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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨172] 第37章 絵には真実が隠されている(2)愛は心に沁み入る 

【海に落ちる雨】第37章その2です。
格闘シーンや追込みシーンなどのクライマックスはもうないのですが、感情的にはまだまだクライマックスで、今丁度犯人の告白シーンみたいなところに差し掛かっているのかもしれません。もっとも、深雪も澤田も犯人、というわけではありませんが。
始めの頃、この物語には重複構造がいくつかあると書いたことがあるような気がします。
この物語では、疑似親子というのがやたらと出てくるのですが、その代表は澤田と深雪ということになるかもしれません。年齢的には親子じゃないけれど、三上と唐沢だって、ある意味疑似親子のようなものかもしれません。いや、一番の疑似親子は竹流と真なのですけれど。
深雪と澤田、其々の答えの行く末を見守ってやってください。
深雪と真が開けた扉の中には……?
長いので2回に分けてアップいたします。

 登場人物などはこちらをご参照ください。
【海に落ちる雨】再開に向けてのキーポイント
【海に落ちる雨】登場人物



 真は相川の家に戻り、二階に上がって、伯父、功の書斎に入った。
 真が大和竹流のマンションに居候するようになってから、この家には週に一度は高瀬登紀恵が風を通し、掃除をしに来てくれていた。そのお蔭で、この書斎にも誇りっぽい空気は溜まっていなかった。
 伯父の書斎はまるっきり図書室で、備え付けの書棚が幾つも並んでいる。一番奥の窓際に机が置いてあり、その脇に扉のついたキャビネットがある。その棚には、功が作った幾つかの玩具が並んでいて、ほとんどが精巧な宇宙船の模型やプラネタリウムだった。

 真はプラネタリウムを取り出し、止め具を外し、中に隠してあった印鑑と封筒をポケットに突っ込んだ。
 伯父の書斎を出るとき、ふとこの部屋がどれほど自分にとって大事な場所だったかを考えた。
 学校に行けなかった時間はいつもこの部屋にいて、勤務先の病院から帰ってきた伯父はいつもここに真を探しに来た。初めてあのプラネタリウムを点けてもらったのもこの部屋だった。立ち並ぶ書棚を背景に浮かび上がった星々は、この書斎を無限の宇宙に変えた。
 真は息をつき、書斎の扉を閉めた。

 家を出て車の扉を開けたとき、ふと相川の家を見上げ、静かに目を閉じた。
 この家で過ごした時間のほとんどは、功との思い出に繋がっていた。真が自分で自分を哀れんでいた頃も、恐らく功は何かと闘っていて、真は何一つそれに気がつかないまま時間を過ごしていたに違いなかった。功が失踪して十三年、本当なら自分は功のために何かを成すべきではないのか。失踪人調査を看板にしている調査事務所の人間でありながら、何故重荷から逃げ続けているのだろう。
 だが、今は自分自身の事情のことで迷っている場合ではないと、思いを振り切った。

 いつも深雪と会っていたホテルに行き、駐車場に車を停めると、真はポケットから澤田に預かっていた鍵を出して確かめた。
 あの時、この鍵を渡しながら、澤田は言葉にこそしなかったが、深雪を頼む、と言っていたような気がした。そしてそれは間違いではなかったのだ。澤田の深雪への想いは、贖罪と憐れみと、そしてまさに父が娘を思うような感情だったのだろう。

 ロビーを通り抜け、いつものエレベーターを待つ間、真は不意に、もうすっかり自分も、深雪も、以前の自分たちではないことを理解したような気がした。
 美和と初めて寝た後でこのホテルに来た時とは、明らかに自分の身体の内にある何かが変わっていた。あの時、真は深雪の待つ部屋に上がりながら、少し先の別れを予感しながらも、それでもいつもの逢引の時のように微かに興奮していたのだ。だが、今、自分はどれほど遠くへ来てしまったか。そして恐らく深雪も、もう以前の深雪ではないのだろう。

