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コーヒーにスプーン一杯のミステリーを

オリジナル小説ブログです。目指しているのは死体の転がっていないミステリー(たまに転がりますが)。掌編から長編まで、人の心を見つめながら物語を紡いでいます。カテゴリから入ると、小説を始めから読むことができます。巨石紀行や物語談義などの雑記もお楽しみください(^^)

 

[雨30] 第4章 同居人の失踪(1) 

第3章あらすじ

 竹流の許可のもと、事務所の共同経営者で女子大生の美和は、竹流のマンションに泊まり込んでいる。実は彼女の恋人は事務所のあるビルのオーナーで、ヤクザなのだが現在タイに出張中。
 ある日、真が帰りの遅い美和を待っていると、電話が2本かかってきた。一つは竹流の無事を確認する男からの電話。そしてもうひとつは、真が付き合っている銀座のバーのママ・深雪のパトロンだという噂の代議士・澤田顕一郎の秘書からだった。澤田が真に会いたいと言っているという。
 美和の帰りが遅いので、事務所に行ってみると、事務所は荒らされていて、いくつかのどうでもいいようなフロッピーやテープ類が盗られていた。そこへ、ジャズバーの経営者・田安隆三のところに出入りしていた雑誌記者・楢崎志穂が現れる。先日、いささかけんか腰になっていたことを謝ろうと思っていたという。彼女から、『美和を見かけた、どうやら自分(志穂)と同じ男をつけていたらしい』という話を聞いて、志穂に事情を聞こうとするがはぐらかされる。一体何がどうなっているのかと思いながらマンションに帰ると、美和が戻ってきていた。
 美和は、竹流のところに面会に来ていた男のあとをつけていっていたという。そしてその男から、『下手に関わると危ないから手を引け』と言われたことを告げる。美和はその男と会ったことがあるような気がするのだが思い出せなくて気持ち悪い、と真に告げる。
 ちょっと昔話や恋愛談義(と言っても美和の一方的?)をしながらいいムードになっていた二人だったが、結局何もなく、終ってしまった。いささか美和のご機嫌を損ねてしまったようなのだが……翌日病院に行った真は、竹流に怪我の事情を問い詰めるが、結局相手にされず、何も教えてもらえない。
 事務所に訪ねてきた添島刑事からは、彼女がある筋から特別な仕事を任されていて、どうやらその件に竹流が関わっているらしいことを匂わされる。そして、そこには澤田や深雪も関係しているような気配が…もしかして、竹流の怪我と澤田が関係している? 澤田から接触があれば、知らせてくれと言う添島刑事は、最後にちらりと爆弾発言を残して去っていく。実は、彼女もまた、大和竹流の恋人の一人!
 添島刑事には澤田の秘書から連絡があったことを告げていないのだが、これが糸口かも知れないと思って、真は意を決して、澤田に会うことを決めた。
 一方の美和は、澤田の秘書らしい男が真を迎えに来たことに驚く。自分に何も教えてくれなかった真に憤慨しながらも、事務所の従業員、気の弱いヤクザ志望の宝田三郎、そして少年院上がりの高遠賢二に『真が誘拐されたからさっさと後をつけて』と言い残し、自分は竹流の病院へ。
 竹流は慌てる美和を窘めて、あっさりと受け流す。しかし、帰るふりをして見張っていた美和は、竹流が誰かと電話をしていて、『真が澤田に呼び出されたらしい』などと会話する声を聞いていた。
 やはり、竹流の怪我と、真の恋人・深雪のパトロンである澤田は何か関わっているのだろうか?


あぁ、頑張った。あらすじって大変^^;
では、お楽しみください。




 澤田顕一郎の顔をまともに見るのは初めてだった。テレビや新聞にあれほど出ているのに、できるだけ顔を見ないようにしてきたのだな、と思うと、どう言い訳してもやはり深雪の事で自分はこの男を恐れていたのだろうと思えてくる。
 真は澤田の秘書、嵜山の先導で静かな赤坂の路地の奥へ進み、一軒の料亭の暖簾をくぐって、心得たような女将と思われる上品な女性の案内で部屋に通された。
 綺麗に木々を剪定した中庭に面した縁側を歩くと、板の軋みを身体に感じる。やがて案内の女将がすっと優雅に座り、障子を開けると、六畳ほどの部屋でその男が真を待っていた。

 澤田顕一郎は座敷机の向こうに座っていて、ゆったりとした態度で真を迎えた。澤田の後ろの床の間に、掛軸の太い文字が立派な背景をつけている。
 覚悟はできていたつもりだったが、いざ本人を目の前にしてみると、一瞬にしても自分の手を握りしめていた。
 澤田が政治家としてどういうタイプの人間か、ある程度は分かっている。攻撃的、というほどではないが、尋ねられると是非をはっきりと言うタイプだったが、さすがに政治家だけあって、玉虫色の部分もきちんと使い分けていた。出世を考えていないのか、与党の中であまり派閥をはっきりさせずにグレイで通しているが、現首相のご意見番の一人と言われている。政治評論家やマスコミの一部が彼をじき将来の首相候補と言っているが、大きな派閥の後ろ盾もないので、それは無理だろうという意見が大勢だ。澤田はそういうことにはノーコメントで、聞かれない限りは自分の方から何かを強くアピールする気配はない。むしろ地域密着型、という姿勢を大事にしているのか、地元での人気は高いとも聞いている。
 だが、真にとっても、深雪の事が無ければ特に注目する政治家ではないはずだった。逆に深雪の事があって、直視するのを避けていたくらいだ。

 深いグレイのスーツに臙脂のネクタイを締めており、その髪には白いものが混じっているが、目元の鋭さは若者のものと変わらない。顎はしっかりと張っていて、若い頃からさぞいい男振りだったのだろうと想像される。無駄な毛の一つも残さずに剃られた頬も、骨がしっかりと張っている。清潔で潔白な政治家を演出する外観だった。
 真は奨められるままに澤田の前に座った。
 嵜山は一礼して襖を閉め、立ち去った。澤田はそれを悠然と見送り、真に自ら杯を差し出す。
 あまり飲めないので、とも言えず、真はそれを受け取った。澤田がお銚子を傾け、真の杯に酒を注いでくれる。淡々とした気配だった。
「よく来てくれた。まずは乾杯としよう」
 いきなり日本酒というのはどうだろうと思ったが、ここは自分に選択権はなさそうだった。やけくそな気分と緊張が手伝って、真は澤田に合わせて一気に杯を空けた。

「深雪が君には随分世話になっていると聞いている。礼を言うよ」
 一気に核心に話が滑り込んできたように思ったが、同時に妙な感じに襲われる。
 澤田にとって、世間の噂どおり香野深雪が愛人なら、彼女の存在を自らに結び付けて告白すること自体、スキャンダルの根源になる。真はそう考えて、多少落ち着いた気分になった。
 この男は馬鹿ではないのだから、それを認めないだろう。そのことで真を攻撃することは、彼自身の首を絞めるようなものだ。
 とは言え、今ここで澤田が何を言い、何をしようとも証言してくれる人はいないわけだ。安心している場合ではないかもしれない。
「あれは贅沢な女だ。愛だけでなくそれ以外のものを必要としている。だが可哀相な女だ。もっともそれにほだされると、抜け出せなくなるぞ。君も気をつけたまえ」
 真は澤田が注ぐままに酒を受けた。まだ返事ができないでいる。
「だが、君が本気になってくれるのなら、あれほどに値打ちのある女もいない」

 澤田からは整髪剤のいい香りがした。身だしなみも上品で物腰は穏やかだが、威圧感がある。七三に軽く分けて後ろへ撫で付けた髪は、白いものが混じっているとは言え、艶があった。
「まあ、今日はそんなことを話すために君を呼んだのではないからね。ゆっくり食事を楽しもう」
 楽しめないだろうという真の予想を裏切って、出てくる料理はどれも一流だった。澤田は飲むと陽気になる性質らしく、真が頼みもしないのに料理の解説をしてくれる。その食材へのこだわりとほれ込みと、料理の説明に手抜きのないところは、同居人と全く同じだった。
 そう考えると急に親しみさえ感じられるように思うが、そんなことを考えている場合ではなかった。それでも、真はここに入ってきた当初よりはくつろいだ気分になっていたし、多少入った酒のせいもあって、僅かだが警戒心は薄れかかっていた。
 澤田の料理解説を聞きながら奨められるままに箸を料理に伸ばしていると、酒もいつの間にか杯が重ねられている。
「深雪が君はあまり飲めないと言っていたが、そうでもないらしいね」
 冗談じゃない、と真は思った。つられて飲んでいるのか、負けじと思って飲んでいるのかはともかく、これは立ち上がれるかどうか不安な気がしてくる。その証拠に相手の輪郭がややぼやけ気味だった。
 それでも頭の隅で、深雪と澤田が自分の事を二人の間で話題にしていたのか、と考えて妙な気がした。

 やがて料理の大方が出揃って、最後に小さな碗で蕎麦が出た。それを食べ終えると、澤田がさらに真の杯に酒を注ぎつつ言った。
「私が深雪の話をするために君を呼んだと思っていたかね」
 真は答えなかった。そうとも思っていたし、そうでないとも思っている。
「多分、世間的な噂を信じれば、そう思うだろうね」
「噂? 香野深雪があなたの愛人ではないかという?」
 澤田は微笑んだように見えた。
「あんな愛人を抱えていては身が持たない」
「どういう意味ですか? 彼女のために、ホテルを一室借りているほどのあなたが」
「あのホテルは私の名前で借りてはいるが、金を出しているのは別の人間だ。私が使わないので、深雪に貸している。私と彼女が会うために必要な場所ではない。君と会うためには必要なようだがね」
 真は思わず緊張した。
「あなたの、つまり愛人ではない、と」
「さあ、どうだろうね」
 澤田は言葉を明瞭にはしなかった。それが深いわけがあってのことか、真をからかってのことか、すでに真の頭では判断がつかない。
「だが、今日君を呼んだのは、別の件だよ」
 料理が一通り済んだからか、この部屋にはもう誰も近づいてこなかった。

「どうかね、私のところで働かないか」
 真はさらに緊張してその言葉を受け止めた。やはり、添島刑事は世間話をしに来たのではなく、真に警告しに来たのだ。
 もしも、澤田が本当にあの出来の悪いハードボイルド小説のような話を信じているのだとしたら、まだ深雪の事でちくちくいたぶられるほうがましに思えた。
 真が返事もしないまま澤田を見つめていると、澤田は少し笑んで先を続けた。
「君の父上の事はよく知っている。大学時代、彼は私の二年下でね、学部は違ったが彼は有名人だったし、何より同じ剣道部だったから、いわゆる同じ釜の飯も食ったというわけだ。医学部に入りなおしていた彼の兄貴はその頃もう忙しくてあまりクラブには顔を出していなかったからね、彼は実質大学一、いや関東一の猛者だったんだ。頭の切れるいい漢だったよ。唯一の欠点は、兄貴にぞっこんだったことくらいだな。以前ソ連の科学アカデミーに在籍していたこともあったようだが、今はアメリカにいるそうだね」

 戸籍上の問題、と添島刑事は言っていた。戸籍では、父親の籍に自分が入っていないことは知っている。だが親戚の誰も、真が長一郎の次男である武史の子供であることを、敢えて隠しているわけではなかった。それでも、言葉で私がお前の父親だと言ってくれたのは、伯父の功だけだった。
「それは、父ではなく、叔父のことでしょう」
「彼が、学生のうちにドイツ人女性との間に子供ができて、大学を続けられなくなったのは知っている。当時は恋愛事件としてなかなか有名な話になっていたからね。子供を兄貴が引き取ったのも知っている。尤も、子供を引き取るためだけに結婚したという噂の兄貴は、当時インターンで忙しくてほとんど家にいなかった。その兄貴が結婚した女性が育児ノイローゼになって、すぐにその子供は北海道のお祖父さんに引き取られたと聞いた」
 真は呆然と澤田を見ていた。大体、こんな展開になっているのは何故だと思った。
「調べたのですか」
「何を言う、それが私の学生時代の一番有名な恋愛事件だったんだよ。当時、文学部の学生主催の同人誌で、その事件をベースに小説を書いて発表したやつがいてね、皆その事件の事はよく知っているわけだ。相手の女性が東ドイツのある有名な人物の孫で、その女性の母親は日本人かあるいはハーフだった。本当かどうかは知らないが、その小説では東ドイツのスパイ組織の幹部の孫と書かれている。彼女は母親の故郷を旅しているうちに日本人男性と恋に落ちて駆け落ちした。そして子供が生まれてすぐにドイツに連れ戻された。筋書きだけでも下手な芝居よりもずっと劇的な物語だったんだよ」

 真自身のよく知らない話を、澤田が彼自身の生きた時代と場所で知っていることに驚いた。
「そんな下手な小説を信じる人がいたのですか」
「あの時代は、実在のスパイが普通に小説やニュースに顔を出した。マタ・ハリしかり、有名な日本の男装の麗人もね。もちろん、顔が出てしまえば、スパイとしての役割は終わるか、変わるかしたのだろうがね」
 真はしばらく澤田の顔を見つめていたが、結局開きなおるしかないと思った。
「母のことは全く記憶にありませんし、会ったこともありません。叔父、いえ、あなたのおっしゃるとおり父だとしても、彼の色々の事情は僕には全く分からないし、今も彼に会うことはほとんどありません。電話はごくたまにかかってきますけど、子供を心配して、というような感じではありません。だから、それ以上の事を聞いても無駄ですよ」
 澤田は真の顔をまっすぐに見つめていた。

「君は、父上が恋しくないのかね」
 この男は、何が目的で情に訴えてくるのだろうと真は思った。
「恋しいと思うほど彼のことをよく知りません。あの人の生き方に干渉するつもりもありません」
「なるほど、それもそうだろう」
 澤田は納得してくれたように見えた。
「では、君の話をしよう。君は成り行きでこんな仕事をしているようだが、今の仕事が君に合っていると思っているかね。多分、君は自分が思っている以上の事ができる人間だ。私は君の才能を伸ばす術を知っているし、その方法も持っている」
「何の、話ですか」
「だから、勧誘していると言っているのだよ。君は頭がいい、しかも極めて上質の遺伝子を受け継いでいる。もしもこの話が気に入らなくても、研究に戻りたいなら、私が協力をしよう。田安の爺さんからもそう聞いてくれているだろう」
 深雪のことなど既に吹っ飛んでいた。何故この男は真の周辺事情をこんなにもよく知っているのだ。

「田安さんを、ご存知なのですか」
「あの人は、君、私の父親代わりだ。学生のときに学費を出してくれていた。私の父は終戦の三日前に亡くなっていてね、以後は彼が私の父親のようなものだ。彼が私に君を推薦したんだよ」
「推薦?」
「君のいくつかの特殊な能力を含めてね」
 この男は、田安のことを知っている。もしかして、あの地下の射撃場のことも、勿論それが違法であることも。
「一体……、僕があなたのために何ができると言うのです?」
「私のために? 君、それは誤解だ。私は君のためになると思っているのだ」
 何が何だか分からないものの、簡単に言うと、この男は真がかなり特殊なことのできる人間と勘違いしているようだと思った。確かに酔ってはいるのだが、それが判断を鈍らせているわけではなさそうだ。
「初対面のあなたが、何が僕のためになるかということをご存知だとは驚きです。残念ですが、あなたのお申し出を受けるわけにはいきません。それでも、一人二人路頭に迷うかもしれないので」
「私が言っているのは、それも含めてのことだよ」
 真は一つ、息をついた。

「あなたがヤクザや不良少年の味方をしてくれるのですか。あなたの政治生命に関わりますよ」
「私の政治生命など問題にはなっていない。君が最も安全な場所は私のところだと言っているのだよ」
「安全?」
 一体何の話だと思った。何故自分が澤田に安全を保障してもらわなければならないのだろう。真は次の言葉がでないまま、澤田を見つめていた。
「いや、性急に話をするつもりはなかったのに、申し訳ない」
 澤田は、強引な気配を急に引っ込めた。
 その瞬間、真は澤田が見せた懸命さを垣間見た気がした。一体、この男は何を言いたいのだろう。まるで何かに追われているように見え、そしてそれを初対面の若者の危機と考え、守ろうとするというのはどういうことだろう。
「田安の爺さんが言っていた。あの子は優しい人間だ、父親のようにはなれない、だがそうは思わない人間もいる、とね」
 不意に、真は田安自身が自分に言った言葉を思い出した。

 お前は優しい人間だ、そんなふうに殺気を漂わせていてはいけない。自分が許せないからか? 哀しいことは泣いてしまうのがいいのだよ。

 あれは、小松崎りぃさが自殺した後だった。竹流が同居しようと言ってくれて、気持ちは立ち直っているつもりだったが、ただひとつどうしても心の中に染み付いているものがあった。
 他人の死を願った自分だった。
 りぃさを愛したと思った。だが、同時に彼女がこの世から消えてくれることを願っていた。りぃさがこの世に適応できず可哀想だからではなかった。彼女が生きていれば、いつか真自身の中の何かが彼女に呼応してそのまま自分も死んでしまうのだろうと思っていた。それは離れがたいものから離される恐怖だった。
 自分の中に、他人の死を願う気持ちが、否定しても否定しても湧き上がってくる異様な感覚。その相手を愛しているはずなのに、想いが深くなればなるほど、わけの分からない恐怖が突き上げてきた。それは昔、育児ノイローゼで真の首を絞めた義理の母親への恐怖から、彼女の死を願っていたのと同じだった。

 その事は竹流には話せなかった。何故りぃさの死を願ったのか、その理由の根底を彼に話せるわけがなかった。自分の心の内に最も深く食い込んでいる杭を抜く方法がなく、最も信頼する人間にその話ができない。
 それを話すことは、真の心の中にある叶うはずのない、叶ったとしてもどこへ行きつくこともない唯一の願望を晒すことになった。

「深雪も、同じだ」
 真が酔いに任せて意識をどこかへ飛ばしてしまったところに、不意に澤田が言った一言は真を混乱させた。それは不思議な感じだった。澤田は深雪を愛しているのではないかと、そう思えたのだ。
 だが、澤田は一瞬でそれをどこかへ閉じ込めたように見えた。
 そして、真はそれに触れるのが怖くなった。
 人の心が抱いている、他人には理解不能な堪え難い重い感情がそこにあったように思った。それは恋愛ではないかもしれない。だが心に抱えているには重いものだった。

 真は澤田が差し出した酒を黙って受けた。澤田の手は震えることもなく、ただ猪口の小さな面に輪が揺らぐように重なる。
 その同心円は真の感情を、同じように静かなままで、湧き出る中心へ落とし込んでいくようだった。そして、その中心に見えていたのは、それだけが自分の存在の全てを支えている、その何かだった。
 二十歳になる前に崖から落ちた、あの時、一度はこの世からこぼれてしまった真の命をここへ引き戻したあの声と、目覚めたときに真を見つめていた哀しい深い青灰色の瞳。それだけが、今、真を生かしている。
 その自分自身の核が、急に澤田の中の何かに反応したように思った。
「無理に飲まなくても構わないよ」
 言いながら酒を奨める澤田の声は穏やかで深かった。真はむしろ、気分良くその何かに酔っている自分を感じた。
「それに、答えも、急いでいるわけではない。考えておいて欲しいのだ。そしてもし、他の誰かが君に同じようなことを言っても、それを受けないでいて欲しい。いや、君がそれを受けることは、君自身を危険にさらし、不幸へ導く可能性があるということを覚えていて欲しい」

 真は頭で少なくとも三度は澤田の言葉を反芻した。澤田は少しばかり難しい顔をして、それからひとつ息をついた。真はその澤田の様子を見つめていたが、澤田が真に対して抱いているのが、深雪を寝取った男に嫌がらせをしたいというような敵意ではないことだけは確かだと思えてきた。
 それから、黙って酒をゆっくりと飲んだ。
 真は意外にも自分は飲めるのかもしれないと過信し始めた。澤田がいかにもくつろいだ気配で昔話を繋いだ。

「お父上は、理学部の寺村教室という優秀な研究者集団の一人でね、文系の私でも名前を知っているくらいだったよ。とは言え、彼がそこで有名だったのは、上の人間だろうが偉い先生だろうが、お構いなしにその学説の是非について論争を挑むような暴れ駒だったからだ。勿論彼自身も学生でありながら研究室に出入り自由の身になっていたくらいだから、将来を嘱望されていたのだろう。彼が論争に参加すると、激昂してくると北海道弁が止まらなくてね、剣道部の同輩がよく話していたものだ。北の国でも、東北と違って北海道は標準語に近いと言うが、あれは嘘だな、とそいつがよく言っていたよ。まあ、その彼が色恋で大学を去るとは、誰も思っていなかったがね」
 真は自分の知らない父親の昔をぼんやりと聞いていた。家族の誰もが、真に話してくれない人のことだった。それを赤の他人が話している不思議に、少し胸を打たれている。
 真自身は父親の性質も、少なくとも昔の人柄は何も知らない。だが、今真が垣間見ているイメージとは違う父がそこにいたようだった。もしも今澤田が話していることが本当なら、父のその性質は祖父とよく似ている。だが、真とは随分と違っているようだった。
 東京で、北海道のイントネーションや方言の特異な語尾を他人の前で晒すことを怖がってしまった真とは、まるで違っている強さを持っていた人なのだろう。

「その同輩が、父上が大学を辞める前に、教室に来なくなったのを心配して様子を見に行ったことがあった。父上はずっと兄貴と一緒に下宿していたアパートを出てしまっていてね、その時はもう、君のお母さんと一緒に住んでいたそうだよ。優秀な科学者になるものだとばかり思っていたから本当に驚いたと、そいつが話していた。彼女と生活するために父上は働いていたようでね、大学どころではなくなっていたのだろう。子供が産まれる、と言って幸せそうだった、ともね」
 真は思わず杯を口に運んだ。
「君はお父上や母上をよく知らないと言う。だが、少なくともそいつの話では、二人とも君が生まれてくるのを本当に待ち望んでいるように見えた、とね」

 何かが心の中で光って砕けたような音がした。
「でも、僕には記憶はありません。自分を意識できる頃には北海道に住んでいたし、既に父も母もいませんでしたから。待ち望むだけでは子供に対して責任を取ることにはならないでしょう」
 澤田は真の反論に、暫く言葉なく真の顔を見つめていた。そして、大人らしい分別のある表情をした。
「それは君、彼らは若かったのだ。今の君よりも若い。生きることに、あるいは愛することに懸命だったのだろう。君は今それだけ少年事件に関わっていて、それでも君自身がご両親を許していないのかね」
「子供には選択の余地がないことです。でも、別に許していないとか、そういうのではありません。さっきも言いましたが、彼らに何らかの感情を持てるほど、彼らのことを知らない。知らないものに何かの感情を持つことは難しいことです」
 澤田は頷いた。
「もっともなことだ。だが、感情を持たないことは、あるいは知らないということが、恐ろしいことに繋がることもある」

 一瞬、澤田の目が何か特殊なものに向けて強い怒りを表したようにも見えた。しかし、真は目に映ったものと思考の内側に結んだ像とのギャップで、そろそろ一杯になっていた。
 やはり酔っているらしい。
 澤田は、突然随分と優しい表情をした……ように見えた。
「だが、父も母も知らないと言って拗ねている君が、こうしてまともに生きてまともに社会と折り合っているのは、恐らく君を導いてくれた人がいるからだろう。良い教師に巡り合うことは、偶然や運もあるのだろうが、本当に人生で必要なことだからね」
「残念ながら学校では出会えませんでしたが。僕は登校拒否児で、特に小学校と中学の前半はほとんど学校に行っていませんでしたし。でも、別に拗ねているわけではありません」
「そうとも、それはどこで出会えるか誰にもわからない。学校とは限らない。君は中退したとは言え、それなりに立派な大学に行っていたのだから、誰かが君を教育してくれたのだろう」

 真はこの男に手の内を見られていることに、どこかで抵抗できなくなっているのを感じていた。それが、自分が誰かに父親の影を捜しているからだとしたら、情けないような笑えるような話だ。
「それは今の同居人です。半端じゃないくらいスパルタでしたから」
 真は注意深く澤田の顔を見ていた。偶然のように転がり込んできた竹流の話題に、この男がどういう反応をするか確認したかった。
 大丈夫だ、自分は酔っているわけではないと思った。
「君に同居人がいることは知っているが、それは最近のことではなかったのかね」
 澤田は言葉を選ぼうとしたのか、幾らか逡巡したように見えた。少なくとも、澤田は『大和竹流』という男を知っている、そんな気がした。
「彼は僕の父の、いえ、つまり伯父の手伝いをしていました。僕が東京に出てきた小学生の時からの知り合いです。もっとも、彼と住むようになったのは二年半前のことですが」
「それは随分長い付き合いなのだね」
「彼はとにかく中途半端が嫌いで、徹底的でした。学校の勉強とは内容も質も違っていましたが、少なくとも学校に行けなかった分を埋め合わせて余りあるくらい勉強させられましたから。あなたの言うとおり、よい教師には巡り合っていたのかもしれません」

 だが、真が淡々と話す間に、澤田のほうも表情を押さえ込んだように見えた。一度、真からお猪口のほうへ視線を落とし、再び顔を上げたときには、ただ穏やかに見えた。
 竹流を知っているのか知らないのか、真は澤田の表情から何かを読み取ろうとしたが、特別に真の同居人に興味を抱いている気配がない。あるいはそういう振りを装っているのか、少なくとも真には判断ができなかった。
 澤田は竹流をあんな目に遭わせた誰かとは関わりがないのだろうか。週刊誌の記者という楢崎志穂の思わせ振りな言い方に踊らされているだけなのか。
 澤田がその後、場所を変えて飲まないかと言ってきたが、真はこれ以上飲む自信がなかった。それを言うと、澤田はそれもそうだと笑って真の腕を取って足元が不安定なのを支えてくれさえした。
 テレビの中で見る澤田顕一郎からは想像もできない一人の男がそこにいた。
 いつの間にかあの嵜山という澤田の秘書が傍に戻ってきて、澤田に言われて真を送ってくれた。説明もしないのに、車は竹流のマンションに横付けされた。
 真は多少危ない足元で車を降りてからそのことに気が付いた。
 なぜ、ここを知っているのか、なぜこのマンションの電話を知っていたのか、そう思ったときには、車はもう走り去っていた。






さて、第4章が始まりました。
少し長めになってすみません。適当なところで切るところがなかったのです。
いよいよ、第1節の『転』にあたる部分が出てきます。
そのまえに…次回18禁です。
実は、真面目にエッチなシーンを書いてみた、初試みです。
で、これ書いて、自分にそういうシーンを書く才能がないことが分かりました。
これって、やっぱり才能がいるんだわ、と。
明日、またお目にかかりましょう(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨31] 第4章 同居人の失踪(2) 18禁 

18禁です。ご注意ください。
…でも本音では、大したことないんですけど…逆に期待しないでね…と言う気持ち^^; こういうシーンを楽しむために書いたわけではなく、美和ちゃんとの気持ちの行き来の延長として、会話込みでお楽しみいただければ。
ついでに、これまでこういうシーンを『具体的に』書いたことがなかったのです…つまり、シナリオで言うと、ト書きみたいな感じで、「そして二人はベッドに行く」程度の言葉で書き、翌日「寝乱れたシーツから体を引き離し、ベッドの下のスリッパを探る」みたいな言葉が出てきて、はい、おしまい。
…そういうのしか書かなかったので、ちょっと気合入れたら玉砕したという。その時の参考文献…エッチなシーンに使われる局所や行為を示す単語のあれこれ、というテーマの本を読んで、びっくり! うわぁ、エッチ小説書く人って大変だぁ、と思い、自分にはその想像力がないことが分かりました。考えてみたら、人類、どころか動物がみんなやっている普遍的でなんの変哲もないシーンを、ひたすら手を変え品変え書くわけで、飽きが来ないようにアレンジする能力は半端ではないと思ったのです。と言うことで、官能小説家さんたちをすごく尊敬するに至りました。…つまり、何がいいたいのかと言うと…18禁という言葉に期待しないでくださいね、ということでして。
*風邪をひいてしまい、頭がぼんやりとしていて、更新が遅れてしまいました。咳が止まりません…でも、仕事に行かなくちゃ。
(個人的に、夕さんにごめんなさい^^;)
*実は、ちょっと書き直そうかと思っていたのですが、うん…まぁ、いいか、とそのまま出すことにしました。結局、流れの中で書いているので、ここだけ変えてもなぁ、と。




 マンションの玄関のドアを開けて、薄暗い明かりの中をぼんやりとした足取りのまま靴を脱いで上がり、そのまま右手に折れた廊下を歩いて突き当たりのドアを開け、上着を脱いでソファに放り出した。体がスローモーションのようにだるく、重く動いているのを感じる。
半分で澤田という男が意外にもいい人間だったと思い、半分で何か別のことにかっかしていた。
 それが何だかわからない。真はネクタイを解いて、靴下まで脱いでその辺に放ると、ついでにスラックスのベルトも引き抜いた。それから上着の内ポケットを探って煙草を探し当てると、テーブルの上のライターで火をつけようとした。

 その瞬間に、隣の寝室からの続き扉がものすごい勢いで開いて、美和が飛び込んできた。
「先生!」
 押し殺した悲鳴のように美和は叫んだ。
「……何だ、どうした?」
 思わず咥えた煙草を落としてしまった。あまりの美和の気配に、真は彼女に何事かあったのかと思った。美和はソファを廻って、そのまま躊躇いもなく真の腕に飛び込んでくる。
「何かあったのか」
 美和は顔を上げて真を真正面から見た。真剣な思いつめた表情に、真のほうは酔いも吹っ飛びそうだった。
「何かあったのは先生でしょ。澤田顕一郎に何かされなかった?」
「何かって……」
 真は美和が何を誤解していたのか分かって、ようやく少し笑った。
「夕食をご馳走になっていただけだ」
「それだけ?」
「そう」
「嘘」
「嘘じゃない。そんなに悪い人には見えなかったよ。君の言うとおりだ」
「香野深雪のことじゃなかったの?」真は頷いた。美和は必死、という表情で言葉を繋いでいた。「先生を抱きこもうって話でも? 添島刑事が言ってたみたいな」
「彼のところで働かないかとは言われたよ。勿論、断ったけどね」
「苛められなかったの?」
「苛めるって、そういう話じゃないよ。澤田が君の思っているような悪人なら、ここに帰ってきてないと思わないか?」

 美和はようやく安心したのか、やっと真に抱きついていることに気が付いたようで、顔を赤らめて手をぱっと離した。そして俯いて小さな声で言う。
「心配したの」
「悪かった」
「さぶちゃんと賢ちゃんにあとをつけさせたの」
「あぁ、知ってる」
「帰れって言ったの、先生?」
「俺だ」
「ごめんね」
 真は思わず彼女のポニーテールを外した髪を引き寄せるように撫でた。
「何を言う。心配してくれて有難う」
 美和は少し真のほうへ体重を預けた。それから彼女は顔を上げ、ほっとしたように笑った。
「先生、お酒臭いよ。酔ってるでしょ」
「いや、自分でもこんなに飲めるとは思っていなかった。結構しらふだ」
「ほんと?」

 不意に彼女のその感情を隠さない真っ直ぐな心が愛しいと思えた。時々訳の分からないところへ一人で走っていってしまうが、そのよく表情を変える瞳も、決して裏表を感じさせない感情表現も、愛おしいものに思えた。
 確かに、葉子に似ているのだ。それは性格や外見の事ではない。
 自分を真っ直ぐに見つめてくる瞳、その明るい気配、少なくとも真が騎士になろうと思ったそのこと自体が、他の誰にでも抱けるような感情ではなかった。
 葉子が常に自分に、兄に対してではない感情を抱いていたのは知っていた。いや、それは真の方だ。本当の兄妹ではないのだから、告白さえしていれば他人の妻になることはなかったのだろう。
 お兄ちゃん、あの時から私には夢があったの。お兄ちゃんのお嫁さんになりたかった。
 彼女が嫁ぐ前の日に真の前に座り、あの誰よりも愛おしい声で言った言葉は、今でも耳の奥に残っている。

 何故急にそんなことを思い出したのかはともかく、真は、今目の前で美和が微笑んで、小さな声でやっぱり酔ってると言った、その桜色の唇が動くのを最後まで見届けてから、今度はそれを逃がしたくないと思って自分の唇で捕まえていた。
 美和はさすがに一瞬びっくりしたようだったが、すぐにそれに応えるように真の唇に吸い付いてきた。気が付くと、お互い夢中になって相手を求めていた。一瞬唇が離れた時、美和が俯いた。それをそのまま唇で追いかけると、美和が確かめるように言った。
「酔った勢いっていうのはいや」
「酔ってないよ」
「嘘。先生、目が据わってるもの。明日になったら、俺何かした? とか聞くんでしょ」
「まさか、ちゃんと覚えてるよ」
 もう一度求めると、今度は美和は逃げなかった。頭の隅で真はやっぱり酔ってるな、と思っていた。言葉は中途半端にしても、正面切って女の子に抱きたいという意思を伝えたのは初めてだった。
「明日、覚えてないなんて言ったら殴るから」
 美和は真が酔っていることを心配しているわけではないようで、真剣に拒否をしているというよりも、どこかでこの状況を楽しんでいるように見えた。真が美和を抱き上げると、彼女はびっくりして叫んで少し手足をばたばたした。そのまま美和がさっき勢いよく開けた寝室へのドアをくぐって、ダブルベッドの上に二人一緒に倒れこんだ。

