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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

【雑記・徒然】切り取ったことば(言霊)たち~命を想う~ 

折々のことば
お盆・75年目の終戦記念日なので、それらしいことを書こうかとも思ったのですが、ぼんやりしていたら過ぎてしまったので、関係あるような無いようなことを。

朝日新聞の「折々のことば」を、気に入ったときに切り抜いておいてあります。
スクラップとか面倒くさいし、それが丁度、4つ入りの高級チョコの箱にぴったりなので、そこにストックしてあります。
順番とか考えずに入れてあるのですが、一応いつのものかは記事中に日付が書いてあるので分かります。一番古そうな日付は2015年になっているから、かれこれ5年くらいで2箱がいっぱいくらい。多いのか少ないのか、でも、その時々に気になる言葉がやっぱりあるのだなぁと思います。しみじみ見返すことは少ないけれど。
もうすぐ3箱目が要りそうだから、チョコレート買いに行かなくちゃ……((^∀^*))(ん?)

と言うわけで、最近、気になって切り抜いた言葉たちをご紹介。
あ、その前に、最近、ようやく読もうと思った葉室麟さん、そのガイド的な本からの言葉を。

「昔と現代を比較すると、多分、命の重さに違いがあるのでしょう。現代は人ひとりの命が重いという感覚がありますけれど、昔は、比べると今より軽いものだったように思います。死に対してもう少し馴染みがあったり、親しみがあったり、自分たちの生の延長上にあると思っていたのではないでしょうか。人は、それなりに働いて、最後に成仏していきます。つまり、ある種の役割を果たして、何者かになっていく過程の果てが”死”だったと僕は思います。
現代は”死”というものが疎外されて、自分たちから遠ざけられようとしています。若いということに価値を置いて、年を取るに従って価値はなくなり、その行く末である”死”は、無価値だという考え方をする人が増えているように思います。しかし、死ぬということは、生きていたという証。だから、自分自身が『ちゃんと生きてきた』といえるのであれば、『死もまた良し』です。私くらいの年齢になると、ふっとそう思うことがあります。『もう、このまま何もしないでいいのだ、すべての義務からも解放されるのだ』と考えるわけです。」


その葉室さんは66歳という若さで亡くなられたのですが、50を過ぎたら、こういうこと、言葉じゃなくても体感するんですよね。
命は重いけれど、ある程度の歳になると、そうでもないんじゃないかと思い始める。軽い、と言ったら、言葉尻を捉えてあれこれ言う人がいるから、言いにくいけれど、実感としてそうなのです。でも、ここで葉室さんが「軽い」という言葉にこめて仰っているのは(そして、私が言いたいのは)、命が大事じゃないってことじゃないのです。
ごく自然、生物学的に、生と死とはそういうものだという妙な達観がどこかに生まれてくる。

 もちろん、親しい人の病気や死は悲しいし辛いし怖い。でも、それは生命あるものとして生まれてきたからには、当たり前にあることだと思える。中には、理不尽な死もあるから、それについてはいつも納得できなくてウダウダ思うけれど、それは家族や社会という集団の中で生きているなら当たり前の気持ちですよね。
ゾウが死んでしまった仲間の死を悼むような行動を取るのは以前から知られていたけれど、最近、ゾウだけではなく、肉食動物も他の草食動物にも同じような行動が観察され始めているから(じっくり死を悼むには彼らの環境は過酷すぎる。人間がそんなシーンになかなか出逢えないだけなのでしょうね)、これは生命あるもの共通の感覚なんですね。

 話は逸れたけれど、つまり、悲しいけれど、避けられないものとは知っているのが「死」。どこかで途切れるのは「自然(じねん)の理」だと分かっている。自分については、どうなるのかなぁというのはあるし、死に方はあれこれ(痛いのはイヤだなぁとか)思うけれど、死後のことは「まぁ、いいか」って。きっと、多くの人はそうなんでしょう。怖いのは「死」ではなくて「死ぬ過程」についての不安なのではないかと思うのです。
そういうことを考え始めると、こうして「切り抜いておいておく言葉」にもそういう系統のものが増え始めたりする。

折々の言葉2

死の意識とは、死の日づけを本質的に知らないままに、死を絶えず繰り延べる意識である。
(エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』から)
言葉に添えられた文章→「犬が逝った。彼女はやがて身に起こる事態がどういうものか知らないまま、従順に死の訪れに呑み込まれたように見えた。人は死を、いつか身に降りかかるものとして意識する。そういう形で、不在の未来を存在の内に組み入れ、死をまだないものして「遅らせる」ことで、時間という次元を開くのだと、20世紀のフランスの哲学者は言う。」