 真がその部屋の鍵を開けたとき、深雪は奥の寝室の窓から街を見つめていた。
 窓の外には東京のビル、そして白くくぐもったような空が果てなく広がり、深雪はカバーが掛けられたままのベッドに座って、街の遥か彼方にある宙と、真が静かに部屋に入っていった気配を感じていたようだった。
 白いスーツを着た深雪の脇には、松葉杖が置かれていた。真は深雪の傍に行き、松葉杖を少し動かし、彼女の横に座った。

 深雪は目を閉じていた。
「深雪」
 真はその名前を、恐らく今までにないほどの心をこめて呼んだ。
 深雪はゆっくりと目を開けて真を見つめ、それから僅かに微笑んだ。悲しく寂しげで、何かに懸命に耐えている顔だった。
「銀行に行こう。貸金庫を開けに」

 深雪は唐突な真の言葉に、少しの間戸惑ったような顔をしていた。真はそのまま深雪の手を取り、立ち上がらせようとして、深雪の足のことに気が付いた。一瞬考えたが、結局深雪を抱き上げた。
「真ちゃん」
 驚いたように声を上げる深雪の感情を無視して、真は部屋の扉まで行き、そのままでは扉を開けられないことに気が付いて、少しの間深雪を降ろし、扉を開けた。
 一瞬抱き寄せた深雪は、以前よりもずっとか細く、か弱い少女のように思えた。

 それでもさすがに恥ずかしいと思ったのか、深雪はもう一度抱き上げられることを拒んだが、真は首を横に振り、彼女をただ愛おしく抱き上げた。男女の関係としては終わってしまっていることを知っていたが、まだ一緒にしなければならない大切なことがある、それを深く感じていた。
 深雪を車に乗せてから、真はようやく深雪に大丈夫か、と尋ねた。深雪は随分と強引なのね、と言った。

「見てないの? 貸金庫の中。一ヶ月経ったのに」
 そうだ。あの時、深雪は真にこの番号と印鑑を預けて、一か月経ったらあなたのものだから好きにして、と言っていたのだ。
「こっちが聞きたいよ。君も、預かったまま何年も見ていないんだろう」
 それもそうね、と深雪は言った。真はちらりと助手席の深雪を見て、改めて、何て美しい女だろうと思った。

 真が調査のために適当な嘘をついて初めて深雪の店に行ったとき、深雪は凛とした態度で、出直してきなさい、と言った。モデルのように綺麗だけど、気の強い女だと思った。だが、二度目に深雪の店に行き、真が自分の立場を名乗って丁寧に事情を話すと、深雪はようやく微笑んだ。
 彼女は協力を惜しまなかったし、そのお蔭で、自殺しようと家族の前から姿を消していた男を探し当てることができた。あの時の深雪の微笑みには、深い悲しみと、彼女自身が乗り越えようにも越えられずにいる苦悩に縁取られながらも、それでも愛されたことを知っている優しい温もりが漂っていた。

 礼を言いに三度目に深雪の店に行ったときが、二人にとっては始まりだった。
 深雪は後から私が誘ったと言っていたが、真は自分が誘ったのだと思っていた。深雪のホテルの部屋に行き、身の上話をするのでもなく、ただ静かに少しだけ酒を飲み、そのまま口づけを交わし、お互いに震えるように肌を合わせて交わった。
 あの時に感じたとてつもなく深い快楽、この女とひとつになることの悦びは、真がそれまでどんな女と寝ていても感じなかったことだった。

 あの時の真は、それがりぃさと別れて以来一度も女性と寝た事がなく、久しぶりのことですっかり興奮して、身体がおかしくなっているのだろうと考えていた。だいたい、竹流は一緒に住んでからも真に手出しをする気配がなく、真はただ、欲求不満だったのかもしれないと思っていた。
 だが、美和と寝て、彼女を可愛いと思っても、同じような感覚にならなかったとき、深雪と自分の間にある不思議な符号を感じたのだ。

 それは深い心の傷だった。今形には残っていないけれど、この女にはその身体に、魂にまで届きそうな深い傷がある。
 真を受け入れる時、一見快楽に溺れたような顔をしながら、いつも深雪は一瞬、苦痛に耐えるような顔をした。だが、一旦真を受け入れてしまうと、深雪の身体のうちは、真がこの女の子宮は自分のために存在していると誤解するほどに、真のものに合わさって纏わり付き、真はこの女の全ての細胞で愛撫されているように感じた。真は深雪を激しく求めたし、時には狂おしく優しい気持ちにもなったが、別の人間の身体の温もりを知っている先入観が、真の目も心も曇らせてしまっていたのだろう。