「やっぱり酔ってる」
「分かった、酔ってる。でもちゃんと分かってる」
 真がそう言うと、美和のほうは暫く確認するように真の顔を見つめていた。そしてそのまま、彼女は真の首の後ろに両手を廻した。
 今度は長いキスだった。
 美和に恋人がいることも、その男に自分がいく分かの恩義があることもちゃんと頭では分かっていた。だが今、突然に抱きたいという衝動に駆られたのが事実だとしても、誰でもよかったわけではない。
 美和だからだ、と思っていた。自分のものが既に熱くなっているのは分かっていたが、深雪を相手にしているときのように、とにかく直ぐにそれを彼女の中に埋めたいとは思わなかった。十分にこうして愛おしく可愛がってキスをしていたいと思っていた。
 葉子にはできなかったことだった。もちろん、昔も今も彼女にそうしたいと思っているわけではなかった。葉子はいつまでも大事な姫君で、そのことは永遠に変わらない。だからと言って、美和が葉子の代わりとは思っていない。

 美和のTシャツの下から手を忍ばせると、彼女の肌が冷やりとして気持ちがよかった。そのまま何もつけていない乳房に触れると、少し緊張した美和が唇から逃げようとする。真はそれを追いかけて捕まえ、また舌を絡ませた。指の間で美和の乳首がつんと立つ。じれったいように美和がTシャツを脱いでしまおうとするのを止めて、なおゆっくりと手掌と指で愛撫を続けた。
 唇は美和の柔らかい耳を弄びながら、手はずっと彼女の胸を愛撫している。手の中で美和の昂ぶりが分かるようで、それをいつまでも可愛がっていたいと思った。そのうち真が美和のTシャツを脱がせると、彼女もゆっくりと真のシャツのボタンを外していく。遠慮している気配はなかった。
 美和の乳房は、見慣れている深雪のものとは全く違う。乳首も小さく、まだ子供のようだった。真はそれを口に含んで、始めは舌で転がすように、それから歯を立てて彼女が拒否しないのを随分長く確かめてから強く噛むようにした。美和は小さく声を上げたが、逃げなかった。むしろ真の背に廻した腕でさらに強く真を抱き寄せた。美和のショートパンツを下着ごとずらして脱がせてしまって、その薄めの繁みへ口づけたときも、美和はもうそのつもりだったのか、自分から腰を上げて脱がせやすいようにしてくれたし、先生もちゃんと脱いで、と要求してきた。
 真は一瞬躊躇ったが、そのままシャツもスラックスも下着も脱いだ。その真の体を見て、さすがに美和はちょっと驚いたようだった。

 けれども、その反応は以前りぃさが真に向けたものとは全く異なっていた。
「ハードボイルドの主人公並みだけど、どうしたの」
 真は何故か少しほっとしていた。
「昔、崖から落ちて死に掛かった、その時の傷やら手術の瘢やら」
「いつ?」
「大学に入った年の秋、かな」
「どうして? 常識的な生活してたら崖から落ちないでしょ、普通」
「覚えてないんだ、馬に乗って走ってたことしか」
 デジャヴのように、同じ言葉をりぃさに言った時の事をおぼろげに思い出す。真は僅かに何かに緊張している自分を感じていた。
「事故?」
「だろうな」
「意識が吹っ飛んでたってこと?」
「医者曰く、逆行性健忘だって」
「それって、いつかは思い出すの?」
「どうだろう」
 美和は、真を促すように仰向けにさせると、その上に覆いかぶさるようにして、いつかりぃさがしたように真の傷に触れ、口づけた。けれどもその口付けは温かく、まるで今からでも傷の痛みを吸い取ろうとするようで、慈しむように優しかった。これは美和であって、りぃさではない。りぃさのように、真を死の淵へ連れて行くようなことは決してないだろう。
「古傷って、痛むでしょ」
「そうでもない」

 美和は傷に触れ、それからゆっくりと真自身の昂りに手を添えた。それはずっと硬くなったままだったが、妙なことに焦りはなかった。始めは多少躊躇っていた美和が、指に力を入れてしっかり握ってくる。そして傷に触れるのと同じようにキスをして、緊張しきった先端を軽く口に含んで吸った。
「先生って着痩せするんだ。知らなかった」
 美和の反応は何もかも若々しくて、明るい。
 真が脚を開かせると、美和はさすがに最初だけ少し抵抗したが、真はそれを簡単にねじ伏せてしまうとその茂みの奥に唇で触れ、そのさらに奥へ舌を差し入れた。もう彼女は溢れるほどに濡れていて、あまりにも溢れてくるので後ろのほうまで濡れてしまうのを真が舌で追いかけると、さすがに美和もびっくりして脚を閉じようとした。予想していたので、それを押さえつけてしまい、後ろの方も舌で襞を確かめるように舐めてゆく。
「ずっと、濡れてたの。先生が帰ってきて顔を見たときから」
 そう言って美和は息を吐き出した。真は美和の手を自分のものへ導き、美和はそれを彼女自身のほうへ探らせるようにして、さらに脚を開いて真がやりやすいようにしてくれた。十分に先端だけを濡らすようにして何度も出入りを繰り返し、美和の反応をいちいち確かめながら、少しずつ奥へ入っていく。入口はともかくも、そうしなければ簡単には奥まで行き着けないように狭く、締め付けてくるようで気持ちがよかったこともあるが、このまま直ぐに奥の奥まで味わってしまうのは勿体ないような気さえした。

 真があまりにもゆっくりと焦らすようにするので、美和は急かすように腰を突き上げてくる。真が意地悪をするように引くと、美和の表情がむくれたようになった。その可愛らしい口から何か卑猥な言葉を引きだしてみたくなって問いかける。
「どうしたの」
「……深雪さん、いつもいいって言う?」
 思わぬ言葉に真のほうが驚く。
「いきなり、どうしたんだ」
「ちょっと気になったの。続けていいよ」
 ふてくされたようにそっぽを向くのを、真は軽く戻して唇にキスをした。
「深雪のことを気にすることはないだろう」
「だって、プロだもん」
「プロ? まさか、そりゃ君よりは場数を踏んでいるだろうけど、別にそれで金を取っているわけじゃない」
「でもいいんでしょ」
「それは今、関係ないだろう」
「私もそう思うわ。でも、気にしちゃう」
 真は半分まで美和の中に収まっていた自分のものをさらに奥へ入れる。美和はきゅっと目をつぶった。
「美和ちゃん」
「何よ」
「普通ね、女の子はこういう状態でそんなにしゃべらない」
「普通じゃないもん」

 本当に愛しいと思った。真は美和の脚を抱えるようにして、最後は少し勢いをつけて彼女の一番奥まで突いた。締め付けてくる美和の内側は、まだ少女のもののように狭く感じた。深雪の中のように襞がまとわりついて締め付けるたまらない気配はなく、ただ懸命に自分を受け入れてくれているようで、愛しい気持ちは募った。北条仁と関係を重ねているだろうに、随分と幼く感じる。
 それでも何度も繰り返し奥まで動いていると、少しずつ広がっていくように思った。そのまま美和を抱きかかえるようにして、真は座る姿勢になった。美和は脚を開いたまま座った真の上半身に身体を預けた。美和の顔を見ると、額にいくらか汗を滲ませて、唇を半開きにし、それから照れたような優しい目で笑う。
 そう言えば、自分の方も、こんなふうに女の子と会話をしながら抱き合うことを楽しむなんてことは、まるでなかったような気がした。もしかしたら少しばかり、自分と美和の間に運命でもあるのだろうかと誤解もしたくなる。
 そう考えると、この子はなんて可愛いのだろうと思い、その気持ちをどう表そうかと考え、唇を吸った。舌を吸いながら下半身を突き上げると、さすがにこのときばかりは美和も娼婦のようにのけぞって真にしがみついた。美和自身も腰を上下させながら動いて、あまりにも夢中になっていたのか、真のものが彼女の中から吐き出され、彼女の身体が後ろへ倒れそうになるのを真が慌てて抱きとめる。

 美和はもう一度照れたような顔になる。若くて奔放なヤクザの情婦なのだから、もっと場慣れしている娘なのだろうと思っていたが、それは意外な顔だった。
 何かを確かめるような気持ちで後ろを向かせて、もう収拾がつかないほどに濡れている部分へ後ろから攻めようとすると、やはり美和は抵抗した。嫌なのか、と聞くと、後ろからは苦手、と彼女は言った。
 北条仁とどのようなセックスをしているのかと気にしている自分が滑稽だと思いながら、真は美和の抵抗を無視した。脚を開かせてお尻を抱えると半分まで埋まっていたものをさらに奥へつき、美和の抵抗がないことを確認すると、彼女が昇り詰める寸前まで攻め続ける。きつくて気持ち良かったが、美和が震えて逃げようとしたので、さすがにその体勢は長くは続けられなかった。
 大丈夫かと尋ねると、うん、と小さく答える。
 愛しいと思う気持ちが込み上げるままに、もう一度顔を見つめ合いながらさらに心も体も高まっていくのを確認する。それでも、どこかにかすかに理性は残っていた。
 真が一旦彼女の中から出ようとすると、美和が締め付けてくる。
「待ってくれ」
「何」
「ゴム、つけるよ」
 身体を離そうとすると美和の腕が真を抱きとめた。
「美和ちゃん」
 窘めるように真が呼びかけたのを完全に無視して、美和は真を抱き締める。その必死とも思える力に真は少しばかり驚いていた。フェイントを食らった真は逆に美和にベッドに押し付けられる形になり、美和は上になって真を迎え入れた。
「だめだって」
「ここ、いつもそんなもの置いてあるの? 大家さんが使ってて?」
「まさか、あいつ、そんなもの使わないだろう」
「じゃあ先生が使うの?」
「とにかく離せって」
 美和が真を締め付けたまま、一瞬黙りこみ口調を変えて続けた。
「いいよ」
 真はその潤んだ瞳を見つめ返していた。
「このままして」
「だから、それは駄目だ」
「深雪さんの時もつけるの?」
「彼女は子供ができないんだ、だから……」

 美和の目に、一瞬これまでと違う表情が宿った。深雪という同じ女性への同情と、それを利用している男への怒りだったのかもしれない。
「先生の馬鹿」
「分かったよ、じゃあ外に出すから」
「いや」
「いやって、おまえ」
 まるで非難するように美和が真の胸を叩いた。
「できたら責任とってよ」
「責任って……」
「仁さんと決闘してでも、責任とってよ」
 真は暫く黙っていた。後で思い出しても、このとき酔っ払っていたのかしらふだったのか分からない。けれども、このまま美和の気持ちを受け止めてやりたいと思った。
「わかった」
 短くそれだけ言うと、真は身体の位置を入れ替えて、美和の頭を抱きしめると激しく動き始めた。誰かに対する罪悪感は異常な興奮に繋がるような気配がある。美和も同じだったのか、二人で狂ったように動きながら求め合い、腰をぶつけ合って愛し合った。美和が奇妙な声を上げてわめき始めても、真は動きを止めなかった。最後には二人ともがほとんど同時に訳が分からなくなって昇りつめてしまった。
 美和の中に出してしまうと、彼女の中でゆっくり搏動するように嵩りを小さくしていく自分のものの気配をたまらない余韻の中で確認して、まだそれを美和の中に埋めたまま、口付けを交し合った。美和は真を離そうとはせず、その粘膜はまだ痙攣するように真を締め付けていた。

 美和は泣いているようだった。
「どうしたんだ」
「ううん、大丈夫。びっくりしたの」
「何故?」
「すごくよかったの」
 真は唇で美和の唇と舌を吸うようにしながら、その髪を撫でていた。まだ彼女の中に入ったままだったが、心地よくてもう少しの間このままにしておきたい気がした。
「後悔しない?」
「俺が? それとも君が?」
「先生だよ」
「しない」
 真は適当ではなく真実そう思って答えた。
 美和はいつになくまじめな顔で真を見つめ、小さく頷いた。それから、真の背中に腕を回して力を入れた。
 真は黙ったまま美和を抱き返した。

 だが、美和の小さな抵抗を無視して彼女の中から出て、枕もとのティッシュを取って後始末をしているうちに、すっと冷めていく何かが襲い掛かってくるような気がした。
 その感覚に、真自身驚いた。
 真は愛おしい気持ちを片手に抱いたまま、頭ではもう別のことを考え始めていた。美和を可愛いと思う気持ちとは別のところに何か大事なものがあって、思い出したいような忘れていたいような妙な感覚だった。そもそも、深雪を相手にしているときには愛おしいという感情は乏しく、自分が溜まったものを吐き出してしまえば後は素面にもどって当然だったが、今、明らかに愛おしいと思って抱いた女に対しても、全く同じような気分に襲い掛かられたのだ。男が射精してしまえば一気に冷める、というメカニズムは理解していたが、それが今自分の感じているものなのか、というと半分あたっていて、半分ずれていた。
 四六時中、一分の隙もなく、ただずっと抱かれていたいと思った時が確かにあったからだった。そういう感覚を、自分の腹の奥のほうがそのまま記憶している。真は目を閉じて、息を吐き出した。
 それでも美和が背に抱きついてくると、真は当たり前のように抱き返した。

 多少は酔っているのだろうし、きっと明日は二日酔いには違いなかった。いつものように飲みすぎて頭痛がしてこないだけ今日はましだった。だが、冷静になってきて目を閉じるとほんの少し廻っている。考え始めると気持ちが悪くなってきた。
 傍らで美和はうとうとしているようだった。気持ちがよくて眠くなったのだろうと思い、その顔を見つめているとほっとするものがあった。
 美和は本当はどういうつもりだったのだろう。周期的に絶対妊娠することはないと確信していたのか、それとも本気でそうなってもいいと思っていたのか、それともただその時の快楽に酔った衝動だったのか。もし本当にそうなってもいいと思っていたのなら、それは北条仁に対する何かのレジスタンスなのか、あるいはもっと別のものだろうか。
 美和なりに不安なのはよくわかった。北条仁はいい男だが、堅気ではない。彼女も極道の妻になる決意まではできていないだろう。だから自分に乗り換えたのかもしれない。
 そういう見方をするのは、美和に対して酷いことかもしれないが、普通の感覚として理解はできることだった。北条一家が仁の父親の代で家業を畳むつもりでいたことは知っているが、もしもこの先仁が父親の希望通り堅気になったとしても、今までのしのぎの方法を全て放棄することはできないだろう。それに、美和の実家が彼らの関係を了承するわけはない。そういう意味では、真も決して、美和の家族が望む理想的な娘の相手ではないのだろうが、良識の範囲の中には留まっているはずだ。

 嫌なことを考えている、と思った。
 眠っている女の子の顔をこんなにじっと見つめるのは初めてのことだ。その感情のあれこれを、是非の感覚は別にしても、考えているのも初めてだった。それに何よりも自分が、結婚などという現実的な内容を前提に考えを巡らせていることに、真自身は驚いてもいた。
 だが多少冷めた頭の中では、別の部分で澤田顕一郎のことを考えていた。澤田が今日何を言おうとしていたのか、ただ本当に勧誘するだけのつもりだったのか。
 澤田は田安隆三の事を知っていた。それも父親の代わりに学資を出してくれていたという。それどころか、真の実父のことも知っていた。ただ伝聞としてではない、同じ時代に同じ大学で、同じ倶楽部で会話さえ交わした間なのだろう。
 しかも、真の出生時のことを知っている。
 真自身に何の記憶もない、何の感慨も持てない時間と空間を、今日初めて会った、しかも今、真が内容はともかく付き合っている女のパトロンかもしれない他人が体験しているのだ。
 その他人は、まるで父親のように、守ってくれるような事を言った。

 馬鹿げている、と思った。もしも澤田が本気で真を雇おうとしているのだとしても、きっととてつもない損得勘定があるのだ。
 何より、自分にそれほどの『値段』がつけられているとは思えない。
 今自分に価値があるとすれば、同居人のことだろうか。それは十分にあり得る話だ。
 真は今になって、澤田をもう少し問い詰めてこなかったことを後悔した。しかし、澤田はあまり竹流の話題には興味を示さなかった。それは演技だったのだろうか。
 酔っていたのかもしれないが、どこかであの男を悪い人間ではないように思い始めていた。それは、もしかすると父や母の話をしていたからなのだろうか。とすれば、真自身に生みの親への思慕があるということなのか。
今まで考えたことのない感情だった。
 煙草を吸おうと思って、真は身体を起こした。美和は起きる気配はなかったが、少し大きめの息をした。

 真が美和の耳にそっと口づけた瞬間、暗闇を裂くように電話の呼び出し音がした。
 真は慌ててベッドから出ると、枕もとのガウンを引っ掛けて、隣の居間に行った。ほとんど無意識の行動だった。
 ベッドの脇には子機もある。それなのに、同居人はいつも夜中の電話を隣の居間で取った。真を起こさないように気遣っているのかもしれないが、夜中の電話のほとんどは竹流の母国からの電話で、途中から激昂してくると隣室で眠っている真が目を覚ましてしまうほどの勢いで話している。別に寝室で話していても、真には理解できない国の言葉だ。
 それでも聞かせたくないと思っているのかもしれない。
 今同居人はいないが、鳴っていると迷惑なので、この電話に出るしかなかった。
 日本語でいいや、と思って声を出そうとすると、がさがさの咽に張り付いたように上手く声が出てこなかった。
「もしもし」
 耳の中で反響する自分自身の声は随分愛想がなかった。
「……無事か? 美和ちゃんが心配してたんで、どうしたかと思ってね」
 真は思わず受話器を握りなおした。





いよいよ、全編で最も、書いている私が萌えた電話のシーン。
これこそがラブシーンと思って書いたのですが……それも竹流の一言が。
あんたは中学生か高校生?というこの電話切りたくない会話をお楽しみください。
風邪で、ミニコラムをつける元気がないので、シンプルに。
次回は、今日の夜、更新しようと考えております。
この回が1日遅れたので^^;

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨32] 第4章 同居人の失踪(3) 

*さて、これはラブシーンと納得していただけるかどうか…真夜中の電話。
 電話を盗み聞きしているような気持ちで読んでいただけると嬉しいです(実際に、美和ちゃんが盗み聞き^^;)




「随分飲んだんじゃないのか。すごい声になってるぞ」
 答えが出てこない。口を開いたら、さっきまで考えていたことの奥にある大事な何かが、そのまま零れ出てしまうような気がした。
「見張ってたのか」
「何を?」
「俺を。随分タイミングよく電話を掛けてくるじゃないか。もしかしたら帰ってこなかったかもしれないのに」
 話しながら真は、自分は何を言っているのかと思った。
「馬鹿を言うな。帰ったら美和ちゃんに泣きつかれただろう。随分な剣幕だったからな」
「それで、俺がここへ帰り着いて、彼女を慰める時間まで計算してたってわけか」

 竹流が少しの間向こうで躊躇しているように感じた。この小さな間が、永遠のように苦く感じるのは何故なのだろう。答えた竹流の声は穏やかで、どこか哀しげにも聞こえる。
 考えてみれば、捨て台詞を吐いて別れたきりだったのだ。
「そういうことにしてもいい」
「それで、あんたは俺に深雪を見張らせていたのか。それとも深雪に俺を見張らせていたのか」
「何のことだ」
「あんたと深雪の関係は何だ? 澤田とは?」
 真は自分でも何を言っているのかわかっていなかった。半分は澤田を問い詰めなかった後悔だった。半分は、あんな状態になっているのに、何も話してくれない同居人への怒りだった。

 怒り、というよりも半分は悲しみのようなものかもしれない。どうせ自分は、彼にとっては何の役にも立たない、少なくとも彼が自分に与えてくれていることの一割も返すことができないままでいる。
 竹流は多分、この真の問いかけに対して、無視してしまうか茶化してしまうに違いない、そう思っていた。対等の立場で語り合うことは難しいし、特に話題が、彼が触れてほしくない部分に及べば、まともな答えが返ってくるとは思い難かった。
 だが意外なことに、その問いかけに対して電話の向こうで同居人は押し黙っていた。
 真はその沈黙の間に、ますます混乱してきていた。なぜ頼ってくれないのかと情けなく思う気持ちと、あの病院の屋上で別れた時の怒りと苛立ちが咽喉元まで突き上げてくる。結局、やはり酔っているのだ。

「澤田に、自分の下で働かないかと言われたのか」
 長い沈黙の後、竹流が電話の向こうから穏やかな声で問いかけてきた。
 どういうことなのだろう。どうして竹流はそんなことを知っている? 知らないまでも、澤田がそんな申し出をすると予想できたというのだろう。頭の中がぐるぐると回って収拾がつかなくなっていた。
「よく知っているな」
「俺が奴の立場なら言うかもしれないと思っただけだ。それで、何と返事をした?」
 断った、と言いかけて、ちょっとばかり腹が立ってきたので曖昧な言い方をした。
「考えさせてくれと言った」
「そうか」
 だが、それに対しても竹流はあまりにもあっさりと返事をして、また長い間黙った。電話のことなので、長い間といってもそれほどでもなかったのかもしれない。
 真はその間を、何とも言葉を継ぐことができずに黙っていた。

「……お前、俺のところに来るか」
 突然、竹流がいつもと変わらない穏やかな声で言った。
 あまりにも予想外で唐突だったので、酔っている真の頭は、『会いたい』と言われているのだと誤解した。いや、会いたいと言って欲しいと思っていただけなのかもしれない。
「俺、酔ってるし、運転できない」
「馬鹿だな、そういう意味じゃない」
 じゃあ何だ、と言いかけて真は口をつぐんだ。これは、つまりある特異な申し入れなのだ。澤田と同じような言い方をすれば、自分のところで働かないか、というような。
「お前に、どんな形であれ、俺のような人間がすることに、あるいは将来しなければならないことに関わらせるつもりはないと、そう思ってきた。だが、お前がそれでは耐えられないというなら、俺のところに来い」

 何を動揺しているんだ、と真は自分に言い聞かせた。そして、自分が本当に酔っているのか確かめようと、部屋の壁に架かる遺跡の絵を見つめた。それは多分シチリアのどこかにあるギリシャ時代の遺跡だろう。揺らいでいるのは思い出や懐かしさのせいではない、きっとやはりただ酔っているのだ。
 竹流の声は恋人に囁くように甘い。遠い昔、何度も耳元で聞いたはずのこのハイバリトンの甘い声に、真は女のように酔いそうな気分になって、受話器を持ったまま壁に背を預けて座り込んだ。
 だが、もう今更、女や子供のように扱われるのは真っ平だった。
「酔ってるんで、考えられない」
 半分は本当だった。頭の中は既に廻っていたし、幾分か気分も悪かった。
「それに、またあんな訳の分からないところについて行くのは御免だけど」
「訳のわからないところ?」聞き返して、竹流が少し笑ったように思った。「サウジに行った時のことか? だが、お前のお蔭であの時は助かったと、あれからアリがえらく感謝していたけどな」

 誰のことだかよく覚えていないが、多分あの時一緒に行動していたアラブ人のトレジャーハンターがそういう名前だったかもしれない。あの時は生きるか死ぬかのぎりぎりのスリルを何回も潜り抜ける破目になったし、確かに、裸馬さえ乗りこなせる自分の特技が、彼らの危機を救ったことは真も自覚している。
 あの時は、竹流の本当の仕事に疑問を感じていた真が、丁度行きたくなかった高校の修学旅行をサボって、竹流を脅すようにしてついていったのだ。いや、実際はただ何とかして傍にいたかったのかもしれない。
「いつもあんなことしてるんだろう。映画じゃないんだから、必ず助かるとは思えない」
「だから、一緒にいたいんじゃないのか」
 真はそういうことだ、と思ってはいた。素直にそうだ、とは言えなかったが。
「俺は、あんたの女たちとは違う」
「当たり前だ。女は連れて行かない」

 真はまた黙り込んだ。気分が悪くなってきた。この電話が切れてくれなければいいと、ただそう思っていた。向こうで竹流も黙っていた。
 どこから電話してるんだろうと、病院の中の光景を想像した。病室を出て、廊下の先の大きな窓が並んだ明るいロビーだろうか。あの窓から竹流は今どんな景色を見つめているのか。
 シロカニペ ランラン ピシュカン
 目を閉じると銀の雫の降る音が聞こえてくるようだった。言葉にならない想いは、心の中でどんどん重みを増していく。滴る雫にもならず、ただ地球の中心に向かって重力の命令のまま、果てしなく深く潜っていく。
 明らかに身体の奥深くで震えるような重みを感じながら、これではまるで恋人の電話を切りたくない女子高生みたいだと思った。全て酔っているせいだと思いたかった。
 あるいは、久しぶりに声を聞いた親からの電話も、こういう気持ちになるものなのかもしれない。
 親と電話で話す、という状況は真には想像の榧の外だった。実際に父親と電話で話したことがないわけではないし、親子と名乗りあって語らうというわけではなかったが、たまに日本に彼が帰ってくるときに会うこともあった。何年かに一度程度で、恐らく真の二十七年の人生のうちでも、片手で数えられるくらいのことだ。だが、懐かしいとも恋しいとも思ったことがない。
 そう思える土台が、あの父と自分の間に無いのだろう。
 真にとって親と言える誰かがいるとすれば、幼少の時は祖父と叔父が、その後は伯父と、そしてこの男だった。その中で全くの他人である同居人は、血の繋がりもないのに、何故何の見返りもなくずっと真を庇い続けてくれていたのだろう。

「真、お前、ちゃんと上、着てるか? また熱を出すぞ。それから、登紀恵さんがレモンを持ってきてくれてただろう? 切るくらいできるだろう」
 同居人はくどくどと二日酔いの対策について一演説ぶって、真は時々相槌を打ちながらそれを聞いていた。聞いていたのは彼の声だけで、クエン酸がどうだのという内容はほとんど理解できていなかったが、そんなことはどうでもよかった。何となく何かが不安で、たまらなくこの声が愛おしく、ただこの電話を切りたくなかった。
「さっきの話だがな、急いで答えを出す必要はない。それに、いずれにしてもこの件が終わってからのことだ。それから、澤田も、他の誰でも、お前の利用価値を知っている。お前の遺伝子の値打ちと、おまえ自身の値打ちと。だから」
 竹流は暫く言葉を選んだようだった。
「誰も、信じるな」
 真の頭の中で、何か特殊なものが弾けた。

 それから、今度こそ随分と長い間、二人ともが黙っていた。こんなときに、電話線だけは随分と儚く頼りなく、それでも何かを繋いでいるように思えた。耳元に伝わってくる振動で相手の感情が解ればいいのに、と何度も思う。
 背中の壁の冷たさが不意に身体の芯にまで伝わるような気がした。
「雨だな」
 その儚い電話線の向こうで同居人が呟くように言った。このマンションの居間からは、ブラインドを下ろしてしまえば、廊下ともう一枚のガラスの向こうの外の気配は分からなかった。竹流は病院のロビーの大きな窓の並びから外を見つめているのだろう。
 真は自分が静かなコンクリートの箱の中に座っていて、その箱に銀の滴が降り注ぎ、雫は僅かな隙間から零れ出し、やがて穏やかな湿度が身体に滲みこんでくるのを感じた。竹流もまた、別の箱の中で静かに立っていて、銀の滴を感じているだろう。

「もう、切るぞ」
 うん、と返事をしたつもりだが、声が相手に届いていたかどうかは分からなかった。しばらくの沈黙の間に、恋しい気持ちが身体の中心から湧き上ってくるような気がした。
「そっちが切れよ」
 やがて同居人が優しげなハイバリトンの声で、囁くように言った。
 十代の恋人同士の電話じゃないのだし、そっちが切れ、と真は思った。それから、彼も電話を切りたくないのだと思った。わけもなく、泣きたいような心地だった。黙っていると、突然名前を呼ばれる。
「真」

 本当のところ、座り込んだところから立ち上がることも、腕を伸ばして受話器を置くこともできないような気分だった。ただ名前を呼ばれた不意打ちに、思わず言葉を捜した。
「明日、午前中にはそっちに行くよ」
 言葉は何でもよかった。向こうで同居人は暫く黙っていたが、あぁと短く返事をした。
「何かいるものは?」
「いや、別に何も。お前が来てくれるなら、それでいい」
 そう言ってからきりが無いとでも思ったのか、同居人はじゃあなと言って電話を切った。

 真はそれでもそれから長い間、受話器を持ったまましゃがみこんでいた。酔っているな、と思った。考えのまとまらない頭の中で、今何時だろうと思った。この空間に自分ひとりなら、時間など気にもせず迷わず今会いに行ったかもしれない。
 だが、電話を切って間もないのに会いたいと思うなどと、女のようだと思って直ぐに打ち消した。不意に、また穏やかなサテンのシーツに包まれる感覚が肌に蘇り、不思議な油絵具の匂いが嗅覚の中に浮き上がってきた。降りしきっていた銀の滴は薬指のリングに結晶し、真の肌に触れた。真は振り切るように立ち上がり、ようやく受話器を置いた。
 それから、真はのったりと部屋を見回し、ソファの方に回って、帰ってきたときに脱ぎ散らかした上着とネクタイとベルト、それから靴下を片付けて、ガウンの紐を結んでから、ソファに座ってテーブルの上の煙草を取り上げた。
 そうとも思ってはいなかったが、ライターをつけようとして自分の手が震えていることに気が付いた。
 この時何故美和を置いてでも会いに行かなかったのか、後から真はどれほど後悔したか知れなかった。


* * *

 目を覚ましたのは、電話の音よりも、隣の居間にいる男の気配のためだった。
 美和はしばらくの間、途切れ途切れの話し声を、聞いてはいけないものを耳にしてしまったような気持ちで、随分遠くの音として留め置いていた。それでも気になって身体を起こし、開いたままの居間の扉のほうに行って、その陰からやはり薄暗いままの居間の様子を隠れるように覗いた。
 さっき身体を重ねたばかりの男は、今全く別の次元にいる生き物のようだった。
 受話器を持ったまま床に座り込んで壁に凭れ、その男は電話の向こうの誰かに見えもしないのに相槌を打っているように見えた。その上、泣いているようにさえ見えた。

 美和は思わず唇を噛み締めた。
 そういうことは分かっていた、と思った。
 どれほど関係を否定されても、上司である真とその同居人の間柄は親密以上のものだった。それが単純に恋人同士の関係には思えないが、それだけにもっと悪かった。美和の恋人の北条仁は、女の方が好きだと言いつつ、世間にもバイセクシュアルであることを公にして憚らなかったが、時々美和に解説することがある。
 男同士の関係は長続きしない、と。
 それは単に肉体的な繋がりの難しさを言っているのか、法的に守られないからか、世間的に理解を得られないと思われているからか、いずれにしても自然の摂理から外れた関係を続けることは困難なのだろうと美和も思っていた。いや結局は、男女であっても肉体的な繋がりだけでは長続きしないということなのかもしれないし、それ以上に、男性同士は愛しいという感情を相手に抱きにくいものなのかもしれない。男女なら、肉体的な強い欲求が消えても、家族への義務的で自然摂理にも見合った愛情や、社会的な枠組みが守ってくれる。
 だが、目の前にいる真と同居人はまるで気配が違う。

 二人が恋人に見えるか、兄弟に見えるか、親子に見えるか、と問われたら、内情を知っていれば、実際最も近いのは親子ではないかと思えた。真の同居人は真を時々子供のように扱っているし、普段は反抗的なことを言いながらも真の方もそれに甘えている気配が見えないわけではない。年も十歳近く離れているようだし、ちらりと聞いた話では、真が子どもの頃勉強の面倒を見てくれていたのはその同居人だったという。つまり、真にとって、子供時代、もしくは最も多感な思春期の人格形成の一時期を、ほとんど全てあの同居人に預けていたのだろう。
 その上で、もしも仁の言うとおりなら、恋人同士であってもおかしくない距離にいる。
 他人の恋愛事情として妄想だと言いながら突っ込んだが、本当は事実に近かったのかもしれない。何かの拍子に驚くほど近い身体と身体の距離は、一度も関係を持たなかった人間にはあり得ない距離だと、仁が言っている通りに思えた。むしろ、実際には肉体的な関係を辞めてしまったのに、身体も心も尚更相手を求めているような、そんな気配だった。

 美和はそっとベッドに戻った。
 さっき狂うほどに求め合ったばかりだ。今もまだ、真が自分の中で果てた時の気配と拍動を、身体の芯が覚えていて疼いていた。美和の内側は真が中に出したものを、一滴も零したくないように収縮して飲み込もうとしていた。意識してのことではなかったが、衝動にしても心からこの男の子供を身籠ってもいいと思った。その欲求が性的な結びつきの快楽と切り離せないことも感じた。

 恋人である北条仁には、確かに男女問わずに相手がいる。任侠の世界に生きている男は比較的女関係には堅いと聞いていたが、仁はむしろ粋で遊びを楽しむタイプの人間だった。だが、遊びは派手だと噂されていた割には、美和に対して無謀な振舞いをしない。
 美和も郷里の山口で付き合っていた相手がいなかったわけではない。真には偉そうに言ったが、修学旅行でも、それ以外での友達とのおしゃべりの中でも、男女の恋愛については耳年増になるばかりで、実際に初めてちゃんとセックスをしたのは東京に出てきてからで、相手は北条仁だった。今でもその行為に完全に慣れたというわけではない。感じる、ということはちゃんとできていると思っていたが、どこかでいつも何かが引っ掛かっていて、昇り詰めるという次元にまではいっていなかった気がした。本当のところ、『いった』のは今日が初めてなのだ。そして、頭の芯が痺れ、子宮も腟も痙攣し続けるような感覚に、初めてこれが絶頂なのだと知った。子どもを産む痛みに女が耐えることができて、それでもまたセックスをしたいと思うのはこの快感が女にだけ与えられているからだとも、女は男よりも七倍は気持ちいいのだとかいうのも、会話の中では楽しんでいたが、実際に自分の身体で感じたのは初めてだった。
 北条仁は、美和の初めての相手が自分であることを知っていて、時々ベッドの中で、他の男とも寝てみたほうがいい、と勧めた。冗談なのか本気なのかよくわからなかった。具体的に誰、と言われたわけではない。もっとも、ベッドの中では仁と他にも色々な話をする。行為そのものよりも、話をするほうに時間を使っている。それはとても楽しく、不思議なことに暖かい時間だった。
 多分、北条仁は状況をしっかり理解しているのだ。それはつまり、この状況で万が一にも美和が子供を生むということになれば、美和自身にも美和の家族にも北条一家としても簡単な話ではないことを、いかにも勝手で強く自信家の男がけじめをつけたがっているということだった。それは仁が自分を大事にしてくれているからだということは、よく分かっていた。だが、快楽というものは、そういう理屈を重ねると薄れるものかもしれない。