ある患者さんの家族の言葉。
「いつか来ると分かっていたけれど、そういう日(いつか来ると思い続ける日)がずっと続くのだと思っていた。それが今日だとは」
こどもの頃から病気があり、何回も手術を受け、そのたびに「こんなリスクがあって死ぬこともある」なんて話を聞かされていたら(でも医療者側からすると、話しておかないと後から「聞いてなかった」ということになるわけで、言わざるを得ないのが現代)、いつも死はそのドアの向こうに「在る」と感じる。手術室に入るたびにその「境」を越えるような気持ちになる。
それは、観念の中の「あちら側」ではなくて、地続きの「あちら側」なのですね。

そういえば、飛鳥でもエジプトでも、自分たちが住んでいる場所の続きに「この境界のむこうはあの世」という場所があった。エジプトではナイルの対岸、飛鳥ではある石のオブジェが区切る向こう。
それほどに、「いつか来る日」「あちら側」はごく身近にあったのです。今は、無理矢理遠ざけられて見えないようにされていることが多すぎないかと、そう思って逆に不安になったりします。

緩和医療というのが、もてはやされているけれど、そしてその結論のひとつは「死を意識することは、今生きている意味を問い直すこと」ということになるのだけれど、脳梗塞で自由が利かない超後期高齢者の父、その父を家で介護している母を見ていると、この時間・空間の続きに「あちら側」があるのだと、自然に納得は出来る。
でも、現実にその日が来たら言うのでしょうけれど。
「それが今日とは思わなかった」

ところで、この添え文の中の「彼女はやがて身に起こる事態がどういうものか知らないまま、従順に死の訪れに呑み込まれたように見えた。」というところ。
この感覚は、ものすごく理解できる気がする。これ、以前にも書いたように、『戦争と平和』のアンドレイ公爵の死のシーンが、高校生の私が死に対して抱いていた疑問に答えの一部をくれた、という内容にほぼ合致している気がします。『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーの死のシーンも同じようなイメージだった。
自分自身はその「身に起こる事態」を体験していないので、もしかすると完全な理解とは言えないかも知れないけれど、「逆の体験」はあるのです。それもものすごく明確に覚えている。
「逆の体験」の感覚が今も残っているから、反対にこちら側からあちら側に行くときには、その逆の現象が起こるのだろうと思っているのです。


自分の皮膚の壁を感じた-私は私なのだ、と。あの石ころは石ころなのだ、と。
(シルヴィア・プラス「オーシャン1212-W」から)
言葉に添えられた文章→「母と自然。その『心優しい宇宙の中心』であった少女はある日、”第三者”になる。弟の誕生。それが私と世界の一体感を裂いて、私を『除け者』に、『悲しい海胆(ウニ)』にしたと、米国の詩人は回想する。人は世界が自分とは別のものとしてあるという事実に傷つくことから、その生を始める。」

実は私は、全然傷ついてはいなかったので(弟が生まれても、そんなふうには思わなかったので)、それは悲しいとか傷つくとかいう体験ではなかったのですが、「その日」のことは、明瞭に覚えているのです。
当時、私は幼稚園くらいだったのか、祖父母や両親・弟・叔母たちと一緒に暮らしていた「母屋」と、そこから歩いて10分ほどの(子どもにはもっとかかる)の場所にある両親の「仕事場」(温室、当時7つくらいあったかなぁ)とを往復して生活していました。弟は「跡取り息子」なので、ずっと母屋で暮らしていましたけれど(拗ねてはいない(*^_^*) それはそれで面白かったから。父に雪兎を作ってもらって、ウサギさん寒いからと言って、温室に入れちゃったりね。「ウサギさん、いなくなった~(つД`)ノ」って。そりゃそうだ)。

夜は温室の管理があるので、両親と一緒に仕事場に戻って、事務所兼小屋のような建物に寝ていたのです(ちなみに、トイレは家の外の、くら~いこわ~い林の脇にあって、とてもひとりでは行けない。もちろんくみ取り(*^_^*) あ、母屋もくみ取り+五右衛門風呂でしたけどね~)。
ある日の夜、父は出かけていて、母とふたり「小屋」にいたのですが、母が何かを取りに母屋に行かなければならなくなりました。「一緒に行こう」と言われたのですが、何かに夢中になっていた私はひとりで待っておくことにしたのです。
ところが、母が出かけてから、突然不安になったのですね。何しろ、当時は周辺はほぼ田畑で、夜ともなると、暗くて人気もない場所。雉も歩いていたようなところです。
母を追いかけようと小屋を出て、心細い街灯しかない闇の中、毎日幼稚園に行くにも、お菓子を買いに行くにも、母屋に行くにも通る、登り慣れた坂道を上がっているとき、急に、世界が「私から離れた」のです。