 真がその相手との間に横たわる深い溝、それは生者と死者の溝だったのかもしれないが、それを毎日その男との間に感じているのと同じように、この女もまた、生者と死者の深い溝の前に立って、そこから逃れられないでいると思った。
 真のその不可解な感覚を、当の真ではなく竹流のほうがはっきりと知っていたのだろう。だから竹流は、もしも真と深雪がお互いに本気になったら身を引くつもりだった、そのように草薙は感じていたのだろう。

 だが、それは竹流の誤解だと真は思った。理屈は通っているが、そして真自身もそのような錯覚に囚われることもあるし、事実、深雪の心の傷と真の傷の間には繋がりがあるのかもしれないが、それでもそこには大きな前提が欠落していた。
 それは大和竹流の不在だった。だが、現実には大和竹流はそこに存在し、真は彼に教えられ育てられて、死の国から手を引かれて戻ってきた。深雪も、葉子も、あるいは美和もいない世界で真は生きていけるかもしれないが、あの男のいない世界には、真の存在の理由もない。

 その通りだ。俺はあの男の手がなければ、言葉も話せず、この世界と折り合うこともできず、呼吸の仕方さえ分からなくなってしまう。あの男がローマに帰ったら、一体自分はどうなるのだろう。
 真はまだ抜け出せない混乱に足を捕まれたままでいるのを感じた。
 怖かったの、と深雪は言った。静かな声だった。
 分かってるよ、と真は答えた。

 深雪が、いや新津圭一が何かを預けていた貸金庫は、ある大手の銀行の支店にあった。銀行員は深雪が杖無しでは歩けないのに驚いて、車椅子を持ってこようとしたが、真はそれを断って深雪を抱いたまま、彼らの案内で個室の待合に通った。所定の手続きを済ませて、担当の銀行員が去ると、深雪が待合の深いソファで不安そうに扉を見つめた。
「澤田に、会ったのか」
 真が聞くと、深雪は真の顔を見て、それから静かに首を横に振った。
「澤田を恨んでる?」
 深雪は暫く、真の顔をじっと見つめていた。それからゆっくりと、もう一度首を横に振った。穏やかな、しかし決断に満ちた顔に見えた。

 担当の銀行員は、何か筒のようなものと、麻の紐で結わえられた何冊もの手帳、そしてその上に一緒に結わえられた一通の手紙を持って戻ってきた。手帳は古くばさばさになっていて、紙は黄ばんでいた。
 二人は顔を見合わせ、無言でどこか場所を変えてこれを確認しようと意見を交わした。
 銀行を出て、真は少しの間行き先に困ったが、思い立って車を走らせた。深雪はどこに行くの、とも聞かなかった。貸金庫から出してもらったものを膝の上に置いたまま、黙り込んでいる。

 車を停めたとき、初めて深雪は、ここはどこと尋ねた。
「灯妙寺。俺の祖父母が少しの間ここの離れを借りて住んでたんだ。今は北海道に戻ってる。俺も、高校生のころは半分ここに住んでいたようなものだった」
「どうして」
「さぁ」真は深雪が、どうしてここに連れてきたのか、と聞いたことをちゃんと理解していた。「深雪にここを、つまり俺が昔関っていた場所を、見せたかったのかもしれない」

 真は助手席に回り、深雪を抱き上げた。
 深く緑を増した楠の大木が大きな影を作り、夏の日差しは柔らかく穏やかに薄められ、風が吹きぬけていた。ここにはいつも風が吹いているな、と真は思った。
 木の根に足を取られないように気をつけて歩いていると、深雪が支えてもらったら歩けるから降ろして、と言った。真が躊躇うと、歩きたいの、と彼女は続けた。

