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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨159] 第33章 太陽の破片(2)イカロスの翼 

【海に落ちる雨】第33章その2です。
ついに、竹流の受けた傷のわけが全て語られようとしています。
三味線の曲弾き一曲、大体3分前後なのですが、弾いている間、呼吸をしていないような気がすることがあります。もちろん、そんな訳はないのですけれど、弾き終わった時、呼吸困難になっているというのか。全力疾走した後みたいな感じ。このお話のこの部分を書いている時、まさに呼吸を忘れていたかも、と思うくらい疲れたのを思い出します。
ある民謡の唄い手さんが言っておられました。唄を一曲唄うってのは、大変なことだ、と。
物語を書くのもまた、大変なことですね。残念なことに、想いをぶつけるようにして書いたものが良い出来であることは、あまりないのですけれど。

 登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント
【海に落ちる雨】登場人物



 表から見覚えのある北条の若い衆達が飛び込んできて、あたりを見回し、まず深雪を助け起こし、足の関節が捻じ曲げられているのを見ると、抱き上げて連れ出した。寺崎孝雄と一緒にやってきた、そして今はまだ少なくとも生きて動いている二人のヤクザは、北条仁が連れてきた若い衆の数に勝てないと思ったのか、抵抗もしなかった。

 真は男たちが死体をどうするのかと話している声を耳の後ろで聞きながら、ふらふらとロビーを突き抜けて、建物の左翼になる廊下へと歩いた。足下で、高い窓から落ちて粉々に砕けたステンドグラスが、高くなった日の加減でオレンジと緑、深い藍の色を跳ね返した。
 時折、真の足はその虹色の太陽の破片を踏み割った。

 真っ直ぐに伸びた廊下の先には開いたままの扉があり、そこから一筋の光が真の歩く道を照らしていた。両側に並ぶ扉は、閉じられたものも、開けられたままのものも、あるいはただ壊れているところもあり、所々で外からの光を取り込んで、その道を飾っている。
 真は重い足を引きずるように歩いていた。手にはまだ珠恵の匕首を摑んでいた。壊れた扉から射し込む光が、時々真の身体を溶かし、光の色に染め上げた。地獄へ歩く道がこれほどに明るいのならば、何度でも歩いてやろうと思った。

 その道は遥か、母の胎内に戻る道にも思えた。
 澤田顕一郎の友人が語った、二人はとても幸せそうで、子どもが生まれてくることを待ち望んでいたというのが本当なら、そのことだけで真は、自分をこの世に送り出した両親を許せるのかもしれないと、一瞬だけ考えた。たとえ彼らが、生まれたばかりで何の抵抗もできない赤ん坊を捨てて、二度と子どもに愛情を向けなかったのだとしても、ただこの世に送り出してくれたことで感謝できるのかもしれない。寺崎昂司のように、屈折した下劣な愛情を父親から受けるくらいなら、忘れられていた真のほうが余程幸せだったのかもしれない。

 自らの行方を神に、あるいは悪魔に預けるとき、人間は寛容になれるものだと真は考えていた。この世にしがみつき生きていたときは、親たちを許せるなどとは、これっぽっちも考えていなかった。
 だが、もしも、真がこの手で絞め殺し心の臓を抉り出してやりたいと思っていた男の命を、目の前で掻っ攫っていったのがその父親ならば、話は別だった。あれは真の獲物だったのだ。

 光の道の終点は、更に強い光に満たされていた。あらゆるものが遥か彼方の天体から発せられた熱と光を跳ね返し、真っ白と透明だけに染め上げられていた。扉の向かいは大きな窓で、その窓枠だけが光の中で微かに黒く浮き上がっている。
 真は窓に走りこんだ。
 窓の外に身体を乗り出したとき、突然世界は色を取り戻した。

 光を跳ね返している緑の艶やかさ、微かに霞みながら柔らかい青を湛えた空、その空を掠めた黒い鳥の影。景色は凪いだ海のように静かで、動かなかった。
 窓枠にかけた腕に力が入り、その窓を乗り越えようと自分自身の筋肉が動いたのを自覚した瞬間だった。

「追ってどうする?」
 真の目の前には、遥かに緑の木々とくすんだ空しかなかった。光の破片は満ち溢れ、真の目を射った。真の網膜は光の強さに焼かれて、機能を失いかけていた。身体は震えだし、微かな振動は真の脳の細胞を振り回し、真の壊れやすい側頭葉に及んで、記憶の引き出しをばらばらに開け始めた。
 もしも心というものが本当にあるのなら、真の心は今、砕け散って、その破片が冷たく固まった。