その時のことは今でも鮮明に覚えていて(同時期の記憶など他にはほとんどないのに)、これを言葉で言い表わすのはすごく難しいのですが、まさに「皮膚感覚」だったかも。
この世界にある全てのもの、周囲の人々、それだけではなく、母屋の暗い廊下を曲がった先にある「何か」とか、屋根裏に積まれた藁の影にいる「何か」とか、トイレの隅っこに積まれたちり紙(たまに新聞紙^^;)の影にいる「なにか」とか、そういうものでさえ、私とつながった一部だったのに、いえ、私がその大きな世界の中に取り込まれている一部だったのに、急にそこから放り出されて、それらと自分は別物だという感覚になった。自分の皮膚で、世界とは「境」されていると理解したのですね。
こういうのは、よく、母親の子宮から出てへその緒を切られたときのこととしてたとえられますが、その追体験みたいなものだったのでしょうか。

その坂は、今でもしばしば登りますが、あの時と同じような坂に見えることはありません。子どもの目線からの坂は、巨大なものでしたが、大人になってみたら、視点が変わってしまったからかも知れません。
そういえば、この坂はその後、夢の中にも何回も出てくるのですけれど、夢が記憶の整理なのだとしたら、やはり、あの場所に私にとっての「境」があったのかも。その時が、自分自身の「誕生」の時だったのでしょうか。
そして、ふと思うのです。「死」は、今度は自分の外の世界、町や建物や植物たち、そういうものだけではなく、目に見えない「陰に居る何か」も含めて、この世界の全ての構成要素と、こんどは境がなくなっていってつながっていく、もう一度切り離される前のところへ戻っていく、取り込まれていくことなのかもしれないと。
そうであれば、葉室さんの仰るとおり、「死もまた、良し」といえるのかもしれないな、と少し思ったりするのでした。


もうひとつ、この時期にはいつも境の向こうへ行ってしまった人たちを思うと同時に、血縁があろうがなかろうが、この今へ「何か」を繋いでくれた人たちを思います。
私が初めて「ひめゆりの塔」を訪れたとき、そこに語りべの方がおられて、当時のお話をしてくださいました。
その時、私が真っ先に思ったこと。
「生きていてくださってありがとう」
これは頭を使って言葉になったのではなく、どこから湧き出すように感じた想いなのでした。

君という美しい命は、未曾有の戦災をかろうじてくぐり抜けた人、その人を守り支えた誰かの先に、偶然のように灯された一閃の光だ
(「暮しの手帖」編集長・澤田康彦)
言葉に添えられた文章→「暮しの手帖社が一昨年(2018年)、戦争体験の手記を募り、編んだ『戦中・戦後の暮らしの記録』の序文から。戦死者や被災面積の『数』ではなく、出征した肉親への祈り、教師の鉄拳の硬さ、機銃掃射の恐怖、戦争孤児の思い。それらを生き抜いた人がいるから今を生きる人もある。この本には戦争体験者の『遺言状にさえ似た』言葉が連なる。」


長くなってきたので、最後に、私がすごく気に入っている言葉をひとつ。
2017年11月27日の折々のことばから。

「君ハドコノネコデスカ」
「カドノ湯屋の玉デス、ドウゾ、ヨロシク」

(大佛次郎、随筆集『猫のいる日々』から)
言葉に添えられた文章→「猫を人の家に放り込んで去る輩がいる。可哀想と引き取ってとうとう14匹に。それに匿名のお願いの手紙が付いていたりすると、その偽善に腹が立つ。よく庭に遊びに来る小猫にある日、『君ハドコノ……』と荷札に書いて付けたら、次に遊びに来た時、荷札にきちんと返事が書いてあった。『この世に生きる人間の作法、かくありたい』と作家は記す。」

時々、訪問するお気に入りの猫ブログさんがあるのですが、その動画がすごくいいんです。
何が良いって、飼い主家族さんたちの声が入っているのですけれど「わ~、なにそれ~、もう、ほんと可愛い~」って(*^_^*) 5匹くらい飼っておられるのかな。もう全然ふてぶてしいくらい大きくなった猫さんたちもいますが、いちいち、家族みんなが猫の行動に大はしゃぎされているのです。

猫は何にも囚われずにそこにいて、好きなことをして、好きなところへ行くのだけれど、リアルには出会わない人同士が共有する感情の橋渡しをする。その時、この飼い主さんが、猫さんをどれくらい大事に思っているか、それが伝わってくることが嬉しいのです。
荷札の返事からは、この子がそちらにお邪魔しているようですがかわいがってやってね、という飼い主さんの愛情の片鱗が感じられます。「作法」とは、思いやりであって、想像力なのでしょうね。乱暴なことばや、想いのないことばは、顔が見えないだけに、慎まなければならない、そう思うのでした。