 真は深雪を降ろし、深雪の持っていたものを受け取り、彼女の身体を別の手で支えるようにしてゆっくりと歩いた。不思議と、抱き上げているときよりも深雪の身体は重く感じられ、真はそれが深雪の足から伝わってくる重力のせいだと思った。
 痛みがないはずはないのに、彼女は地面から伝わる何かをどうしてもその足で確認したいというようだった。
「静かね。東京の街の中とは思えない」
 真は短く肯定した。

 住職は法事に出掛けていて不在だったが、寺男と副住職が在宅していた。
 彼らは本堂の脇廊に案内してくれて、茶を運んできてくれた。副住職は、今度何時稽古に来るのか、と真に尋ねた。住職が、真がここ暫く来なかったので相手になる奴がいないと嘆いているという。深雪が不思議そうな顔をするので、剣道だと教えてやり、真は少し考えてから、暫くは来れないかもしれない、と答えた。

 真と深雪は顔を見合わせてから、麻の紐を解き、手帳を確かめた。
 それは、澤田顕一郎の記者時代の膨大な記録だった。
 深雪は震える手で手帳をめくり続けていた。二十年以上も前の手帳の綴りは甘く、何ページも外れていたり、隅が欠けていたりした。一ページに大きな字で数行の殴り書きもあれば、何行も何行も細かい字で書き綴られたところもあった。澤田顕一郎の情熱と強い決意、どのページにもそれが溢れかえっていた。

 戦争中の軍の阿片使用、原爆の犠牲者の取材は、数冊の手帳に亘っていた。澤田は最後のページに、苦しげな字で叩きつけるように書いていた。
 どれほど多くの犠牲者があの悲惨な日々に口をつぐんでいることか、彼らに口を開いてもらうことがどれほどに難しいか。私のように戦争の気配を遠くで記憶しているだけの人間にさえ、あの日々は苦しいのだ。だが人の記憶は消えていく。この戦争の記憶を忘れた時に、またあの悲惨さを知らない人間がそれを始める。この記憶が生々しいうちに、風化しないうちに必ず犠牲になった人々を贖わなくてはならない。後になってしまえば、遅すぎる。

 澤田は酔っていたのかもしれない。あるいは泣いていたのかもしれない。所々、水が滴って、字が薄くなっていた。
 蓮生家の歴史についても、膨大な取材がなされていた。ページの何枚かは千切られている。澤田は最後のページに、語れないことがある、と書いていた。それは、ロシアから連れてこられた美しい皇女のことだったのかもしれない。あるページに、あの見覚えのあるフェルメールの絵が模写されていた。ところどころ絵具が曖昧にのせられて彩色されている。そのページの一番下に、符号もしくは割符、と書いてあった。そこには真が村上で吉川弥生に見せてもらった古い雑誌にあった『青い血』の物語のあらすじが、抜粋と共に書かれていた。

「どうしてこれが新津圭一の手に?」
 真が呟くと、深雪が手帳から目を離さないままに言った。
「新津は、澤田顕一郎を尊敬していた。私が初めて新津に会ったとき、彼は私のところに澤田顕一郎のことを聞きに来たの。何故澤田は記者を辞めたんだろう、何があったんだろう、どうして澤田は代議士という立場にありながらホステスである君の援助をしているんだろう、って。私はどの質問にも答えることができなかった」

 深雪はふと顔を上げた。彼女の向こうに、灯妙寺の半跏思惟像が静かに揺らめいて見えていた。
「新津は一生懸命だった。始めは記者としての使命、それからいつしか私を愛し始めたと言ってくれた。新津に意識のないまま寝たきりの奥さんがいることは知っていたの。罪の意識で新津がどれほど苦しんでいたかも知っていた。でも私には何もできなかった。新津と初めて肌を合わせた日、私は恐怖のあまり意識を失ってしまった」
 真は真っ直ぐに自分を見つめる深雪の目を、ただ見つめ返していた。

「新津は私が何か心に傷があるのだろうと言ったの。でも私には記憶がなかった。私は罪悪感のためだと思っていた。受け入れようとすると恐ろしくて身体が震えだした。新津はやはりそれは尋常のことではないと言った。おかしいでしょ。こんな仕事をしているのに、男の人と最後まで関係を持ったことはなかったのよ。新津が私を愛して心から心配してくれていることは痛いほどに分かっていた。新津は私との関係で苦しんで、それなのに私は彼を受け入れることが上手くできなくて、新津が哀れで愛しくて仕方がなかった。中途半端に身体を合わせるだけで新津を満足させてあげることもできなかった。