 だが、万が一自分と真が恋人になって、その上で真とその同居人の関係を許容できるだろうか。自信がなかった。自分の恋人が身体で他の誰かを求めている事も許せないが、それよりも心で他の誰かを求めているとしたら、それはとんでもなく重いことのように思う。
 仁さんは他の男と寝てもいいって言うけど、そんな簡単なことじゃないわ。
 美和は恋人の言い分がやはり納得できなかった。
 仁の言うとおり、ちゃんと付き合っている相手がいて、その相手に許されて他の誰かと寝ることは、ある種類の人間からは羨ましいとさえ思われている。だが実際にしてみると、ややこしくてやってられないと思った。
 本当の恋人との行為のほうがずっと良くて、それを思い出してしまってもややこしい。逆に刹那の恋人との行為のほうが良くて、離れられなくなってもややこしい。
 身近な相手を選ぶんじゃなかったな、と思った。顔を合わせるということは、離れにくいということだ。

 真は寝室に戻ってくる気配はなかった。夜を他人と一緒に過ごせないと言っていたし、女の人のところに泊まってくることもないと話していた。あくまでも、真にとって大和竹流という男は別格なのだ。
 まぁ、でも考えても仕方がないか、と思い直した。
 大体、真と同居人の関係は始めからわかっていた話だ。そこに割り込もうと思っているわけでもない。
 あんなに切ない顔をされるのは、ちょっと意外だけど。
 美和は布団に深く潜りなおした。お尻がいくらか冷たいのは、きっと自分がかなり濡れていた跡のためだろう。本当にびっくりするくらい濡れちゃったな、と思った。感情はともかく、関係を続けるのは悪くないかもしれないが、そういう割り切りが自分にできるかどうか、やはりわからない。
 裸のまま布団に包まっているのは、結構気持ちが良かった。とにかく眠ってしまおうと思った。





次回、第4章最終回です。今回は短かった。
美和ちゃんの回想(真と初めて出会った時の…)あり、その中には真の意外な顔が…お楽しみに(^^)

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[雨33] 第4章 同居人の失踪(4) 

*切り処が微妙なので、勢いでアップしてしまいました。これで第4章が終わります(^^)
って、このお話、38章もあるんですよ。
もちろん、途中でいささか茶化した章が入っているので(回想シーンと言うのか、高校生時代の真と竹流)、実際には35章分くらいでしょうか。
この程度を勢いでアップしたところで、先は長い……適当に端折りながら読んでいただければと思いますm(__)m
*さて、この回は、ちょっと意外な真の過去をお見せすることになるかも…^m^
美和ちゃん視点の続きから入ります。




 記憶を辿るような夢を見た。
 眠ってしまう前に思い出していたからかもしれない。

 秋の終わりの午後、明るい喫茶店の窓側の席で、その男は通りを見ながら椅子に深く座って煙草を燻らせていた。
 明るい日差しを通すと、髪の色は真っ黒ではなく、光を吸い込んで輪郭がぼやけるように輝いていて、煙草の煙が周囲の空気を揺らせている。煙草を吸い込んで、一度テーブルの上の灰皿に戻した指は随分華奢に見えたが、身体を壊して入院していたからだと聞いていた。

 もう半時間以上、美和はその男を離れた席から観察している。
 恋人の北条仁から、北条一家が所有している新宿の空きビルにテナントをいくつか入れることになったこと、そのひとつを調査事務所にしようと思っていること、所長候補は既に決まっていて、ただちょっと決心がつかないみたいだから一押しするようにと言われていた。
『お前、秘書というか、共同経営者として一緒にやれよ。大学で勉強するより、よほどいい社会勉強になるぞ』
 任侠一家の男と付き合っているだけで十分社会勉強している、と美和は思った。仁は意味ありげに美和を見て、一冊の写真集を出してきた。

 その表紙の少年のこちらを真っ直ぐ見つめる目に、美和はどきっとした。
 しかも写真家の名前は、将来の写真家候補の美和もよく知っている名前だった。
『滝沢基、って、あの報道写真家の?』 
 仁は頷いた。
『昔は社会風俗を撮ってたんだ。しかもかなりタブーのな。売春、同性愛、未成年の性、そういった類の。今でこそ世界の戦地を飛び回っているが、それが奴の出発点だ。その写真集はその中でも随分異色で、発行部数が少なかったし、滝沢基が一人のモデルだけを使った写真集を出しているのは後にも先にもそれ一冊だ』
『これが、何の関係?』
 美和が問うと、仁は写真集を開いた。

 その目を見た瞬間に、惹き込まれるような、呑み込まれるような感覚に陥って、思わず息をすることを忘れていた。
 圧倒的な存在感でそこに存在している少年は、今まさに大人になる瞬間を生きているように見えた。
 切れ長で野生的な瞳は真っ黒ではなく、特に右の目は光の加減によっては明らかに碧色に沈んでいる。しっかりとした眉のライン、細めで通った鼻筋、そして扇情的でさえある薄めの唇。その唇が薄く開けられて、碧の目は真っ直ぐにファインダーを見つめている、その時カメラマンはどれほど興奮していただろう。子どもでも大人でもなく、男性でも女性でもなく、あくまでも中性的で年齢も定かでない、人ともつかない神懸りのような存在。それが、一枚一枚の写真から湧き上がるように伝わってくる。誰のものにもならないという緊張感が突き刺さるようで、この被写体となった若者はどこへ行こうとしているのだろうという不安が、見るもののうちに湧き上がってくるのだ。
 これは少年から大人に、あるいは野生の生き物から、良し悪しは別にして人間に変わろうとしていた瞬間の、二度とない時間を残したものだったのだろう。それはカメラマンの力も本人の力も及ばない、時の神秘によるものだ。

 古いレンガの校舎の蔦のはい登る壁にもたれて立っている少年が、うつむき加減から目を上げていく四枚組の写真は、美和にも見覚えがあった。うつむいている少年は泣いているように見える。目を上げたとき、彼は綺麗な碧を帯びた瞳でカメラの方を、いや実際にはその向こうにある命の行く末を、さらにその先にある死すらも受け入れて、果てしなく遠い自分の未来を見つめていた。
 ページをめくると、春夏秋冬の景色をバックにした、やや作り物的な要素のある物語風の写真もあった。秋は菊慈童、冬は雪女、春は梅の精霊、そして夏は太古の昔と思しき草原で風の精を、それぞれモチーフにしているようだった。
 中でも菊慈童は秀逸だった。少年は幻影のような菊の花園を背景に、白い衣をまとい、能の面を手に立っていて、振り返りざまだった。いや、それとも魂になってでも想う相手のところへ会いに行こうとした『菊花の契り』を下敷きにしていたのだろうか。その瞳には凄絶なほどの色気があって、薄く開けられた唇は淡い菊の背景の中で浮かび上がるように赤く、いかにも見るものを誘いこむような妖しい吐息を漏らしているように見える。明らかに彼は、そのファインダーの向こうに誰か、具体的な誰かを見つめているのだと思える。
 薄衣をまとっただけのように見える雪女は、雪の大地に倒れざまにこちらを見上げている。唇には紅を引いて、あたかも愛するものを食い殺したような凄絶な印象を持たせていたが、一転して春の梅の精は、ごく普通の白いシャツとスラックスの上に美しい錦の打掛を羽織った少年が、梅の木の上の鴬に何か語りかけるように手を差し伸べていて、穏やかで優しい光景だった。果てなく広がる夏の景色は、実に自然な光景だった。少年は風の向こうを振り返り、微かに開いた唇が桜の色に染まっていた。淡い茶色の髪は光に溶け入り、細い首筋はまだ少年と大人の狭間で彷徨っているように見えた。

 写真集の副題には『二度とはないこの瞬間を』と書かれていたが、仁の解説では、それはある大手のフィルム会社の宣伝のタイトルだったという。この少年は全く名前を出される事も無く、その一度の宣伝に滝沢基のモデルとして現れて、以後一度も顔を見ないらしい。だが当時、駅の看板にも電車の吊広告にもその少年の写真が並べられて、一時は騒然としていたようだった。滝沢基はその写真を機に日本から消えてしまい、今の報道写真家としての仕事を始めている。
『この写真集、そういう趣味の連中の夜の友になっていたともいうけどな』
 美和にも見覚えがあった四枚組の写真は、フィルム会社の宣伝で町中に貼られていたものだったのだ。その会社の宣伝は、業界ではトップレベルの芸術性で、過去の宣伝写真を網羅したバイブル的写真集が発行されていたからだ。
『しかも、滝沢基は俺と同じ人種でな、モデルともほとんどそういう関係になっているという噂だった』
『って、これ、未成年でしょ』

 仁はにやりと笑った。確かに写真集の中には、あたかもそのことを示唆するような、ベッドの上で撮られたものもあって、これを見た『そういう趣味の連中』が夜のオカズにしていても頷ける。いや、ベッドの上の写真でなくても十分だった。その目と唇を見ているだけでも、その目に自分だけを映し出させ、その唇に自分のもっとも敏感なものを銜えさせたいと思う連中がごまんといてもよさそうだ。もしもこの、まさに人とも思えない神懸りな生き物を、自分の足下に跪かせ、淡く光を躍らせる髪を鷲摑みにし、たっぷりと唾液を零れさせた唇に欲望を銜えさせ、その咽の奥にまで深く挿入し、そして綺麗なラインを描く顎に手を触れたときに、ふとその潤んだ碧の目が自分を見上げたら、と想像するだけで、何度でもイケそうだ。少なくとも男はそう思うだろう、もしもその趣味がなくても。女の美和でさえそう感じたのだから。

『何しろ、当の写真家本人は宣伝のポスターが町中に貼られて写真集が出たときにはトンズラしてしまっていたし、モデルのほうは、まぁ名前も出自も出さないという契約だったようだから、会社もだんまりを決め込んでいたからな。そのモデルを捜せ、ってんで、逆にヒートアップしてものすごい宣伝効果だったわけだ。しかも、その宣伝のタイトルはつまり、誰にでも一生でただ一度やってくる、少年から大人になる瞬間をって意味だ。そのモデル個人、ではなく、一般人誰でも、ってことだと強調していたしな。だが、まぁその印象的な顔、一般人の代表にするには無理があるよな。そそられる』
 仁のちょっと個人的でいやらしい感想に、美和は多少むっとしながら納得した。多分、これをオカズにするような男たちは、まさにその『瞬間』にこの少年を囲い慰み者にしながら写真を撮ったカメラマンという妄想を頭の中で描きながら、無茶苦茶に嫉妬しただろう。この写真集を見た全ての人間が、このモデルとカメラマンの情事を想像し、それを覗き見る悪趣味な気分を味わい、自分もベッドかどこかで自慰をするほどの気分になったはずだ。こんな目が電車の吊広告やら街角の看板からこっちを見ていたら、本当にたまらない気がする。もっとも、それだけに見てはいけない秘密の気配が漂って、目を逸らす人もあっただろうが。
 まぁ、北条仁は自慰なんかしない、多分ちゃっかりその辺で誰かを口説いているだろう。美和はそう思いながらも、誰かを実際抱くのと、誰かを想像しながら一人でするのと、どっちが気持ちいいんだろう、と考えて、自分で気恥ずかしくなった。

『それで、これが何の関係があるの』
『まぁ、行ってみればわかる』
 そう言われて待ち合わせ場所にやってきた。

 随分育ってしまったが、明らかに同じ横顔だった。後で仁に問い詰めたら、本人にはその写真の話はしていないという。ただ、ある人物に刑務所に面会に行った時、堀の外の道ですれ違った瞬間にぴんと来たというから、仁のその道の目は恐ろしいくらい確かだ。
 あの写真に見られるような、男性とも女性ともつかない、どこか中性的な危うい気配はもうどこにもないが、どこか綺麗な野生の生き物を思わせるような顔つきと目のムードはそのままだった。もっとも、さすがに、夜のオカズにされちゃうほどの際どさはもうないかな、と美和は思ってほっとした。もしもあのままなら、歩いているだけで公然猥褻罪に近い。そう考えると、ああいう危うさはある一時期に一気に放出されてしまうものかもしれない。だが、もしもその時間を傍で共有している人がいたら、そのときは本当に大変だったろうな、とも感じた。

 いずれにしても、この人が上司になるのは悪くないかも。
 じっくり半時間は観察して美和は立ち上がった。
『こんにちは。お待たせしてすみません』
 突然声を掛けると、男は少しばかり驚いたように顔を上げた。遅れたことを責める気配もなく、少し頷くように煙草に視線を戻し、灰皿で揉み消す。痩せているように見えていた指は、それでもしっかりとした骨組みを感じさせる力強い男のものだった。
 色々な話をしたように思うが、ほとんど美和がしゃべっていた。男のほうは気を逸らさない程度に聞いてくれていた。調査事務所の胡散臭い所長が爆破事件を起こした件も、この男自身が有名な弁護士の名瀬に気に入られていて、今はそこで勤めていることも、どうやらエリート集団の中で気詰まりな気分になっていることも、それとなく話の中に折り込んだ。

 それから幾分かプライベートな話にも及んだ。
『最近、恋人と別れたんでしょ。すごく落ち込んでたって』
 男はひとつ息をついた。それから、責めるようではないが、淡々とした調子で言った。
『それ、これから仕事をしていく上で、話さなければならないようなことか』
 触れられたくないのだな、と思って美和は首を横に振った。
『ところで、男の人と一緒に住んでいるって、本当?』
 さらに美和が話をふると、表情を変えずに男は答えた。
『それも、何か問題なのか』
 男は表情を変えなかったが、美和は一瞬どきっとした。一瞬だが、男の目に、写真と同じ強烈な媚のようなものを感じたのだ。勿論、それは美和に対してではないのだが、美和は思わず答えた自分の声が上ずっているのを感じた。
『別に。どういう関係かと思って。もしそうだとしても、別に問題にはならないけど』

 やはり例の写真集が引っかかってしまう。どう見ても男に身体を許しているような色気だったし、それ以来そういう性向を持っているとしてもおかしくはないわけだ。そしてその相手が同居している男だというのは、ありがちな構図だった。さっきの一瞬の目の光を見れば、今でもこの男が、四六時中でなくても何かの瞬間には、誰かを狂うほどの興奮に陥れるようなフェロモンを撒き散らしているとしても頷ける。
『一緒に住んでいる相手がいるのは事実だ。でも、単に大家のようなものだ。それに、そういう趣味もない』
 美和はちょっと拍子抜けして、淡々とした表情を崩さない男をしばらく黙って見つめていたが、やがてにっこり笑ってみせた。
 やっぱり、この人が上司になるのは悪くないかも。
 あの日以来ずっと、美和は真の同居人の大和竹流を、大家さんと呼んでいる。


 夢で思い出すだけでも、強烈な色気だったように思う。仁の話では、あの時は恋人と心中しそうなまでに煮詰まっていた恋愛の後で、その女性が自殺して、本人も身体を壊して入院し、退院後ようやく働きだしたところだと言っていたし、そういう病み上がりの色気があったのだとしても、誰にでもあるような色気ではないと思った。
 色気といっても、女が持つものとは明らかに違う。そういうものに女が惹きつけられるような色気だった。いや、多分、女だけではない。
 それを、今も真はどこかに漂わせているし、こうやって身体を重ねた後でも変わらない気がする。あの喫茶店で彼を初めて見た時から、自分は彼と寝たいと思っていたのだろうか。

 美和はリビングのソファで眠っている真を見つめながら、さて、どうしようかと思っていた。真は身体をいくらか丸めるようにしていたが、ガウンの襟元から覗く首筋の筋肉と鎖骨が、たまらなく色っぽく見えた。それが昨日身体を重ねたからそう思うのか、あるいは彼と同居人の関係を疑うからそう思うのか、美和自身にもよく分からなかった。
 こういうのは、所謂野次馬根性の側面があるのかな、それともミーハー根性? 当事者になるよりちょっと離れて見ているほうがいいというような。
 何とか客観的になろうと考えている自分がほんの少し滑稽な気がした。それから、さしあたって今どうするか、選択肢を思い浮かべる。

 寝かしておいてあげるか、キスしちゃうか、それとももっといたずらして彼のものを触っちゃうか、美和は色々オプションを考えながら、結局とにかく顔を近づけてみた。
 途端に、真の手が美和の髪に伸びてきた。
「起きてたの」
 真は頭を抱えるように起き上がった。
「二日酔い?」
 それには答えずに、真はソファに座った状態で頭を抱えた。美和は横に座った。
「大丈夫?」
 真は頷いたが、あまり良い状況とは言いかねるようだった。美和はちょっと顔を覗くようにした。
「結構しらふだって言ってたけど、やっぱり酔った勢いなのね」
 ちょっとやり込めたい気分で美和がそう言うと、真は顔を上げた。
「ちゃんと覚えてるよ。酒の勢いは借りたかもしれないけど」
「そう? ゴムつけなかったことも? 大家さんとの関係を認めたことも?」

 真はさすがにびっくりしたような顔をした。後半はカマをかけただけだったのだが、美和は真がどっちにびっくりしたのだろうと思い、その真の反応に驚いた。
「つけなかったのは、覚えてる。仁さんと決闘しなければならないのも分かってる。で、何だって?」
 美和は真剣に真を見つめた。真は怪訝そうに美和を見つめていた。思わず、電話を盗み聞きしていたことへの後ろめたさよりも、その姿を見てしまったときの小さな衝撃が言葉になってしまった。
「恋人同士の、電話だよ」
 真はまだ美和を見つめていた。
「電話?」

 確かめるように真が呟くのを美和の方も見つめていた。その碧のかかった黒い瞳の色には、見るものを自ずと惹きつけてしまう色気がある。じっと見つめると、写真集で見たとおり、右の目のほうが碧の色が強い。そしてその奥に、あの喫茶店で垣間見た、強烈に絡みつくような際どい媚を見つけることは、難しいことではなかった。
 この目で大家さんを見つめるのだ。
 いくら大和竹流が場慣れしていても、こんなのはたまらないだろう。この目に自分だけを映させ、この唇に自分のものだけを銜えさせ、その身体の中心に自分のものだけを刻みつけ覚えさせたい。自分の中心をその腹の奥に十分に与え、その口からもっと欲しいと甘えるような喘ぎを涎のように垂れ流させたい。支配欲の強い男であれば、絶対にそういう欲求を覚えずにはいられないはずだし、美和の見る限り、大和竹流という男は独占欲や支配欲が強いタイプに見えた。それどころか、真のほうも、明らかに大和竹流に対して、自分の中のもっとも大事なものを差し出してもいいと思うくらいの媚を振りまいているはずだ。だが、もしも、仁の言うとおり、一度でもそういう事になっていながら、そして今ベッドで隣に眠っているのを見ながら、時にはすがりつくように甘えてくるのをかわしながら、その欲求を抑え込むというのは、一体どういう事情で、どれほどの精神力なのだろう。

 勿論、美和の想像力が大仰に働いていることも否定はできない。さっきまで何とかやり過ごそうと思っていた自分自身の感情が、またも思わぬ方向に転がっていく気配を感じて、美和は思わず、どう思考回路を切り替えようかと、一瞬の間にこれまでの全ての経験をひっくり返さなければならなかった。
「なんちゃって。これも妄想よ。夜中に電話かかってきたの、大家さんでしょ」
 ここで煮詰まっても仕方がないと美和は思って、ころっとムードを変えて明るい調子で言った。冗談にしておいたほうがよさそうだと、とっさにそう思った。
「先生、泣きそうに見えたし、何か遠距離恋愛の恋人同士みたいな電話だったよ。会いたいのに会えない、みたいな。ご飯食べたら会いに行っていいですよ。でも、食べれる?」

 最後の質問が終わらないうちに、突然美和は真に抱き締められ、予想外のことにびっくりした。
 真の身体から僅かな発酵したアルコールの甘い匂いがした。
「先生」 
 呼びかけたが返事はなかった。代わりに、真は美和を少し離して両手で顔を包むようにキスをしてきた。美和には、それが本心を隠したいための行動に思えたが、真が舌を口に入れてきたときには、やはり身体が昨日の事を思い出して自然に応えていた。
 随分長い時間キスをしてから、真は額をくっつけたまま唇を離した。美和は離れる真の唇を追いかけかかって、止まった。真の両手が随分と優しく美和の頬を包んでいる。だが、その指先は血が巡っていないかのように冷たかった。
「美和ちゃん、俺は」
 美和はその先がどっちの内容であっても、聞いてはならないような気がした。
「先生、昨夜すごく良かったよ。恥ずかしいくらい濡れちゃった。ね、私はどうだった? やっぱり深雪さんの方がいい?」

 こんなことを言いたいわけではなかったが、自分が言い出したとはいえ、今あの男の話は聞きたくないと思った。真は何を察したのか、言いかけた言葉の先は続けなかった。代わりに、また美和の唇を優しく吸い、軽く音を立てるキスをしてきた。
「すごく良かったよ。愛おしいと、思った」
 その返事の後半を聞いた時には、美和は泣きそうな気持ちになって、真に抱きついた。真の言葉は嘘ではないだろうが、美和は、自分たちがしたことがこの男の気持ちを追い詰めないかと思って心配になった。
 それから随分長い間抱き締めあっていた。
 もしも、多分そういう周期ではないので大丈夫だろうが、子供ができたとして、北条仁が許してくれたとして、その先はどうなのだろう。この人は、本当に私のものになる?

 美和が自分の胸のうちに問いかけた瞬間、電話が鳴った。
 真は暫く動かなかったが、ゆっくり美和から離れると立ち上がる。美和は真が受話器を上げるのを見て、急に別の次元に行ってしまったように感じた。
「はい、大和ですが」
 同居人の苗字を当たり前に名乗っている後姿を、美和は取り残されたような気分で見つめた。
「いえ、どういう意味ですか?」
 真は向こうが話すのを確認するように聞いている。美和はその背中が徐々に緊張していく気配を感じた。
「誰も、見かけてないという意味ですか。いつから? いえ、ここには」
 真の声はいつもより擦れていた。酒のせいなのだろうが、その分切羽詰って聞こえてくる。
「分かりました、すぐに行きます」
 真は受話器を置いて、寝室に行ってしまった。出てきたときには着替えていて、美和の顔を見て、一瞬何か言いかけてとどまった。美和は問いかけた。
「病院?」
 真は弾かれたように頷いた。
「どうしたの?」
「竹流の、姿がないらしい。とにかく、行ってくる」
「え?」
 美和はどう返事していいのか、しばらく真を見つめたままだったが、出て行く真を追いかけて玄関まで行った。靴を履いてから、真は美和を振り返った。
「美和ちゃん、ちょっと澤田の経歴を調べてくれないか。それから、もし事務所に竹流から連絡があったら」
 真は一瞬躊躇ったようだったが、意を決してその先を続けたように見えた。
「俺がつかまらなかったら、二丁目の『葵』というバーのママに知らせてくれ。どこか机の引き出しにマッチがあったと思う。頼んだよ」
 先生、二日酔いは? と問いかける言葉を聞きもせず、真は飛び出していった。 
 美和は暫く玄関でぼーっとしていたが、急に気を取り直して出掛ける準備を始めた。



さて、いちゃついている間に何だかとんでもないことが起こっていたようで…
次回第5章『誰も信じるな』、お楽しみください。
ちなみに、この章題には出所があります…Xファイルのモルダーの部屋に貼ってあるポスター。
TRUST NO ONE

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[雨34] 第5章 誰も信じるな(1) 

第4章あらすじ

 恋人(というよりセフレ)である銀座のバーのママ・深雪のパトロンという噂のある代議士・澤田顕一郎から呼び出された真は、赤坂の料亭で会うことになった。澤田は竹流の怪我と何か関係しているかもしれないと、女刑事・添島麻子、雑誌記者・楢崎志保からにおわされている真は、探りを入れるつもりで乗り込む。もちろん、深雪とのことでちくちくいたぶられる可能性もあるのだが…と思いつつ行ってみると。
 話の内容は予想もしないことだった。
 真に、澤田のもとで働かないかという勧誘だったのだ。それも、澤田は真の実の父親、相川武史(世間ではアサクラタケシという名前で通っている)の大学の先輩であり、真の出生の事情、伯父・功が真を引き取ったことも知っていた。澤田は、自分のもとに来ることが真の安全を保障することになると告げる。しかも、ジャズバーの経営者・元傭兵の田安隆三は澤田の育ての親だという。
 話の内容には警戒しながらも、澤田のペースに巻き込まれて飲んでしまった真は、過去の話にいささかセンチメンタルになっていたことも手伝って、心配して真の帰りを待っていた美和とセックスをしてしまう。もちろん、美和のことは可愛いと思っていたので、勢いではなかったつもりなのだが、事が終わってしまうと自分の中で何かが冷めていることに気が付く。
 そこへもう一人真のことを心配していた竹流からの電話。何も話してくれない竹流に対してイラついていたにも関わらず、声を聞いているうちに恋しさがこみあげて来てしまう真に、竹流が『この件が終わったら、俺のところに来るか(=仲間として仕事をする、あるいは自分の全てを話すというニュアンス)』と言い、最後に『誰も信じるな』と告げる。
 美和は、真と電話の相手(=大家さん、つまり大和竹流)の間には割り込めないことを感じながら、真と初めて会った時のことを思い出していた。
 そして翌朝、二日酔いの真のもとへ、病院から竹流が姿を消したという電話がかかってきた。


さて、第5章です。
だんだんわけが分からなくなってきたと思いますが、適当に、適当に端折りながら読んでください。
こういう訳の分からない話は、気に入ったところだけ読むという方法があります^^;
って、そんなことをお勧めしてどうするんだって話ですが……




 病院までの道は渋滞だった。真はイライラしながらハンドルを何度も叩いた。暗い灰色の空からは、重くなった空気に溜めきれなくなった水滴がぱらついて落ちてきていた。
 雨だな。
 夜中の彼の声が耳に残っていた。甘い、耳元に口付けるようなハイバリトンの声が、電話だけに何倍も強調されて、耳のどこかに残っている。

 話をしたばかりだ。俺のところに来るか、とそう言われた。
 いや、多分すぐに戻ってくるのだろう。ちょっと出掛けただけに違いない。
 そう打ち消しながら、すぐにまた打ち消した。病院の中をうろうろしているとは思いがたい。少なくとも、病院からは姿を消しているのだ。さらわれたにしても自分から消えたにしても、良くない事態であることは間違いがない。
 車の流れは、天候のせいもあるのか、完全に止まっているようだった。
 渋滞の車の中にうずもれている間に、雨は突然激しさを増してきた。ワイパーは、始めは間歇的に動かしていれば済んだが、すぐに常時動かさなければ前が見えなくなった。そしてすぐに、雨は車自体を叩き潰す気ではないかと思うくらいの激しさになり、ワイパーの勢いを上げると、同じ勢いで気持ちがさらに焦ってきた。
 真は次の曲がり角で地下鉄の入り口を見つけると、脇道に逸れた。狭い道ながら、車がすれ違えることが分かると、駐車違反くらいは構わないと思って車を乗り捨てた。
 とにかく病院だった。
 雨が叩きつける中を、真は地下鉄の入り口に走りこんだ。


 担当の看護師が申し訳ないというようにあれこれ言葉を並べる中を、真は急いで病室に行ってみて確信した。布団は綺麗に畳まれていたし、何よりもあんなに目立つ男が誰の目にも留まらずに連れさらわれる可能性は低そうに思えた。ナースステーションの前を通らずに外に出るとなると非常口しか手はないが、開けられた形跡はなかった。常時ナースステーションに誰かがいたという保障はないが、本人の意思でなければ出て行くのはそこそこ困難に思える。
 真は警察に届けましょうか、という病院側の申し出に、暫く考えていたが、後でどうしてすぐに知らせなかったかと問い詰められるのも億劫だと思い、警視庁捜査一課の添島という刑事に知らせてもらうように頼んだ。もっとも、どうしてあなたが自分で連絡をしてこないのか、と言われそうだが、それはこらえてくれと思った。

 しかも、昼過ぎには状況はさらに明確になった。真が一度車を取りに病院を離れている間に、男が頼まれたと言って入院費を置いて行ったという。
 病院に張り付いていなかったことを後悔したが、その男が本当に頼まれただけなら、情報が得られるとは限らない。いや、今の竹流の状況に協力している人間なら、どうあってもうまく逃げられただろう。

 夜中の電話では、これからいなくなるような気配はなかった。来てくれるならそれでいい、と待ってくれているような言葉で電話を切ったのに、一体どういうつもりなのか。身体が多少は回復するのを待っていただけなのか、それとも新たな事態になって病院でじっとしている場合ではなくなったのか。
 看護師が、でもまだ少し熱があったのに、と呟くように言った言葉が頭に残っていた。何よりも身体の状態が心配だった。不自由な右手が何よりも気がかりだった。

 一旦事務所に戻ったが、じっと座っていることはできずに、真は町の中に出た。あてがあるわけではなかったが、新宿の東口の雑多な界隈を通り抜け、とにかく電車に乗ろうと思った。
 頭は忙しく働いていたつもりだが、動きは曖昧だったのか、何度も人にぶつかられた。いつもなら気持ちが悪いほどの人混みも全く意識の中に入ってこなかった。
 そもそも一体どこにこの『事件』の始まりがあるのか、見えなかった。知らない間に忍び寄るように日常の暮らしの中にまとわりついてきたようなものだ。
 日常の暮らし、と言っても、同居人や自分の生活が通り一遍のものとは思っていない。家族と平和に暮らす日常ではないし、同居人に至っては仕事も怪しい。

 ホームに立っていると、電車の警笛が頭の中を貫いた。
 誰も信じるな。
 警笛が、電話の同居人の言葉を向こうから投げかけてきたように思った。


 深雪と付き合い始めたのは一年以上も前のことだ。知り合ったきっかけも、ちょっとした事件でたまたま話を聞いただけで、別に誰かが何かを仕組んだようには思わない。
 澤田など、深雪のパトロンらしいとは噂されるが、現実にはどうだかわからない。第一、真自身が接触したのはつい昨日のことだ。たまたま真の父親の事を知っているからと言ってその点が怪しいとうわけではない。

 澤田が田安隆三と知り合いだからと言って、田安が怪しいわけでもない。いや、人物は怪しいが、田安が真に何か他意を抱いているなら、もうとっくにそういう片鱗を見せていてもいいはずだ。彼と知り合ったのは、そもそも真がまだ大学生のときだった。だが、田安は真と深雪とのことも知っているはずなのに、澤田の父親代わりに学費を出していたなど、初めて聞く話だ。

 田安のところに出入りしている楢崎志穂という女を見かけるようになったのは、この半年くらいの間のことだ。聞いたことはないが、田安とは随分前からの知り合いのように思える。澤田を恨んでいるようだが、だからといって手伝ってやる義理はない話だった。

 竹流の周りにいる人間で、あの添島という女刑事は、もう随分前から竹流を気に掛けていたように思ったが、蓋を開けてみればただ彼の女の一人というだけのことだった。国際警察機構に属していたことがある女で、その頃から竹流とは知り合っていたようだし、付き合いは長いのだろうが、竹流をあんな目に遭わせるようなことはないだろう。

 だが、女たちは皆、澤田の名前を口にするか、澤田の関係者だ。一人は澤田の『愛人』と言われている、一人は澤田に恨みでもあるようだし、一人は澤田の『目的』を知りたいという。
 添島刑事は、澤田が真に接触してくるはずだし、ある人がそれを気に掛けていると言った。ある人、というのは、以前一度外務省絡みの事件で知り合った相手だった。と言っても真にとってはそれほど特別な事件だったわけではなく、ただ真が請け負った失踪人調査の対象になった家出少年が、外務省の某高官の息子だったということだけなのだが、この少年はコンピューターのいわゆるおたくで、父親のところから何かとんでもないものを『盗み出していた』らしい。その先のことは真の耳にも目にも入ってこないので、実際に何があったのかは知らない。だが、その少年を見つけたら、直ぐに連絡をしてくるようにと言われた先が、その人のところだった。添島刑事が『特別な番号』といったのはそのことだ。
 内閣調査室の河本、と名乗った。本名かどうかは知らない。

 真と血のつながりのある、つまり実の父親である相川武史は、真が生まれて直ぐに日本を出て行っている。詳しいことは何も知らない。最近彼が真に対して態度を変えたような気配もない。つまり、会いたがったり、接触してくるようなことだ。彼がどこか異国で特別な仕事をしていることで、時々自分の身辺で微妙な出来事があるように思うこともあるが、何かが突然変わったわけでもない。
 
 竹流が『誰も信じるな』と言った『誰も』は、他にも候補者がいるのだろうか。
 竹流が出掛けたのは三週間前のことだ。彼が出掛けるのはしょっちゅうのことで、いつでも楽しげに仕事に出て行く。今回唯一ムードが違ったのは、いつもに比べてちょっとばかり嫌そうに出て行ったことくらいだ。
 彼の仕事は大概、美術品もしくは歴史的遺物に絡んだことだ。今では古い日本画、襖絵・屏風絵や版画修復の専門家の一人に数えられているが、もともとルネサンス期の芸術品、そして聖堂にあるどんなものでも修復する手を持っていると聞いている。彼自身はロシアやギリシャ正教のイコンに造詣が深いようで、大和邸のアトリエに並ぶイコンを見ると圧倒される。まさに聖堂の中にいるようなものだった。
 それらと関係のないような仕事を竹流がするとは思えないが、嫌々出かけたということは、そういった本来の仕事とはかけ離れたことなのか。大体、そういうことと、澤田や内閣調査室だの米国の国家機構だのは関わらないような気がする。