 「切り取った言葉たち」シリーズ。またいつか。
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Category: あれこれ

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コメント


いろいろ考えさせられる記事でした。
命の重さ。すごく共感できます。これについては語れば語るほど、誤解を生みそうで怖いのですが、歳を重ねると、枯れ葉が最後の葉を落とすように、それを自然に受け入れられたら一番の幸せだなあとか、そのために残りの日々を、自分に嘘のないように生きたいなとか、そんな事をよく考えてしまいます。

この時期、Twitterのタイムラインにはやはり戦争にまつわる話が沢山出てきます。今さらながら、ハッとするような感覚に嵌ることが沢山あります。
日本人は、今まで本当にちゃんと過去の過ちに向き合って来たのかな。被害者意識だけを植え付けられてきたのではないだろうか、とか。
政治の事、戦争の事、日韓の事、コロナ対策の事、よく娘と話し合います。
何かを教えられれば、とおもって話していても、逆に娘から「その考えは一方的かもよ」と指摘されることもあり、ハッとしたり、嬉しくなったり。
若い世代が、マスコミが流す情報を鵜呑みにするだけでなく、本当の意味でバランスの取れた感覚を身に着けて行ってくれることが、この時代は何より大事だなあと感じました。

ああ~、また少し話がそれてしまいました。
猫ちゃんの荷札のお手紙。ほっこりしました。人間の作法も、一体何が正しいのかが分かりにくいこういう時代、ますます重要になってくるような気がします。

長々と失礼しました。
最近BTS(オタ)活に時間を取りすぎてて、あまり文章を書いていないので、文章力が低下して困っています。リハビリしなければ……

lime #GCA3nAmE | URL | 2020/08/18 16:32 [edit]


limeさん、ありがとうございます(^^)

limeさん、暑い毎日、いかがお過ごしですか? ほんとに、体温以上の毎日ってv-12
このところ、命についてってあれこれ突き詰めて考えることがあって、だんだん分からなくなってきました。最近そういう「考えれば考えるほど分からなくなっていく」というのか「考えれば考えるほど(黒か白かって)答えを出したらいけないんじゃないか」ということが多くなってきたような気がします。自分が仕事上、テーマとしてやって来たことも、話が大きくなってきて、いざ提言やらガイドラインなんかを作っていく段階になったら、全部が嘘っぽく思えてきて。死もそうですが、誰かの生き方に関わることとなると、答えを出して、答えを示すようなことを言ってしまったら、その段階ですべて嘘になるような気がしているのです。

あ~、なんか訳の分からないことを言っていますが……こんなふうに、長く生きていると、世の中って白と黒じゃなくてグレイばかりなんだって、そして、それでいいと思えるようになってきました。言葉であれこれ分かっていたこと、それが体感というのか、肌で感じるようになってきたというのが、歳を重ねた結果なら、それはそれで幸せという気もします。
まさに、limeさんおっしゃるとおり、受け入れることができるようになっていくのかもなぁと思うんですよね。
命の意味合いとか、積み重ねてきたものというのは、歳とともに失われていくことはありませんものね。父が倒れたとき、医者は「この歳だし、まぁもう諦めても良いでしょう」と言葉には出さないまでも気配を出していましたが、思わず「こっちの予定では90までは生きると思うので」とか言っちゃって、母のほうがびっくりしていました。よりによって私が言ったから……^^; 父があの状況を生き抜いたのは、奇跡とかじゃなくて、それが父の命の「自然な流れ」だったからだと思います。

limeさんはオタクおっかけ(*^_^*)の対象が韓国のグループで、彼らの発信することとかも含めて、色々影響を受けられたんじゃないでしょうか(VIVA! 追っかけ!)。私も、今一番応援している(そして鍵盤になりたい←ほんと、おバカ^^;)ピアニストさんが韓国の人なので、改めて、日韓に何かあったらいやだ~とか思っています。過去のこと、本当に、正しく学ぶことが必要ですね。
そして、娘さんと色々話をされることも増えて……娘さんのほうから教えられることも増えて。素敵だなぁと思います。今日も、同僚と話してたんですが、ほんとに子どもって時々びっくりするようなこと言うよねって。大人がちゃんと本気で向き合っていたら、少々難しいんじゃないかと思うことでも、ちゃんと理解して自分で答えを出していくんですよね。って、もう娘さんは立派な大人になられているので、これからますます色んな話をするのが楽しみですね。

ねこちゃんの荷札。エピソードのお洒落さもだし、匿名だからって何をしても・言っても良いって思っている人が増えているんじゃないかという現状に対する抗議。丁寧に、心を込めて対応していきたいですね!
あ。文章力……わかります。文章を書くって、ほんと、筋トレ。サボったらすぐ筋肉が落ちちゃう。
次こそは、小説をアップするぞ!
コメントありがとうございました!!