それでも、新津はいつかきっと癒される日が来る、って私を愛撫してくれていつも優しく抱き締めてくれた。私も新津が傍にいてくれたら安心していられた。新津は千惠子ちゃんを親戚に預けては、私のところに泊まりに来るようになったの。新津は私に娼婦みたいなことはしなくてもいいと言ったけど、私はせめて新津を満足させたくてテクニックだけは色々覚えた。いつも新津が欲しくて濡れていたのに、新津が安心していいよって私の中に入ろうとすると、恐怖で訳が分からなくなっていた。

でも、新津にも限界があったんだと思うわ。ある日酔っ払って無理矢理私を抱いたの。私は途中まで気を失っていた。でも、ちゃんと感じていたと思うし、新津を受け入れて嬉しかったと思うわ。その日から、新津には会っていないの。新津は糸魚川に行って私の過去を調べていたみたい。新潟から何度か短い電話をくれた。調べていることについては何も教えてくれなかった。その後で新津は自殺したの。新津が不倫の罪で苦しんでいて、奥さんの治療費で経済的にも大変だったって、警察はそう言ったわ」
 陽が射しこんでいた脇廊に、時々影が落ち始めた。真は深雪の顔を黙って見つめていた。

「生か死か、どちらかしかないような生き方はしたくない、してはいけないと思っていた。新津が私を愛してくれたとき、彼の奥さんが意識もなくただ病院で死ぬだけの運命だと知って、それなのに私が新津と生きていくことを、新津が私と生きていくことを選んだら、私たちはその選択の中に放り込まれてしまう、ずっとそれが怖かった。それでも新津の手を拒めなかった私が彼を殺したのかもしれないと思った。誰かの不幸を下敷きにした幸福に酔ってはいけないって、その罰を与えられたような気がしたわ。だから、もうそれ以上何も聞かなかったことにしよう、見なかったことにしよう、知らなかったことにしようと思ったの」

 雨が来そうですね、台風も近付いているそうですから、と寺男が薄暗くなった脇廊の電気を灯しに来た。
「大和さんが新津千惠子を預かってくれないか、と言ってきたとき、一体何が起こったのかと思った。あの人は、誰にも救ってもらえず見捨てられた子どもがかわいそうで、しかも、もしかしてとてつもない犯罪に巻き込まれるかもしれないから、って私を頼ってきたの。新津と私が不倫関係にあったことを知っていたんだと思うけど、それよりも澤田顕一郎の後ろ盾を期待したようなムードだった。私は断って、それからあの人は一度もやってこなかった。千惠子ちゃんがどうなったのかも、私は聞きたくないと思っていた」

 じじっと明りが音を立てた。微かに水の音が聞こえている。
「真ちゃんと初めて寝た日、とても不思議だった。私は何の恐怖も感じなかったし、自然に濡れて、自然にあなたを受け入れた。肌を合わせる前から、いいえ、あなたが店の扉を開けて入ってきた時から、そのことが分かっていたような気がしていたの。今でも、どうしてそうだったのか分からないけど、私にはきっとあなたの傷が見えたのだと思う。この人は誰か本当に大切な人がいるのに、その人を求めたり求められたりすることができなくて、苦しんでいるのだと思った。新津が死んでしまって、私にそれができなくなったように。だから私はあなたが怖くないんだと思ったわ」

(つづく)





<次回予告>
「でも今、代議士も辞職して、離婚届にも判を押したっていう澤田には、この手帳が必要なんじゃないかしら。真ちゃん、澤田は、あなたが息子だったらって、あいつの親父を知っているんだ、でも息子のために何かしてやるのは難しい立場だろう、俺が親父になってやろうかって、お酒を飲んで嬉しそうに言っていた。澤田は一人息子を事故で亡くしているから、あなたを息子のように思っていたのかもしれない。だから、この手帳とこの絵、それに新津の手紙は、あなたから澤田に届けてあげて」
 どこへ行くつもりなのか、と真は聞いた。多分新潟、と深雪は答えた。千惠子ちゃんは、と聞くと、深雪は真の顔を真正面から見た。
「大和さんに伝えて。今度こそ千惠子ちゃんは私がちゃんと預かったから、って。三年前にそれができなくて、ごめんなさいって」
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Category: ☂海に落ちる雨 第5節