 それなら、やはり竹流の実家の問題なのか。
 竹流自身は何も話さないので、全て伝聞に過ぎないが、ローマのヴォルテラ家は表向きには銀行家つまり金貸し業で、世界の有名都市にいくつかのホテルを持っている事業家だが、実際には国家や大きな組織に情報を売っている組織だと聞いていた。特にソ連と中東の情報には通じていて、そもそもヴォルテラの家はイタリアのファシズムを早々に終わらせた一翼を担っていたという由緒正しい経歴を持つ。国の栄華は最早落日となっているが、あの家は始めからそんなものには目もくれず、独自の道を歩んでいる。冷戦の前にはソ連の情報に最も詳しい人間の一人だと言われたが、既に矛先を中東に向けているとも聞く。さらに警備会社を持っていて、一般家庭の警備ではなく、国家や部族のような大きな組織の警備をしているとも聞く。その後ろについているのは、世界に最大のネットワークのひとつを持っているヴァチカンであるらしいとも。いや、表の顔は全て隠れ蓑であり、ヴォルテラの本質はむしろ教皇庁との関係で成立しているとも聞いている。

 とは言え、それが澤田と接点があるようには思えない。
 だが、竹流は澤田の事を知っていて、彼の元で働かないかといわれたのか、と聞いた。
 国の親分が動いている気配はないと、竹流の仲間が言っていたし、やはり澤田と何か関係があるのだろうか。

 落ち着け、と真は自分に言い聞かせた。『事件』ならば何かが起こったのだ、何かが起こっているのだ。
 ひとつは誰かが竹流を暴行した。勿論、それだけで十分『事件』なのだが、絡み付いている出来事を思い出さなくてはならない。

 出来事と言えば、事務所が荒らされた。さんざん引っ掻き回してあったが、真の仕事に直接関わりあることを探っていたわけではないように思えた。
 持っていかれたのはフロッピーとテープ類、ビデオだ。
 誰かが、何かを探している。
 マンションにその誰かが現れないのは、あのマンションが簡単には入り込めない造りで、しかも竹流が二重三重のセキュリティをかけているからだろう。
 では、大和邸は。
 もう一度行ってみるかと思った。高瀬も帰ってきているかも知れない。

 真は大和邸の方向とは逆に向いていることに気が付いて、電車を降りた。降りてみると、田安のジャズバーがある東京湾の近くだった。
 何となく気になり、思い立って田安のところに行くことにした。田安にも話を聞きたかったし、丁度いいと思った。本当に澤田代議士と田安がそんなに親しい間柄なら、真が香野深雪と付き合っていることを知っていたのに、どうして何も言わなかったのだろう。
 もっとも、他人の情事にいちいち意見を言うような人ではない。
 それとも、澤田と田安は二人して、あるいは深雪も一緒に、自分を見張っていたのかと思った。
 まさかね。俺も随分偉くなったものだ。

 真は駅を出て、小雨になった湿っぽい空気の中を田安のバーへの道を歩きながら、色々と嫌な想像を打ち消した。
 だが、深雪はともかく、田安も澤田も真の父親の事を知っている。田安は終戦からずっと傭兵をして世界中の戦地を歩いてきた男だという。父とは立場は違うのだろうが、接点があったのだろう。
 もし本当に誰かが真の中の遺伝子を欲しがっているのだとして、そんなものが何になるのだろう。父が息子を愛おしいと思っている気配は全くないし、万が一そうだとしても、今更澤田や田安が真の父親に何かを要求したところで仕方がないように思える。万が一にも父が息子を愛おしいと思っていたとしても、彼は自分の立場と仕事をわきまえているだろう。息子が犠牲になるのを助けるために、彼自身に課せられた立場や義務を棄てるようなウェットさを持ち合わせている男ではない。

 ジャズバーの表は、勿論こんな時間に開いているわけがなかった。
 巨大な倉庫が並ぶ埠頭から少し離れたところだが、回りには何を扱っているのか分からない会社の事務所や倉庫が並んでいて、その中で田安の店は、外見こそ周辺と同じように地味な気配に沈んでいる。他に店らしいものはないし、賑やかな界隈ではない。それなのに意外にも客は少なくない店だった。もっとも、どういう目的の人間たちが集まってくるのかと言えば、真っ当とは思いがたい。
 真は勝手口に回りドアを叩いてみたが、返事はなかった。代わりに、それほど遠くないところから汽笛の音が聞こえてきた。

 考えもなく来てみたが、真昼間だし寝ているのかもしれない。
 田安はこの上の階の倉庫のような部屋に住んでいるが、小さな窓があるだけの部屋で、外から人の気配が窺えるわけでもない。
 もう一度勝手口を叩いてみたがやはり返事はなく、真は諦めるしかないかと思いつつ、何気なくドアノブに手をかけた。

 抵抗なく、ドアノブは廻った。
 真は怪訝に感じつつドアを開けて中に入った。酒類の箱が積み上げられた物置兼廊下を少し進むと、カウンターの内側に出る。真はカウンターへ入る潜り口の向かいにある鉄の階段を登って、田安の住む部屋に上がった。
 靴音が高く反響して、空洞のような空間に広がる。
 階段を上がると小さな踊り場のようになっていて、ドアが一つきりある。
 それをノックしたが、返事はやはりなかった。まさかと思ってドアノブをまわそうとしてみたが、こちらはさすがに鍵がかかっていた。
 たまたま勝手口の鍵を掛け忘れたのだろうか。
 そう思いながら階段を下りて、一応カウンターの内を覗いた。地下への落とし扉は閉じられていて、中に人のいるサインはない。
「何だ、あなただったの」
 突然の声に真は驚いた。店の中に立っていたのは楢崎志穂だった。





さて、第5章が始まりました。
あらすじ、第3章までは長かったのに、4章が短いのはエッチしていただけだから?
何だかちょっと変な気分。
会話には、結構いろいろな情報(伏線ではなく人物の)が含まれていたのに…

以下、再掲。

このシリーズの読み方指南。竹流の立場から見たら、こんな感じです。

(真の年齢・状況) → (竹流の立ち位置)
小学生(高学年)~中学生 → 野生の生き物手懐け期
高校生          → 猫かわいがり期
大学受験~入学までの1か月 → 道踏み外し期
              (『海に落ちる雨』に出てきます)
大学生~崖から落ちるまで → 突き放し・遠くから見守る・立て直し期(同上)
崖から落ちて~同棲まで  → 迷い道期 (『清明の雪』はここ)
同棲期    → 第2次猫かわいがり期(『海に落ちる雨』はここ)
       猫だと思っていたら、いつの間にか猫が山猫になっていたけど…
               
この先は……かなり辛い部分がある時期ですので、またいずれ。

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨35] 第5章 誰も信じるな(2) 

*行く先々で絡む志穂。代議士・澤田顕一郎に対して何か含むところがあるようで、さらに大和竹流のところに出入りしていた男のことを見張っていたようでもある。何かを知っているようなのだが、真が全面的に協力してくれるなら話す、というだけで、事情がつかめない。
事務所に戻ると、今度は深雪が訪ねてきて…美和のご機嫌を損ねることに…



「こんなところで何をしている?」
「何って、田安の伯父さんに呼ばれたから来たのよ。あなたこそ、何してるのよ」
 真はそう言われて、勝手に侵入したのは自分の方か、と思った。
「田安さんに話があったんだ。ドアが開いたから」
「そう」
 この女が鍵を開けたのか、と納得していると、志穂はカウンターの高いスツールに座った。
「おかしいわね。正午って言ったのに。あの人、時間にうるさいからちゃんと来たのに、もう一時間以上待たされてるのよ」

 真はカウンターの内側から志穂と向かい合っていた。
「もう帰っちゃおうかな」
 志穂は派手な顔つきに似合わないような無邪気な声で呟いて、真のほうをちらりと見た。
 昼間のバーは滑稽なほどに明るく、間が抜けるほどに柔らかな空気に満ちていた。高い窓からは、さっきまではガラスを打つ雨の音が聞こえていたような気がしたが、今は白っぽく明るい陽の気配が降ってきている。遠くに、汽笛の音が重なった。海が近いのだ。

「澤田に、会ったんでしょ」
 真はこの女が何を知っていても、とりあえず驚かないことにした。
「どうして知っている?」
「まぁいいじゃない」
「一体何故、澤田にこだわる? 田安さんに近づいたのも澤田のことでか?」
 志穂は意味ありげに笑った。
「まぁね。言ったでしょ。澤田は仇だって」
「どういう意味か聞かせてくれ」
「今日は低姿勢ね」

 志穂はカウンターの上の灰皿を暫く指先でつついていたが、やがて真の方に顔を上げた。
「聞きたいなら聞かせてあげてもいいけど、代わりに何をしてくれるの」
「何をして欲しいのか聞かせてくれたら考える」
「じゃあ、香野深雪に澤田をどう思っているのか、直接聞いてよ」
「深雪に拘るわけは何だ?」
 志穂は暫く答えずに真を見つめていた。それからふと、視線を逸らし、思い立ったように立ち上がる。
「じゃあ、取り敢えず、ホテルに行かない?」
「ホテル?」
「丁度サービスタイムだし」

 真が何とも答えないでいるうちに、志穂は立ち上がりカウンターの内側に廻ってきて、真の腕を取った。それでも真が動かないでいると、彼女はさらに強く真の腕を引っ張るので、結局一緒に店を出た。
 志穂は薄い青のジャケットのポケットから鍵を取り出して、重い金属の勝手口の扉を閉めた。
「鍵、持っているのか」
「うん、まぁね」志穂は曖昧に答えただけだった。「ほんとに、どうしたのかしらね。何で来たの? 車?」
「いや、電車で」

 さっきの土砂降りは気のせいだったのかと思うほど外は明るくなっていて、太陽の光が足元を間抜けなほどにくっきりと照らし出している。
 志穂は真が逃げないようにとでも思っているのか、腕を摑んだままで、ポケットから別の鍵を出すと真に手渡した。
「運転、してくれるでしょ」
 志穂の車は国産車の軽で、店の近くに停めてあった。

 展開はともかく、何か知っているなら聞き出そうと思ったので、真は言われるままに車に乗り込み、志穂の指示のままに車を走らせた。新橋の近くまで来ると町の中の細い道に入り、一軒のラブホテルの前に出た。
「ここ?」
「何、躊躇ってるのよ。さっさと入ってよ。恥ずかしいでしょ、こんなところに止まってたら」
 それもそうだと思い、とにかく垂れ幕がぶら下がった入り口をくぐった。暗くて狭い半地下の駐車場に車を進めて止まると、志穂はさっさとドアを開けて車を降りる。
 仕方がないので、真もエンジンを切って車を降りた。

 真がドアに鍵をかけたときには、志穂は既にホテルの入り口に入っていってしまっていた。一体どういうつもりなのか、と思ったが、とにかくついていくしかなさそうだった。
 パネル式の受付で、部屋の写真が並んでいる。空いている部屋のパネルには明かりが点っていて、志穂はそのうちの一つを選んでパネルの下のボタンを押した。見ると、昼時にも関わらず半分ほどの部屋の明かりが消えている。
 三千五百円です、という女の声が小さな窓口の向こうから聞こえた。真は振り返った志穂に急かされるように財布を出した。

 階段を半分上がると、駐車場とは違って比較的綺麗なロビーになっている。エレベーターがあって、四階まで上がった。志穂は口をきかずに、さっき窓口で受け取った鍵を弄んでいる。
 エレベーターを降りると、どう見てもOLとその上司という風情の二人が立っていて、真たちから視線を逸らした。こういう場所は仕事柄それなりに慣れているつもりでも、時々背中が冷たくなるような時がある。皆がある一つの目的のためだけにここに来るからかもしれないが、駅のホームでしばしば吐き気や頭痛に襲われるのとは少し訳が違っていた。もっとも自分とてこういう所をそういう目的で利用することはあるのだから、文句を言うわけにはいかない。

 志穂は先に立ってある部屋の鍵を開けると中に入っていく。
 中には小さな玄関があって、奥に続く扉をもう一つ開けると、左の手前に洗面とトイレらしいドアと、ガラス張りになった大きなバスルームがあった。一段高くなったところに大きなオレンジ色の掛け布団を置いたベッドがある。
「今の香野深雪とはこんな下品なホテルに来ることはないでしょうけど」
 真は黙っていた。志穂はベッドに座って挑発するように脚を組んだ。綺麗な脚を持った女で、今日は短いスカートを履いている。
 深雪が気まぐれでこういうホテルを使いたがることがたまにある。面白がってそういう配信番組を見ながら行為をすることもある。だが、別にこの女にそんなことを伝えてやる必要はなかった。

「このホテルはね、ある男がある女といつも密会に使っていたところ」
 それがどうしたのか、と思った。
「男は雑誌記者で、何年か前から妻が交通事故で寝たきりになってて、八つになる女の子と暮らしていた。妻が事故に逢う前から、男はある女とここで抱き合うような関係で、妻が寝たきりのまま病院で亡くなった日もここで女に会っていた。妻が亡くなってからも、男は女との関係を断ち切れなかった。そして、半年後、自殺したわ」
 座ったら、と言うように、志穂はベッドの隣を指した。真は言われるままに座った。
「男はその時、ある不正融資について調べていた。男が自殺した後で、男の持ち物からフロッピーに入った脅迫文の原稿が見つかった。脅迫文の宛先は表には出なかったけど、政財界のそこそこの人物が幾人かターゲットになっていたようだった。男が寝たきりの妻の治療費で借金を抱えていたのは事実だけど」

 志穂は言葉を切った。真は彼女の横顔がいつになく真面目なのを見て取った。
「君の知り合いか」
「私の上司だったの」
「それだけか」
 志穂は真を見つめた。
「好きだったわ。記者としての基本も心構えも、何もかも教えてもらった。自殺したなんて今でも信じられない。子煩悩でいい父親だったわ」
「その、女というのは、君ではないんだろう」
 真は言葉を選ぶように言った。志穂は返事をしないまま、真から視線を逸らした。
「だから、香野深雪にどういうつもりなのか、聞いてよ」

 真は視線を逸らせたままの志穂の横顔を見た。
「深雪が、その男の恋人だったということか」
「恋人? 不倫でしょ」
「だが、それが澤田と何の関係が」言いかけて、真は留まった。「まさか、脅迫されていた政治家の一人が澤田で、澤田が深雪を使ってその雑誌記者をどうかしたとか、思っているんじゃないだろうな」
「知らないわよ。だから、本人に聞いてよ」

 真は顔を上げた志穂と暫く睨み合うような格好になっていた。だが、次の瞬間、志穂は真に身体を投げ出すようにして首に腕を回し、真の唇に自分の唇を押し付けてきた。真は一瞬何が起こっているのか認識できずに志穂を抱きとめたが、直ぐに彼女の身体を引き離した。
「何のつもりだ」
「あなたも、香野深雪の身体と離れられないんでしょ。その男の気持ちが分かるんじゃないの」
 そう言ってから、志穂は真の胸を確かめるようにシャツの上から触れてきた。
「あの女はそんなにいいの? 男が自分の何もかもを捨てるほどに?」
 真は思わず志穂の手首をつかんだ。
「君が直接深雪に聞けばいいだろう。万が一君の考えていることが事実だとして、俺が聞いても彼女はそうだとは言わないぞ」
 志穂は真を見つめてたままだった。

「あの人は肉親の感情を踏み躙るような女よ。話なんかしたいとは思わないわ」
「肉親?」
「赤の他人なら許せても、肉親だからこそ理解できないし、許せない事だってあるでしょ」
 真は志穂の手首を離した。志穂の言葉の意味を反芻してみたが、理解の向こうだった。
「試しに私を抱いてみたら? 何か分かるかもよ」
 深雪が男を誘うとき、こんなふうに必死な印象はないな、と真は思った。口で生意気を言いながらも、この女は目一杯な感じがしたのだ。
「悪いが、そのつもりでここについてきたわけじゃない」
「でもちょっと期待しなかった?」
「そういう気分じゃない」
「あら、じゃあ、そういう気分なら抱いてくれるの? それとも、大事な人が消えたから、それどころじゃないって事?」 

 真は思わず志穂の腕を掴んだ。
「どういう意味だ?」
 志穂は意味深に笑った。
「ほら、そうやって必死になる。消えたでしょ、あなたの彼氏、病院から」
「どうしてそんなことを知っている?」
「病院で騒いでたからよ」
「見張ってたのか」
「まぁね」
 真は志穂の腕を離さないまま更に聞いた。
「あいつはどこへ行ったんだ?」
「そんなこと知らないわよ。私が見張ってたのは別の男よ」
「そいつは美和がつけていった男か。竹流のところに面会に来ていたという」
 志穂は自分の腕を掴んでいる真の手に手をかけて、振りほどいた。
「あなたの彼氏、と言われて否定もしないと思ったら、今度は秘書さんを呼び捨て。随分仲がいいのね」
「君には関係のないことだ。その男を何故見張っている?」
「私と寝たら教えてあげてもいいわよ」
「馬鹿を言うな」
「教えてくれ、と言うから交換条件を出してるのに、もうちょっと低姿勢になったら?」
 真は志穂とまた暫く睨み合った。

 だが、先に視線を逸らせたのは志穂のほうだった。
「そうね、私は肉親の恋人と寝る趣味なんてないわ」
 そう言って志穂は立ち上がった。
「帰りましょう」
「何を言っている?」
 真は座ったままひとつ前の志穂の言葉の意味を確かめようとした。
「だから、香野深雪に聞きなさいよ。ベッドの上でいい気分になりながらね。あなたがいつもよりもっとあの女を悦ばせてあげたら、話してくれるんじゃないの。もっとも、あなたの方にその余裕があれば、だけど」
 随分な悪態をつきながら、志穂はもう部屋を出て行こうとしていた。真はひとつ息をついて、自分も立ち上がった。

 エレベーターの中でも志穂は口をきかなかった。
竹流に面会に来ていたという男の事を問い詰めたかったが、何もかもを拒否するような志穂の態度を見ては諦めざるを得ないようだった。ロビー階でエレベーターを降りると、志穂は真に歩いてここから出て行けと玄関口を指して、自分は駐車場への階段を降りていった。
 真はそれを見送りながら、諦めてラブホテルの正面口から出た。
 出たところで、入ってこようとした若いカップルとぶつかりそうになった。一人で仏頂面で出てきた男をカップルはどう思ったのか、一瞬意味深にこちらを見たのが気になったが、それどころではない気分だった。


 電車に乗ると一旦新宿まで戻り、車を取って大和邸に向かうことにした。考えてみれば大和邸があるところは結構な田舎なので、電車で行くとなると不自由この上ない場所だった。
 事務所に戻ると、ドアを開けた途端、美和の恨めしそうな声が飛んできた。
「先生~、連絡くらいくれてもいいのに」
「ごめん。何かあったか?」
「大家さんからは連絡ないし、澤田の経歴なんて、資料が多すぎて読みきれません」
 横で宝田までが、美和がどこかから担いできたらしい本の山と格闘している。少年少女向けの推理小説以外の本を広げたことがほとんどなく、細かい字を読むのが苦手な宝田には苦痛な作業だろうと思った。

「悪かった。あ、それと、何年か前に雑誌記者が、不正融資をしている会社や政治家を脅迫していて自殺した事件、なかったかな。詳しく知りたいんだけど」
「いつのことですか」
 そう言えば、いつという部分は聞いていなかった。俺も間抜けだな、と真は思ったが、楢崎志穂の連絡先も知らないし、もう一度会って話したいとも思わなかった。真が黙っていると、美和があきれたように言う。
「わかんないんですか。先生、ちょっと要求が無茶」
 美和の声はいつもの通り勢いが良くて明るく、真をほっとさせた。
「じゃあ、井出ちゃんにでも聞いてくれ。彼なら何か覚えてるかもしれないし」

 井出というのは新聞記者で、政治絡みの事件が専門だ。少し変わった男で、少年事件にも興味を持っていて、時々真のところにネタを仕入れに来る。勿論守秘義務を外すようなことはしないし、そうでなくても簡単にネタを提供するようなことはなく、仕事面ではそれなりに損得勘定をして付き合っているが、実際には時々飲みに誘うことのほうが彼の主目的なのではないかと思う事がある。
「あ、それもそうね。もう一つくらいキーワード、ないんですか」
「遺族は八歳くらいの女の子。母親は交通事故で寝たきりだったのが亡くなっている」
 美和は頷いて、念のためというように手帳に書きとめていた。
「それが、大家さんの怪我と何か関係あるの?」
「さぁ、どうかな。澤田と」一瞬真は躊躇ったが、先を続けた。「香野深雪には関係しているかもしれない」

 さすがに深雪の名前には、美和は複雑な顔をした。
「じゃあ深雪さんに聞けば分かるんじゃないんですか。先生、自分の恋人でしょ」
 宝田が横で頷いている。
「うん、まぁ、そうだけど」
 真が曖昧にしても否定しなかったのが美和の気に障ったはずだが、美和が何か言いかけたのを感じて真がまずかったな、と思ったときにドアがノックされた。
 美和は弾かれたようにドアのところにとんでいって開けた。攻撃を受けずに済んだかとほっとしたのも束の間、ドアのところに立っている女を見て、真はもっとまずい状況になったと思った。
 噂をすれば影、とはよく言ったものだ。

「まぁ、皆様、お揃いなのね」
「深雪」
 真は考えもなしに彼女の名前を呼んでいた。深雪は髪を綺麗に結い上げて、上品な白いスーツを着ていた。和装でも洋装でも、彼女は人の目を引く女だった。色白の肌の中で唇の赤みに一瞬で目を奪われ、やがて優しげな瞳に摑まると抜け出せなくなるような、そういう外観を持っている。
「真ちゃん、会えてよかった。ちょっとお願いがあって」
「うちはボランティアじゃありませんけど」
 被せるように美和が言った。美和が怒っている相手が、深雪ではなく自分であることは、多少女心が分かっていない真でも十分感じられた。
「あら、そんな事じゃないのよ」

 深雪は美和の言い分を完全に無視して真の方を見つめた。
「預かって欲しいものがあるの。今夜いつもの部屋に来てくださる?」
 完全に不味い状況だというのは間違いなかった。真は思わずドアまで行って、深雪の腕を取り、身体ごと抱くようにしてドアの外に出た。
「どうしたんだ、こんなところに来て。電話してくれたら」
「ちょっと近くまで来たから。それにあのお嬢さんに嫌われてるみたいだから、電話を切られてしまいそうだもの」
 そう言いながら、深雪はほとんど真の肩に頭を引っ付けるようにしていた。

「もう少しの間だけ、私のこと信じてくれる?」
 小さな声で深雪は呟いた。真は何を言われたのか、意味を考える余裕もなかった。
「じゃあ、九時に」
 深雪はそれでも離れがたいように真の身体にもう一段身を寄せると、直ぐに思い直したように離れた。真は深雪の優雅な後姿を見送って、暫くそこに突っ立っていた。

 頭は色々なことを考えていた。楢崎志穂が言っていたように、深雪に問い詰めるのが一番早いのかもしれない。まだ竹流との直接のつながりは分からないが、手がかりのない今は、何にでもしがみつきたい気分だった。
 だが、身体はそういう全てが言い訳であることを知っている。
 真は気を取り直して事務所の中に戻った。

 デスクの前に戻ったところで、美和が立ち上がり、幾冊かの本を重ねて真の前にバン、と音を立てて置いた。
「自分で読んでください!」
 そう言って美和は自分の机に戻り、バッグを取り上げて出て行こうとする。
「おい、どこに行く気だ」
「井出さんのところと図書館。調べてくれって言ったの、先生でしょ!」
 ドアを勢いよく開け放ったまま、美和はずんずんと出て行ってしまう。さすがにこの日は追いかけないわけにもいかず、真は狭く薄暗い階段の前で美和に追いつくと、彼女の腕を捕まえた。

 美和は本当に怒っているらしく、頬を震わせるようにしてそっぽを向いた。
「何をそんなに怒るんだ。いきなり冷たくするわけにもいかないだろう。しかも、彼女は何か知っているんだ」
「そういう言い訳してあの人と寝るんでしょ。先生なんて最低。昨日の今日でよくそんなことができるわね」
「何も抱きに行くわけじゃない。考えすぎだ」
「でも、結局そうなるわよ」
 叫んで真を睨んでから、急に美和は泣きそうな顔で俯いた。
「……ごめんなさい。私も二股かけてるんだった。何、怒ってんだろう、人のこと言えないよね」
 廊下の壁に押し付けられたような格好になっている美和が、頭をこつんと真の胸にひっつけた。さっきの深雪の頭よりもずっと重い頭だった。
「頭、冷やしてくる」
 美和はそう言って逃げるように階段を下りていった。

 開け広げの彼女の性質はそれで十分美徳だった。真は自分の二股の方がずっと性質が悪いことを知っていた。多分、今夜深雪と会えば抱き合わずにはいられないだろう。それは美和の言うとおりだった。
 事務所に戻ると、宝田が大きな身体でおろおろしていたが、真が机に戻るとその前に駆け寄ってきた。
「先生、その……結局、美和さんとそういうことなんすか」
 真は宝田のごつい顔を見上げた。心配そうな顔を見ていると、君には関係ないとは言えなかった。
「いや、つまり、ちょっと複雑なことになっていて」真は言葉を一旦飲み込み、一息ついてから続けた。「だからちょっと、美和ちゃんについていてやってくれないか」
 とにかくここは宝田も追い払ってしまうことにした。途端に宝田は真面目な顔になり、彼にしては珍しく口籠る事も無く、はっきりと言い切った。
「わかりやした。しかし、先生、そういうことなら深雪さんとはきちっと別れていただきやす」
 真は頷いた。
「いずれね」
「そんないい加減な」
「この件が片付いたらもう会わない。約束するよ」
 そんなことを宝田に約束しても仕方がないのだが、それを聞いて宝田はやっと納得したのか美和を追いかけて出て行った。



少しずつ、『出来事』が積み重ねられていきます。
どうやら糸口が出てきそうな次回。
ちなみに、伏線の中にはヤラセがありますので、ご注意ください^^;
誰も信じるな……特に作者を^m^

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[雨36] 第5章 誰も信じるな(3) 

 二人とも出て行ってしまうと、突然事務所がだだっ広くなった気がした。その降って湧いた、安い芝居で見たような寂寥感に、真は自分がこれから何をするつもりだったのか思い出せなくなってしまった。仕方なく、接客用の応接セットのソファに身体を預けるように座って、煙草を引き抜いた。
 美和への感情と、深雪が接触してきたことへの興味と、楢崎志穂が提供していった情報を並べてみて、どれもが心の中で中途半端な重みを持っていることだけが分かった。まだ一体何が起こっているのか掴み切れないままで、真はイライラしている自分の核がどこにあるのか、分かりそうで分からない、いや、分かりたくない自分が最も難敵だと知っているようにも思った。

 煙草は味がなかった。
 同居人がめったに煙草を吸わないので、マンションの部屋の中では遠慮している分、時々あのテラスで吸う煙草は、高校生の時に隠れて吸った煙草並みに美味い気がしたが、今ここで吸っている煙草には味も何もなかった。
 そのことに気が付くと吸っていられない気がして、煙草を揉み消した。
 その瞬間ドアがノックされたので、真は反射的にどうぞ、と返事をした。あまりにも無愛想だな、と気が付いてドアを開けにいこうとすると、向こうからドアが開けられた。
 立っていたのは部下を一人連れた添島刑事だった。

「彼を逃がしたの?」
 明らかに添島刑事の声は緊迫感があった。
「何のことです?」
「どこに隠したのかと聞いてるの」
 真は暫く女刑事の顔を見つめたままだった。
「自分で電話してこないで、私を指名して病院に電話させるってことは、私と顔を合わせたくなかったってことでしょ。でなければ、どういう了見なのか聞きたいわね」
 真は添島刑事を事務所に誘い入れることも忘れていた。
「隠してなんかいません。しかも、あなた方は彼を見張ってたんじゃないんですか」
「あなたに任せると言ったでしょ。どうせあの男はこちらの裏を掻いてくると思ってたから、あなたに頼んだのよ。いいえ、あるいはもう手を引くかと思ってたわ」
「もし自分で出て行ったのなら、それなりの理由があるのだろうし、防御策くらい考えてるでしょう」
「本当に隠してないの」
「知りません」
 それから暫くまた睨み合っていたが、やがて静かに添島刑事が言った。
「自分で出て行ったの?」
「そのようです」
「あんな目にあって、まだ手を引く気がないのね、あの馬鹿」

 真は黙ったまま、女刑事の俯いた表情を見つめた。身体の芯のところでは何かが燃えているようにかっかしているのに、どう表現すればいいのか分からなかった。
「あなた、人捜しが専門でしょ。とっとと捜しなさいよ」
 いつまで冷静でいられるのか、いささか自信がなかった。だから、まだ頭が冷めているうちに確認しておくべきだろうと思った。身体の芯で燃えているものの正体はまだ見えない。
「あなたは、澤田が接触してきたら河本さんに連絡しろと言った。澤田は俺の叔父、いえ、父のことで外務省やら警察庁に探りを入れているとも言った。内閣調査室の室長が、何故澤田の目的を知りたがっているんですか。大体、そういうことと竹流に何の接点があるんです。あなたはちらちらと澤田の名前をちらつかせながら、竹流のことでは肝心なことを話していない。しかも、捜査一課のあなたが、どうして政治家絡みの事件に首を突っ込んでいるのか」
 添島刑事は目を閉じるようにして俯いた。小さく首を横に振り、何かを制する部下に構うなという仕草をした。

「彼がどうして首を突っ込んできたのか、こっちが聞きたいわ」
「どういう意味ですか」
「首を突っ込んできたのはあなたの同居人のほうなのよ。彼は河本が以前から追いかけている人物の関係者と接触している。あなたが香野深雪と付き合ってたのは偶然だと思うけど、澤田もその人物を調べているみたいだった。河本は澤田に会ったけど話をはぐらかされたようよ。澤田はあなたの父親の仕事を知っていて、理由は分からないけど彼と個人的に接触しようとしてるんじゃないかと、河本はそう思っている。ICPOの時代から私がジョルジョ・ヴォルテラと面識があることを知っていて、河本は私を呼び出して、彼にこの件から手を引くように警告しろと言ったわ。命に関わることになるかもしれないって。彼には河本の言葉を伝えたけど、無視された。私の警告など聞くような男じゃないとは思っていたけど、でも、さすがにあんな目に遭ったので、今度こそもう手を引くかと思ったのよ。少なくともあの右手じゃどうしようもないと思った。それなのに」
 竹流の名前が本名で呼ばれた時点で、真の感情は簡単に引っ掻き回されてしまった。しかし、むしろその先の内容に、真は思わず添島刑事に近づいて腕を掴んだ。

 命に関わる?
 単語の意味が呑み込めずに、すぐには言葉が出てこなかった。
 やはり、物事は真が思っている以上に複雑だったということだ。
 添島刑事の部下が真の手を抑えようとしたが、それを振り払う。途端に、不信感は言葉になった。
「何故、ちゃんと知らせておいてくれなかったんですか」
 真の声も怒鳴り声に近かったが、答えた添島刑事も同じように叫びのようだった。
「あなたに何でも話すわけにはいかないでしょ」
「あなたがちゃんと知らせてくれていたら、彼を一人にはしなかった。機密だか何だか知らないが」
「馬鹿言わないでよ。あんな怪我してたのよ。あなただってもう少し察しがいいかと思ってたわ」

 真は添島刑事から手を離した。
 その通りだ。
 昨夜の電話でもう少し何かを感じていたら、いや、いっそ会いたいと言われているのだと勘違いして会いに行っていたら。それなのに自分は敵か味方かも分からない澤田に誘われて気分よく飲み食いをして、挙句に美和とじゃれあっていたのだ。その自分自身に吐き気さえしてきた。
 その感情を押さえるようにして真はゆっくりと言葉を繋いだ。
「あいつは妙なお宝を探して変なところに出掛けてるけど、そんな国家だの政治だのに不用意に首を突っ込むような人間じゃない」
「その通りよ」
 真は添島刑事の押さえた声に、彼女なりの必死な気配を感じた。公的な部分つまり仕事としての懸命さではないもの、それを彼女は精一杯押さえつけている。
 この女もやはり彼を愛しているのだ。必死でないはずがなかった。

「その人物って、誰です?」
「わからないのよ」
「分からない?」
「河本がどこまで私に手の内を見せているかは知らないけど、彼は正確に誰を追いかけているのか分からないと言っていた。ただ、幾つかの出来事について『誰か』が動いているようだということと、それが彼や彼の関係する事情の中では好ましくないのだということだけがわかっているのだと」
 河本が簡単に添島刑事に全ての事情を話すとは思えない。彼のような立場の者は、駒として使う部下には、駒として不必要な情報は与えないだろう。確実に、目の前の命令をこなしてくれたらそれで十分だと考えるはずだった。
 だが、河本が言いたくないその『誰か』が確かに竹流を傷つけたのだ。

「そいつが、竹流をあんな目に遭わせたのか」
 真は思わず誰にでもなくそう呟いていた。身体の奥で何度も疼いていたものが怒りで燃え上がりそうになるのを感じたが、添島刑事に悟られるのは拙いと思った。
「それはわからないわ」 
 添島刑事は真の独り言のような呟きに返事をしてくれた。
 真は顔を上げて彼女を見た。添島刑事は、何かを訴えかけるような目で真を見ていた。これ以上話せないけれど、察しなさい、とでもいうような目だった。

「あなたは、竹流が危ないと、そう思ってるんですね」
「そうよ。言ったでしょ。ああいうことをする人間は、普通の顔をしてるんだって。もしも外見から危険な人間なら警戒すれば済むことよ。でも隣の家の優しいおじさんを見分けられる? そしてあなたは、その人の何を知っている?」
 その時、真は改めて電話の竹流の言葉を思い出した。
「誰も信じるな」
「そうよ。あなたの味方は、多分あなたの心だけが見分けられる」
「俺の、心?」
「私が味方だと言ってあげたいけど、それをどう思うかはあなた次第でしょ」
 真は俯いて、静かに拳を握りしめた。