 振り返った真の視界の中に、黒い人影が更に重く沈んでいた。
「どうして」
 真は精一杯でそれだけを呟いた。
 窓は、地球という孤独な船から宇宙を見上げる境界だった。その宇宙は光に満たされていたのに、突然、真とその男との間だけが重く、暗く、苦しく、地球の重力に縛り付けられた。

 男は、いつか真を地獄から救い上げてくれた時から変わらない穏やかで優しい、悲しいほどに暖かなものを背中に負ったまま、そこに立っていた。
 精悍な顔つきは、あるいは降り積もった苦痛の結果であって、もしも彼が人並みに幸せな人生を送れていたならば、そこにはもう少し柔らかな丸みがあったのかもしれない。真が、大和竹流と誤解していたほどの、大きな優しい手は、今そこに光に溶け出すようにしてこの男の身体にぶら下がっていた。

「何に対して、聞いている?」
 真は、気をつけていなければ意識を窓から捨ててしまいそうになるのを、辛うじて留まっていた。
「竹流は、あなたのためになら命だって投げ出したかもしれないのに」
 光によって曖昧になっていた男の輪郭はゆっくりと、しかし確実に濃くなっていった。
「その通りだ。俺も、あいつのために命を投げ出したいと願っていた。今でも、そう思っている」
「それなら何故」
 声が重く鋭くなり、真自身の咽喉を締めつけた。

 高い宇宙で、鳥が鋭く長く鳴き声を上げた。羽音さえ響いてくるような静けさの中で、今、真はほとんど意識を手放しかけていた。
「大和竹流」
 その名前を寺崎昂司は呟くように、深く重い声で呼んだ。
「優しく、暖かく、強く、大きな人間だった。人は生まれた時からそのような素質を持っているわけじゃない。彼はそうあるべく努力し続けていた。高貴で誇りに満ちていたのは、彼の生まれと何世紀にも渡って彼の祖先から受け継がれてきた血の故だけではない。彼が自らそう在るべくして育ててきた、本当の意味での気高さだ。彼の父親は、あるいは取り囲む人々は、彼がそうあるべき姿になるために、あらゆる力を注いできただろう。ただ甘やかし、ただ可愛がったわけでもなく、時には厳しく突き放し、苦しめるほどの難題を押し付けながら、彼をこの世界を支配する男に育て上げるために愛情の限りを尽くしてきた」

 匕首を握る手が痺れてくる。
 寺崎昂司は静かに優しい声で続けた。
「だが、それでも彼は苦しんでいた。何が彼の心を苦しめていたのかは知らないが、それでも俺には贅沢な苦しみに思えたよ。そう、多分それは高みに立つ人間にしか分からない孤独だったのだろう。太陽に焼かれた神の子どものように、永遠に手に入ることのない更なる高みを目指して飛ぶものだけが知っている、果てのない孤独、選ばれた人間だけが触れることのできる不安と孤独だ。彼はその孤独のゆえに、人間が神と一体になる瞬間にだけ生み出すことのできる芸術という深い海へ飛び込んでいったのだろう。

そもそも芸術家なんてろくでもない人間どもかもしれない。自らの欲望を創作にぶつけているだけなのだから。それを崇める人々も、ただ気が向いた時だけ誉めそやし、あるいは他人の批評に振り回されてが異口同音に盲信する馬鹿どもばかりかもしれない。それでも彼は、そういう愚かで罪深い人間の魂が天翔ける一瞬の神の領域を信じたからこそ、芸術の神の前にひれ伏して、壊れたものを拾い集めるように修復の世界に入り込んだ。そこにいれば、彼は孤独ではなかったのだ。罪深き人間が神の高みに上がった一瞬に作り上げた芸術は、彼の崇高で孤独な魂を抱いて慰めた。その場所でだけ、彼は孤独ではなかったんだ。彼が還るべき光に満ちた太陽の道だ」

 アドリア海の光の海を渡る風、儚い箱舟の上で、竹流が真を抱きしめていたその身体の奥深くに抱えられた深い孤独を、真は今もまだ手の内に抱いていた。だが言葉を語っているのは、真ではなく別の男だ。真はこの男と自分の間にある不可解な共通点を、明らかに感じ取っていた。