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コメント


ううむ

こんばんは。

真と深雪は、他の星のめぐりあわせの元だったら、究極のカップルだったのにと思います。
ようするに竹流がいない世界だったらってことですけれど。
お互いによく理解し合っていて、過去の恋人などと較べても段違いに相性がいい事もわかっていて、それに嫌いになる事もなくて、でも、一緒にはなれないんですね。
竹流がいるからというのはよくわかるけれど、なぜ他の人と結婚するんだ、真。

あ〜、ところで京都に行くのはまだ先かな……こんなにしんみりしているところを急がせるのもなんですけれど。

八少女 夕 #9yMhI49k | URL | 2016/04/05 06:00 [edit]


そうかあ

まだすこし(私が忘れていて)曖昧な部分がありますが、これで新津、澤田、深雪の関わりがずいぶん見えてきました。
貸金庫の中身は、そういう手記だったのですね。
そして新津との関係。
う~ん、深雪も、やっぱり男が放ってけないオーラを放っている女のようですね。
真もそうだけど。
この深雪と真はどう考えてもベストカップルだと思うんだけど・・・。そう、竹流がいない世界で出会ってたらね。

私も夕さんと同じで。竹流がいるから……というならあきらめもつくけど、なんで他の女性なんだ><と、思ってしまった。
でもそれが運命なのかなあ・・・。

lime #GCA3nAmE | URL | 2016/04/06 18:14 [edit]


なるほど

更新、お疲れ様でした。

プラネタリウムという言葉に、妙に反応してしまいました。
今なら家庭用のプラネタリウムも安価で手に入る玩具になってしまいましたが、たぶん御作の時代背景なら、そうとうなシロモノだったはず。それを部屋で投影するとか、もう素敵ですねぇ。

さて本編。
ああもう、真と深雪のいちゃいちゃぶりが、なんだかなぁって感じですね。かつて関係があった頃の方が、むしろ淡々としていたような気がします。もう戻れないとわかったときに、相手がどれほど大切な人だったかもわかるんですね。
戦争のもたらした悲劇、時代に弄ばれたロシア皇女。澤田は取材を通じてジャーナリズムの限界を感じ、自分自身がなにかを変えようと、その力を手に入れようとしたのでしょうか。
新津と深雪の関係も、もっと違った形であったら、と思ってしまいます。
もっとも、真と深雪の出会いについては、タイミングや状況が違っていても、はたして彼女の救いになりえたのかどうか……そんな気がします。

どうでもいいことですが、やはり台風が来ると飛行機が飛べないとか?
いや、ほんとうにどうでもいいですね(笑)
次話も楽しみにしています。

TOM-F #V5TnqLKM | URL | 2016/04/06 18:52 [edit]


夕さん、ありがとうございます(^^)

夕さん、お帰りになられてさっそくにありがとうございます!
そうなんですよね。巡り合わせって、やっぱりちょっと難しい。ベストカップルがベストのタイミングとシチュエーションで出会えるかというとそういうわけでもないんですよね。以前勤めていた職場で、すごく雰囲気のいい先輩の男女がいて、男性の方には妻子がいたのでそこは落ち着くわけはなかったんだけれど、周囲の人たちは「出会う順番が違っていたらね~」とよく言っていました。その後その女性は別の人と結婚したけれど、ふむ。それが人生ってやつでしょうか。
竹流は、自分でもちゃんとけしかけていましたから(深雪と付き合っていることを止めなかったし、しかも手を引く準備していましたから……)、深雪とのことは認めていたみたいなんですけれど。
昔、友人が言っていましたが、結婚はフィーリングよりもタイミング、と。ほんとに、タイミング、大事ですね。
真の結婚も、結局のところはタイミングだったかも。いや、竹流とラブラブで突き進んでいたら、結婚なんてしなかったと思うけれど、これもまたそう一筋縄でいかないものなんですね。でもここで二人が上手くいっていたら、詩織とかロレンツォはこの世にいないし……(あわわ)
真の嫁は悪妻ですが、根性の入った女なので、だからこそ命を先につないでいってくれたのかもしれません。真と深雪って、ちょっと似たもの同士だしなぁ。
ということで、人生って上手くいかないものですね、でもだからこそ楽しい、というお話でした^^;