 
 美和に置き手紙をして、事務所の鍵を閉めた。
 じっと座っていることはもうできなかった。
 大和邸まで車を走らせながら、信号で停まるたびに手の平の汗がじっとりと冷たく感じた。色々なことが頭に浮かんだが、思考の域まで達していたかはわからない。
 どこかで、大和竹流という男が完璧で隙のない人間だと思っていた。あの傷ついた姿を見た後でも、それでも彼に勝算がないなどとは思ってもいなかった。真にとって、あの男はある種の神のようなものだといっても過言ではない。真に言葉を教え、道を示し、呼吸の仕方さえ教えてくれたのは彼なのだから。
 だが、添島刑事は『大和竹流』だけではなく『ジョルジョ・ヴォルテラ』という男を知っている。その背後事情を知っている刑事があれほどに動揺しているということがどういう意味なのか、真にもようやく事情が呑み込めたような気がした。

 竹流には、命に代えても彼の身を守ろうとする仲間がいる。彼の身が危険に晒されるなら、彼の実家は、後継者のためにいつでも使える軍隊のひとつくらい動かしたとしてもおかしくない。それなのに、竹流は仲間に何ひとつ知らせてもいないし、ローマの大親分が動いている気配がないというのだから、そっちの方にも、少なくとも竹流の方からは何も連絡をしていないということだ。そして一人で、あるいは真や彼の仲間が知らない誰かと一緒に、何か危ないことに首を突っ込んでいる。
 何故、誰にも何も言わないで、一体何をしようとしているのか。
 あのマンションで一緒に住むようになって二年半だ。
 竹流は修復師としての仕事で大概はアトリエに籠っているし、ギャラリーやレストランの仕事もある。もちろん、レストランの方は竹流自身が動かなくても勝手に大方のことは回っているのだろうが、手抜きをしないあの男は、常に食材のチェックをしている。真の仕事も不規則極まりない。だから四六時中顔を合わせているわけでもない。お互いに何となく、二十四時間に一回は顔を見る方がいいだろうと思っているだけだった。それが寝顔だけという日もなくなないのだが、少なくともお互いの存在を明瞭に確認する時間の必要性は感じていた。もちろん、竹流の方は、真に飯を食わせる、という義務を遂行することにいささか熱心でもあり、朝食だけはよほどのことがない限り、一緒に食べるように心がけている。
 ままごとのようだが、それが言葉にしないながらも、現実のルールのようなものだった。
 そういう形ではあったが、互いの時間を共有しての二年半だ。

 それなのに、一体俺は彼の何を知っているというのだろう。
 掌はじっとりと熱を帯びている。
 大和邸への道自体が自分の感情を少しばかり刺激していることは分かっていた。その場所に、お互い口にせず、触れないように仕舞ってある過去があるからだ。
 もっとも、同居を始めてからも時には大和邸の方で過ごすこともあったし、久しぶりに辿った道というわけでもない。同居人の方はどう思っているのか、真をこの屋敷に呼びつけても、別に変わった気配をみせなかった。
竹流がここに戻るのはちょっとばかり人に言えない仕事の時で、通常の修復作業ならギャラリーのアトリエでしている。ここに来るのは特殊な仕事や大きな仕事を抱えているときだけで、時には一週間ほど篭りきりになっている。

 その間、同じ屋根の下でも顔を合わせない日もある。料理は大和邸の執事である高瀬がしてくれるので不自由はないし、真のほうもマンションに帰るよりは時間を気にしなくてもいいので、気楽なところもある。真が遅くに帰ってもほとんど竹流はアトリエに篭りっ放しで、高瀬は真をあの例の無表情で迎えると、無言のまま、竹流をアトリエに呼びに行き、仕事の手を止めさせ、食堂のテーブルに座らせるという困難な仕事を真に押し付けてくる。竹流がアトリエに篭っているときにそこへ侵入するのは、高瀬の労働基準にはないのかもしれない。
 真としてもアトリエに入って竹流の仕事を邪魔するのは気が引ける部分もある。時には懸命になっている彼に怒鳴られるのじゃないかと思うこともあるし、声を掛けられないまま高瀬のいる食堂に戻ることもあった。だが、大抵は我慢して半時間ほども待っていると、知っていて無視していたのかもしれないが、竹流のほうが手を止めて、一緒に食堂へ降りてくれる。竹流の身体から匂う油絵具やその他の何か特殊な薬品の匂いが、時々真の記憶を過去へ引きずり戻しそうになる。

 真の手はまだ彼の背中の感触を覚えていた。
 あの時は、背中にあんな火傷の瘢はなかった。
 考えてみれば、いつ彼の裸の背中を見たのが最後なのだろう。
 思い返してみて、同居してからは一度もないような気がした。同居する前はどうだろう。
 大学を辞めた年、一緒に京都に行った。ある寺の住職に頼まれて不動明王を捜しに行ったのだ。あの時、寺の風呂で彼の背を流した。そして、それが最後だったような気がする。
 五年以上も前のことだ。
 だが、どういう状況にしても、男同士で裸の背中を見たかどうかなどということは、記憶に留めてどうこう思い出す種類の事ではないはずだ。

 大和邸への道は、滅多にバスが来ない道を進む。バス道を逸れてから一本道を更に山のほうに入ると、大きな門構えの前に出る。門のところで車を停め、インターホンを押して、暫くすると返事もないままに自動で扉が開く。
 大和邸の執事の高瀬が帰っているのだろうと思った。もしかして、ひょっこりこの家に竹流がいたりなんかしないだろうかとも思った。
 屋敷の前で車を降りると、もう高瀬は玄関の扉を開けていた。
 相変わらず無表情のまま、老人といってもいい年齢の小柄な男は真を迎える。今の季節はいいのだが、冬になればコートでさえ、この男の手を借りないで脱ぐことは難しい。真は慣れないので未だに躊躇ってしまうが、高瀬は無表情のまま高貴な人を迎えるのと同じ態度で真のコートを脱がせてくれるし、自分でコートを脱いで彼の仕事を取り上げるのはまかりならぬ、という気配だった。
 真の顔を見るなり、高瀬はどうぞ、と中に誘い入れ、応接室まで案内してくれた。そして一旦姿を消す。

 真が勝手知ったる家なのに、と思いながら待っていると、高瀬は戻ってきて茶封筒を真に手渡した。真はそれを受け取って、一旦高瀬の顔を窺ってから封筒の中を見た。
 入っていたのは一枚の新聞記事の切抜きだった。
「これは」
 高瀬の無言の視線に強要されて真はそれに目を通し、改めて高瀬を見た。
「もし旦那様が病院からいなくなるような事があれば、それをあなたにお渡しするようにと申し付かっておりました」
「彼はどこへ」
「私にも分かりません」
「彼はいつあなたにこれを」
「昨日です」
 高瀬が聞かれたこと以外答えないのは知っていた。だが、幸いなことに、決して嘘をつくことはない。
「他に何か言っていませんでしたか」
「いいえ」

 真は暫く黙った。聞いても高瀬が簡単に話してくれるとは思えないが、事態は高瀬にとってもそんなに簡単ではないと思いたかった。
「あなたの知っていることを話してください。誰が彼をあんな目に? それなのにどうして竹流はまだそいつに関わろうとしているのですか」
「それは存じ上げません」
 真は高瀬の目を見つめたままだった。
「あなたは暫く留守をしていましたよね。竹流が入院していたからですね。何かを調べていたのではありませんか」
「留守をしていたのは所用です」
「あなたのことを、彼の国元への最も太いパイプだと、彼の仲間が言っています」
 高瀬は少し頷いたように見えたが、それ以上何を聞かれても答えないという気配を見せた。もしかして、高瀬はヴォルテラの大親分と連絡を取っていたかもしれない。すると、あの人が来るのか、と真は思った。

 イタリア人だ。彼のあの姿を見たら、絶対に報復する。
 真は諦めて出て行きかけてから、ふと振り返った。ここに来るときに不意に思い出した彼の背中のことを確かめておきたかった。
「竹流の、背中の火傷の事をご存知ですか」
「はい」
「彼は病院で、住んでいたところが火事になったと言ったとか。嘘ですね」
「はい」
「では、あれは何のせいで?」
 高瀬は真の目を見つめ返していたが、一向に動じている気配はなかった。
「爆発事故と聞いています。お仲間を庇って火傷を負われました」
「いつのことです」
「三年半ばかり前でしょうか」

 真はふと手元の新聞記事を見た。一九七六年一月二十一日、とある。まさに三年半ほど前のことだ。
「これと何か関係が?」
「偶然かどうかは分かりかねますが、まさにその頃のことです」
「彼は、その頃何をしていたのですか」
 高瀬はもしかすると、多少真に同情してくれたのかもしれなかった。勿論、高瀬の表情からはそんな気配は微塵も読み取れなかったが、真が高校生の頃からこの男は見知っているし、彼の主人と真の関係をある意味では最もよく知っている人間の一人だった。いや、あるいは全てを知っているのは、この男だけかもしれない。竹流は、この男の前でだけは、感情も行為も全く隠そうとはしないのだ。

「日露戦争の頃、ロシアから日本へ運び込まれたという美術品の事で調べまわっておられました。それが新潟のさる処にあるというので、あるお仲間と頻繁に出掛けておられました。それ以上は私には分かりかねます」
「その仲間というのは」
「寺崎昂司という方です。あなたもご存知の方では」
「寺崎……」
 直ぐには思い出せず、真は口の中で名前を呟いただけだった。
「竹流が庇ったのは、その人ですか」
 高瀬はいくらか間をおいて、ようやく返事をした。
「恐らくは」
「彼と連絡が取れますか」
 もしかしてその男が、昇と東道が言っていた『連絡を寄越さなかった仲間』ではないのか。勿論、ただの偶然で何の関係もないのかもしれないが。
「いいえ」
「何故」
「連絡が取れません」
 真は言葉なく高瀬を見つめた。

 まさに、その男なのだ。マンションに電話をかけてきて、竹流は生きているのか、と聞いた。あの竹流の怪我の事を知っている、そしてもしかすると、今も竹流と一緒にいるのかもしれない。何かのカタがついたと言っていた。言葉からはそうは思えなかったが。
 真は高瀬に頭を下げて大和邸を辞し、新宿に戻った。





さて、少しずつ不安な影が増していき、追い詰められていく真……
こういう時はどうしたらいいんでしょうか?
今日はこの格言?を真に授けたいと思います。

『身近な謎からこつこつと……』

出所は、しのぶもじずりさんの小説(連載中)『天州晴神霊記』第4章(5)です→しのぶさんのブログ【物語とか雑文とか】
この格言(?)にちょっと萌えてしまった私です(*^_^*)
しのぶさん、勝手に紹介しちゃってすみません m(__)m

次回はまた一人、新しい登場人物が現れます。
井出幸之助、新聞記者です。
えーっと、この方には明らかにルックスのモデルがいます。
何を隠そう(何も隠してないけど)、大泉洋氏です。
中身は…まぁ、かけ離れてはいないかもしれません。
実は、将来的には大変重要なキャラなのですが、今はまだ端役です。

酔っ払っていじけて大暴露をする美和ちゃんもお楽しみに(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨37] 第5章 誰も信じるな(4) 

*竹流の怪我が尋常でなかったこと、少なくとも『彼のような』人間が簡単に傷つけられたという事実に、もっと何かを察するべきではなかったのかと責められて、真はようやく事の重大さに愕然とする。
もしかしたら大和邸の執事・高瀬なら、竹流から何かを聞いているかもしれないと訪ねていくが、残されていたのは、ある雑誌記者が自殺した記事だけ。
これは楢崎志穂が敬愛していたという先輩の記者のことらしい。そして、その男の愛人が深雪だったと、彼女は言っていたのだ。
深雪と鉢合わせたことで美和が怒っているのではないかとちょっと心配だった真だが、事務所に戻ると……




「先生、お帰りなさい」
 意外にも明るい声で美和が真を出迎えた。機嫌を直してくれたのかどうか、それはまだわからない。
「事件の事、分かったか」
「うん。どれも扱いは小さいけど、でも井出さんがその事件の事、よく覚えてるって」
「井出ちゃんが?」
 真は美和がコピーしてきた新聞記事に目を通した。そのうち一枚は、さっき高瀬から手渡されたものと同じだった。少しずつ、無関係であった人と人の関係が絡み合ってくる。
「しかも、その記事書いたの、井出さんなんだって。電話したら、今ちょっと手が離せないけど、六時ごろなら空くから飲もうって」
「飲む?」
 美和はにっこり笑った。
「先生に会いたいんだよ。それにその事件の事を聞いたら、声が裏返ってた」
「裏返るって……」
「うーん、なんて言うのか、飛びついてきたって感じ」

 どういう意味なのか分からないが、井出がこの記事のこと、事件のことを知っていて解説してくれるなら有り難いと思った。
 井出は某大手新聞社の社会部担当で、ちょっとした事件で知り合い、やたらと事務所にやってくるようになった。ネタ探しというよりは真を飲みに誘いに来るのが主目的のようで、多くは飲めない真を飲ませては何かしゃべらせようと企んでいるように見えた。一見は遊び人風だがやり手のようで、将来の有望株だと本人が言っている。半分は嘘ではないようだった。
「で、もう六時過ぎてるんだけど、行く?」
 真は時計を見た。気持ちは焦っていたが、どこか宛があるわけでもなかったのだ。
「そうだな」
 それから宝田と三人で井出に会いに、彼とよく飲んでいる居酒屋に出掛けた。


 雑誌記者、新津圭一は当時三十六歳で、その日自分の部屋で首を吊って死んでいるのを発見された。部屋の扉には鍵がかかっていて、窓も同様だった。発見したのは、たまたま家を訪問した圭一の姉婿だった。遺書らしきものはなかったが、机の上は整理されフロッピーディスクが一枚置かれていた。
 脅迫文めいた内容のものがそのフロッピーに入っていたが、詳しい内容は公表されなかったようだ。新聞ではそのあたりの事は省かれていて、彼が最近借金で苦しんでいたことなどが取り上げられている。内側から鍵もかかっていたので、警察は自殺と断定したようだった。
「その後の記事、一か月分くらい見たんだけど、続報はなし。その頃って新聞はロッキードだらけだったもの、こんな末端の事件はあんまり興味を引かなかったんでしょうけど」
 美和が歩きながら解説した。時々、美和の腕が身体に触れるので、真は少しばかり居た堪れない気持ちになった。

「らっしゃーい」
 居酒屋の引き戸を開けると、威勢のいい掛け声が出迎える。金曜日の夜だけあって、開店して間もないのに既に半分の席が埋まっていた。
「よぉ、久しぶりだね、真ちゃん」
 威勢のいい声の主がお絞りを持ってテーブル席にやって来た。
「先週来たよ」
「毎日来てよ。カウンター座んないの?」
「ちょっと人待ちなんだ」
「どうせ、井出ちゃんか桜ちゃんでしょ。いいじゃない」
 見抜かれているな、と思った。桜ちゃんというのは新宿二丁目のゲイバーの明るいチーママで、真に頼み事と悩み事相談をするのが半分趣味になっている。
 この町で真は何故かこういう水商売の男女に好かれる傾向がある。特にゲイバーに勤める連中の一部からは、同族と思われているせいもあるかもしれない。誤解だと言って解説するのが面倒で、たまに否定し、たまには相槌を打っている。

 美和がまずビールを注文し、それから宝田と二人でぽんぽんと注文を始める。
 宝田は実はほぼ下戸で、真以上に弱い。だが食べるほうは人一倍だった。美和と宝田が注文する間に、真に口を挟むチャンスは全くない。一通り注文が済むと、今度は真のほうを向き直り、先生は何する? と真の注文を更に聞こうとする。三人分どころか五人分くらい注文した後だというのに。もっとも残ることはないので、あと何品か真が追加したところで変わりはないのかもしれない。
 既に美和がビールを一気に二杯空けたところで、ようやく井出がやって来た。

「すまん、すまん。会議が長引いて。お、もうしっかり飲んでるね」
 井出は美和に声をかけて、宝田の隣、美和の向かいに座る。気さくと言えば聞こえはいいが、ある意味だらしがないほどにいい加減な格好は、大手新聞社の記者のように見えないといえば見えず、そうだといえばそう見える。頭は半分天然パーマ、半分は寝癖でいつも手入れが行き届いていない。服装も、真も頓着しない方だが、井出よりはましだと思ってしまう。
「あれ? 真ちゃんは何で茶なんかすすってるわけ?」
「先生は二日酔いで飲めないんですって」
「二日酔い? 珍しいじゃない」
 井出はそう言ってから注文を聞きに来た女の子にビールを頼む。それから、真に方に向き直り、にたにた笑いながら言った。

「真ちゃん、何かややこしいことになってるんじゃないの?」
「何が?」
「うちの若いのが一人、澤田顕一郎に張り付いてんだよね。澤田がいつも使ってる料亭に入るから誰が来るのかと思ったら、秘書の親玉、嵜山に連れられて来たのが真ちゃんだったってさ。もしかしてコレのことで嫌がらせされたんじゃないの?」
 そう言って井出は左手の小指を立てる。
「まさか」
 拙いタイミングの話だと思ったが、真の隣で美和は構わずに飲んでいた。
「何だったのさ。教えてくれてもいいんじゃないの」
 社会部記者であっても、とりあえず澤田が一般人に何を言ったのか聞いておきたいのだろう。あるいは単なる興味かもしれないが。

「昔話を聞かされてただけだ」
「昔話? 九州日報時代の?」
「九州日報? 彼、ブンヤあがりなのか」
 美和が真を覗き込む。
「先生、知らなかったの? 私が渡した澤田の資料、読んでないんですね」
「あぁ、後で見ようと思って。ごめん」
 美和の機嫌を損ねることばかりだ。
「で、どんな昔話?」
 井出が興味深そうに身を乗り出す。
「違うな、もっと前のことだよ。大学時代の」
「帝国大学か」
「東大だろう、いつの事だ」
「そんな話をわざわざするのに真ちゃんを呼ぶなんて、あり得ないなぁ」
 疑わしそうに井出は真を見る。真はひとつ息をついた。この話題はさっさと切り上げようと思った。
「俺の父を知っていると、そういう話だ」
「真ちゃんの親父さんって、脳外科医だったよな」
「うん、まぁ。もういいよ、別に苛められたわけじゃないし」
「あやしいなぁ。やっぱりコレのことでしょ」

 井出がもう一度小指を立てたあたりでビールがやって来た。それで乾杯している間に、真はさっさと話題を振り替えた。
「それより、新津って記者の話だけど」
 ビールをほとんど一気飲みして、井出はジョッキを置くと、真のほうへ身を乗り出した。「あれねぇ、あれは臭いよ、真ちゃん」
「臭いって?」
「それより何でこんな事件ひっくり返してんの? 怪しいなぁ。真ちゃんの興味を引く理由を教えてよ」
 井出の追求は記者だけにしつこい。
「いや、まだ分からないんだ。だから教えて欲しくてさ。井出ちゃんが書いた記事なんだろう」
 井出は椅子に凭れて頷いた。
「まぁね。というか、それ書いた時、俺、その家族に会っててさ。ていうより、色々気になって、ちょっと調べたことを続報にして記事書いたんだけど、没にされちゃってさ。でも、まあそんなことはしょっちゅうだからね、一々覚えてられないんだけど。しかもその頃ロッキードでてんてこ舞いしててさ、寝る閑も無くてそれどころじゃなかったんだよね」

 ちょっと昔を思い出すように言ってから、井出は記者の目になった。
「警察はろくに調べなかったようだった。確かに、その新津って記者は奥さんが意識のないまま病院で寝たきりで、借金抱えてて大変だったみたいだけど、結構責任感の強い人だったみたいよ。それがさ」
 井出は店の女の子の薦めるままに、ビールをもう一杯、美和と一緒に注文した。
「俺が覚えてるのは、その娘のことでさ」
「千惠子ちゃん」
 美和が口を挟んだ。
「そんな名前だったかな。その子がまともに見ちゃったらしいんだよね、父親がぶら下がってるところをさ。パパは鍵なんかかけない、って言ってそれきり、口も利かないんだっていってたなぁ」
「鍵をかけない?」

 井出は彼にしては珍しく、その後しばらく言葉を探しているように見えた。何か別のことを言いかけたようで、それを呑み込んだようにも見えた。
「そんな習慣がないってことだろ。っても、自殺するときには習慣なんて関係ないけどさ。まぁ、この事件は新聞で詳しくは扱われなかったけど、この記者が誰かを脅迫してて、それも借金に困ったからだろうって話でさ、死人に口なしだからそれ以上は誰も追及できませんっていうわけだ」
「脅迫の内容もか?」
 井出は上着の内ポケットから折りたたんだ紙を取り出した。ポケットに突っ込んできた割には大きな紙だ。
「これ、事件の二ヶ月後の週刊誌。これが新津圭一の勤めていたとこのライバル社から出たんだよね」

 週刊誌を数枚ちぎって折ったものを、井出は真の前に広げた。
 そこには意外にも随分大胆な内容が載っていた。新聞に取り上げられなかったのは、あまりにも内容が低俗だからか、出所がはっきりしない情報が多くて警戒したからなのか、ともあれ『記者の死』と見出しされたこちらの雑誌の方には、フロッピーの事、中に入っていた脅迫文の内容、彼の預金通帳の中身、愛人がいたことまで書き立てられていた。そういう記事にありがちなことだが、大した内容はないのに、スキャンダラスな気配と、顔も名前もはっきりしないが、社会的に許しがたい誰かを告発したい、あるいはこの記事が注目を浴びてほしいという、意気込みだけは感じ取れる。
「井出ちゃんがこれ、気にしていたのはどうしてなんだ?」
「なんかねぇ、俺も血気盛んでさ、報道規制にむかついちゃって」
「報道規制があったのか」
「んー、言葉じゃなく無言の圧力よ。いや、というより、気が付いたら記事が消えていたみたいな感じの。いや、記事どころか会社もね。その週刊誌の会社、よくそんな記事書いたな、と思ったら、その数ヵ月後には倒産したんだよね」
「倒産?」

 井出はようやく煙草を咥えた。真に、ライター持ってるか、という仕草をする。真はライターを出して火をつけてやった。
「何かごたごたしているうちに消えちゃった、って感じだったな。別に経営状態が悪いようには見えなかったけど。それに、ロッキードが一段落したとき、俺、実はその女の子のこと聞きに伯父さんとやらを訪ねたんだけどさ、どこかの施設に預けたって、門前払いだったしね」
 真はその記事を注意深く読んだ。フロッピーに入っていたのは、六人ばかりの相手への脅迫文で、その相手の名前は伏せ字になっている。だが、澤田らしい人物の伏せ字はなかった。要求している金額は予想より大きくはないが、それ以上の金額が彼の口座に振り込まれている。

「このIVMってのは何だ?」
 真は脅迫文に入っているアルファベットを指して井出に聞いた。脅迫文にはIVMの件で、と書かれていたという。
「うーん、IBMの綴り間違いかな、というか、その記事自体、妙に伏せ字と暗号が多いからね。わざと変えてるかもしれないし」
「この、愛人ってのは」
「新津って記者は愛人抱えるような男じゃなかったって聞いたけどね、というのか、つまりそんな甲斐性がないってのかな、でも、姉夫婦はもうその件には触れて欲しくないって感じだったよ」
「何か調べたのか、この愛人という女のことで」

 真は自分の声が上ずってないかと気になったが、井出も美和も何も思わなかったようだった。気が付くといつの間にか美和は冷酒に移っていて、既に二合徳利を二本倒している。
 美和がザルに近い酒呑みなのは分かっていたが、この飲みっぷりが自分への嫌がらせに思えて、逆に真は止められなかった。その上、井出までも美和と一緒に冷酒に移っている。
「いいや、だから俺もそれどころじゃなかったしね」井出は冷酒をぐいっと飲んで、真に向き直った。「それにこの記事、ちょっと面白いんだよ。この自殺した記者を断罪しているように見えて、何か目的が別のところにあるんじゃないかって感じがするんだよね」
「別のところ?」

 真が聞き返すと、井出は頷いてから、この居酒屋名物、焼いた甘い白葱を箸でつまんで口に放り込んだ。
「忘れ去られそうな事件をあえてひっくり返したいっていうのかな、その直後にロッキードだったからさ、そんな記者の自殺なんか忘れられそうな時期だったしね。愛人だの金の動きだのスキャンダル性を前面に出しながら、意外に細かいところ、ついてるんだよ。本当に書きたかったのは別のところにある、みたいな。その伏せ字になってる脅迫の被害者さ、じっくり読んだらちゃんと分かるようになってる。そのうち何人かは、もうとっくに現役を退いてる経済界の大物だったりする。わざわざ一線を退いた人間を、今更脅迫しても大したものが出てこないような相手だぞ。新津圭一の本当の目的は何だったんだろうって、ちょっと引っ掛かってしまうわけさ」
 真はしばらく、内容が薄そうでいて、奥行きの見えない週刊誌の切抜きを眺めていたが、やがて顔を上げた。
「この出版社の人間、知らないか? あるいはこれを書いた記者を」
 記事の最後に記者の記号がSとだけあった。
「調べたら分かるかも知れないけど」井出は真にお猪口を薦める。「高くつくよ」
「いつか借りは必ず返す」

 真がお猪口を断りながら食い付くように言うと、井出は真剣に真の目を見つめていた。
「真ちゃん、何かあったの? いつになく必死じゃないか」
 酔っ払い始めた美和が完全に据わった目で、真の腕に腕を絡めてきた。
「そうなんです。先生はね、恋しい人が行方をくらましちゃったので、気が動転してます」
 美和が酔っ払ってくると絡むタイプなのは皆知っているが、今日はいささか勝手が違う。真が深雪のところに会いにいくことを分かっているからに違いなかった。後ろめたさのせいで、もう飲むなとも言えず、真は美和の手からお猪口を取り上げようとしたが、美和の手が早かった。
「恋しい人?」
 井出が興味深そうに美和の言葉に反応する。
「大家さんです」
 横断歩道を渡るように右手を上げて、美和が宣誓の如く言い放った。

 駄目だな、これは、と真が思っていると、宝田が真剣な目で真を見ていた。
「先生、深雪さんだけじゃなくって、つまり、その」
「酔っ払いの言うことを真に受けるなって」
 宝田は美和の言うことは全て正しいと思っている。真は慌てて否定した。
「あーら、高校生みたいに電話でいちゃいちゃしゃべってたくせに」
 美和が真を覗き込むように口を尖らせて言った。

 いささか面喰ってしまった。
 そうか、夜中の電話の話か、と思い至った。いちゃいちゃというような、そんな記憶はないが、美和がそれを見ていたのだと改めて知ると、実に気まずいような気分になる。
 その上、深雪で恨まれてるんじゃないのか、と真は思い、更に当惑する。
 その件は、真自身の中でも、追及されても追及しても答えの出ない袋小路のような話だ。だが、美和がそのことを察していて、この状況で深雪ではなく竹流の名前を出したことに、真は心のうちを抉られたような気持ちになった。
「真ちゃんと電話でいちゃいちゃしゃべる相手って、ていうか、真ちゃんが恋人と電話でしゃべってる場面なんて、俺ん中ではあり得ないなぁ。せいぜい何十秒かで電話切って、相手に嫌われるのが落ちだろ。大家さんって、あの大和さんのこと?」
「そうです。先生が世界で一番愛してる人です」
「美和ちゃん」
 真が美和を制すると、一瞬、美和の目がしらふになった。
「妄想じゃないもん」
 井出は面白そうに目の前の真と美和の絡みを見ていた。
「大和さんって言えば、プレデンシャル、見たよ。確かに、愛してるって書いてあったなぁ」
「からかってるんだ」
「ま、確かに、恩人の息子ってだけじゃ一緒に住まないよな。で、何で行方をくらましてんだ?」
 井出はさすがに酔っ払っているようで話を逃さなかった。





相川調査事務所のメンバーにとっては飲み仲間でもある新聞記者の井出(もっとも真はほとんど飲めない、宝田は下戸…したがって飲み仲間なのは美和と井出のみ?)から、ある雑誌記者の『自殺』が疑わしいことを聞いた真。
…えーっと、もう少し居酒屋シーンが続きます。
予定外に長くて、切るところがなかったので、ちょっと中途半端でごめんなさい。
次回で、第5章が終わります。

第1節はあと第6章(水死体)を残すのみ。
これで、大方、事件らしきものは出揃います…と思います。

ちょっと余力がなくてお休みだったミニコラム、第6章からは復活かも?

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨38] 第5章 誰も信じるな(5) 

18禁です。相変わらず、大したことのない18禁ですが……
*第5章最終回です。
*前回、すごく中途半端なところで切ったことに、今更ながらに気が付きました。井出が「(大和竹流が)何で行方をくらましてんだ」と聞いたところでした。




「分からない」
 真が俯き加減で言ったので、井出が珍しく真剣な顔で真を見た。
「まずい話なのか」
「みたいだ」
 井出は返事をせずに真を見つめている。それから徐に煙草をもう一本出して咥えた。美和がテーブルの上から真のライターを取り上げて、それに火をつける。酔っ払っていてもそういうところにちゃんと気が付くのが、美和のいいところだ。
「高くつくけど、調べといてやるよ。他に、何かあるか」
 井出の声が、いつもの『井出ちゃん』ではなくなっていた。
「その新津って記者のこと、もっと分かるだろうか」
「あぁ、そりゃまぁね。何疑ってる?」
「本当に自殺なのか」

「そう来たか」井出は面白そうににやりと笑った。「そりゃあ、あり得るねぇ。子煩悩な男で、自分の罪を悔いて死ぬのはいいとしても遺書一つ残さないってのもね。しかもブンヤの端くれとしては、ブンヤが真実を明らかにしないで死ぬってのも気に入らないんだよねぇ。大体脅迫される相手にも落ち度があるわけだから、自分が死ぬくらいなら真実を暴いて死にたいね。いい路線だよ、真ちゃん」
「この週刊誌の記事、伏せ字や暗号が多くても、読む人間が読んだら、ちゃんと何かが分かるようになっているんだろう」真が聞くと、井出は頷く。「じゃあ、このIVMってのもあながち見当違いの文字でもないってことじゃないのか。綴りの似た会社のほうには、それらしい問題はなかったんだろう?」
「まぁね。こだわるね」
「他のところは大方伏せ字なのに、具体的なアルファベットはこれだけだ」
「人捜しの名人は目の付け処がやっぱり違うねぇ。それってホテル宿帳、調べるときの確認事項?」
 真は頷いた。
「名前は結構、縁もゆかりもないものを思いつきやすいけど、具体的な数字やアルファベットはどうしても大きく外れられないものなんだ。数字は十個しかないし、アルファベットは高々二十六。だから特に追い込まれていると、組み合わせのバリエーションが少なくなってしまう。もしもこれを書いた記者が何かを訴えたかったんだとしたら、尚更、特定の誰かには分かるようになっているはずなんじゃ」
「ふーん、そりゃそうか」

「それにこの記事を書いた記者は、どうやってフロッピーの内容を知ったんだ? 新津圭一が恐喝をしようとしていたってことくらいしか新聞記事には書いていないし、具体的な説明は何もない」
 井出はにやにやしている。真が何だよという顔で井出を見ると、井出はにやにやを二乗したような顔になった。
「俺、やっぱり真ちゃん、好きだなぁ。俺もさ、あの時、ロッキードにかまけて頭からその事件のこと、追い出しちまったことが、後からなんか後ろめたくってさ、幾らか引っ掛かってたんだよね。けど時間が経っちゃうと、記憶から薄れていくってのか、今更掘り返すのが難しいっていう先入観に縛られちゃうってのか。時間がないってのも事実だけどさ、それに逃げちまってたかなぁ」
 少ししみじみした声になった井出は、美和が注ぎ足したお猪口の中の酒をゆっくりと飲み干し、カウンターに置くなり言った。
「俺に協力できることだったら、ちょっとくらい無理もするかな」
「ただ」

 真は井出が話をしている間に急に心配になった。添島刑事の言いようでは、相手はどこの誰とも知れず、しかも残忍で竹流をあんな目に遭わせている。もしかして、井出をそこに巻き込むかもしれない、と思った。
「ただ?」
「気をつけろと警告されている。もしかして、相手は隣の優しいお兄さんかお姉さんかもしれない」
「どういう意味?」
「よく分からないんだ」
 井出は注意深く真の顔を見ていた。気のいい酔っ払いではなく、ブンヤの目だった。
「了解。Trust No One、だな」
「え?」
 真は竹流が言った言葉を、井出が英語で同じように繰り返したことに驚いた。
「あるブンヤの言葉さ。俺としては、その先に何か欲しいんだけどね」
「その先?」
「Trust no one, but me」
 真は井出の顔を思わず真剣に見つめた。
 彼らの隣で美和は無言で飲んでいた。
 彼女なりに心配していてくれている気配は真にも伝わっていた。ただ、時々真が時計を見るのが気に入らないのもあるのだろう。あるいは、竹流の話題を出すことで、深雪のことから意識を逸らせたかったのかもしれなかった。