「彼はよく話していた。彼が敬愛していた修復師のことだ。飲んだくれで、気が向かなきゃ仕事をしない、女を殺して刑務所に入っていたこともあるのに、変なところで潔癖症で、少しの金が入ると夜の街に出て行って、賑やかで孤独な夜の女たちに持ち金の全てをばら撒くような男だったらしいよ。だが、一旦修復作業に入り込むと、その男は神になった。教会のあらゆる黄金、絵画、タペストリー、ステンドグラス、全てのものが光を取り戻し、くすんで悪魔さえ住みつきそうだった教会は神の世界に立ち戻り、何百年も前にその場所で祈っていた人々の声までも蘇るようだったと。その宇宙になら、彼は住むことができたんだろう。悪魔と神をどちらも心に抱えた修復師は、竹流を本当に可愛がったと聞いている。弟子を取ることもなく、自分のためだけに仕事をしていた男が、ありったけの技術を彼に注ぎ込んだんだ。その修復師は、誰よりも竹流の孤独を知っていたからこそ、彼が孤独ではない場所を作ってやろうとしたのかもしれない」

 寺崎昂司は、一旦黙り込み、真の少し遠くを見た。
 今は全ての音が畳まれ、静かで穏やかだった。

「だが彼のように飛ぶことさえできない人間には、永遠に彼の孤独も気高さも理解はできない。理解できないことに気が付くこともできない。地面の暗いところでじっと光を避けて生きてきたんだ。生まれる前から望まれず、形を成す前に母の胎内からさえ追い出されようとしていた命が、間違ってこの世に送り出され、その父親は、自分を捨てた女の代用品として子どもを使った。そう、まさに道具として使ってきたんだよ。時には殺されるほどに殴られ、時には歪んだ愛情を示すために父親のものを受け入れ、ただ試され続けてきた。それが地面を這うものの生き方だった。太陽が上がれば、石の下に隠れ、時には地面に穴を掘って、暖かな光を避けてきた。太陽を見たいと願っても、その方法を知らなかった」

 真はもう切れ掛かりそうな意識に爪を立てるようにして窓にもたれ、息を整えた。寺崎昂司の顔に翳が落ち、暗く沈んだ。
「姉がいることは知っていたんだ。寺崎孝雄は俺に姉の映像や写真を何度も見せた。少女の頃から、姉は美しく優しく、包み込むような微笑を浮かべた人だった。これがお前の姉さんだ、本当に美しいだろうと、あの下劣な親父がうっとりとした顔で言ったよ。姉は母にそっくりだそうだ。その写真や映像を見るごとに、会った事もない姉が、俺の中で唯一の憧れであり救いであり、孤独を忘れさせてくれる存在になっていった。

姉の店出しの日、俺はこっそり見に行ったよ。姉の舞妓姿はどれほどに美しく愛らしく優しかったことか。けだもののような寺崎孝雄も、姉にだけは手出しをしなかった。母の面影のせいだったかもしれないし、母の懇願の故だったかもしれないが、何より姉のあの美しさが、あの男の手が触れることを拒んだからなのだろう。姉が最初に結婚した男は、有名な優男の俳優で、確かに一時は人気もあったよ。でも、俺にはそいつの汚らわしい手が見えていた。いつか殺してやろうと思っていたけど、その前に祇園の町が姉を救い出してくれた。姉の美しさを穢すことができるものは何もなくなった。

でも姉は、その後大和竹流と出会ってしまった。なぁ、坊主、姉と大和竹流の出会いは必然だ。姉のあの美しさに触れることが許されるのは大和竹流だけだ。大和竹流の根源的な孤独を癒せるのは、姉だけだ。俺は心から喜んだよ。だが、大和竹流の孤独は、姉がどれほど外から彼を包み込んでも、心のうちに開いた穴を埋めるものがない限り、満たされることはなかった」
 珠恵の匕首が手の中で重みを増している。真はより強く握ることで、辛うじて意識を繋ぎとめていた。

「大和竹流は俺に会いに来た。地面を這いずっと光を避けて石の下に隠れていた虫に、太陽の下に出る方法を教えようとしたんだよ。姉への憧れと思慕、それに大和竹流への憧れと、兵士が心から忠誠を誓って王に跪くような気持ちは、俺の中にこれまで味わったことのない不思議な感情を起こさせた。大和竹流は何でも持っていた。姉のために岡崎の家を買い戻し、改築し、姉を住まわせて、俺にも一緒にここで暮らしたらいいと言った。二人は、まさに比翼の鳥、連理の枝だったよ。完璧な一対の男女だった。俺は彼らが岡崎の家で平和に暮らす姿を見ているだけで幸せだと思っていた。