彩洋→limeさん #XbDIe7/I | URL | 2020/08/19 00:43 [edit]


うん、これはお盆にふさわしい記事ですね。
なんだかね、終戦の日がお盆だなんて、偶然にしては出来すぎだよなぁと思います。やはり、命というようなことを考えざるをえませんよね。

「死」については、何を書いても誤解を生じそうで筆が鈍りますが、ひとつだけ言えることは、ある年齢を超えると自分の意識がカウントダウンに切り替わる、ということですね。これから何を為すかではなく、その時までに何を為せるのか、という感じでしょうか。一休禅師の言葉、思い出すなぁ。
そして、他者の「死」に触れたときに自身の「生」を思う、ということは今までに何回も経験しました。誤解を恐れずに言えば、誰かの葬式に参列したときが、どんなときより自分が生きているということを実感するんですよね。
ただそれは、いつか自分も死ぬということではなく、生きている間に何かしないと、という感覚です。
はい、前述の話と繋がりました。よっしゃ(何が?)

話は変わりますが、じつは私が幼少期に育った環境(主に家屋の構造と配置)も、大海彩洋さんの幼少期とよく似ていいました。南部曲がり家のような母屋と納屋と馬小屋があって、トイレは敷地の端っこに独立して建っている(無論ボットン) 夜に行くの、怖かったなぁ。今から思えば、きっとそこらじゅうに、この世の者ならざる者が跳梁跋扈していたんでしょうね。
もっとも私は、子どものころから鈍感でして、大海彩洋さんのような「感覚」は全くなかったんですけどね。それが幸運なことなのか、不運なことなのか、わかりませんが。

TOM-F #V5TnqLKM | URL | 2020/08/19 20:01 [edit]


TOM-Fさん、ありがとうございます(^^)

実は、もっと色んな内容の切り抜きがありまして、本当はごちゃ混ぜにして記事を書こうかと思ったのですが、長くなってまとまりがつかなさそうだったので、この話題にまとめちゃいました。また、次回はいろんなのを取り混ぜて、記事にしようと思います(*^_^*) でも、お盆になると、そして終戦記念日になると、やっぱりこの時くらいは、色々考えますよね。

このところ、死生学の勉強をしていて(仕事絡みではあるのですけれど)、どういう方向へ向かうべきなのか、考えをまとめていったらいいのか、惑っていたりします。だって、「いつか行く道とは聞いていたけれど」ってやつですよね。一生に一度しか(蘇った人もいるかもしれんけれど^^;)経験しないことだから、想像の世界でしかないし、何を語っても、疑いというのか、疑問というのか、不明点というのか、が残ってしまって、それを解決する方法もない、というものですよね。

しばしば書いちゃってますが、アンドレイ公爵の死のシーンで、高校生の自分としてはある程度得心がいったような気がしています。それまで「死」ってけっこう劇的な描かれ方をしたものを見てきたけれど、それって、残された者から見た死なのですね。でも当事者はどうなんだろう。もちろん理不尽に断ち切られた死については別の話になるかも知れませんが、何というのか、当事者はこんなふうにこの世と離れていくのだなというのが、まぁ、ほんとに長々と書いてありまして。それまでの人生の劇的な部分も、付きもが落ちるようにさらっと薄れていくみたいな。トルストイ、一回あっちに行ったのかと思うような……でも、これで何だか心の準備が出来たような気がしていたのです(って、早すぎるかな。でも、高校生のころって、一度は考えますよね)。

でも、TOM-Fさん仰るとおり、まさに、半世紀過ぎると、「逆算」しはじめますよね。
これって、その年にならないと分からないんですよね。少なくとも40台までは、人生ってただ未来に向かってのびている(それが明るいか暗いかは別にして)感じだけれど、ある時点から、終点を計算して反対から見るようになるんだなぁと、実感しました。この実感、上手く若い人には説明できないし、少なくとも過去の自分も「聞いた話だけれど、意味分からん」状態だったし。
「死」に触れたときに最も「生」を感じる、その逆説も、ほんとにその通りですね。慣れることはないけれど、だんだんそれが当たり前に思えてくる。いずれ自分もそこへ取り込まれていくという心の準備もできてきて……お葬式って、確かに、こちらとあちらの境を妙に感じる一時なのかも知れませんね。
あの世があるとは信じていないけれど、もしかしてあるのなら、そこで会いたいというのか、ちょっと聞きたいことがあるからそこで待っといてくれと思っている人が何人もいて。だんだん増えていくと、そっちへ行くのが楽しみにさえなるのかなぁ。
でもまぁ、この話は、語れば語るほど自分でも分からなくなっていくので、ほどほどにするのがいいのかもしれませんね。