> あ〜、ところで京都に行くのはまだ先かな……こんなにしんみりしているところを急がせるのもなんですけれど。
あ~、いつもありがとうございます。そうそう、さっさと京都に行かんかい!ってことですよね。最後の方はもう、好きにして!ってことになりますので、もう少しお待ちくださいませ(^^)
コメントありがとうございました!!

彩洋→夕さん #nLQskDKw | URL | 2016/04/06 20:31 [edit]


limeさん、ありがとうございます(^^)

いや~、本当に、この話って長すぎますよね。いや、もちろん、私がアップするスピードが遅いってのが問題だし、本でめくって読んだらそんなにも長く感じないところもあるんですけれど、ブログではそんなにもうまくいかないし。
でももともとこのお話はそこ(新津の事件)から始まっていますので、この件を片付けないと、真も京都に行くってわけには行きませんしね^^; 
貸金庫の鍵、真ったら、ずっとずっと前、つまり第1節で深雪からあづかっていたんですよね。どんなに長い伏線だったんだか。そう、大事なものは結構身近にあったりするんですよね。もう自分の手の中にあるのに気が付かない、そういうものなのかも。
忘れていても、深雪と澤田の話を聞いていただいたら、なんとな~く思い出していただける、かな? まぁ、その辺りはさらり~と流していただいて、その後のラブラブな二人を??(だから、そういう話じゃないって!)

> う~ん、深雪も、やっぱり男が放ってけないオーラを放っている女のようですね。
> 真もそうだけど。
あ~、さらりと読み流しましたが、あとでちょっとどきっとしました。えっと~、男が放っておけないオーラ、に「も」がかかっています? いや、そうかぁ。あれ? そうなんだっけ? と書いている本人がドキドキ^^;
いや、真って、年上の男にご飯を奢ってもらいやすい傾向にあるのかなぁ、と。何でだろ? 「放っておいたらちゃんとご飯を食べないオーラ」を放っているのかも。
深雪は、商売柄、意識的に身に着けたものもあるのかもしれないと思うのですよね~
でも似た者同士って必ずしもいいカップルかどうかは分かりませんしね(って、なんで逆らう?)。真の嫁は、真とは正反対の根性の入った女なので、その底力が彼らの家系を先へとつなげていったのかもと思っています。慎一はその息子だけれど、折れそうで絶対に折れないタイプ。真だけの血だったら、あの底力は生まれなかったかな~
だから、お話的にも相手は深雪ではだめだったのかもしれません。でもね、これって、結局、真は振られたんじゃないのかな?

さて、あともう少しです。最後の方はもう、いちゃいちゃしてる? 二人の話ですから、後しばらくは物語のオチにお付き合いくださいませ。コメントありがとうございました!!

彩洋→limeさん #nLQskDKw | URL | 2016/04/06 21:55 [edit]


TOM-Fさん、ありがとうございます(^^)

> プラネタリウムという言葉に、妙に反応してしまいました。
あ、嬉しいです(^^) この功のプラネタリウムのネタ、結構気に入っていまして。そもそも苛められっ子の真にとっては、功の作ってくれるおもちゃは大事なものばかり。真が工学部に一応進んだのも、ロケットを飛ばしたいと思っていたのも、全部功の影響ですから。功は本当に、脳外科医だけあって、手先が器用で、本当なら医者になるよりもJAXAに勤めたかったのかも。そう、この時代ですからね、相当の知識と工学的技術がないと、なのですけれど、もともと功は宇宙工学系からの転向組ですから……
真が最後にりぃさに会った後、彼女の部屋から帰ってきて、胃潰瘍でぶっ倒れる前に功のプラネタリウムを点すというシーンが結構気に入っていて。
で! 実は、次作ではこのプラネタリウムが小道具として大活躍。正確にはプラネタリウムの設計図なんですけれど。
またお楽しみに!(いつごろアップできるのかしら)