彼は、俺を本当の弟、もしくは仲間、対等の友として扱ってくれようとした。俺を遊びに連れ出し、彼の華やかな世界を見せ、一緒にその世界で生きようと言った。誰にも渡すことのなかった鍵を、俺に預けた。俺は多分夢を見ていたんだろう。彼の言葉には嘘もない、嘘をつく必要のない人間だからだ。彼が言葉を発しさえすれば、言葉に神が宿り、神はその願いを聞き届けてしまう、まさに言霊を操る男だった。俺は彼を愛したよ。姉の夫として、俺の兄として、友として、彼を誇りに思い、縋り、彼のようになろうと憧れた。彼は俺に芸術について多くを語り教え、彼の子どもの頃の事を語り、夢を語り、彼の最高の仲間として、弟として友として扱ってくれた」

 寺崎昂司の声には抑揚がなく、時々、かすれてどこかへ消え行くようになる。真はそれが自分の意識のせいだと思っていた。
「俺はまさに、己の分を知らないイカロスだった。蝋で固めた翼は溶けかけて、天掛ける馬たちをひく手綱は焼け切れかかっていた。地を這い続けていた虫には、太陽の光は強すぎたんだ。ただうまく日陰で休み、光の恩恵だけを受け取る方法を知っていたらよかった。だが俺はあの男の後ろ姿についていくのに必死で、太陽を見ようとしてしまって目を焼き、焼け爛れて、太陽そのものになりたいとさえ願ってしまった。そう、俺は忠誠を誓う兵士というだけならまだ良かったんだろう。それなのに、彼は俺を、他の仲間とも違う位置に置いて、彼と対等に扱ってくれようとした。俺が東海林珠恵の弟だからだ」

 窓から吹き込んだ風が、時々寺崎昂司の声を掠れさせている。真はその風に倒れそうになっている自分自身を、何とか立たせていた。
「だが俺は、十にもならないうちから男の相手をし、女の相手もして、あまつさえ、俺よりも幼い子どもとセックスの真似事をしてきたような男だ。十四のときだったか、俺よりずっと幼い子どもを犯すように命じられた。俺は何の躊躇いもなく、自分がこれまで男たちにされてきたように、その子どもを犯したよ。身体は恐ろしく興奮していて、なのに心は何も感じなかった。子どもは泣き叫んでいたけど、そのうち何も言わなくなった。その子はそのあと親父たちに連れて行かれた。どうなったのか、俺は見なかったけど知っていたよ。でも俺は何もしなかった。

俺は父親の相手もしてきた。彼はすっかり勃起もできない身体になっていたのに、俺にだけは反応した。俺に母親の服を着せ、化粧をさせ、狂ったように俺を犯した。俺がすっかり大人の男になると、彼は怒った。女のようでない、母親のようでないというそれだけのことだ。彼は俺を縛りつけ、死ぬ一歩手前まで殴り、それから謝りながら俺を抱いた。お前をこうしておかないと珠恵を傷つけてしまいそうだと、泣きながら威してきたんだよ。俺はずっと、いつかこの男を殺してやろうと思っていた。なぁ、坊主、そんな人間に光のもとに出て行ける道などありはしなかったよ」

「それでも、あなたは新津千惠子を救うおうとしてくれたんじゃないのですか」
 寺崎昂司は表情を変えないまま、笑ったように見えた。
「そうなんだ。時々、かわいそうな子どもを救けたくなる。俺が抜け出せなかった暗闇から出してやりたくなる。理由なんてないんだよ。ただの気紛れだ。うまく逃げ出せて生きている子どももいたし、とっ捕まってかえってひどい目にあった子どももいた。俺は何をしていたのか、何をしたかったのか、自分でもよく分からない。その子どもが俺よりひどい目にあうことを望んでいたのか、本当に逃がしてやりたかったのか」

 わずかに寺崎昂司の身体が揺れた。真は自分の身体の揺れとの区別がつかなくなっていた。
「大和竹流にはそういう人間のことは一生分からないだろう。あいつには姉以外にも何人も女がいて、セックスは女を優しく愛するための方法だと言った。実際にあいつはどの女にも本当に優しかった。女だけじゃない、年寄りにも、仲間にも、職人たちにも、レストランのウェイターたちにもだ。あいつに一言何か言って欲しいために、皆が己の仕事に懸命になっていた。あいつはあいつで、子どもみたいに無邪気に、『うちのパティシエ』『うちのウェイター』『うちの料理人』『うちの修復助手』『うちのギャラリーの受付』がいかに素晴らしいかを自慢する。宿根木のばあさんが淹れる茶がいかにうまいか、彼女の佐渡わかめの味噌汁がどれほどうまいか、それを我が事のように自慢するんだよ。そう、あいつはまさに理想の為政者であり友でもあり、あいつの周りにはあいつを王のように慕う人間がごまんといた。だが中には、あいつが天から注ぐ愛を、己の身だけに受けたいと願う人間もいた。御蔵皐月もその一人だった」