幼少期の家、今の実家の近くではありますが、もうそこは別の建物が建っています。でも、近くなので、そこを通ると、妙な感覚が戻ってきます。母屋のほうは、広い土間があって、屋根裏にはハシゴをかけて昇って、座敷の隅には誰かがいて(普通に)、五右衛門風呂は大人と一緒に入らないと、上手く板を沈められなかったり。母屋の方のトイレは一応家の中だったのですが、暗い廊下の先だったり。仕事場の方は、ほんとにオカルトワールドだったなぁ。今はそちらに実家の建物が建っています。
そうそう、こういうのを体験している世代ももうそこそこの歳になってきていて、まぁ、同年代でも、五右衛門風呂なんて知らんと言う人も多いんですよね。語り始めたら止まりませんね(*^_^*)
あれこれ、話題が尽きませぬ。
コメントありがとうございました!!

彩洋→TOM-Fさん #nLQskDKw | URL | 2020/08/20 01:02 [edit]


死神さんが身近だったんでしょうね

 七五三を祝うのは、そこまで生きられる子供が少なかった名残であります。今と違って栄養状態も衛生環境も医療体制も劣悪だった昔、子供は育たなくて当然な存在だった訳です。だから下手な鉄砲も数撃ちゃなんとやらで多産だった訳です。大人になったからって安心できません。伝染病がちょいと流行ればその辺に死人がゴロゴロするわけですし、ちょいと長雨日照りで明日口にする食べ物すらなくなりますし、戦が起きれば葱か何かの様にバタバタと・・・な環境ですから、いつ自分がコロッと逝くか知らん。だから当時の人々は命の単位が=自分ではなく、=家と大きな枠の中で生きていたんじゃないかと思います。
 戦国武将の佐々成政の家族は桶狭間の合戦の際、討ち死に前提の役割を与えられました。そんな酷い命令でも従えたのは、成政に恩賞が与えられ家を繋いでいけると約束されていたからなんですよね。
 源平合戦でも、・・・名前は出てこないんですが(ああ歳は取りたくないもんだorz)一族繁栄の為に討ち死に上等で戦った源氏方の武将の話が有ります。
 命は大切でありながら、しかし一族の為の肥やしになる事も是としていたから、それほど自分の命執着する事も無く、また執着せずとも心安かったのかもしれませんね。

miss.key #eRuZ.D2c | URL | 2020/08/20 07:13 [edit]


こんばんは。

彩洋さんの記事を拝読して思ったのは、サキはあまり語らない方がいいだろうということです。
死について考えることは時々あって、死んだらそこでお終いだから何も心配することは無い!などと見得を切ったりすることもあるのですが、考えは纏まらないというか、考えを深めることを避けようとしてしまいます。
創作の中では一挙に何万人もの命を奪ってしまうこともあるサキなのに、自分の命が失われることを想像すると正直怖いです。

最後、「君ハドコノネコデスカ」でホッコリしました。

つまんないコメントですみません。

山西 サキ #0t8Ai07g | URL | 2020/08/20 19:39 [edit]


こんばんは。

前回と、今回の記事、ちょっぴりだけ、返歌をいただいたのかなあ……みたいに感じながら読んでいたりします。いや、彩洋さんの記事は、私の書いたエッセイなどよりもはるか先をいっているのですけれど……。

生命のシステムってとても不思議で、たぶん中身をよくご存じのお医者様だったら「そもそも、どうやってこんなに長く(何十年も)壊れずに動いてんだ? 1つ間違ったらすぐ壊れそうな物なのに」って思うんじゃないかなと……。

で、若い頃は、ちゃんと機能するのが当然で、壊れるなんてことは想像もできないのが、歳取ってあれこれとガタが来て、しかももう治らないじゃないですか。「吹き出物が治らなくなった」程度のことがいつの間にか始まり、「暗くなると読書がしにくい!」などで愕然とし、そのうちにもっと「えっ。これが動かないと、まずい!」ってものまでだんだんと壊れていき、「そっかー、そろそろあっちへ行く準備かなあ」と理解していくんだなと思っています。

実は、祖父と父が逝った年齢まで、あと10年。「急いていきたしとこでなし」は変わりないですが、でも、「やだ絶対に逝きたくない!」とは思っていない自分もいます。大した苦しみもなくポックリや、眠るように大往生を願ったりはしますが、自分でしょっちゅう書いている通り「そうは問屋が卸さない」ものであることもわかっているので、せいぜい恵まれた人生を歩んでいる間くらいは「善く」生きておこうなどと思ったりしています。

