^;
そして、そうなんですよ! 美和って実はものすごく頼りになる! 女の子だけれど、陽のパワーが強いので、悪漢を退けてしまうのかも! それにしてもこの二人、何でくっつかなかったんだろう……ままならぬのがこの世。

> 昇さんに悪いとか、竹流の氣持ちとか、言っている側からもう仁におまかせ状態で誘っちゃっている……。真って、そういう意味ではあまり学ばない? 仁だから、究極の(心の)四角関係に突入はしないだろう思っていますが。
そしてここ……本質を突いてこられましたね……真ってこういう人間ですよね。流されやすいというのか、意志よりも感情に流されるという感じす。仁に対してはものすごく構えてもいるのだけれど、どこか腹の底では「信頼」しているんですね。動物的勘で。そして同じ動物的勘で警戒もしている。その二面裏表の気持ちがあるのだと思います。竹流に対しても、全幅の信頼を寄せてはいるけれど、少し畏れている部分もある。それは「相容れない本質」を互いに持っていることを知っているから。
美和ちゃんはこの中で極めて陽の存在ですから、仁にとっては「自分を間違った方向へ行かせないような歯止め」であり、真にとっては「自分を犠牲にしても守りたい家族」みたいなもの。
究極の四角関係……実は、真の死に間接的に関わってくるのは、この四角関係なのかもしれません……
それは少し先なので、今は置いておくとして……

> それと、ちょっと誤解していましたね。前々回で真がやられちゃったのは回想なんですね。そして、竹流がやられちゃっているのだけが現在なんだ。
あ~、やっぱりここ、分かりにくかったですかぁ。
実は友人にも指摘されて、何度か書き直しているのですけれど……多分、かなりアップに時間がかかっているので、皆さんの記憶からも消えてしまうんですよね。すみません。
ずっと前に真が添島刑事と「真がさらわれて酷い目に遭った、もしかしてどこかヘンタイ趣味の金持ちに売られて、なぶり殺しにされていたかも」って話をしていたのですが、この具体的シーンだったのです。
竹流の現在と真の過去が入り乱れているのは、竹流のあの状態で記憶と現実がごっちゃになっているという、ある意味では狙いでもあるのですけれど、分かりにくいと言ったら分かりにくいですよね。
元の原稿では、いちいち1行あけたりしないので、ぎっしり詰まっている中で、真のシーンと竹流のシーンの間にだけ空きがあるので、少しは分かりやすいのですが……うむ。
そうそう、過去の映像を見ながら、ってシーンでした。竹流はその当時、この真の事件に対して当然「激怒」して、実際に真をいたぶった奴らを血祭りにあげているんですけれど(犯人は今回は敵にはなっていない外国人ヤクザ)、真を慰めることはできなかったんですね……怒り過ぎて。

ところで、電話の件!
はい、まさにその時代です。10円玉しか使えない時代、公衆電話にも電話番号がありましたよね。刑事ドラマとかで誘拐事件の身代金の受け渡しのシーンで、公衆電話に電話がかかって来るってよくあったですよね~。もう今やみんな携帯電話で、そんなシーン、今の若い人には「????」でしょうし。
昭和のイメージって戦後の「三丁目の夕陽」的な世界の人が多いと思うのですけれど、私の昭和はやぱり1970~1980年代かなぁ。何だか不思議な熱のある時代でした。その頃の「今と違うこと」って今に近いけれど、やっぱり違う。この「少し違う感じ」って逆に伝わりにくいですよね。
電話、という言葉のイメージからして違うんですもの。徳永英明の「レイニーブルー」の切なさが本当にわかるかどうかで、年代が分かれちゃう……
でも、あえて、これにチャレンジしているのでした(^^)
 
> って、何で細かい事にこんな長い感想書いているんだか!
いえいえ、こんな反応、とっても嬉しいです。
(同年代発見器??)
この先も「微妙な昭和感」にお付き合いください。
コメントありがとうございました!!

彩洋→夕さん #nLQskDKw | URL | 2015/01/12 09:55 [edit]

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