 僅かの間、寺崎昂司は言葉を探しているように見えた。
「俺はいつもあいつと皐月が愛し合っているところを見ていた。俺が知っているセックスとは違う、優しい愛し方だった。あいつは御蔵皐月の才能を心から愛し、御蔵皐月の女としての身体を慈しんだ。傷つけられて空洞のようになり、生きる意味を失っていた皐月の心と身体は、あいつでいっぱいになって癒されたんだよ。彼らが抱き合っている姿を見ながら、俺は不思議な気持ちになっていた。俺はあいつになって御蔵皐月を愛する夢を見て、御蔵皐月になってあいつに愛される夢を見た。俺は生まれて初めて、命じられたわけでもなくカメラの前ではないところで自慰をしたよ。御蔵皐月の身体の中に入り、大和竹流に後ろから抱き締められ深く貫かれているところを想像しながら。

だが、御蔵皐月はそんなあいつの優しい愛などでは満足できない女だった。大和竹流を手に入れるために何でもした。狂言自殺、無理心中の真似事、愛してなどいない俺を誘惑し、そして坊主、お前をヤクザに売りつけた。俺はそんな皐月を哀れに思ったよ。彼女は俺と同じだ。手に入らないものを繋ぎとめようとしている。あの男の全てを手に入れることなどできないのに、自分だけを見て欲しいと願っていた。俺は皐月の願いを何でもきいてやりたかった。皐月を愛してやれば、俺自身も救われるような気がした。

だが、大和竹流は御蔵皐月や俺とも、あるいはあの美しい姉とも関わりのないところで、誰にも助けられることなく、神から授けられた重荷を背負い、多くの義務としがらみに絡みとられていた。姉のためであっても、俺や皐月のためであっても、全てを捨てることはできない男だった。それはやむを得ないことだったんだろう。人の上に君臨する王というものはそういうものだ。だが、坊主、お前だけは別だ」
 寺崎昂司は真を、真の内側を、真も知らないでいた自分自身を見抜いているような気がした。
 真は少しずつ混乱し始めていた。

「お前は大和竹流にとって、過去から背負ってきた宿命でもなければ、選び取っていかなければならない必然でもない。なのに何故、彼はお前と出会い、お前をああまでして想うのだろうな。お前が攫われたとき、あいつは確かに狂っていた。あれほど何もかもを持っているのに、あれほどに人々からも神からも愛されているのに、その全てを捨てることに何の躊躇いもなかった。狂ったようにビッグ・ジョーに復讐しようとするあいつを見て、俺はただ苦しくて、この男のために何でもしてやりたいと思ったよ。俺がお前を助けたのは、ただあいつの狂った姿を見ていたくなかったからだ。彼は王であり、太陽であり、不可侵の聖なる魂を抱いた男だ。こんな小僧のために全てを投げ捨てていいはずはない、そう思っていた」

 真の意識は、すでに真の身体の周囲に浮かんでいるだけで、見聞きしていることの半分も理解できなくなっている。
「坊主、お前には分からないだろうな。お前は自分が何者だか知っているか? 竹流は俺にゴーギャンの絵を見せて、我々はどこから来たのか、どこへ行くのか、我々は何者なのか、という問いを示したよ。彼はその問いに対する答えを知らないようだったし、お前もまた知らないだろう。彼は『問い』そのものだからだ。そしてお前は『答え』そのものだからだ。だが、俺は自分がどこから来たのかも、どこへ行くのかも、何者なのかも知っている。悲しいことに知っているんだ。その時、俺は彼と自分との明らかな違いを理解した。永遠に彼にはなれない、始めから分かっていたことだが、彼のように生まれることはできない」

 真は唇が震えるままに開いた。
「だから、彼の右手を抉ったのか」
 寺崎昂司は自分の左手をすっと上げた。その手には小指がなかった。
「本当は俺の手を重ねて一緒に貫くつもりだった。どういうわけか、親父が止めに来て、手元が狂った」寺崎昂司は自分の手を見つめ、ふっと笑ったように見えた。「笑えるだろう。あんな下劣な父親だが、息子が可愛いと言って、落ちた俺の小指を拾って病院に行こうって泣きやがったんだ」