彩洋さんの、原体験、こちら側から切り離される感覚、ある種の宗教的高揚に近いものだったのかもしれませんね。説明のしかたが分からないけれど、肉体と感覚を頼りに繋がっていた世界が、急に別なアンテナを通して捉えられた感じ? 私は3次元までは理解できるのですけれど、もしかしたら4次元、5次元のある全く別の世界が存在していて、そこを垣間見てしまった感じ? ともあれ、1度感じた「あれ」なら、怖がることもないか、そんな風に感じられるのかなあと……。

話は飛びますが、今日散歩の途中に見知らぬ猫ちゃんに引き留められました。「行っちゃダメ、もっと撫でよ」と初対面で命じられ、幸せな時間を過ごして参りました。猫は、いいですよね。飼い主への忠誠心だの、矜恃を持って働くだの、面倒なことは一切無視して、たっぷり遊び、たっぷり寝て、たっぷり下僕に撫でさせて、短い時間を無駄にせずに走り抜く。あらまほしい生き方を横目でみつつ、こちらは小市民人生を続けようかなと思いましたよ。

八少女 夕 #9yMhI49k | URL | 2020/08/21 07:19 [edit]


miss.keyさん、ありがとうございます(^^)

そうですよね。平均寿命は縄文時代で31歳、室町時代でも33歳、江戸時代でやっと45歳、昭和22年で52歳……現在は80歳。
病気や争い、災害、いろいろな背景がありますが、戦争でなくなった人よりも病気や災害でなくなる人の数の方が多いというのがどの時代にも当てはまったようで、そう考えると、ホモサピエンスも案外儚い生き物かも知れません。儚いからこそ、生物はすべからく子孫(種)をいかに多様性を持って存続させるかというためだけに命をかけているはずだったのですが……人類はなぜか、ここに至って妙な方向へ向いているのかも知れませんね。まぁ、でも、広い森の中で単体で生活して、滅多に相手に出逢わず、出逢っても気に入った相手としかつがいにならないパンダのように、それじゃあ自然界では明らかに絶滅危惧種になってもしかたないんでは?と思うような生態の生物もおりますが……かと思ったら、普段は単体でも、あるタイミングでは大集団でお見合いパーティをする生き物もいるし。ほんと奥深い……あれ? 何の話だっけ?

少なくとも生命が常に危機にさらされている、もしくは生存年数が短いとなると、必死になって子孫を残すべく頑張るのかも知れませんが、その場合はひとつの命の重さが軽いのかもしれませんね。価値という意味じゃなくて、生存可能性率の低さという意味の軽さ。ひとりもしくは1匹の生存確率が低ければ、必然的に種を繋ぐ方へベクトルが向いて、群れすなわち家系という単位での生命維持を求めるのでしょうし、ひいては種としての存続をかける、ということになって、「私」というのがひとひとりではなく、群れや種全体の中の一部ということになり……う~ん、これ昆虫見ていると、ある意味ちょっと怖いものが。そう言えばスタートレックボイジャーにそういう全体意識とやらに取り込まれた種族が出てきたなぁ。
あれ? やっぱり、何の話だっけ?
要するにまとまらないのが、この手の話でした^^;
コメントありがとうございました!!

彩洋→miss.keyさん #nLQskDKw | URL | 2020/08/24 02:19 [edit]


サキさん、ありがとうございます(^^、

サキさん、コメントしにくい記事を書いちゃって済みません(>_<)
でもあまり気にしないで下さいませ。そもそも主旨は新聞の切り抜きをこんなふうにストックしてます~みたいなのだったのです。が、なぜか、あまりにもご紹介したい言葉がたくさんあって、テーマを絞ったら、こんなことに。
時期も時期ですからね。そうなります。
一時、メメントモリという言葉が某写真家兼エッセイストの著作にあって、何となく流行っていた様な気がしたのですが(流行っていたのかどうかは未確認。ネットなんて無い時代ですから、興味を持った者だけが流行っていると思っていたのかも)、若いころは、人って何時死ぬか分からんから今を大事に生きようって程度の理解しかありませんでした。でもなんか、この頃は、いちいち考えてても仕方ないし、1日1日その日を向こうへ先送っている間にその日が自然と訪れてくるのだろうというように思うようになりました。まぁ、ある意味達観ですかね~。個人的には孤独死とかを怖いとも思わないし、しかし、家族には迷惑が掛からないようにはせんといかんのねって思っていますが。
でもまぁ、考えても答えが出ないので、地味に、日々を生きていくのが肝要かもしれません(^^)

ねこちゃんのエピソード、いいでしょ(^^) 近所の猫って、時々遊びに来るのもいて、うちの庭でもよく休んでいます。
どこから来たのか、気になりますが、ねこは気ままに生きていますね。
でもこのエピソードは、そこがポイントではないんでしょうけれど^^;
コメントありがとうございました!!
暑い日々が続きますが、サキさんもお体お気をつけて!