 真が井出に断って席を立ったときも、美和は何も言わなかった。真は先に支払いを済ませて店を出た。
 駅まで歩いていると、直ぐに後ろからどすどすと走り来る音がする。
「先生、美和さんから、伝言っす」
 その声に振り返ると、宝田が息を切らすようにして真に箸袋を手渡した。真は、美和が酔っ払ってちょっと踊った字で『早く帰ってきてね』と書いた文字を見つめた。
「分かったって、伝えてくれ」
 宝田はうんうんと頷いて、それでも立ち去る気配がなかった。
「何だ」
 宝田は口籠っていたが、やがて言った。
「先生、俺、先生が大和さんを好きなら、それは美和さんには悪いっすけど、仕方ないと思ってます。美和さんにも相手が悪いって言っときます」
 何を言いたかったのか、それだけ言うと宝田は走り去っていった。大きな身体を揺らせている後姿を真は呆然と見送った。誤解だ、と口を挟む隙もなかった。
 電話の話のあたりから宝田が真剣な顔をしていたように思ったが、そんなことを考えていたのかと思って驚いた。
 真は、宝田の事をちょっとばかり頭の弱い男だと思っていたことを、申し訳ないような気持ちになっていた。彼は彼なりに自分を心配してくれているのだと思って、有り難い気持ちだった。

 誤解は誤解だけど、と思いながら、真は事務所の駐車場に戻り、車を取って銀座に向かった。気分が悪いので電車には乗りたくなかったし、今はとにかく一人になりたかった。少なくとも車の中という個室では、他人に気遣う必要はなかったし、電車の吊広告を見なくて済むという最大のメリットがあった。
 昨日からの出来事に頭がまだ混乱していて、どこにもまとまりがつかなかった。
 未だに、竹流の怪我と失踪と、添島刑事や楢崎志穂が言っていたような澤田の件とが繋がっている確信がなかった。いや、何よりまだ、竹流が本当に失踪したとは思えなかったし、思いたくもなかった。
 それは、竹流があんな怪我をしていたのに察していなかったと添島刑事に責められたからかもしれないが、言葉だけでは起こっている出来事の重大性がつかめなかったせいもあった。
 どうせひょっこりと帰ってくるのだろう。大体これまでもさんざんややこしい所に出かけて行っていたのだし、今に始まったことでもない。大胆で勝手で、だが強運で天運が味方している、そういう人間だ。

 特別な運命の元に生まれている人間はいるのだろう。
 真がローマのヴォルテラの屋敷で放り出されて一人熱を出している時に、様子を見に来てくれていた医者が、竹流を幼少の時から知っている人だった。
『あれはちっこい頃からどうにも人を惹きつけてやまない子どもでな、本人も、神様だって自分の味方だと思っておる。いや、生まれたのも、ファシズムと闘って謀殺されたヴォルテラの先代が亡くなったのと同じ日でな、しかもドラゴンを打ち倒した聖人の記念日だ。だからその聖人の名前をとって名付けられた、初めから祝福された子どもだったんだな。まぁ、だから当代はあれを跡継ぎにと言って譲らないんだがなぁ。だが、あの子は一方では半端じゃない努力家だ、あの当代のスパルタにも耐え抜いたんだからな』
 そうだ、無謀そうに見えて、本当は人一倍の努力家で、するべき事への集中力と用意周到さは半端ではない、他人にもスパルタだが、自分に対してはもっと強い集中力と厳しさを持っている。だから、ただ無謀に敵に挑んで行ったりはしないに違いない。きっと何か勝算があるのだろう。ついでに言うと、逃げるが勝ち、という引き時も十分に知っている男だ。身が危ないと思ったら、うまく逃げているはずだ。
 今は、ただそう信じたかった。
 だからこそ、新聞記事を残していったに違いない。真に捜しに来いと言っている。彼があの新聞記事を高瀬に渡したのは、真が昨日竹流のところに行った後なのだろう。
もしも何かあったら、お前が俺を捜しに来いと。
 だが、本当に竹流の切り札が自分なのだとしたら、それはいかにも頼りない切り札で申し訳ない気がした。
 いくら何でもさすがにそれだけって事はないな、と思い直す。彼がそれほど真を当てにしているとは思えない。
 とにかく、今自分にできることだけを考えていればいい。深雪に会いに行けば、一つくらいは何かつかめるかも知れないと思った。


 いつものホテルに着くと、車を駐車場に入れてエレベーターに乗り、ロビー階で乗り換えて最上階の深雪の部屋まで上がった。それは一年半以上前から当たり前に繰り返されている行動で、それをなぞる間に、今日が決して特別な日ではなく、何度も繰り返されてきた逢引の日に過ぎないような気がしてきていた。
 そして、深雪の部屋のドアをノックして、バスローブ姿の彼女に迎えられた時、当たり前の時間が流れ出した。
ドアを閉め、いつものように抱き合ってキスを交わした。その間に、真は美和の事も竹流のこともどこかに置き忘れそうになっていた。駐車場を降りた瞬間から、この部屋に上がって深雪と肌を合わせるところまでは、朝起きて歯を磨くくらいに習慣のようになっていしまっている、そのことに今さらながら気づかされる。

 だが、キスを交わしている間に、ドアの外を通る人の足音が聞こえた。
 その他人の足音が、ここに来る前に後ろを追いかけてきた宝田の足音に重なる。
 唇を離すと、いつもと同じ艶やかな深雪が真を見つめていた。
「どうしたの?」
 真は、その瞳や声や指や全てが自分をどのくらい高ぶらせるのか、よく分かっていた。
「預けたいもの、って?」
「帰りに渡すわ」
 穏やかな声で深雪が囁く。
「今日は……」
 真は言いかけてやめた。もう十分に泥沼で、今更綺麗に別れようなどというのが虫のいい話だと分かっていた。
真の表情の細かいところを読み取ったのか、深雪は微笑んだ。
「あのお嬢さんと寝たの?」
 真は答えなかった。カマをかけられただけかもしれないと思ったが、返事はできなかった。
「私と別れたいのね?」
 深雪の指が自分の頬に触れかけたとき、真はようやく覚悟した。

 別れるなどとんでもないことだった。理性は言い訳を捜していたが、身体のほうは別の反応をしていた。深雪に薦められるままにシャワーを浴びていると、直ぐに彼女が入ってきて、石鹸をつけた身体で後ろから抱きついて真の背中を洗い、その綺麗な指が真の前を弄った。
 私と離れられるの、と聞かれている気がして、逆らいようもない気分になった。深雪に触れられると、簡単に真自身は反応し、居ても立ってもいられなくなった。やがて深雪は真の前に来て膝をつき、いつものように真の中心に手を添えて咽の奥深くまで銜え込んだ。何度も吸われているうちに耐えるという行為が馬鹿らしくなってきた。真は深雪の頭を押さえ、彼女の咽の奥へ自分の欲望を流し込んだ。下半身から吐き出した瞬間に、意識はどこかへ半分弾き飛ばされたような気がした。
 それからもシャワーの雨の中で立ったままひとしきり結び合って、お互いの身体を洗い、ベッドに入った後も、深雪はあらゆる手で真を喜ばせた。

 どこかに後ろめたさや良心があっても良かったのに、もう何も考えたくなかった。だが一方で、深雪自身の事を理解しようとする機能もなくなってしまっていた。彼女が今までにないくらいに真を喜ばす技巧を披露したことも、ただ商売の女がすることと心のどこかで思い込んでいた。
 もう数えられないほど極めた後で深雪が真の身体の上で上半身を起こし、自分の顔を見つめていた間、真はもう少し冷静になるチャンスがあったはずだった。後からそう思ったが、その時は頭の中の思考回路はどれも動いていなかった。下半身は合わさったままで、少し動くだけで異常な戦慄が身体の中心から背中を昇ってきた。
 もうこれ以上はどこにも何も残らないというほどに全てを奪い合った後で、深雪が枕もとのバッグを取り、印鑑とメモと封印された封筒を出してきて真に渡した。

 真は黙って身体を起こし、それを受け取り、メモを見た。そこには長い数字が並んでいた。
「この番号は?」
「I銀行の貸金庫の口座番号。その手紙と印鑑をあなたが持っていけば、開けてくれることになっている。これを一ヶ月、何も聞かないでそのままで預かっていて欲しいの」
「一ヶ月経ったら?」
「あなたのものよ。好きにして」
「何が入っているんだ?」
 深雪は一瞬、どう答えたらいいのか、まるで彼女自身もその答えを知らないかのような困惑した表情を見せ、真の手元に預けられたものをしばらく見つめていた。
「きっとつまらないものなの。その判断もあなたに任せるわ」
 深雪の声は淡々としていて、心のうちの何かをつかみ取ることはできそうになかった。真はしばらくの間、印鑑と封筒を見つめていたが、その意味合いも重みも、無機質な形からは何も感じることはできなかった。
「俺が、これをあなたに返すチャンスは、勿論あるんだろうな」

 深雪は暫くその言葉を受け止めるのに時間がかかっているような気配だった。やがて、ただ俯くように微笑んで視線を逸らせただけだった。
「帰るんでしょ。あのお嬢さんのところへ」
 真は暫くの間、深雪の白い項を隠す髪を見つめていた。深雪の声は決して責めるようでもなく、悲しそうでもなく、ただ静かだった。その静けさが、真を急にどうにも堪えられない気持ちにさせた。
 何かとんでもない間違いを犯しているのか、あるいは大事なことを今にも取りこぼしそうな気がして、真は深雪を抱き寄せた。
 突然湧き起こった感情の意味は自分でもわからなかった。
 だが、腕の中の深雪はやはり静かなままだった。なぜこんなにもこの女が静かになってしまったのか、理解できない自分に混乱してしまう。真は深雪の頬に触れ、その頬が陶器のように白く冷めていることが苦しくなり、そのまま唇を重ねた。
 もしかすると、それは真が深雪に示した初めての、そして最後の意味のある口付けだったかもしれなかった。
 もう何ひとつ残らないほどに抱き合った後だというのに、真はふともう一度この女に触れなければ後悔するのではないかとまで思っていた。もしかして深雪に何かが伝わればと、彼女の胸に触れようとしたとき、その口付けから深雪が身を捩るようにして逃れた。
 これ以上ここにいることはないのよ、と言われている気がした。

 真がベッドから起き上がり衣服を整える間、深雪がただ黙って自分を見つめている気配を身体の側面で感じていたが、顔を向けることができなかった。その視線を感じながら、収まりのつかない違和感や、意味不明の後悔や、何かやり残したことがあるような満たされない思いで頭がいっぱいになりながらも、表には出すこともできず、真は慌てるのでもなくシャツのボタンを留めていたが、ふと何かに刺激されたように振り返った。
 真の目に何か閃きが飛び込んできて、ひとつ引っ掛かっていたものがパチンと外れたようになった。
「……妹が、いるのか?」
 深雪は不思議そうに真を見つめていた。何を言っているのか理解できない、という顔だった。
「どうしたの? 幽霊を見たような顔をして」
 楢崎志穂は、真のことを『肉親の恋人』と言った。
「妹はいないのか」
 もう一度真が繰り返すと、深雪は冷めた穏やかな顔で答えた。
「いいえ。妹なんていないわ。私は親も知らないの」
 彼女から返ってきた答えはそれだけだった。深雪はその一瞬、白い皮膚の表に、突き通すことのできない透明な鎧を身に付けたようだった。





さて、次回からは第6章:水死体です。
誰の水死体かって…えーっと、結構あちこちで書いていたので、今更ネタバレもないのですが…
どちらかというと、気持ちが追いつめられていく真をお楽しみいただけると幸いです(^^)

多分、ここに至るまで、真はかなり突っ張って、一人前の男のつもりでいたと思います。
女ともいっぱしに付き合ってるし、しかも相手はかなりいい女で、自分たちは身体だけの関係、なんて恰好つけたりもしている。
事務所の所長として、それなりに面倒をみなければならない従業員(とまで言えるかは不明…一人はヤクザの情婦だし、一人は給料出しているのはそのヤクザだし、もう一人は押し掛け弟子だし)もいるし。
街は新宿だし、ある程度いきがって生きていかなくちゃならないし。
でも…根は、高校生の時から、あるいは大学生の時から変わっちゃおりませんでして……

ではまた次回、お楽しみに(^^)

Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨:番外] limeさんが描いてくださったイラストとあらすじ 

真(limeさん)
真2
このページを開いた途端、あれ、別のブログに来ちゃったんでは?と思った方も多いはず(*^_^*)
そうなんです。このイラスト、なんとなんと、小説ブログ「DOOR」のlimeさんが真を描いてくださったのです!!!!!!!!!!(;_:)ヽ(^o^)丿\(^o^)/(*^_^*)(;_:)
limeさんから「自由にお使いください」との有難いお言葉を頂いたので、ここに載せさせていただきました。limeさんのブログ…は有名なので?皆様ご存知とは思いますが、一応clickして飛べるように…→→小説ブログ「DOOR」
言わずもがなですが、この絵の著作権はlimeさんにあります。無断引用・転用は固くお断りします。
作成秘話などは、またlimeさんが書いてくださるに違いない????
とにかく、ものすごーく、ものすごーく、ものすごーく嬉しいです(;_:)\(^o^)/
なぜか昔から、真はあまり描いたことがなかったのです。
あ、これは誤解を招く表現ですね。昔はいささか私もイラストを描きまして…今は描きません、というより描けません^^;
で、下手なイラストを描いていた昔でさえ、真のイラストは少ないし、なんかイメージが自分でも上手くまとまらなくて、描けなかったのです。思い入れが強すぎると、そんなものなのかもしれませんが。
それをlimeさんがするりと絵にしてくださったのです!!!
実は実は、本当のところを白状しますと、こころの中でlimeさんが描いてくださらないかなぁ、なんて見えない光線を送っていたのですが、ネットの海の儚いラインに乗って、届いたのではないかと思ったくらい、びっくりしまして…
やっぱり【電脳うさぎとココロのありか】(→limeさんのお話へGO)なみに心が伝わったに違いありません(;_:)(*^_^*)
limeさん、本当にありがとうございます(*^_^*)m(__)m

limeさんの絵、今更なんですが、本当に素敵ですよね…
何だか、温かくて、そしてミステリアスで。
小説も面白いし、limeワールド!って感じの素敵なブログで、そしてココロがこもっていて。
いちファン(あ、私がlimeさんの一ファン)のだらだら小説にこんな素敵な絵を描いていただいて、もう本当にもったいなくて…
ありがとうございます…(;_:)

嬉しさのあまり、アップも載せてしまいました。
目を見ていただくと、右目は碧の左目は茶~黒(光線の加減で…)、そう、この人オッドアイなのですね。
多分青い目のオッドアイの人よりも目立たないと思うのですが。
ま、よく小説に出てくるオッドアイですが、これはこの子が自分の出生に不安を覚えていて、自分に刻印された異国人の母親(正確にはハーフですので、本人はクォーター)の影として捉えている、その表現型のひとつにすぎませんので、あまり本編で云々することは少ないのですが……
髪も…剣道をしていて、時々ちょんちょんに切っては、竹流には栗のように扱われている?のですが(あ、栗は撫でられない…)、面倒くさがりなので放置して、この長さになって…また切って…の感じなので、まさにこんな時があるのです。
新宿に事務所を開いてからは(25の時です)、多分近くの床屋が彼に目をつけていて、ちょっと伸びたら店に呼び込んでいるに違いありません。
で、この世の中を拗ねたような顔! もう、本当にこんな人なんですよ。
ま、今ではこの初々しさは半減して、ちょっとおっさんですけれど。

さて、お礼に、真と竹流のハネムーン(って、勝手に呼んでる作者。本人たちは迷惑でしょうが)の話を書く予定です。
大学受験頑張ったから褒美にお前の国に連れて行けと家庭教師に駄々をこねた真が、初めて見たイタリアの町々。
行ってみたら…みんな自分の知らない名前で彼を呼ぶので、すごく不安になっていく…そんな顔だわ、とこのイラストからインスパイアされて、以前こっそり書いていたイタリア旅行編(多分、このイラスト描いていただくことがなかったら、決して日の目をみなかった…^^;)を改定してお出ししたいと思います。
この旅、アドリア海クルージングから始まって→パレルモ(シチリア)→ナポリ→ローマには寄らずに海岸線を上がってピサ→シエナ→フィレンツェ…ここでローマに連れ戻され、しばらくローマ滞在→アッシジという旅だったのです。
この旅の前が、幸せのピークだったと思います。この旅で、結局光の裏にある影を見てしまったのかもしれません。イタリアって、それにぴったりな国ですし。
その後はいろいろありまして。
【海に落ちる雨】が終わりましたら、年表なども公開できればと思います。

で、この場面は、シエナだ! 泊まっていたのは教会を改装した小さなホテル。中に教会が実際にあります(本当にあるホテルです)。その庭にこんな像があったことにして(卓球台とオリーブ畑はあったけど…)、ちょっと一人ぼっちで寂しいので、あの美しいカンポ広場に行って……
旅の途中、時々真は一人で放り出されるんですね。竹流には色々訪ねなければならない人(多分老人、たまに女)がおりまして。で、その間にたまに一人でうろうろしてあれこれ巻き込まれる真。言葉もわからないし、変なもの見えるし、どうしましょう、ということで、「シエナの休日」演じていただきたいと思います。
わくわく(●^o^●)(って自分がわくわくしてどうするんだ???(?_?))
こうご期待(*^_^*)



さて、【海に落ちる雨】再始動です。
津軽で三味線に夢中になっていて、ちょっと間が空いてしまったので、あらすじをまとめて載せてみました。
併せて、第5章のあらすじも載せておきます。


<第1章:同居人の留守>
相川探偵事務所所長・相川真(27)は、もと家庭教師(?)かつ保護者である大和竹流と同棲を始めて2年半が経過している。大和竹流(=ジョルジョ・ヴォルテラ)(36)は美術品の修復師であるが、実はヴァチカンを支える裏組織ヴォルテラの跡継ぎであり、本人は望んでいないが、いずれローマに帰ることを期待されている。
このところ竹流が考え込んでいることが多くなっていたが、真は事情を聞きだすことができない。親であり兄であり、また教師でもある同居人がいなくなることが、実は不安でたまらなくて、考えたくないと思っている。
そんな時、竹流がしばらく留守にするといって出かけて行った。
ちょうどその頃、竹流が某経済・社会雑誌のインタビューに答えた記事が掲載される。オーナーとなっているレストランやギャラリー、修復師としての仕事について、そしてついでにプライベートにまで触れた記事には、同居人の真のことまで書かれていた。ふたりの関係をちょっと誤解されるような答え方で…
事務所のメンバー、共同経営者の女子大生・柏木美和、孤児施設出身のヤクザ志望・宝田三郎、バイトの主婦たち、その他事務所のある新宿で働く知り合いたち、などなど周りからインタビュー記事のことを面白がられている気配を感じて、いささか面白くない真は、恋人というよりも体の関係だけを続けている銀座のバーのママ・深雪に会いに行ったりしながら、竹流の帰りを待っていた。深雪は代議士・澤田顕一郎の愛人という噂もあるが、実のところはよくわからない。
そんな時、自分の実の父親のことを知る老人・田安隆三の経営するジャズバーで、真は楢崎志穂という雑誌記者と会う。志穂は、澤田顕一郎のことを調べていて、真に深雪から澤田のことについて何か聞いていないかと尋ねるが、真は覚えがないと答える。

<第2章:同居人の入院>
同居人・大和竹流が仕事の内容も告げずに出かけて3週間、新宿の調査事務所所長・相川真のところに、警視庁の捜査1課の女刑事・添島麻子刑事から電話がかかってくる。
竹流が怪我をして入院しているというのだ。病院へ行くと、竹流の怪我は真の想像以上に酷いもので、山梨の県道で見つけられてから数日意識がなく、昨日集中治療室から出たばかりなのだという。その上、修復師として『神の手』と言われていた右手まで傷つけられていた。医師はその手が元通りに動かない可能性を告げ『まるでいたぶられたようだ』と言うのだが、当の本人は話をはぐらかして何も言おうとしない。
はるかに年上で、自分が頼ってばかりいた相手が傷ついてベッドから離れられないでいる姿など初めて見た真は、いつものように身体の関係だけを続けている銀座のバーのママ・深雪に会ったりしながらも、頭の中では竹流のことでいっぱいになっている。
しかも、竹流の背中には数年前の古い火傷の痕があるという。真は同居してから彼の背中など見たことがなかったことに改めて気づき、さらに竹流が自分に何も話さないでいることに傷ついたり、イライラしたりしてしまうのだった。
竹流の恋人の一人であるブティックのオーナー・室井涼子に入院中の竹流の世話を頼み、何も話そうとしない竹流の怪我の事情を知るための糸口をつかもうと、真は竹流の仲間であるゲイバーのママ・葛城昇を訪ねて事情を聞こうとする。しかし、昇も元ボクサーのイワン・東道も何も知らないという。竹流の仕事仲間たちは、ボスである竹流のためなら何でもするような連中で、真に、自分たちで何とかするから、お前は引っ込んでろと告げるのだった。

<第3章:同居人の恋人たち>
竹流の許可のもと、事務所の共同経営者で女子大生の美和は、竹流のマンションに泊まり込んでいる。実は彼女の恋人は事務所のあるビルのオーナーで、ヤクザなのだが現在タイに出張中。
ある日、真が帰りの遅い美和を待っていると、電話が2本かかってきた。一つは竹流の無事を確認する男からの電話。そしてもうひとつは、真が付き合っている銀座のバーのママ・深雪のパトロンだという噂の代議士・澤田顕一郎の秘書からだった。澤田が真に会いたいと言っているという。
美和の帰りが遅いので、事務所に行ってみると、事務所は荒らされていて、いくつかのどうでもいいようなフロッピーやテープ類が盗られていた。そこへ、ジャズバーの経営者・田安隆三のところに出入りしていた雑誌記者・楢崎志穂が現れる。先日、いささかけんか腰になっていたことを謝ろうと思っていたという。彼女から、『美和を見かけた、どうやら自分(志穂)と同じ男をつけていたらしい』という話を聞いて、志穂に事情を聞こうとするがはぐらかされる。一体何がどうなっているのかと思いながらマンションに帰ると、美和が戻ってきていた。
美和は、竹流のところに面会に来ていた男のあとをつけていっていたという。そしてその男から、『下手に関わると危ないから手を引け』と言われたことを告げる。美和はその男と会ったことがあるような気がするのだが思い出せなくて気持ち悪い、と真に告げる。
ちょっと昔話や恋愛談義(と言っても美和の一方的?)をしながらいいムードになっていた二人だったが、結局何もなく、終ってしまった。いささか美和のご機嫌を損ねてしまったようなのだが……
翌日病院に行った真は、竹流に怪我の事情を問い詰めるが、結局相手にされず、何も教えてもらえない。
事務所に訪ねてきた添島刑事からは、彼女がある筋から特別な仕事を任されていて、どうやらその件に竹流が関わっているらしいことを匂わされる。そして、そこには澤田や深雪も関係しているような気配が…
もしかして、竹流の怪我と澤田が関係している? 澤田から接触があれば、知らせてくれと言う添島刑事は、最後にちらりと爆弾発言を残して去っていく。実は、彼女もまた、大和竹流の恋人の一人!
添島刑事には澤田の秘書から連絡があったことを告げていないのだが、これが糸口かも知れないと思って、真は意を決して、澤田に会うことを決めた。
一方の美和は、澤田の秘書らしい男が真を迎えに来たことに驚く。自分に何も教えてくれなかった真に憤慨しながらも、事務所の従業員、気の弱いヤクザ志望の宝田三郎、そして少年院上がりの高遠賢二に『真が誘拐されたからさっさと後をつけて』と言い残し、自分は竹流の病院へ。
竹流は慌てる美和を窘めて、あっさりと受け流す。しかし、帰るふりをして見張っていた美和は、竹流が誰かと電話をしていて、『真が澤田に呼び出されたらしい』などと会話する声を聞いていた。
やはり、竹流の怪我と、真の恋人・深雪のパトロンである澤田は何か関わっているのだろうか?

<第4章:同居人の失踪>
恋人(というよりセフレ)である銀座のバーのママ・深雪のパトロンという噂のある代議士・澤田顕一郎から呼び出された真は、赤坂の料亭で会うことになった。澤田は竹流の怪我と何か関係しているかもしれないと、女刑事・添島麻子、雑誌記者・楢崎志保からにおわされている真は、探りを入れるつもりで乗り込む。もちろん、深雪とのことでちくちくいたぶられる可能性もあるのだが…と思いつつ行ってみると。
話の内容は予想もしないことだった。
真に、澤田のもとで働かないかという勧誘だったのだ。それも、澤田は真の実の父親、相川武史(世間ではアサクラタケシという名前で通っている)の大学の先輩であり、真の出生の事情、伯父・功が真を引き取ったことも知っていた。澤田は、自分のもとに来ることが真の安全を保障することになると告げる。しかも、ジャズバーの経営者・元傭兵の田安隆三は澤田の育ての親だという。
話の内容には警戒しながらも、澤田のペースに巻き込まれて飲んでしまった真は、過去の話にいささかセンチメンタルになっていたことも手伝って、心配して真の帰りを待っていた美和とセックスをしてしまう。もちろん、美和のことは可愛いと思っていたので、勢いではなかったつもりなのだが、事が終わってしまうと自分の中で何かが冷めていることに気が付く。
そこへもう一人真のことを心配していた竹流からの電話。何も話してくれない竹流に対してイラついていたにも関わらず、声を聞いているうちに恋しさがこみあげて来てしまう真に、竹流が『この件が終わったら、俺のところに来るか(=仲間として仕事をする、あるいは自分の全てを話すというニュアンス)』と言い、最後に『誰も信じるな』と告げる。
美和は、真と電話の相手(=大家さん、つまり大和竹流)の間には割り込めないことを感じながら、真と初めて会った時のことを思い出していた。
そして翌朝、二日酔いの真のもとへ、病院から竹流が姿を消したという電話がかかってきた。

<第5章:誰も信じるな>
竹流の姿がないと聞いて、真は病院へ急いだ。そして確信する。竹流は何か事情があって自分から出て行ったのではないか。その後、入院費を届けに来た男がいて(竹流のところに面会に来ていた男?)、さらに、大和邸の執事・高瀬には、自分がいなくなったら真に渡して欲しいとある新聞記事が残されていた。竹流の失踪は本人の意思には違いないが……
しかし、看護師も心配していた通り、彼の身体はまだ十分回復していたとは言い難く、しかも効き手である右手は不自由なままのはずだった。
添島刑事が、竹流をどこかに隠したのかと怒鳴り込みに来る。少しばかり喧嘩のようになってしまったが、彼女が焦っている理由は、内閣調査室の河本という男が調べている『ある男』の件で、竹流の方が首を突っ込んできたというのだ。危ないから関わらないようにという河本からの説得にも関わらず、竹流は深くこの件に入り込んでいるようだという。
『誰も信じるな』という竹流の言葉を胸に、あれこれと思い巡らす中、真は澤田の育ての親だったという田安隆三のジャズバーを訪ねるが、彼は留守で、楢崎志穂が田安を待っていた。しかし田安は現れず、真は志穂に連れられてあるラブホテルに行く。志穂が言うには、このホテルは『ある雑誌記者がある女と不倫密会に使っていた』という。そして、その雑誌記者は自殺していて、女はどうやら香野深雪だというのだ。志穂はその雑誌記者の後輩であり、好意を抱いていた相手であり、彼の死に疑問を抱いていた。志穂は竹流のところに面会に来ていた男を見張っていたという。
一方、美和が、事務所によく顔を出す新聞記者・井出に確認したところ、井出がその事件の記事を書いていたことが判明。『自殺した』雑誌記者・新津圭一には8歳になる女の子がいて、寝たきりの妻がいる身でありながら香野深雪と不倫関係にあったこと、どうやら政財界の当時の大物を脅迫しており、逆に追い詰められて3年半前に自殺した、ことになっていた。井出は協力を約束してくれる。
そして、深雪に呼び出された真は、彼女から1か月だけ預かっていてほしいと、貸金庫の番号・印鑑・手紙などを預かる。そして、ふと気になった志穂の言葉を確認する。
楢崎志穂は、真のことを肉親の恋人、と言っていたのだ。しかし深雪は、自分には妹もいないし、家族も知らないのだと答えただけだった。

さて、だんだん複雑になってきて、わけもわからない感じがしますが、謎?は大体出揃ったかな?
ここからは解決に至る成り行き…として、あれこれ起こる側線には惑わされずに、真と一緒に『彼』を探しながら、成り行きをお楽しみください(*^_^*)


Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨39] 第6章 水死体(1)/ 昔イラスト第2弾(1) 

さて、第6章『水死体』を始めたいと思います。
第5章までのあらすじは『limeさんのイラストと…』(→click)に載せております。
いよいよ病院から完全に姿を消した大和竹流。そして浮かび上がる3年半前の雑誌記者の自殺。
竹流が関わっていたのは何? 雑誌記者の自殺の裏には何が?
ミニコラム復活しました。教えていただいた記事の畳み方を実践(*^_^*)
そして発掘された昔のイラスト(というより記事の1ページ)を公開しております(^^)
→続きを読む、からどうぞお入りください




 マンションに戻ると、美和の靴が玄関にだらしなく脱ぎ捨ててあった。真は、薄暗い照明の中に浮かび上がるヒールの低い靴をしばらくぼんやり見つめていたが、きちんと揃えようと屈んだ。そのとき、まだ自分の身体に深雪の残り香が纏わりついていることに気が付いた。麝香の香りに似ている、それは深雪の身体の匂いのようだった。それを感じた真の身体の芯は、まだ火照っている。
 今日の自分はどうかしている、と真は思った。深雪と寝るという行為が、極めて動物的で肉体的な欲望であると同時に、生命が太古の昔から宿している生殖という聖なる儀式であるということを、この身体が認めていることを感じていたのだ。

 ただ不思議だった。深雪と寝るとき、真は明らかに自分が生物学的に雄であることを強く感じている。雌を追い込み、その性器の中に己の雄を突っ込み、生殖行為をするという当たり前の生物としての営みをしていると感じている。だからこそ、そこに愛おしさや優しさが入り込む隙間がなく、ただ寝たい、やりたいと思っているのだ。それは高校生のとき美沙子としていたセックスとはどこか違っていた。あの頃も、ただやりたいという気持ちがあったのだとしても、生殖行為という感覚はなかった。ただ思春期の男の身体の欲望に過ぎなかったと思う。そう思うと、今まで自分は何か勘違いをしていたような気持ちになった。

 何故、深雪と寝るときにだけ、こういう感覚があるのだろう。他の女と寝ても、一度も雄としての本能を強く感じたことはない。自分の遺伝子を残そうとする雄の強烈な本能は、端から自分には縁の無いもののように思っていた。性行為に対して、子孫を残すという意味づけ自体を感じていなかったし、自分の遺伝子にはどこか認めてはいけない穢らわしいものがあると思っていた。だから、これまで曲がりなりにも付き合ってきた女性に、本能からこの遺伝子を残すために子どもを宿して欲しいと願ったことがない。
 深雪には子どもができないことは聞いていた。その理由までも確認したことはないし、その言葉を信じる根拠もなかったが、深雪がそれについて嘘を言う必要などないと単純に信じていた。子孫を残せない女に対してだけ、真自身の身体も心も特殊な反応をしている。

 真は美和の靴を揃えてから部屋に上がり、リビングに入った。
 リビングのソファで、美和が上着も脱がずに丸まって眠っていた。
 初めて美和を抱いたとき、子どもができたら責任を取ると言った。だが、自分の心は、そんなことはないと知っていたのではないか。今日、深雪を抱いてきて、ここに立っている自分自身は、もう以前の自分ではないような妙な感覚があった。

 だが、こうしてこの部屋の中で真の帰りを待っている美和に対して、愛しいという思いを抱いていることは、決して嘘ではなかった。それはもしかすると、女としてではなく、家族のような、あるいはお伽噺の幼い恋人のような、そういう優しい愛情なのかもしれない。こういう種類の愛情に身を委ねるのは、ある意味では心地よいことなのかもしれない。自分が人間として正しい、理性的な優しい人間であるような錯覚を感じさせてくれる。
 美和はどのくらいこうしていたのだろう。そう思うと、今更だが胸が痛んだ。

「美和ちゃん」
 美和は呼び声に少しだけ反応したが、相当飲んだのか、起きる気配がなかった。
だが真が抱き上げると、彼女は目をこすった。
「先生?」
「うん」
「……もう帰ってこないかと思った」
 寝ぼけているような口調だった。

 帰ってきたとは言え、することはしてきているのだから美和に言い訳する言葉もなかった。寝室に運びベッドに寝かせると、美和は目が廻る、と言った。布団を掛けてやると、美和はもう話しかけてこなかった。
 その寝顔を暫く見つめ、額に口付けると、真はリビングに戻ってまだ美和の温もりが残るソファに座った。
 上着の内ポケットから煙草とライターを取り出し、火をつけて、上着を脱ぐこともなくそれをゆっくりと吸った。相変わらず味のない煙草だった。
 一人になると、本当は女のことなどではなく、全く別のことを考えている。その自分の中にある不可解な『何か』が、自身の底のほうから湧き出してきそうになると、慌ててそれを意識から遠ざけた。気が付くと、手のひらに爪の瘢が残るほどきつく自分の手を握りしめていた。

 身体には深雪の匂いが残っていた。不快にも思わず、何も感じず、ただそういうものだという気分だけが移り香と一緒にまとわりついていた。さっき感じた不可思議な印象を、真は考えたくないと思った。深雪との行為にあんなにも身体は悦んでいたのに、何かもっと大事なものを感じるための器官は完全に麻痺していて、全く機能している気配がなかった。
 そういう意味では美和を抱いていたときも同じだったのかもしれないと思ったとき、理性はそれを完全に否定した。美和は違うと、その理性らしいものは真自身を説得しているようだった。