 遠くで鳥が鳴いたような、高い周波数の音が生まれ、今真と昂司の間にある空間を鋭く、二つに裂いたようだった。
「あいつの右手と一緒に俺の小指は失われた。共に流れ出した血を見つめて、俺はもっと一緒に傷つきたいと思った。血に塗れたあいつの右手を抱いて、その血を舐めた。その右手が愛おしくて仕方がなかったんだ」
「わからない。どうしてそんなことを」
「それを望んだ人がいたからだ。そして俺もそれを望んだからだ」
「あいつにとって、右手を失うことがどれほどのことか、あなたは知っているはずだ」

「だからだよ。彼はあの右手を失っても、あの誇りと気高さを持ち続けることができるのか、孤独を癒す唯一の場所を失っても、例えば坊主、お前や姉がいれば彼が満たされているのか、知りたかっただけだ」
「そんなわけがない。あの右手には、彼が何十年もの間、己の力で摑み取ってきた全てのものが畳み込まれている。何かで代わりがきくようなものじゃない。あなたは分かっているはずだ」

「そうだ。分かっていたから、それを奪いたかった。俺は自分の手の痛みなど何も感じなかった。なぁ、坊主、俺が彼の手を突き刺した瞬間、彼はどんな顔をしていたと思う? ただ哀しそうに俺を見ていた。哀れんで俺を見ていた。何が起こったのか、分かっていたはずだ。それなのに、彼は血にまみれた手を差し伸ばして、俺を抱き締めたよ。俺を恨んで憎めばいいのに、俺を哀れみ悲しんだ。もしも許すと言われたら、それこそ地獄だと思った。彼は許すという言葉を発しなかったけれど、咄嗟に俺を可哀相に思ったんだろう。自分の心がその先、どんなふうに歪むのかなど、考えもしなかっただろう。彼の目はこう言っていたんだ。お前にこの右の手をくれてやる、命をくれてやる、だが心はやれない、と。俺は、その目がたまらなくなって、一度彼を親父たちのところから逃れさせた」


(つづく)





本当は一気に行きたいシーンなのですが、あまりにも長いので、いったん切ります。いや、本当に、謎解きシーンの探偵みたいによくしゃべる。主人公は無口だなぁ。
次回第33章の最終話、28日に更新いたします。仕事納めの日(^_^)/~

<次回予告>
 真は首を狂ったように横に振った。
「さぁ、今俺を殺さないと後悔するぞ」
 昂司は、彼の身体ごと真にぶつかってこようとした。
「寺崎さん!」
 真が叫んだとき、突然寺崎の身体は突然、大きな引き潮にさらわれるように後ろへ引き倒された。
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Category: ☂海に落ちる雨 第5節

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コメント


そうなんだ~

これはもう、竹流と、そのほかの人たちとのあまりにもかけ離れた運命(資質や人間性)の差が生み出した悲劇ともいえるんでしょうね。
竹流は、竹流として生きてるんだけど、昂司や皐月にはそれがもう、太陽のごとく眩しすぎて、それでも手に入れようとするから、羽を溶かされて地に落ちてしまう。
生まれ堕ちた人間に尊卑は無いはずなのに、彼らの前ではきれいごとで。
自分の罪も愚かさも全部理解したうえでの昂司の独白は、なんとも憐れみを誘います。(皐月の時には感じなかったのに・・・)
真が何かを意見したり反論することができない気持ちも、わかります。
……いや、本当に体力的にギリギリでもあるんだよね真~。

罪の根源は何かと言われたら、やっぱり逆恨みした、もう死んでしまった奴らなんだろうけど。
昂司はつらいねえ。これからもずっとこの人は辛いんだろうなあ。

さあ、復讐の獲物を奪われて、どこかまだ呆然自失の真ですが、この後彼の心を救えるものが出て来るのか。
次回も楽しみにしています。

lime #GCA3nAmE | URL | 2015/12/27 11:37 [edit]


limeさん、ありがとうございます(^^)

年末のお忙しい時に、さっそくに読んでいただいてありがとうございます(^^)
> これはもう、竹流と、そのほかの人たちとのあまりにもかけ離れた運命(資質や人間性)の差が生み出した悲劇ともいえるんでしょうね。
うんうん。そうなんですよね。視点や立場が違うとお互いを理解することはとても難しい。もしかするとスタート地点はそんなにかけ離れたところじゃなかったとしても、どこかで道が離れてしまったら、もうお互いに相手の言うことなすこと、悪意としか感じられなくなっていく。
このお話に出てくる両者は少し極端な立場にありますが、現実の世の中でも、そこまで極端でなくても、お互いに分かり合えないことってありますよね。きっと竹流の方は、何で自分がそこまで恨まれるのか全く分かっていないだろうし(少なくとも今でも、特に昂司に関しては、こうなってもまだ信じたくて仕方がないんだろうと思うし)、全く「ええとこのぼんぼん」丸出し。悪人たちの方も、そもこまでしなくてもって話なのですけれど……ま、少なくとも「いい奴」たちではないだろうし、だからって許される話でもないのですけれどね……
いや、主人公の1人をこんなに苛めちゃって、しかも物の分かったいい男にできなかったのは私の不徳の致すところ?なのですけれど、ま、しょせん人間、プラスマイナスがあるよね、ということで温かく見守っていやってください。あ、悪人たちの方は、まぁ、この野郎!何すんねん!ってので問題ありません^^;