そうそう、身体の関係がメインの時は、会ってもそっちばっかりになっちゃって、人間関係としては足りないところだらけなのかしら。で、身体の関係が無くなった方が、もっと大事なものが見えてくるのかも。
澤田の人生もこれから動くみたいです。その動きもちゃんと書かないとこの話は終わらないし(でももともと死ぬはずだった予定の澤田は大躍進?)、あと少しお付き合いくださいませね。
そして深雪は、新津とも真ともタイミングを外したけれど、これから別の人生を生き切るのじゃないかと思います。うん、真が深雪を救えたかというとそれはなかったかもしれませんね。彼女はきっと自分で自分を救うことになると思うのです。

> どうでもいいことですが、やはり台風が来ると飛行機が飛べないとか?
> いや、ほんとうにどうでもいいですね(笑)
あ、ここにも京都のことを心配してくださる人が^^; えっと、飛行機ね、なんかミッションがあって、そう簡単には飛び立たないのかも? あのマフィアのドン氏はラピュタの木みたいなものですから……
引き続きよろしくお願いいたします!
コメントありがとうございました!!

彩洋→TOM-Fさん #nLQskDKw | URL | 2016/04/06 22:22 [edit]


うんうん。そうかそうか。聞いてあげよう、見届けてあげよう。
↑もう、爺さん化してます私(^^;)
しみじみとした会話、描写がゆっくりとスクリーンを動かしていきます。
プラネタリウムの中に隠してあったなんて・・・

貸金庫の中身は、もっとあっさりとした、それを一目見るだけですべてがわかる的なものがあるのかと思っていました。膨大なものがあったのですね。
記録、それって、どんなものでも凄いなあって思うんです。残ること残すこと、大変ですね。(話ずれましたが -_-;)

一目逢った時、引かれた二人。ここに来てこれで終わりだということも言わずしてわかるのね。言葉でないところで会話するのがありだよね、って大海さんの物語を見るといつも思います。

けい #- | URL | 2016/04/08 11:34 [edit]


けいさん、ありがとうございます(^^)

わ~い、じいちゃん、聞いてやってね、見届けてやってね!(って、なんか、マコトのじいちゃんみたいになってきた?)
というのはさておき、この話の後半というのか、ラスト部分は会話が多いですね。いや、会話というより、語りというのか、民謡的に言うと口説きですね。人生って、ほんと、色々あるんだよって感じで。本来ならあんまり語らない方がかっこいいのかもしれないのですが、ここはもう、お話ですから語って頂かないと困るので、いっぱいいっぱい語ってもらおうと思いますので、最後まで見留めてやってくださいね!
そうそう、プラネタリウム、真にとっては一番大事なものですから、この中が一番安心という心理が自然に働いたのかもしれません。

貸金庫の中に入っているもので、一番大事なものはもちろん絵なのですが、ここは深雪と澤田の物語の要になりますので、じつはあれこれいっぱい入っていた、と。深雪はこの鍵を新津に貰ってから一度も開けてなかったんですよね。きっと怖いという気持ちの方が大きくて。でもこうして大事なものを目にすることができて良かったです(^^)
あ、まだ続きがあるのだった。
記録、そうですよね、形にして残しておくことってとても大事ですよね。記憶はやっぱり薄れていくけれど、記録を読み返していたら、蘇ってくるものがいっぱいあります。

> 一目逢った時、引かれた二人。ここに来てこれで終わりだということも言わずしてわかるのね。言葉でないところで会話するのがありだよね、って大海さんの物語を見るといつも思います。
そうなんですよね。言葉にできない部分で通じ合っていたら、結局終わりの時も感じちゃうんですよね。あ、この女はもう俺をみてないなって、真はちゃんと分かってる。深雪は始めから分かっていたと思うけれど。分かりあい過ぎちゃうってのも問題なのかもしれませんね。知らない方がのめり込めることもある、と。
というわけで、後半もよろしくお付き合いくださいませ(^^)
コメントありがとうございました!!

彩洋→けいさん #nLQskDKw | URL | 2016/04/09 01:15 [edit]

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