 煙草が一本終わると、真は手の仕事を探すようにテーブルの上の資料を広げた。
 美和が調べてきた澤田顕一郎の略歴だった。

 澤田顕一郎。
 頭の中でその人物を思い描くのに、たっぷり十秒は時間が掛かっていた。
 澤田の出身地は大分県の国東半島で、実家は廃寺になっていた。父や伯父と同じように地方から出て、地元の期待と後押しと誇りを背中に負って東京大学で学び、東京の出版社に勤めてから直ぐに九州日報に勤めを変わっていた。
 長崎の原爆被害については随分いい仕事をしたようで、某かの賞を貰っていた。
 地元大分から衆院初当選が昭和三十年とあるから、僅かに二十代後半である。その後当選六回。三十を過ぎてから東京で結婚、相手は後に首相になったSの親戚にあたるらしい。澤田の初当選の翌年が総裁公選であり、八個師団誕生の年になる。その年から四代目でSが首相になり、澤田はSの元でそれなりに羽振りのいい時期を過ごしていたようだった。時の大蔵大臣は後に首相となるTで、澤田自身は政策に対する意見ではTとはかなりぶつかることが多かったようだが、対立するというほどではなかったように見える。その後S内閣は退陣を迎え、昭和四十七年にT内閣が誕生した。澤田はこのS派を席巻したT派にはやはり加わらなかったようで、とは言えアンチT派にも加わらず、ここから数年の二派閥対立時代には中央ではすっかりなりを潜めている。

 澤田はこの頃、地元や地方を中心に、文化芸術方面の組織の結成、コンサートホールや美術館の整備に力を注いでいたようで、近隣諸国との友好にも一枚噛んで、民間レベルの文化交流に協力をしており、その中で天皇陛下にも拝謁している。その際に、『地方の外交』と賞賛され、一部からは悪態をつかれつつ、主に中国やソ連、東欧の国々との文化交流を助けている。
 T内閣から二代目に、Tとは対立関係にあったFが首相になったのが昭和五十一年。
 新津圭一が首を吊った年である。
 相変わらず澤田の位置ははっきりしていない。しかし、地元大分県では災害対策や観光事業のために尽力し、かなりの人気であったようで、彼の代議士生命は底辺で脈々と繋がっていた。昭和五十年、新幹線が博多に到着するが、この時岡山から博多までの土地確保のために何年も前から協力していたらしい。
 美和が澤田と握手したというのは、この頃のことなのだろう。

 昭和五十一年一月二十日、新津圭一の自殺。同年二月四日、ロッキード社不法献金発覚。
 そして同年十二月にF内閣が発足すると、澤田はここでようやく中央の政治にも名前を出されるようになっている。新幹線のために使った手腕で成田問題を鎮めろとでも言われたのか、ご意見番の一人となって、それから二年以上、澤田顕一郎はF内閣の一員として、着実な歩みを続けているように見える。
 真はその紙の束をパサリとテーブルの上に置いた。
 新津圭一と澤田顕一郎のつながりは見えてこない。全ての出来事は澤田顕一郎だけを遠巻きにして起こっているように見えた。


 ソファでほとんど眠れないまま朝を迎えた。意識があるのかないのか自分でも分からない状態で、朝、電話の呼び出しでたたき起こされた。
「もしもし」
 電話に出ることは出たが、次の言葉が出てこないまま黙っていると、向こうからははっきりとした声が聞こえてきた。
「お早う。まだ寝ぼけてるの?」
 添島刑事だった。
「出頭命令ですか」
 頭が廻っていなくて、浮かんだ言葉をそのまま言うと、向こうで彼女は呆れたようだった。声が尖っている。
「まぁ、そんなところね。ここは横浜海上保安庁。あと半時間で来れる?」
「横浜? 無理ですよ。一体何ですか?」
「あなたに会って欲しい人がいるのよ。もっとも、既に『人』の域かどうかは不明だけど」
 真は受話器を握りなおした。

「つまり、あなたが言っているのは、水死体という事ですか」
「ご名答。早く来てもらわないと解剖ができないのよ」
 真はまだ暫く声も出せずに受話器を握りしめていた。頭の中を色々な種類のあてもない疑問や曖昧な答えが浮かんでは過ぎっていた。まさか、ということがあるのか、と自分の中で自分に問いかけている。いや、この女が冷静にしゃべっているのだから、それはないだろうと自分で答えを出している。
「まさか、とか思ってるんじゃないでしょうね。いくら何でもそれは私も困るわ」
 一瞬だけ真の頭を過ぎった最悪のシナリオは、添島刑事にさっさと否定された。
「パトカー回すから、急いで支度なさい」
 それだけ言うと電話は切れた。

 その時隣の寝室から美和が出てきて、明るい声で、寝過ごしちゃった、と言った。
「何の電話?」
「添島刑事だ。ちょっと出掛けてくる」
 いつ帰ってきたのとか、昨日はどうだったのとか聞かれる前に逃げるほうが賢明にも思えたし、タイミングは実によかった。真は洗面所に行って髭を剃って顔を洗った。気が付くと昨日の深雪の移り香がまとわりついたままだった。とりあえずシャツだけ着替えたところで、もうインターホンの呼び出しがあった。
 まるで犯人として連行されているようだと思いながら、サイレンを鳴らしたパトカーに乗せられて横浜に向かった。何故自分が呼ばれるのだろうと思ったが、やって来た警察官も何のために連れて行くのか分かっていないようで役に立たなかった。


          * * *

 その朝、いつものように早朝のジョギングをしていた伊藤健二は、去年四十年以上勤めた会社を定年退職し横浜の潮の匂いのする古い家に妻と二人移り住んだのだが、たまたま気が向いてその日に限って海のほうを覗き込んだという。沖のほうで工事のクレーンやタンカーが見えている中に、何かチラッと気になるものが視界の隅に見えたからかもしれない。
 コンクリートの低い堤防の向こうで、明け方の鉛色の海水は静まり返っていた。
 その物体は陸のほうに近づくのでもなく、沖へ逃げるのでもなく、居場所を決めかねたように静かに浮かんでいた。初めはそれが何か、はっきりとは分からなかった。しかしそのすぐ後、伊藤は腰が抜けるほど驚いて、近くの電話ボックスに飛び込んだ。

 横浜海上保安庁の辻利泰は、海上保安官としては三十年目のベテランだった。その日はようやく目が覚めるか覚めないかの早朝に呼び出しを受けた。水死体と聞けば一分一秒も惜しいように飛び出していく夫の後姿を見送って妻も三十年目を迎えていた。
 巡視艇は半時間後には現場に到着した。
 伊藤健二が発見したときよりも死体はかなり沖合いのほうに移動していたが、発見は困難ではなかった。巡視艇はゆっくりと船首を死体のほうへ近づけ、数メートルのところに来ると停泊した。船のデッキから死体揚収ネットが下ろされる。

 水死体は薄いベージュの作業服のようなものを着てうつ伏せに浮いていた。髪には海のごみやらヘドロがまとわりついていて、はっきりしないが見掛けよりもがっしりした男のようだった。
 死体から二メートルの距離を置いて揚収作業が続けられた。ネットは海面下に沈められる。幸い潮流は緩やかで死体は流れていくことはなく、死体の直下にネットが入り込むと上手く縦一メートル、横二メートルの長方形のネットに向きを合わせて四角のロープを引っ張る。
 ネットは太いパイプの枠組みの底になっていて、死体はうまくそこに乗った。

 辻と一緒に巡視艇に乗っていた若い保安官は無言のまま手術用の手袋をつけて、デッキの上に乗った死体を仰向けにした。腹は例の如く割れて、血液はもう海へ流れでてしまっていた。普通の人間なら倒れてしまうような情景も、辻にとってはいつもの仕事の風景だった。
 すばやく船は基地に向かって走り始めていた。多少の揺れはものともせず観察を行う。別の若い保安官が記録を始めている。若い保安官は二人とも辻と共に巡視船に乗って、この手の死体に慣らされていた。この光景を一般人が見ても、とても水死体を検分している空気を感じることはできないだろう。それほどに、辻たちには日常の業務だった。最も、だからといって楽しい仕事とは言えない。

「身長は百七十二センチ、着衣の乱れはありませんね」
 水死体の衣服は薄いベージュの上下で建設現場の作業衣に似ている。背は高くはないが体つきはがっしりしていたと思われる。しかし、そういう生前の面影を素人の目で想像するのはかなり困難な状態だった。それでもこれらの死体を見慣れた専門家は、死後に修飾されたものを彼らの頭の中で取り去って、生前のイメージを作り始めている。
「六十は出てますよね」
 服の内に何か身分を示すものを身に付けていないか見ても、それらしいものはなかった。辻は、少なくとも自殺をするようなタイプの男ではないと思っていた。

「あれぇ」
 記録している若い保安官が声を上げた。
「この男知ってますよ」
「本当か」
「えぇ、芝浦でジャズバーを経営している老人ですよ。何年か前、芝浦の近くで身元不明の水死体が上がった時、この男が通報してきたんですよ。俺、初めての揚収だったんでびびってたんですが、この男、死体なんて見慣れてるって顔で、俺に頑張れやって声を掛けてくれたんですよ。その後何度かこの人の店に行きましたからね。今年、ハマに移ってからは久しく会ってなかったんですが、えっと、何て名前だったかなぁ」
 辻は死体を見つめていた。
「死体を見慣れている?」
「えぇ、何か戦争の地獄を山のように見てきたからだって言ってましたよ」

 こうした事情で身元は直ぐに割れた。警察に連絡すると一時間後には本庁から刑事がやって来た。異例のことだった。
「本庁臨時特捜部から来られた添島麻子警部補です」
 横浜警察署の馴染みの若い刑事が、緊張気味に本庁からのお客を辻に引き合わせた。
「特捜? なんだ、一体?」
 しかも女か、と思った。
 その上美人ときている。どうせ警察学校を優秀な成績で卒業して若い頃からトップを約束されていた経験の浅い青二才だろうと思うと、辻は幾分か敵意を露にしていた。

「この男はブラックリストに名を連ねていますので」
 澄んだ明瞭な響きの声が、その美人の口からこぼれた。
「ブラックリスト?」
 その辻の質問を無視して添島刑事は死体安置室に入り、お世辞にも美しいとは言えない水死体を見ても顔色一つ変えなかった。しかも、その遺体の腹は割れて、内臓には半分喰いちぎられた痕がある。女ならもう少し可愛げのあるところを見せてくれ、と思う。
「検屍の結果が出るまで、何とも言えませんがね」
「でも、あなたの勘では殺し、ですね」
「私の勘など」
 辻が言いかけると、添島刑事は振り返り、親子ほども年の離れた男を真っ直ぐ見上げた。
「あなたの勘はほぼ間違いないと、父から聞かされていました」
「お父上?」

 辻が、こんな立派な娘を持つ父親の知り合いなどいないと思いを巡らせている間に、添島刑事は水死体を確認するべく手袋をはめていた。その横顔には明らかな面影はなかったが、添島という名前を思い返して、あぁと思った。
「するとあなたは、あの捜査一課の添島刑事の」
「娘です」
 添島刑事とはそれほど親しい間柄ではなかったが、デスクにつかず歩き回るのが性に合っていると言って、刑事一筋で三十年以上勤め、今時珍しい人情刑事だと噂されていたが、その情が仇となって一昨年殉職した。エリートコースとは程遠い叩き上げの男で、若い頃から随分苦労したと聞いていた。女ばかり三人の子供で苦労させなくて済むと思っていたら、長女が刑事になってしまって、某かの試験に通って国際警察機構に勤めていると笑っていた、その顔が思い出された。数回、水死体が縁で一緒に仕事をしただけだが、印象のいい男で、何度か飲んだ。
 あれは私と違って頭もいい、母親の血でしょうな、と恥ずかしげに自慢していた、これがその娘なのか。その母親は一番末の娘が小学校に上がる前に癌で亡くなったと聞いている。

「確か外国にいらっしゃったのでは」
「父が亡くなって、妹たちの面倒を見なければならなくなりましたので。まだ成人していない妹もおりますし」
 添島刑事は裸になった遺体を検屍の邪魔にならないように見ている。
「死後数日、ですか」
「そうですね。解剖を始めてもいいでしょうか」
「あと一時間ばかり、待って頂けますか」
 この死体を見ても顔色も変えないというのは、優秀ということとは関係はなさそうだった。
「身内の方がいらっしゃるのですか」
「えぇ、まぁ、そのようなものでしょうか」
 添島刑事は承諾を得て、電話を二箇所に掛けていた。

 亡くなった男の名前は田安隆三、年齢は不詳だが七十前後のようだという。身体つきは筋骨逞しく、とてもそのような年齢には思えない。身体には、古傷は別にして、生前のものらしい傷はなく、口の中に泡沫が見られ溺死はほぼ間違いがない。つまり少なくとも水中に没した時点で、意識は別にして生きていたということだ。硬直はまだ緩解しておらず、腐敗の程度も酷くはない。しかし水死体には独特の臭いがあり、こんなふうに腹を割かれた酷さには目を覆うものがある。
「この傷は、船のスクリューか何かに巻き込まれたものでしょうか」
「おっしゃる通りですね」
 添島刑事は落ち着き払っている。辻ほどのベテランならともかく、いくら刑事と言っても、水死体を見て若い女がここまで落ち着いていられるのは不思議だった。
「慣れてますね」
「一年以上、マルセイユにいましたの。水死体はもっと酷いものを随分見ましたわ。あなたが見たほどではないかもしれませんけど」
 そうなのか、と納得した。

「この男はどういう男なのですか」
「長い間傭兵をしていたと聞いています。中南米、中東のいくつもの国を渡り歩いて、いつからか芝浦でジャズバーをしている男です。実は昨日この男の店で爆発事故があって、行方を捜していたのです」
「何か犯罪を?」
「さぁ、どうでしょうか」
 添島刑事の説明では、爆発事故は午後四時ごろで、周辺の倉庫を二棟巻き込んだが、負傷者はいなかった。周辺への聞き込みでは、ここ数日店を開けていないようだったという。事故の原因は明らかに仕掛けられた爆弾によるものだということが分かっている。
『身内の者』を待つ間、辻保安官と添島刑事はコーヒーを飲みながら、亡くなった父親の添島刑事の話をして次第に打ち解けた。こ憎たらしい程落ち着いていた彼女がコーヒーを口にしてほっと息をつくのを見たとき、辻保安官は妙に安心した。

 十時過ぎにパトカーのサイレンが保安庁の前で止まって、暫くすると刑事が若い男を連れてきた。
 息子、というわけではなさそうだ、と辻は思った。
「横浜海上保安庁の名探偵、辻利泰保安官よ」
 若い男は緊張した面持ちで頷いた。
「こちらは新宿の名探偵さん。失踪人調査では、かの名瀬弁護士のお気に入りの捜査官ですの。特に未成年の事件では大変な活躍ですわ」
 添島刑事の言葉に若い男が何か言いたげに彼女を見た。辻保安官は、若いくせに妙に苦労癖のついたタイプだと思った。ハーフかクォーターか、異国の血が混じっているのか、瞳に碧の色が混じって髪の色も幾分か明るい。
「名瀬弁護士はご存知でいらっしゃいますか?」
「勇名は聞こえていますね」

 若い男は添島刑事につつかれて頭を下げた。
「相川真です」
「辻利泰です。よろしく」
 相川と名乗った男は添島刑事の方に何か言いかけたが、彼女はそれを遮った。
「会って頂いてもよろしいですね」
 辻が頷いたので、添島刑事は自らその若い男を死体安置室に連れて行った。辻はその後ろからついていった。随分印象的な男だと思ったが、生きているときに田安と名乗っていた水死体との関係は窺いようもなかった。

「シャワーを浴びる間もなく来たでしょ」
 よく通る声で添島刑事が言ったので、辻保安官の耳にも聞こえた。
「え? ……あぁ、そう、その、パトカーがあっという間にやって来たし」
 確かに若者の身体からほんのりと甘い香りがしていた。女の香水の匂いなのだろう。女にはそれなりにモテそうなタイプにはみえた。近頃の女は、こういう中性的なムードを好むらしい。いや、中性的というよりも、性別や種の枠を越えて、まるで別の生き物のようにも思える。性別は確かに雄だ。顔つきも整っていはいるが、女顔などでは決してない。何より、不思議な目の色だった。見つめていると、男だろうが女だろうが強烈に引き込まれてしまうような何かを、雄としての魔力のようなものを持っているように思える。

 安置室のドアを開けるときに、添島刑事は相川真に確かめていた。
「水死体は、大丈夫?」
 辻保安官は遺体確認の現場で気を失った遺族をしばしば見てきた。腐乱した夫の遺体に取りすがって泣いた妻も見た。父の死体に気を失った三十代の逞しげな息子もいた。総じて女は泣きわめく率が高く、男は倒れてしまう率が高いように思う。
「田安さん……、なのか」
「聞いたの?」
「パトカーの中で、芝浦の爆発事故の事を」
「その通りよ」
 すでに腐敗臭は漂ってきていた。相川真は気丈な横顔をしていたが、添島刑事がドアを開けると顔をしかめた。
 手袋をはめた捜査官がシートを取り去ると、こちらに足を向けた男の裸体が必要以上に膨れ上がって見えた。若い捜査官は顔だけを見せるはずだったが、この仕事を始めて一年目の若者で、水死体と二人きりで残されて舞い上がっていたようだった。

 辻はいつの間にか相川真の後ろに立っていた。もしかして倒れたら、と思っていた。
「どう思う?」
 淡々と添島刑事は聞いた。
「殺されたんですね」
 意外にも若者の声はしっかりしていた。
「腹の傷は死後のものね。でも酔っ払って海に落ちたとは考えにくいわね」
「誰が?」
「あなたに心当たりは?」
「俺? 何故?」
「昨日、彼の店に行ったわね」
 この女刑事は、水死体の視覚的衝撃を利用して、関係者の口を開かせようとしているかのようだった。
「昼間のことですか?」
「そう、何の用だったの?」
 相川真は添島刑事の方を見た。
「あなたこそ、何故田安さんの死体に付き合っているんです?」
「上からの命令よ」
「上?」
 添島刑事は相川真の腕を摑み、辻のほうを振り返った。
「解剖を始めて頂けますか」
 辻は頷いた。辻もこの若い男を別室で休ませた方がいいと思った。添島刑事に遺族のための控え室の場所を教えると、彼女は、それより御手洗を教えてもらったほうがいいかもしれません、と言った。





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[雨40] 第6章 水死体(2) 18R /昔イラスト第2弾(2) 

大事な人がいなくなってあれこれパニックになってしまったようで、このあたりから真がやたらと過去を思い出しています。今回は、あまり幸せでない方の過去なので、注意付きです。
以前にも出てきた苛めのシーンですが、少し具体的な描写で出てくるのと、昔付き合っていた女とのシーンでいささか18禁表現がありますので、15R/18禁です。
主人公ですが、一応この人にも色々負の感情がありまして、この【海に落ちる雨】は人の心の負の感情もひとつのテーマになっています。だから今回、ちょっと彼の負の感情が出てきますが、許してやってください。
でも、何度も鬼平で申し訳ありませんが、「人は良いことをしながら悪いことをし、悪いことをしながら良いことをする」のです。うちの和尚さん(from【清明の雪】)に言わせると、「100%の善もなければ、100%の悪もない」ということでして。
そして、ミニコラムは、『黒歴史』その2の2ページ目。大和竹流つまりジョルジョ・ヴォルテラと真の息子・慎一の話の300P突破記念コラムの2ページ目^^;(→記事の最後の『続きを読む』)




 過去に網膜が送った全ての情報の中を探しても、その服装や水死体そのものについても、記憶の引き出しに納めるべき段はなかったが、生前よりも随分と膨らんだ顔の口元から延びる髭は、紛れもなく田安隆三のものだった。昨日訪ねていって会えなかった。日常、水死体などに用事はないが、どう見ても昨日今日の死体には見えなかった。つまり、昨日のあの時には、田安はもうこの世にはいなかったということだ。
「手洗いはそこよ」
 辻に教えられた通りの場所を添島刑事が示し、真は指された方へゆっくりと歩いた。何の考えも浮かばず、ただ言われたままに行動していただけだった。頭の中には、もう田安ではなくなってしまっている膨れ上がった物体がただ存在していた。

 朝方の電話で水死体、と聞いて、一瞬、脳の中の思考が細胞ごとにばらばらになった。わざわざ同居人の恋人からかかってきた電話だ。まさか、と思うのが当然だった。一旦そう考えてしまうと、その考えを打ち消すのには相当の時間と努力が必要になった。女刑事の淡々とした声を聞きながら、灰色の細胞の隅のほうでようやく、そんなはずはないと冷静に受け止める部分が分裂した思考回路を纏め上げた。
 安置室の扉が開く前に、添島刑事に水死体は大丈夫か、と聞かれたが、経験がないのでわからない、と思った。そう考えるくらいには余裕を取り戻しているつもりだった。実際、自分でも意外なことに、膨らんだ水死体の異様さには動じなかった。

 だが、その髭を見た途端に、咽元に心臓が上ってきて回転したように感じた。呑み込んで胃に納めようとした塊は、何度も体の中心で拍動した。頭の方へ回る血液は明らかに減少して、滝壺に落ちるように全ての血液が胃へなだれ込んでいった。小中学生の頃、学校に行くと、しばしばこんなふうになって、あとは意識が吹っ飛んでいた。
 あの頃と同じようにすーっと頭が冷たくなったと思った時に、誰かに腕を摑まれて部屋から連れ出された。その腕に血液も神経も集中すると、何とか倒れずに済んだ。手洗い、と言われてどういう意味か理解はできないままだったが、足は別の意志を持っているように扉の中に体を運んだ。開いたままの便器の蓋に手を掛けてその冷たさを感じた瞬間に、一気に嘔気がこみ上げてきた。今朝は何も食べていないので多分ろくなものは出てきていないはずだが、胃液のような液体を吐き出すと、楽になるどころかさらに気分が悪くなった。
 しばらく嘔吐は止まらず、血液の臭いまでしたように思った。胃の中には、もう田安ではなくなってしまっている膨れ上がった物体がまだ残っている気がした。その物体は真の体の中で蠕いて、しわがれた声で話しかけてきた。

 お前は、優しい人間だ。

 その声は腹の中から背骨の細かな関節を伝い、耳の骨にまで直接響いてきた。関節を超えるときに音は増幅し、輪唱する歌のように幾重にも折り重なり、頭に響いてきたときには割れるようなわんわんとした雑音になっていた。眩暈を感じると、その雑音はしばらく遠ざかり、それから輪唱の最後のパーツのように透明になった声が残り、もう一度同じ言葉を繰り返した。それは、確かに真が覚えている田安の声だった。
 あんなにも怪しい老人なのに、普段は厳しく他人を吟味しているのに、あの時彼は本当に真を思いやってそう言ってくれたのだ。

『そんなふうに殺気を漂わせていてはいけない。自分が許せないからか? 哀しいことは泣いてしまうのがいいのだよ。お前は父親とは違う人間だ。幻想に摑まれてはいけない』

 父親との接点は考えたことがなかった。懐かしむとか求めるとか、そういう感情を一切抱いたことがなかった。少なくとも自分はそうだと、今の今まで思い込んでいた。
 昨日、自分は何故田安に会いたいと思ったのか。
 澤田と田安の接点を知ったからかもしれないが、その澤田の口から、父親代わりという言葉が出たからなのだ。小さなキーワードだった。

 初めて田安に会ったとき、彼はアサクラタケシのねぇ、と呟いた。その名前が何か特別な名前であることを直感的に感じながら、恐ろしくて聞き返せなかった。何故、祖父もおじたちも、真が次男の武史の子供であることを敢えて隠しはしないのに、父親に会わせてくれようとしないのか、あるいは会えないのか、その理由を説明してくれたことはなかった。
 父が恋しいわけではなかった。恋しいと思う感情が湧き出すほどに、その人を具体的に思い描くことができなかった。
 そして何よりも、父の仕事が何か得体の知れないものであることを気配として察知して以来、恋しいと思ってはならない相手になった。 
 自分の中の得体の知れない血が、いつかとんでもないことをしてしまうのではないか、そんな恐怖がいつも付きまとっていた。


          * * *

 中学生の時も、学校で苛めにあっていた。
 小学生の苛めとは本質的に違っていて、大人の身体に近付いて体力を身に付けた『いじめっ子』たちのやり方は、肉体的な苦痛を強いる暴力へと姿を変えていた。
 体格も大きく力のある柔道部の上級生に何度も呼び付けられて殴られた。
 彼らが真の何を気に入らなかったのかはわからないが、真は小学生の時から苛められていたのと同じ理由だろうと思っていた。自分の髪と瞳の色が他の子供たちと少し異なっていたことと、もともと他人と話すのが苦手だった上に、東京に出てきてから言葉が上手く理解できなくなっていて、あまり他人と口を利いたり打ち解けたりしないので、生意気だと思われていたせいだろうと、そう思っていた。

 殴られても始めは本当には恐ろしいと思っていなかった。そういう態度が余計に彼らの気に障ったのかもしれなかった。
 真は実際、自分自身には武器があることを知っていた。
 赤ん坊の真を北海道に連れて行って育ててくれた祖父は、何度も熱を出して死にそうに見えた子供を鍛えなければと思ったのか、厳しく躾け、剣道を教えてくれた。祖父はその当時、北海道ではかなり有名な猛者だったし、子供だからといって真に対して一切手を抜かなかった。お蔭で真も自分の腕にそれなりの自信もあった。だが人一倍厳しい祖父は、それを喧嘩に使うことなど勿論許さないはずだった。もし殺されても相手に手を出すなと言いそうだった。それに真自身、子供の頃から唯一信頼し尊敬できる大人だった祖父を、失望させたくはなかった。

 だが、ある時我慢と恐怖の限界を越えてしまった。
 相手はいつも複数だったが、その時はいつもより人数も多く、何か新しい苛め方を思いついたのか、にたにたと笑っていた。その顔を見たとき、既に真は身体が硬直するような恐怖を覚えていた。
 コンテナのような造りのクラブの部室に連れ込まれて、あっという間に押さえつけられて裸にされた。日本人ではないようだから、身体の隅々まで違いをよく調べてやる、と言って、彼らは笑いながら下着まで剥ぎ取った真の足を開かせて、前と肛門まで懐中電灯で照らして、笑いながら写真を撮り、そのうち真の身体に落書きを始めた。力強い幾人もの手で押さえつけられたままで、口の中には何か異物の気配があり、息を吸うのもままならず、叫ぶことも噛み付くこともできなかった。

 女のものと一緒だ、と大笑いをしながら誰かが言った。そういう落書きを後ろの孔の周りにしていたようだった。それから、頭は床につけられたまま、腹ばいにされて腰を抱えられた。
『ゴムとゼリーつけてやったほうがいいんじゃないのか』
 興奮した声が唾を呑み込むような卑猥な響きを伴っていた。息苦しい姿勢のまま、何の話かと思うまもなく、いきなり肛門に何か硬いものを突っ込まれた。
 叫んだはずだが、喉には何かがつっかえている。肛門に突っ込まれたものは、更に奥深くに押し込まれ、身体を押し広げるように激痛が滲みこんできた。
 涙と涎が零れだす感じがした。逃げようとしたはずだが、頭は足で床に押さえつけられ、両手の自由は完全に奪われていた。後ろに突っ込まれたのは大人のための玩具らしく、彼らはそれを抜き差ししながら、卑猥な声を上げていた。

『すげぇ。こいつ、感じてるんじゃないの。ここ、ひくついてるぜ』
 誰かの一言で、皆がまた笑い始めた。下品で粗野で不潔な人間たちだった。
 もちろん、感じるはずなどなかった。大体、感じるというのがどういうものなのか、その時の真はまだ知らなかった。ただ、足が痺れて、頭の中ではフラッシュが焚きつけられたような旋光が何度も飛び散った。
『ちびってやがるんじゃないのか。扱いて、白い方、ちびらせてやれよ』

 誰かの汚らしい手が、真の性器をつかみ扱き始めた。真は痛みのあまりに叫んだつもりだったが、声は咽喉元にまで詰め込まれた何かで閊えて、ただ唸っただけだった。その閉塞感は耳の中で、籠に閉じ込められた虫の断末魔の羽音のように反響していた。
『あぁ、俺、たまんなくなってきた』
 その声がぞっとするくらい近いところから聞こえてくる。
『女よりいいらしいぜ。むっちゃ締まりがいいんだってよ。突っ込んでやれよ』
 後ろの中心から硬い玩具が抜き取られ、尻を押さえつけられ、もう少し温度のある硬い別の感触がひきつった部分にあてがわれた瞬間、激痛と恐怖と屈辱と、そしてついに怒りとが一気に吹き上がった。何かの拍子に一瞬、腕が自由になった。
 その瞬間、思い切り暴れて、手の届くところにあった長い棒を摑んだ。それが何だったのかはもう記憶にない。

 殺さなければ、いつか殺される。こいつらは殺されても仕方がないことをしている。こんな下品な奴らを殺したって平気だ。真は口の中で呟いていた。
 大勢が逆転したのを知ったときの彼らの恐怖に引きつった顔が、今も忘れられない。あの時、もしも手に触れたのが野球のバットで、もしも給食の車が通りかからなければ、きっと彼らを殺してしまっていた。
 結局その事件で学校には行けなくなった。伯父は相手の親が何か言ってきたと学校から呼び出されたが、逆に完全に切れて、ようやく息子を苛めていたやつの正体が分かった、徹底的にそいつらの責任と学校の責任を追及すると言って、知り合いの有名弁護士の名前を出して全面対決の構えを見せた。学校が事件を隠そうという姿勢に変わった時には、伯父はたまたま一年ほどアメリカに留学する話があったのに飛びついて、真と葉子を連れてカリフォルニアに移った。
 伯父は真を赤児のように抱き締めて、一緒に泣いてくれていた。日本に帰ってからは、結婚するつもりだった昔の恋人が経営している私立の学校に真を編入させてくれた。そこからは、環境は随分と変わった。

 それでも時々、手の中にあの時彼らを叩き続けた感触が蘇った。被害者として殴られていた痛みにも震えるほどの恐怖がこみ上げてくるが、加害者として殴っていた時の感触はそれにも増して忘れようのないものだった。
 あの時、殴っている間に思い出していたのは、赤ん坊の時の不気味な記憶だった。
 覚えのないアパートの部屋で、美しい女性が赤ん坊の自分を抱いていたが、泣き出した赤ん坊を見ると、その人は形相を変えて小さな首を絞めた。

 真は上級生たちを叩きのめしながら、まさに今、その女にも復讐をしているのだと思っていた。
 そもそもあの女が悪いのだ。あの女が俺をこんなふうにしたのだ。だから、あの女を殺さなくてはならない。
 これまでも、夢の中で食い込んでくる指の気配で、何度も目を覚ましたことがある。
 それが本当の記憶なのか、誰かがそのような昔話をしているのを聞いて、自分の中で作り上げられた幻想なのか、今となってははっきりしない。だが、殺さなければ殺されるという感情を真の中に残したのは事実だった。

 その女性が伯父の妻で葉子の母親で、真の実父が捨てた女だということを知ったのも中学生の時だった。
 彼女は、真の父に捨てられた後、精神が不安定になっていた。
 伯父の功は、もともと憧れていた女性だったこともあって哀れに思ったのだろう。当時付き合っていた女性と別れて、その女と結婚した。だが、引き取った赤ん坊が、よりにもよって自分を捨てた男の子供で、文学部の同人誌に書かれるほどの大恋愛の末に生まれた赤ん坊であることを、その女は知っていた。
 もちろん、彼女なりに乗り越えようと必死だったはずだった。
 けれども、神経質で過敏な赤ん坊の泣き声は、その女を追い込んでしまった。

 伯父が失踪した後で、その女が長く入院していたサナトリウムで末期の癌に侵されていると知ったとき、真は自分がその女よりも初めて優位に立っていることを感じた。
 自分は生きていて、女は明らかに死に向かっていた。今や、その女の運命さえも自分が握っていると感じた。
 今の自分は首を絞められるばかりのか弱い存在ではない、それどころかその女を救ってやる広い心と力を持っているのだと思い、自分の部屋のベッドの上で布団に潜ってうずくまり、ずっと笑っていた。
 そう、あの女についに復讐するときが来たのだ。ゆっくりと真綿で首を絞めていく、その復讐を始めるときが来たのだ。

 興奮して、知らず知らずのうちに性器を擦り、肛門に唾液で濡らした指を挿れ、何度も自慰をした。思いつく限りの呪いの言葉を口にしながら限りないほど昇り詰め、その後は窓から胃液を吐き続け、寒くなって震えるようにベッドに戻り布団を被ると、そこに深い闇があった。

 自然の世界には完全な闇はない、と教えてくれたアイヌの老人は、ただ一つ、人の心の中にだけは完全な闇があると言った。
 それが今まさに自分の心の中にあった。その女の孤独で無惨な死を思い描いて興奮していた自分が恐ろしくて、いや、ただ何もかもが恐ろしくて、その女のために自分の身を犠牲にしようと考えた。
 あの闇を、自らが作り上げた美しい物語で覆い隠してしまいたかった。自分の首を絞めた女のために、天使のような心を持った赤ん坊は成長して、女の病を治療するために自らの貞操と羞恥を売りに出した。

 だから、滝沢基に身を任せたのだ。
 しかし滝沢は、真が考えていたほどには酷い人間ではなかった。真自身は何をされてもよかったし、できるだけひどく扱われたいと願っていた。そういう自分の犠牲が、あの心の闇を浄化するための儀式であるとさえ思っていた。だから、ベッドの上では滝沢に教えられるままに何でもした。だが、どう思い返してみても、ファインダーを間に挟んでいないときには、むしろ優しく扱われたという記憶しかない。それが金に変わったとき、本当は声に出して泣き叫びたかったのに、うめき声一つ上げることができなかった。

 そして、本当に女が死んでしまったとき、どれほど否定しても湧きあがってきたのは、安堵の気持ちだったのだ。もう恐ろしい夢を見なくても済む、と思い、自分の心に黒い空洞が開き、そして真は生まれて初めて、心の闇を吐き出すかのように泣き叫んだ。
 その時、何も聞かず、何も言わずに真を抱いていてくれたのは、今の同居人だった。狂ったように泣き叫び、自分自身を傷つけようとした真を、彼はただ一晩中抱き締めてくれていた。彼があの日、偶然傍にいてくれたのか、自分が彼を訪ねて行ったのか、もう記憶にない。