昂司のことは、あとで何と仁が竹流に向かって擁護して啖呵を切ってくれるので、第34章をお楽しみに! そうそう、さすが、やくざさんの若ですから、まぁ、あれこれ世の中のことを竹流よりも分かっているんでしょう。もっとも、仁も竹流が何にもわかっていないと思っているわけじゃないし、竹流も少しくらい自覚ははあるんですけれど、何しろそういう育ち方をしている人ですから、悪気もないし……ほんと、人と人の間のことって難しいですね。

> 竹流は、竹流として生きてるんだけど、昂司や皐月にはそれがもう、太陽のごとく眩しすぎて、それでも手に入れようとするから、羽を溶かされて地に落ちてしまう。
そうなんですよね。これは実は、澤田顕一郎と村野耕治・村野花も同じ構造で……また大好きな多重構造をやってしまっているのですけれど、ほんと、澤田も竹流も、素直に「持てる者」の善意を振り回しちゃうので、周りの「持たざる者」はなんかね、惨めな気持ちになっちゃうんでしょうね。
昂司の言い分、最後まで聞き届けてやってくださいませ。年末なので(しかも話が途切れちゃうのが自分で残念だったので)、さっそく明日更新ですけれど^^;
皐月は、きっと、女だから女としての表現方法しかなかったんでしょうね。女である分、ちょっとドロドロしちゃいました^^;

> 真が何かを意見したり反論することができない気持ちも、わかります。
> ……いや、本当に体力的にギリギリでもあるんだよね真~。
本当だ。ま、マコトは、じゃなくて、真は、なんだかんだ言いつつ恵まれているみたいです。助けてくれる人がいるものね。でも本人はまだまだ納得いかないでしょうけれど。
そして実は、本当に助けてくれたのはあの和尚さんだったのかも?? 
どろどろばくばくひやひやはお仕舞で、34章からは真の心のケア(体も)に入ります。この先もまたよろしくお願いいたします。
コメントありがとうございました!!

彩洋→limeさん #nLQskDKw | URL | 2015/12/27 14:09 [edit]


そうなんや~

更新、お疲れ様でした。
コメントを考えているあいだに、なんと次話が……。は、早いっ。

なるほど、寺崎昂司はイカロスでしたか。
竹流という太陽を遠くから見ているだけで済んでいたら、珠恵の弟という立場でなかったら、ここまでこの人は歪まずそして追い込まれずに済んだのかもしれませんね。生い立ちの悲劇性はほんとうに酷いと思いますが、それでもやはりどこかが倒錯しているように思います。まあ、御蔵皐月よりも、同情はできますけど。
こういった人間が竹流に近づくことの危険性を、誰も、昂司自身も予測できなかったことが事態をより深刻にしてしまったのかなぁ。そして、昂司が御蔵皐月と関わってしまったことも、また混迷に拍車をかける結果になったようですね。
竹流もねえ、いいかげんお人好しはやめちゃえばいいのに。そんなんじゃ、ほんとうに大事な人を守れないぞ~(上から目線、失礼!)
それにしても、真、大丈夫ですか? なんか人事不省になりつつありますけど。やはり、目前にいた最大の敵を掻っ攫われたのが、ショックだったのかなぁ。犯罪者にならずにすんだんだから、良し、としましょうよ。って、そんな気分じゃないか。

次話がすでに投稿されていますので、これから拝読させていただきますね。
なんか、また真の獲物が……。

TOM-F #V5TnqLKM | URL | 2015/12/28 21:59 [edit]


TOM-Fさん、ありがとうございます(^^)

年末ですから、ちょっと勢いでアップしちゃいました。いや、大晦日とかにこの更新はないだろう、と^^; そもそも1回でアップしたい内容だったのですけれど、長くて切っちゃったものですから……年末特別仕様ということで、次回は少し間を開けます。でももういい加減に終わらせたいわぁ……と頑張っています。目標、3月末。あと何章あるんだっけ……(自分でもわからなくなっている^^;)
さて、いつもお忙しい中、コメントを丁寧に下さって本当にありがとうございます。うん。あちこちで書いておりますが、本当にTOM-Fさん始め、夕さん、limeさん、けいさんのお力で続けられています。ほんとに感謝して年末のご挨拶に代えたいと思います。あ、変なご挨拶になっちゃった。