彩洋→サキさん #nLQskDKw | URL | 2020/08/29 15:21 [edit]


夕さん、ありがとうございます(^^、

夕さん、そう言えば、レクイエム記事にコメントを書こうと思いながら、すっかりばたばたしていて、日が経っておりました。いやいや、めっそうもない。夕さんのエッセイはもう崇高で、どこから切り込もうかと(えっと、勝負ではなかった)いつも悩んでいる間に、次の週になってしまうという事態になってしまっています。
実は、この記事を書き始めたときは、単に新聞の切り抜きがチョコレートの箱に丁度良いってことを自慢する(なぜ自慢?)だけだったのですが、準備している間に、お盆になり、終戦記念日になったので、こんなふうにまとまってしまいました。切り抜きの言葉には、あまりにも色々なものがあって、テーマを決めないと記事がまとまらなかったという。タイトルも後でくっつけました^^;

でも、夕さんほどの大きな経験もない私ではありますが、大台になると考え方の基本が似通ってくるのかもしれませんね。それに、もともと考えていることがシンクロしていると自然に同じ方向へ流れていくという感じで。

進化の成り立ちを見ていると、自然淘汰とは言いますが、淘汰するためには相当数のトライ&エラーが繰り返したわけで、自然のものすごさはバリエーションのすごさですよね。生物的には、別に人類が生き残る必要も無くて、恐竜でもゴキブリでも細菌でも良いわけで(ウィルスは却下。DNAじゃないから)、ホモ・サピエンスもそのうち絶滅するかも知れないし。壊れるのは、大きな進化の流れの中でも、個体としてでも、同じように必然なんでしょうね。ある意味では、儚く、ある意味では、しぶとい、そんな気がしています。

時々、不老不死のなんちゃらってのが映画や小説に出てくると、大概、その人は孤独になるので、それよりは限りある命を愛する者と共にって落ちになっていますが(そういえばアルウェンも)、短い一生の中でも、時を同じくした人たちがなくなっていくと、自然に準備していく気持ちになるんでしょうかね。
そうそう、最近マイブームの『古代の宇宙人』には、ついに、脳さえあれば身体をすげ替えて、なんて話もされていますが、それはもう御免被る、って感じです。脳を保存されている天才などもいるようですが、そんなの蘇っても迷惑って気がしますし。傷が治りにくくなったり、あれこれ不具合が出るのもまた、我が命ってとこですよね。

親族が亡くなった年齢を超えると、やはりそろそろどうなのかって気持ちになりますよね。うちは大方長生きの人が多かったので、まだあまりピンときていませんが、有名人のなくなった歳を越える度に、あれこれ思います。この歳で、この人はここまでのことをなし得ていたのか、とか、まぁ自分ってやっぱりたいしたことないなぁと思えたり。でも身体だけは確実に老いていく……それを楽しめるようにならなくちゃな。オードリー・ヘップバーンが、歳をとって皺だらけになってもそれを隠すこともせず、老いた顔の皺もまた自分自身といってメディアに出ていたのを思い出します。

あの坂道の体験は、いつか何かの形で書きたいなぁと思っていましたが、あまり尺の長い話でもないので、形に出来るほどでもありませんでした。まぁ、子どもって、3歳までは神の子的扱いを受けますが、要するに、昔で言うと神隠しに遭ったりしても「さもありなん」だったわけで(まぁ、大概は長生きしないし、誘拐だったりするわけでしょうが)、あっちとこっちの境目にいるようなものなんでしょうね。私は3歳よりはもう少し年齢が行っていましたが。
これはまぁ、まさにそこにあるのだけれど見えていない世界、感じることしかできない世界なのかもしれません。でも子どもには(そしてたぶんねこにも)見えいているというのか、その世界の一部であろうってことでしょうね。そこから見ていたこの世界と、この世界に生きている内にこの世界を捉えられるようになった見え方は違っているのかも。五感では感じられない、でも六感やもしかしてそれ以上ではあきらかに現実で。
またそこへ帰っていくんでしょうかね。でもそうだったとして、「やっぱり思ってた通りだったよ!」ってお伝えできないところが残念だけれど^^;

うちのジャングルの木陰を休憩所にしているねこが数匹います。まぁ人間の都合等知ったことではないでしょうね。短い命でしょうけれど、あるがまま、そしてそんなねこたちに翻弄される人間はやっぱり下僕かぁ……
コメントありがとうございました!!

彩洋→夕さん #nLQskDKw | URL | 2020/08/29 16:30 [edit]


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# |  | 2020/10/23 10:16 [edit]

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