 だが、誰かの死を願うという心の闇は、再度真の内に湧き上がった。それは、妹(実際には従妹)の結婚相手、すなわち唯一の友人の、従姉に対してだった。
 幸いにも妹の葉子は、真の首を絞めた女の娘だったにも関わらず、その人にあまり似ていないようだった。赤ん坊のときから葉子自身、一度もその女に抱かれたこともなく育ててもらえなかったことが、親子の類似点を消してしまったのかもしれなかった。葉子をずっと大事に思っていたし、高校生のときから付き合っていた篁美沙子と別れた後、一時は本当に彼女に告白したい衝動に駆られたりもした。

 だが、できなかった。
 葉子は本当に『大事な人』だった。妹としても恋人としても姫君としても、誰よりも大事な人だった。だからこそ、穢れた心を抱いたままの自分では、最後の一歩は永遠に踏み出せなかった。手を伸ばせば数センチで彼女の手があったのに、その手に届かなかったあの秩父の山奥の流星の降る秋の夜空の下で、あの恋は恋のまま永遠に残った。

 葉子の花嫁姿を見た日、彼女の夫となった男の従姉と、迷いもなくベッドを共にした。そして、狂ったように彼女にのめりこんでいった。
 小松崎りぃさは自殺願望に縛られた女性だった。いつも一緒に死んでくれる相手を探していた。りぃさと初めてベッドを共にした日、彼女は真の身体に残る事故の傷跡を見て、真の『死に掛かった』過去に対して恍惚とした表情を浮かべ、その傷跡に触れ口づけた。彼女にとって真は一緒に死んでくれるのに相応しい、最高のパートナーに思えたのかもしれない。

 それから数えられないほどセックスをしながら自殺ごっこを繰り返した。彼女が本気だったのか遊びだったのか、ただ不安だったのか、今でも真には分からなかった。
 どこで手に入れてきたのか、警察官からかっぱらったと言っていた手錠や赤い紐でベッドに括り付けられ、町で手に入れたという法律すれすれの薬を飲んだり吸ったりして淫蕩な行為にふけった。りぃさが望むので、彼女を縛り、肌に食い込んだロープの隙間から突き出す乳首をちぎれるほどに強く噛み、言われるままに彼女の前で自慰をした。何の抵抗もなく、何の後悔もなかった。

 彼女の理論は不思議に説得力があった。
『普通、食物連鎖の中では増えすぎた生物は、食べるものが減って滅びるのよ。どうして人間はこんなに増えているのかしら。きっと他の生物たちは人間が地球を汚しながらたくさん蔓延っているのを見て、何とかしなくちゃって思っているわ』
 その言葉には反論することはできなかった。人間に、そして自分に引き返す道がないことは、真も理屈では分かっていた。時々、りぃさは真の身体の下、腕の中で昇り詰めながら涙を流していた。気持ちいいと呟いていたが、本当はそういうことではないということを、真はよく分かっていた。

 ただりぃさを救いたいと願っていた。彼女を救う方法が一緒に死ぬことなら、それも仕方がないと思っていた。
 だが、りぃさの細い指で、あるいは紐やベルトで首を絞められるたびに、いつも身体の中のどこかで何かが悲鳴を上げていた。それを聞かないふりをし通した。

 りぃさが自殺をしたと聞かされた時、襲ってきたのは悲しみではなく、安堵の気持ちだったのだ。いつも使っている薬の量を間違えた、と聞かされたが、本当かどうかは分からない。どこかでりぃさの死を願っていた自分が、彼女を呪い殺したのかもしれないと思ったとき、その自分の心の闇が恐ろしくて耳も心も閉ざした。今度こそどうなってもいいと思い、ふらふらになっていた。

 その時、当時勤めていた調査事務所の先輩の三上が、事務所の爆発事故で下半身不随になった。
 三上はいつも真を気に掛けてくれていて、兄貴のように面倒を見てくれていた。真は、三上が二階の窓から爆風と炎で吹き飛ばされ、表通りに落ちるのを、まともに見てしまった。
 事故は田安隆三を真に紹介した胡散臭い唐沢所長の保険金詐欺によるものだったが、その予兆は以前からあって、もしも真が女にうつつを抜かしてさえいなければ、十分に気が付いて三上を救えていたかもしれなかった。
 それだけに、もっと自分を許せなくなった。

 あの頃、どこかにこの自分自身を沈めてしまいたかった。不安定な気持ちをぶつけるのに、田安の射撃場は思った以上の効果を示した。
 だが、その時田安が言ったのだ。

 お前は優しい人間だ。そんなふうに殺気を漂わせていてはいけない。自分が許せないからか? 哀しいことは泣いてしまうのがいいのだよ。お前は父親とは違う人間だ。幻想に摑まれてはいけない。





以下コラムです。
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨41] 第6章 水死体(3) /昔イラスト第2弾(3) 

第6章『水死体』は比較的短いので、あと2回で終了です。第7章からは第2節に入ります。
今考えてみると、この改訂版を始めたとき、1回分を短く切るという話をしていたのに、蓋を開けてみたら、あまり短いと話がぶつぶつ切れた感じになるので、結局長くなっている気がします。
読みにくいとか、ございましたら、いつでもご指摘くださいませ。
それでは、第6章(3)、竹流の恋人・女刑事と真の会話、お楽しみください。




 田安を訪ねたのは、父の事を聞きたかったからなのかもしれない。
 その人のことを知らないままでは、恐怖ばかりが自分にまとわりついてくるような気もしていた。いや、そうではない。ただもう一度聞きたかっただけなのかもしれない。

 お前は優しい人間だ、と。人の死を願うような人間ではないと、ただそう言って欲しかったのだ。
『あの男と一緒に住んでいるそうだな。そりゃ構わんが、早く嫁さんを貰え。あの秘書のお嬢さんはどうなんだ。北条仁の恋人だって? いや、ああいうあっけらかんとしたタイプがお前さんにちょうどいい』
 珍しく酔った時、田安はそう言っていたこともあった。
 その人がこの世にいない。あんな膨れ上がった人間かどうかもはっきりしないような姿になって横たわっていた。

 何度も何度も吐いたのに、まだ胃の中に黒い塊が残っているような気がした。それはどうしても吐き出せず、苦しくて堪らなかった。涙と汗が血を絞るように噴き出してきたが、今はもうどうすることもできなかった。
 真がふらふらと手洗いから出ると、廊下で待っていた添島刑事が顔を上げた。嫌味な気配はなく、心配そうな顔だった。
「大丈夫?」
 真は返事をしなかったが、添島刑事は真の腕を労わるように支えてくれた。格好悪いとか、考える余裕はまるでなかった。

 控室は殺風景で、事務的な机と椅子が並んでいた。薄暗い廊下から部屋に入ると、窓からの光が作る暖かで穏やかな影とのコントラストが目を射た。突然別の次元に来たような心地がする。
 添島刑事は長椅子に真を座らせ、彼女も隣に座った。
「あなたって本当に、突然意外な顔をするのね。気丈かと思ったら、本当に脆いんだから。そんなに大切な人だったの?」
 真は答えなかった。大事な人だったかどうか、本当はよく分からなかった。

 傍らで添島刑事がそっと息を吐き出した。
「呼びつけて悪かったわね。あなたならもう少し冷静に何か見つけ出してくれるかと、いえ、本当は何か知ってるのかと思ったのよ」
 添島刑事の手が自分の背中に触れたので、真はびくっとした。不意打ちだったからではない。それが思った以上に優しい手だったからだ。

 あぁ、そうか。この女も実際には意外と優しい女らしい人なのだろう。こういう、芯が強くてしなやかで優しい女は竹流の好みだし、この女が彼の恋人として相応しい一人であることは納得がいった。
 そのことに思い至ったとき、背中に触れている彼女の手が、心のうちに今、自分が最も求める手と重なった。
 りぃさの自殺を真に伝えたのは竹流だった。やはりあのマンションのベッドで、もうその時は声を上げることもできなかった真を抱き、彼は静かに真の頭を包み込んでくれていた。そしてその後、大間の海岸で、一緒に住もうと言われたのだ。
 不意に、真は身体を貫くような痛みを覚えた。もしかして、あの手も二度と冷たくなったこの身体を抱き締め、時には慰めるように頭を撫で、あるいは労わるように肩を叩いてくれることはないのだろうか。そう思ってぞっとした。

 田安は殺されたのだ。いくつもの戦火を潜り抜け、戦いに明け暮れた人生を送り、人一倍他者の殺気には敏感な男が、東京湾に浮いた。田安が老人だったとは言え、ただの年寄りではない。その無情で周到な殺人者が竹流を放っておいてくれるだろうか。
 そう思って身体は震えた。
 震えてから、幾分か頭が冷めると、竹流が関わっていることと、田安の死に関係があるという確証がないことに気が付いた。だが、もう半分は何が何だか訳が分からなくなっていた。
「帰って待ってる? 解剖の結果は教えてあげてもいいわよ」

 真は、待つと答えた。田安の死を見届ける義務があると思った。そして、竹流が戻ってくるまで、まだ倒れるわけにも狂ってしまうわけにもいかないと思った。あの手を取り返すまで、たとえ心の内にどんな闇を抱えていようとも、立っていなくてはならない。
「泣いてるの?」
 真は返事をしなかった。添島刑事が隣でひとつ息をついた。
「あの人があなたを放っておけないわけがわかるわ。でも、本当はそんな単純な言葉じゃ片づけられないのよね」
 彼女の呟きの意味の全てが、理解できたわけではなかった。だが、意外にも優しい気配を感じると、この女が竹流を本当に愛しているのだと信じられた。

 あの馬鹿、何人の女をその気にさせたら気が済むのだろう。それなのに、生きて帰ってこないとしたらとんでもない。精一杯の強がりでそう思った。
「竹流を、本当に好きなんですか」
「そうね。そうかもしれないわね」
 添島刑事は突然の質問にも驚いた気配はなかった。
「何人も女がいるのに」
「知ってるわよ。多分、私のほうがあなたよりずっと具体的なことを知ってる。でもあの男はそれぞれの女といるとき、本当にその相手に真摯だから、少なくともそう思わせてくれるから、女は気持ちよく騙されてしまうのよね」

 むしろ爽やかに言い切る隣の女に、真は嫉妬した。
「腹が立たないんですか」
「立つわよ。でも、実際に目の前にいて上手く甘えられてしまったら、それまでなの。そして抱かれたら許してしまう。彼に見つめられると、自分が世界の中心にいるのだと思えるの」
 真は思わず添島刑事を見た。
「だからあいつはつけあがるんだ」
 添島刑事は真が驚くほど感じのいい笑みを見せた。
「そうね。で、あなたは?」
「俺? 何で?」
「てっきりあなたたちはできてるんだって思ってたけど。カマをかけたのに、あなたは引っ掛からないし」

「カマをかけた?」
 真が訝しく思って聞くと、添島刑事は幾分か楽しげに笑った。
「彼の背中の火傷のこと。知らない振りをしてあなたにカマをかけたわ」
 あぁ、そういうことか、と真は思った。
「いえ、引っ掛かるも何も、俺は実際知らなかった。それにできてるって、どこかの三文雑誌並みの発想です。刑事のあなたが、らしくもない」
 添島刑事は今度は意味ありげに笑った。
「そうかしら? 刑事らしい洞察力だと言って欲しいわね。あの男は本当に、『恩人の息子』を我が子か弟か恋人かってくらい、可愛がっているものね」

 真は少しの間考えていたが、やがて自分の手を見つめたまま言った。
「できてるんなら背中にだって触れる。火傷の瘢の事を知らないことはない」
 添島刑事も少しの間考えていたようだったが、やがて言った。
「じゃあ、もっと女たちの気持ちを害するわね」
 真は意味がよく分からずに、彼女の顔を見た。
「余計に悪いって言ってるのよ。セックスをする相手の方がよほどましね。身体を求めないのに、あそこまで大事に思うってのは」真が理解できないまま返事もしないでいると、添島刑事は先を続けた。「あれは二年ほど前のことだったかしら? あなた、ビッグ・ジョーのところでひどい目にあったでしょ。彼がその時どうしようとしたか聞いている?」

 真は思わず息を飲み込んだ。
「可愛い恋人のためでなかったら、あんな喧嘩の売り方をするかしらね。いえ、喧嘩じゃなくて戦争だわ。頭に血が上って何も目に入らなかったって感じだったけど。彼の仲間たちがそういう部分で常識的な人間たちでなかったら、新宿は文字通り戦場になってたわよ。あの男に自覚はなかったんでしょうけど」
 真は添島刑事から目を逸らした。僅かに身体が震えるような感じがした。
「俺にはただ、野良犬に噛まれたようなものだから忘れろと、そう言っただけです」
「あなたにはそんな自分を見せたくなかったんでしょうけど、あの事件でその世界では、完全にあなたは彼の恋人だと思われるようになった。その上全国版の雑誌であんなに堂々と愛しているなんて宣言されたんじゃね。しかもあなたたち、否定しないじゃない」
「それは、面倒だからです」

 真はいちいちそう答えるのも面倒な気がしてきた。大体、人と人との間の微妙な距離感を、第三者にどう説明してもわかってもらえる気がしない。何よりも自分自身が自分の感情に確信が持てない。 
 だが、添島刑事にそう言われてみると、あの雑誌の記事が何となく周辺の人間たちの感情を引っ掻き回した気がしなくもない。竹流の仲間たちも女たちも、面白くないと思っただろうし、あるいは彼の敵だって、別の形で何かを思ったかもしれなかった。

「あの時、何があったか知ってる?」
「え?」真は聞き返して添島刑事の顔を見て、それから床に視線を落とした。「いや、俺は」
「そうね、さらわれてから薬漬けで散々玩具にされて、意識もなかったんでしょうね。あの時、ビッグ・ジョーは彼がソ連やアメリカ、ヨーロッパの国から美術品を運んでいるルートを欲しがった。あれほど完璧にやばいものを隠せるルートは他にないと思ったんでしょうね。ある意味正しいけど」
「それは、あいつは怒るでしょう。そういったものが麻薬や武器の隠れ蓑に利用されるとしたら」

 添島刑事は微妙な表情で笑った。
「そうね。でも、彼はビッグ・ジョーにこう言ったそうよ。そんなものが欲しければいくらでもくれてやる、堂々と正面から交渉に来い、けれども既に交渉の席につくチャンスをお前は自分から失ったってね。彼にとって、本当にそんなものはどうでもよかった。そのルートを奪われるだけなら、彼は戦争をしかけようとは思わなかった」
 真は床の冷たいタイルの色を見つめたままだった。そのことについて竹流自身がどう思っているかは別にしても、葛城昇や東道が竹流を見て危なっかしい気持ちになったのは十分理解できる気がした。

「世界中には馬鹿みたいな金持ちがいて、自分のためだけに値段もつけられない土地と屋敷と金銭以外の財産を持っていて、数えたこともないほどの数の車や自家用機や船を持っていて、ついでに気が向いたときに何時でも玩具にできるセックスの相手をハーレムのように持っている。普通の遊びでは飽き足らなくなっていて、相手の性別も年齢も全く気にせずに玩具にするのよ。それも使い捨てでね。異常なセックスの結果、相手が死のうと構わない。あるいは、宴会の余興に、素手の人間を、虎やライオンと闘わせたりして楽しむ。寺崎昂司があなたを助けなかったら、あなただってそういう金持ちに売られていたかもしれない」

「寺崎?」
 真は思わず飛び込んできたキーワードに飛びつくように彼女の顔を見つめた。
「あなた、誰が自分を助けてくれたのかも覚えてないの? まぁ、あんな状態だったから仕方ないけど」
「寺崎昂司って、竹流の仲間の」
「仲間? ちょっと違うかしら」
「どういう意味ですか」
「彼の仲間と彼は表向きにはほとんど接触しないようにしているでしょ。でも寺崎昂司と彼だけは違うわ。一緒に遊んでるし、いつだって何かを競って楽しんでいる。お互いに特別な存在なんでしょうね。寺崎は関西では有名な運送屋の社長の息子で、裏家業では逃がし屋として知られている。あなたを助けることができたのも、寺崎昂司の持つネットワークが物を言ったのよ」

 真は添島刑事が、寺崎が今彼と一緒に(現在一緒にいるかどうかは別にして)行方不明になっていることを知っているのだろうかと思ったが、そのことを確認していいものかどうか判断がつかなかった。寺崎の名前が偶然に出されたのか、それとも故意なのか、何か探りを入れられているのかもしれなかったが、あまりにも竹流の身近にいる人物のことだけに、ここで寺崎の事情を話すことが躊躇われた。
 だが、そうなのか、と思った。だから高瀬は、あなたは知っている、と言っていたのか。添島刑事が言うビッグ・ジョーに捕まっていた時、意識が朦朧とした状況だったので、あの時自分を助けてくれたのはてっきり竹流自身だと思っていた。助けに来てくれた男の背格好も気配も、実際竹流とよく似ていた。いや、本当のところはあまりよく覚えていないのだ。

「寺崎昂司があなたを救い出すのが僅かに遅かったら、あるいは寺崎が彼を止めなかったら、それこそ新宿のど真ん中で血の雨が降っていた。いいえ、あるいは止めたのが寺崎昂司じゃなかったら」
添島刑事は一瞬、言葉を継ぐのを躊躇い、そして続けた。
「いつも陽気で性質的には寛容で穏やかな男に見えるけど、あの時はやっぱりイタリア人だと思ったわ。報復に手ぬるいことはしない」

 あまり考えないでおこうと思った。竹流がそうしようとしたのは、多分彼自身の血のせいで、自分をどうこう思っての事ではないと思った。彼は、例えば寺崎昂司が同じようなことになっても、やはり同じ反応をしただろう。
 そういう男だと思った。
 竹流は寺崎昂司を庇ってあの背中の火傷を負ったのだ。自分が傷つくことよりも友人が傷つくことを恐れたのだろうか、それともただ、受けてきた教育の結果として、身体と脳が反応するままにそうしただけのことか。

 真は自分の手を握りしめた。この手で彼の背中に触れたのは、一体いつが最後だったのだろう。あんなにもそばにいたのに、知り合ってから十五年も経つのに、本当に彼の何を知っていたというのか。少なくとも知ろうという努力が必要でないほどに、彼は真を大事にしてくれていたということなのかもしれない。
 だが、本当にそれだけで良かったのだろうか。
 あんな新聞記事の切り抜き一枚を残されても、何をどうしたらいいのか分からない。
 だがふと、三年半前、というキーワードを思い出した。
 あの新聞記事、雑誌記者の自殺と、竹流が火傷を負ったという三年半前。





以下コラムです。
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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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[雨42] 第6章 水死体(4)/ 昔イラスト第2弾(4) 

添島刑事と真の会話、後半です。今回、第6章『水死体』、そして第1節の完結です。


「三年半ほど前……ICPOにいた?」
 添島刑事が何を聞くのか、という顔で真を見た。
「えぇ」
「竹流とは、その頃からの知り合い……ですよね?」
「知り合ったのはもっと前だけど。それがどうかしたの?」
「一九七六年の一月ごろは? 彼が何をしていたのか知りませんか」

 添島刑事は厳しい目つきになった。
「それが何か関係あるの?」
「彼が火傷を負ったのはその頃だ。丁度ロッキードの頃」
 真がそう付け加えると、添島刑事は少し考えていたが、やがて呟いた。
「ソ連」
「ソ連?」
「ロシア貴族の末裔がウクライナに住んでいた。ロシア帝国の財産の一部がそこにまだ隠されていて、それが日露戦争の頃に幾つか新潟へ持ち出されたという噂があったの」
「財産? 金塊か宝石? それとも美術品ですか」
「絵画よ。何百億かって話だったわ。何しろものはレンブラント、ルーベンス、デューラー……、値段のつけられないものもあったかもしれない。ところが蓋を開けてみればそれは贋作で、新潟県は贋作を安く買い取ったことはあって、それはそんな古い時代の事ではなくて、近年のことだって言ってたけど。鑑定家が贋作の確認をしたと思うわ」

「新潟」
 真はその地名を繰り返した。今の話はまさに高瀬の言っていたことと一致する。
「彼は贋作を盗むんだと言って笑ってた」
「贋作? それで見逃した?」
「えぇ、まぁ、そういうことになるかしら」
 添島刑事は明言を避けた。彼女が覚えていたのは、彼女なり職業意識への罪悪感が残っていたからなのかもしれない。
「本物だった、ということは?」
「新潟県が鑑定を複数の人間に依頼したの。そういう可能性は十分に検討されたはずよ」
「本物ではなく、贋物であることを証明する為の鑑定ですか」

 真は呟くように言ってから、初めてこの理屈のつかない事件が同居人のテリトリーに入ってきたと思った。
 三年半前、竹流が寺崎昂司と『贋作を盗みに』新潟に出掛けていた。何があったのかはわからないが、そこで竹流は寺崎昂司を庇って背中にあんな火傷を負った。
 丁度その頃、新津圭一は誰かを脅迫していたが、『自殺した』。この二つの出来事の接点は不明だが、竹流は高瀬のところに新津の自殺の新聞記事を残していた。
 そして今、竹流は河本、つまり内閣調査室長が追いかけている人物の関係者と接触している。それが多分、美和がつけていった男の事なのだろう。美和がどこかで会ったことがあるようで、思い出せなくて気持ちが悪いと言っていたその男。
 その男を、何故か楢崎志穂もつけまわしている。彼女は、香野深雪が新津圭一の恋人、いや不倫相手だったという。その上、何故か彼女は香野深雪を『肉親』と言い、更に澤田顕一郎を恨んでいるようなことを言っていた。

 河本が追っている相手は誰なのか、河本自身も分からないらしいと添島刑事は言う。勿論、河本がこちらに情報を全て広げてみせるわけはない。だが、その『誰か』を澤田も香野深雪も捜しているらしいという。
 そして、澤田顕一郎の親代わりだったという田安隆三が殺された。
 まるでばらばらに思える出来事が、静かに絡まり始めている。

 自分の事として考えてみれば、深雪と付き合うようになったのは一年以上前のことだ。澤田顕一郎はずっと自分の『愛人』の若い恋人の事を知っていたはずなのに、今までは何も言ってこなかった。真の父親が特別な仕事をしていると知って、初めて接触してきた。澤田にとっての相川真の意味は、愛人の恋人ではなく、相川武史またはアサクラタケシの息子ということだ。それは河本にとってもそうなのだろう。

 二年半前から、大和竹流と同居している。
 そのきっかけになったのは、真が付き合っていた小松崎りぃさの自殺だった。あの時、胃潰瘍と肺炎でひっくり返っていた真を庇いながらも、真の看病を知り合いのロシア人女性に任せて、竹流はどこかへ出掛けていた。
 ソ連だ。彼の専門分野の一つに聖画があるので、彼がソ連に出掛けることはそれほど珍しいことでもないのかもしれない。もっともそれは、イコン画家だったという、そのロシア人女性の夫の絵を捜しに行っていたからだと聞かされている。今度の事と関係しているのかどうかは分からない。

 竹流はいつも仕事に出掛けるときは楽しそうだった。嫌な顔をしていたことはほとんどない。真自身が引っ掛かっているのは、彼が今回出掛けるとき、珍しく乗り気がしないような顔をしていたことだった。ただ絵のことなら、彼はあんな顔をしなかっただろう。何か嫌なことが絡み付いているのだ。
 それが澤田顕一郎や、河本が追いかけている誰かや、真の父親のことと関係しているのだろうか。
いずれにしても、始まりは多分新潟にあるという『贋作』なのだろう。

「もう大丈夫?」
 不意に添島刑事が優しく気遣うように話しかけてきた。
「どうして今度は田安さんのことに関わっているんですか。上からの命令って」
 ようやく吐き気が落ち着いてきて、少しだけ頭が働いてきた。
「私にもよく分からないのよ」
「あなたは捜査一課でしょう? 何故こんなことに首を突っ込んでいるんです?」
「今回は特別な手伝いをするようにと言われているわ。それ以上はあなたに説明する義務はないと思うけど、でも私もちゃんと説明を受けているわけではないのよ」

 真はしばらく部屋の硬質な床を見つめていた。
「河本さんに聞けば、竹流の居場所はわかる?」
「どうかしら。でもあなたはあの人がどういう種類の人間か知っているでしょ。無害そうな顔をしているけど、彼が要求してくる代償は高いわよ」
「代償?」
「あなたのお父上が何を考えているのかわからないし、今回彼がどこからどんな命令を受けているのかも知らないけど、河本に接触すること自体は問題がないんでしょうね。彼があなたを心配して駆け引きという危ない橋を渡ろうとしているのでなければ」

 真はまだ床を見たままだった。窓の外の大きな楡の木が作る光の小さな輪は、ちらちらと揺れながら、単色なのに複雑な景色を足元に展開している。
 そして、十分に三度は頭の中で彼女の言葉が廻ってから、真は顔を上げた。
「父に、会ったんですか?」
 添島刑事は真を見つめ返した。
「河本は私に言ったの。しばらく一課を離れて、特別な任務につくように、上との話はついていると。ジョルジョ・ヴォルテラ、つまり大和竹流が病院に担ぎ込まれたと連絡があった日よ。私が受けた命令は、大和竹流と、澤田顕一郎と、そしてあなたを見張っているように、ということだった。あなたを見張っておく理由は二つだけでしょ。一つはあなたが大和竹流と接触すれば、あるいは相手はあなたと彼の関係を知っているのだから、あなたに接触してくるかも知れない、そうすれば相手の尻尾が捕まえられる。もう一つは、それでもあなたが危ない目に遭うのは困る、なぜならそれを回避させることであなたの父親に恩を売ることができるから。でも、昨日私が呼び出されて会ったのは、澤田顕一郎よ」

「澤田?」
「自分の恩人の店が爆破されたということで、どういうことか所轄も警視庁も飛び越えて、河本のところへやって来た。澤田は自分が捜している相手が、河本の捜している相手と同じだということを知っている」
「澤田はあなたたちの味方ではないのですか、あるいは利害を一致させているわけでは?」
 添島刑事は首を横に振った。否定というより、分からない、というような感じだった。真は続けた。
「今回は澤田が竹流をさらっていったという可能性は? 澤田に彼をあんな目にあわせる理由はなくても、その『誰か』に接触するために必要な駆け引きの切り札になるかもしれない、ということは? 相手は何かを探していて、それを竹流が持っていると思っているのでは」
「考えられなくはないわね」

 真は、添島刑事自身が何もかもを知らされて動いているわけではないことを知った。上の考えには理由など問わずに従うしかない、というのが彼女の立場だ。自由にやっていられる真とはずいぶん違う。
「でも、澤田が大和竹流の素性を知っていて、尚且つ賢明な人間ならば、彼には手は出さないでしょうけど」
「どういう意味ですか」
「ヴォルテラの跡継ぎに手を出すということがどういうことか、多少はこういう世界の事情を知っている人間なら分かっているはずよ」
「澤田は分かっていると?」
 添島刑事が真を見つめる目は思慮に富んでいた。

 改めて見ると、厳しく鋭いとばかり思っていた彼女の眼は、深みのあるハシバミ色に近いブラウンで、奥に芯が強く深い優しさを湛えているようにさえ見えた。人というのは、近づいて語り合ってみなければ分からないことがあるのかもしれない。
 いや、どこかで、何かを期待している。同居人につながる人間の誠意というやつを、だ。組織や上からの圧力とやらに屈することなく動いてくれることを。もちろん、それは真の虫のいい願いに過ぎないのだろう。

「澤田は田安隆三とは古い付き合いよ。田安隆三は傭兵を辞めた後でも、情報を売って生きていた。ヴォルテラの名前を知らないはずはないわ」
 真はしばらく添島刑事と目を見合わせていた。
「それは、つまり、竹流をあんな目にあわせた奴は、彼の叔父のことを知らないということですか? それとも、知っていて挑戦状を叩きつけた?」
 添島刑事も真から視線を逸らさなかった。
「どうかしらね。駆け引きをする気なら、あえて挑戦状を叩きつけたくはない相手であることは確かね。何より敵にするよりも、利害を一致させたほうが得な相手だし。大体、もしもあのイタリア人が彼のあの姿を見たら」
 それは真も同意見だった。
「では、知らない、と?」
「分からないわ」

 竹流に勝算があって自ら消えたのなら問題はないと信じたい。真は両手を組み、額を乗せた。自分の手が異様に冷たい気がして、心のうちまで震えた。
 田安隆三の店の地下の射撃場。あれは一体どうなったのだろう。添島刑事は何も言わないが、知っていてあえて黙っているのか、それとも誰かが恣意的に隠匿したのか、多少は気になったが、ここで真がそれを追求することはあまり賢いことではないような気がした。
 それから長い間二人とも黙っていた。

 締め切った部屋にいるからなのか、昼間とは思えない静けさだった。今頃、検屍官が田安の遺体から何か情報を探り出しているのだろう。田安ほどの人間が、あんな死に方をするのかと思うと、人間の人生の終わりというものに対しては、あまり多大な期待をしないほうがよさそうだった。
「もう大丈夫? もし辛いなら、少し横になって休んだら? 顔色悪いわよ」
 真は返事をしなかった。女に気遣われるというのも、多少有り難くない感じがする。
「女に慰められるのはいい気分じゃないでしょうけど、私は単に慣れてるだけだから」
「慣れてる?」

 真が聞き返すと、添島刑事は穏やかな優しい声でゆっくりと話した。
「水死体よ。ICPOで仕事してるとき、盗難美術品の担当だった。ICPOってほとんど事務仕事みたいな組織なの。現場に出ないと事情が摑めないって上司に掛け合って、一年ばかりマルセイユに住んでいた。色々、地元の警察と揉めたりしたけど、いい経験だった。盗難品の出入りと一緒に随分水死体にもお目にかかったわ。あまり有り難くないことに、慣れちゃったのね」

 真はしばらくぼんやりとその言葉を考えていた。
「そこで、竹流と知り合ったんですか?」
「マルセイユで私に住まいを提供してくれたのは、フランスでは知られた収集家の一人だったわ。そこで随分と絵の事を教えられた。その男の自慢は数点のジョルジョーネと言われている作品だった。ジョルジョーネ自身は生涯も謎に包まれているし、同時代のティツィアーノの作品と見分けのつかないものもあるし、本当かどうかは定かじゃなかったけど、ジョルジョはそれを見るために年に何度かはマルセイユに来るのだと言っていた」
 真は少し懐かしむような顔をした添島刑事を見て、それから視線を逸らせた。

「彼の仕事を知っていたんでしょう? 単に絵を見るためだけに来ていたのではないと」
「どうかしらね。ジョルジョは上手く尻尾を摑ませないで仕事をしていたし。それに、そうだと確信したときには既に特殊な関係になった後だったし、それでも暫く悩みながら仕事をしていたけど、丁度父が亡くなって、ICPOを辞めるいいきっかけになったわ。続けていたら何時か彼を追い込まなくちゃならなかったかもね」

 真は暫くの間、添島刑事が彼を本名で呼んだことに僅かな抵抗を感じながら黙っていた。二人きりでいる時に、彼女は彼をその名前で呼んでいるのだろう。それは真が永遠に呼ぶことのない名前だった。
 自分の感情の中に湧き上がる何かを押さえつけるように、真は質問した。
「その、新潟の事件に詳しい人は?」
「事件? 噂と声明でしょう。事件とは言いがたいけど」
「でも、あなたはICPOで盗難美術品に関わっていた。そういう分野に暗いわけではありませんよね。何か妙な感じはなかったんですか?」

 添島刑事は暫く何をどう答えるか考えていたようだったが、とにかく差しさわりのない事を答えたように見えた。
「あいにく、彼が何をしようとしていたのかは知らないわ」
「でも贋作を盗みに行くと、そう言っていたのでは?」
「あの男は時々酔狂で妙なことをしでかすから」
 酔狂とは言え、贋作を盗みにいく、とはどういうことだろう。当然のことだが、わけもなくそういうことをする男ではない。

 真は添島刑事が差し出した煙草を断った。
 気分はまだ悪くて、とても煙草を吸う状態ではなかった。いつの間にか空は重く暗くなり、光の輪は床から消えてしまっていた。

 田安隆三の解剖の結果、相当量のアルコールが体内から検出された。死因は明らかに溺死、しかも東京湾の水で、ということだった。死亡推定日は六月二十三日、四日前である。勿論時刻までは綿密にはわからない。水路部の情報も合わせると、入水場所はやはり芝浦の近くではないかということだった。他に死因と結びつきそうなものは何も出てこなかった。腹の傷はやはり死後のものだということだった。
 追加の報告があれば知らせると言われて、真は事務所の電話番号を残して東京に戻ることにした。多くは期待しないでくれ、というような気配だった。

 パトカーで送ろうかと問われたが、断って電車に乗った。
 電車の揺れは気分の悪さを増長するばかりだった。何が自分を苦しめているのか、考えたくなくて手は震えていた。電車の扉に体の右半分を預けて外を見ていると落ち着いてくるかとも思ったが、気分の悪さは変わらなかった。
 さっき見たばかりの遺体の残酷な姿と、電車の中の人間たちが、同じ種類の生き物だとは思えなかった。それはつまり、誰にもいつでもそのような姿になる可能性があるということだ。
 真は目を閉じた。
 今はもう何も考えたくないと思った。

(第6章 完結・第1節 完結)



さて、これで事件は起こりました(って、どんだけ長い『事件』なんでしょう。普通はひとつ死体を転がしておけばいいのに……あれこれ起こって、やっと第6章で水死体ひとつ^^;)。
ここからは、ひたすら足跡を追いかけていく第2章に入ります。
因果関係はともかく、水死体を見てからはすっかり不安の塊になっている真は、よからぬ想像を打ち消したいからか、やたらと過去を思い出す始末→『若葉のころ』。
高校生のころの可愛い(かな?)真をじっくりお楽しみください。

以下、コラムです。

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Category: ☂海に落ちる雨 第1節

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