このお話、もうちょっと普通のマイルドな人は出て来んのか、というようになっていますが(あ、美和ちゃんは唯一比較的普通かかも。やっちゃんの彼氏がいて、探偵事務所の秘書ってのを除けば……って、それがもう普通じゃないかぁ)、その辺はもう、諦めて絡んでやってくださいませ^^;
昂司の場合もまた、極端な運命を背負った人で……これはもう、竹流との対比が明確になるようにと作り込んでいったらこうなったのですが(竹流はなんだかんだと言ってファミリーから無茶苦茶愛されて育っていますから。あ~、だから、あんなに甘ちゃんなのかぁ。人を信じすぎる。自分も。チェザーレのおっチャン、教育を間違えたらしい)、ちょっと可哀そうでした。でも、その中で精一杯の生き方をしたかなぁと思って書いておりました。
追い詰められた状況だけれど、きっとどんなふうに自分が追い籠められて精神的にずれていっているのか、その辺りを良識人として理解するのが難しい人生だったのだろうと思います。だから、最後に思い出すシーンは……一番幸せな風景だったのかも。

このお話のどこか途中で誰かが(って、覚えていないのか、作者の私……)、攻撃って向かいあっている相手からなら、どんなに強い相手からの攻撃でもかわせる(かもしれない)けれど、横にいると思っている相手から喰らったら、相手が弱くても、ものすごく効いちゃうんですよね。
竹流はもしかして昂司が裏切るかもと思っていたかもしれませんが、信じたかったのもあるし、むしろ自分が自己犠牲を見せることで彼を救えると思っていた節があるようで。何しろ完全にキリストの教えに忠実な人ですから。う~ん、やっぱり甘い男だ。昂司は昂司で、まさか自分の心の中にこんな形の狂気が潜んでるとは思っていなかったかもしれませんし。

> 竹流もねえ、いいかげんお人好しはやめちゃえばいいのに。そんなんじゃ、ほんとうに大事な人を守れないぞ~(上から目線、失礼!)
ほんとだよ!(笑)

真、確かに、「あれ? 獲物はどこ?」状態ですね。くいっぱぐれた肉食動物のようになっています。お腹すいているから、危険な状態。近づかない方がいいみたい。この人、火事場の馬鹿力、じゃないけれど、俊敏性が半端ないので(それで高校までは剣道もかなり強かった)、アドレナリンが多くなると何をし出すか……でもここはもう少し成り行きを見守ってやってください。ふと、我に返ったら……ってことになるみたいです。
コメントありがとうございます。いつも読んでくださって、ありがとうございました!!

彩洋→TOM-Fさん #nLQskDKw | URL | 2015/12/30 08:38 [edit]


そうかそうか~

真がとうとうここまで来て、とうとうこうなったから、昂司も話してくれるのでしょうか。
この人も、自分の事情を背負いながらも、人のために生きようとしてきた人なのですかね。
真はこの語りをきっと一言も忘れずに胸に置くのだろうなあと。
あ、まだ語りは続くのですね。
謎解きというのではなく、そうなんだと頷きながら聞いてしまう場面ですね。
続きに参ります。

けい #- | URL | 2016/01/14 20:16 [edit]


けいさん、ありがとうございます(^^)

けいさん、引き続きありがとうございます。そして、ついにこのクライマックスな3章を乗りきってくださってありがとうございました!!
昂司は、竹流にあんなふうに言われちゃいましたからね。犯罪者?って、許すって言われた方が辛い時もあるのかもって思って書いていたのです。昂司は最後まで竹流とは分かり合える距離にはいなかったんだけれど、複雑な気持ちの中で想い合っていたのかもしれません。竹流はやっぱり「弟」として認めてやりたかったんですね。そして、どうしてもというなら命も差し出してやろうと思っていたんですね。
真は……思い切り混乱しました。
あ、まだ続いていますね。うん、謎解きではなく、其々の人物の想いをぶつけるシーンなんですね。あぁ、書いた時もしんどかったけれど、アップする時も新たなしんどさがありました。一応再度読んで、多少文章を手直ししたりもしているので、エネルギーを使います。
すぐに次話ですね。ほんと、ありがとうございます!!

彩洋→けいさん #nLQskDKw | URL | 2016/01/16 00:08 [edit]

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